2020年3月30日 (月)

アビイ・ロード(2)

 ザ・ビートルズのアルバムを1963年の「プリーズ・プリーズ・ミー」から1970年の「レット・イット・ビー」まで順に聞くたびに、これは人間の一生を表しているなあ、といつも思っている。一生といっても赤ん坊からではなくて、15,16歳の若者が老人になって亡くなるくらいまでの期間を想定してしまうのだが、初期の若々しさや初々しさが、時が過ぎるとともに段々と落ち着いてきて老成し、そしてついには命が尽きてこの世から去っていってしまう、そういうイメージが湧いてくるのである。C6efa3fd2d0401199cbdc18c1d98451c

 それはアルバム・ジャケットの移り変わりを見ればよくわかると思う。1964年の「ビートルズ・フォー・セイル」あたりから彼らの顔つきが変わり始め、65年の「ヘルプ!」を経て、同年の「ラバー・ソウル」になると、ちょっと別のバンドじゃないかと思われるくらい変わっていってしまう。もちろん顔つきだけでなく、楽曲の傾向もインド音楽やストリングスの導入、テープの逆回転やサイケデリック・ミュージックの影響など、複雑なものになっていった。

 そして「アビイ・ロード」である。このジャケットもよく知られているように、アビイ・ロード・スタジオの前にある横断歩道を4人が歩いているんだけれど、先頭を歩くジョン・レノンは司祭、次のリンゴ・スターは黒い服なので葬儀屋、ポールは1967年1月に自動車事故で死んでしまったと噂されていたので死人、最後を歩くジョージ・ハリソンは墓堀り人夫と暗に仄めかされていた。駐車中のフォルクスワーゲンのナンバーが、もしポールが生きていれば28歳になるはずだという意味で、"IF28"になっているとまで言われていた。実際は、この日は暑くて、ポールは思いつきでサンダルを脱いで裸足になっただけだったのに(裸足は"死者"を意味するマフィアの符号といわれている)。1969年8月8日午前10時頃のお話だ。71dk9bbpanl__ac_sl1000__20200216003101

 "アビイ・ロード・セッション"は、前回も記したように、1969年の7月から本格的に始められた。決していいムードで進んでいたわけではなく、4人のメンバーはかなりの緊張とプレッシャーを感じながらも、レコーディングを進めていった。
 アルバムのタイトルは、当初「エヴェレスト」と名付けられ、ジャケット写真も現地まで言って撮影しようという案まで出されたが、当然のごとく却下された。実際は、「エヴェレスト」という名前は、エンジニアのジェフ・エメリックが当時吸っていたメンソールのたばこの銘柄であり、ネパールにある山とは無関係だったからだ。

 ただ、ポールはエヴェレストは世界一高い山だから頂点を意味する、最高点だし、このアルバムの内容に当てはまるよ、と一時は支持していたようだ。そして結局は、シンプルに「アビイ・ロード」になったのである。もちろん、これは今までお世話になっていた、そして今もなおレコーディングをしているスタジオにちなんで名づけられたものだった。001

 このアルバムで目立った活躍をしたのは、ポールだけでなく、やはりこの人ジョージ・ハリソンを忘れてはならないだろう。彼はこの時期シンセサイザーに興味を示し始め、このレコーディングにも大型ユニットのシンセサイザーを持ち込んだのである。だからこのアルバムでは、シンセサイザーも演奏している。ザ・ビートルズ時代では、レノン&マッカートニーの陰に隠れてあまり目立たなかったジョージだが、実は進取の精神に富んでおり、シタールやシンセサイザーなど、その当時の先駆けとなるようなものを好んで取り入れているのだ。あるいはその逆かもしれない。彼が取り上げたことによって注目され、時代のトレンドになった可能性もあるだろう。

 そのシンセサイザーは、"Maxwell's Silver Hammer"や"I Want You(She's So Heavy)"の後半部分、自分自身で作った曲である"Here Comes the Sun"、"Because"などで聞くことができる。特にジョンの作った"Because"では、全面的にムーグ・シンセサイザーが使用されていて、ギターとユニゾンで奏でられている。コーラスはジョンとポールとジョージの3人だ。ベートーベンの「月光」のコード進行を逆からたどったとされていて、1時間くらいでレコーディングが終わったという記録が残されている。

 それにジョージはまた、このアルバムにおいてレノン&マッカートニーに匹敵する、いやそれ以上の歴史に残る傑作を2曲も残している。みんな知っている"Something"であり、"Here Comes the Sun"である。
 "Something"は当時の妻だったパティ・ボイドに捧げられていて、"Come Together"とのダブルA面としてシングル・カットされた。ジョージの曲が、ザ・ビートルズ時代でシングルのA面になったのはこれが最初で、そして最後になった。ギターはジョージ自身だが、ピアノはジョンが弾いている。
 
 それにしてもパティ・ボイドという人は、何というラッキーな人というか、ある意味、ポピュラー音楽史上に名を遺した女性の一人になった。しかも自らは表現せずに、対象者としてだ。ギリシャ神話に出てくる音楽・文芸の神ミューズとは彼女のような存在なのかもしれない。"It's All Too Much"もパティに捧げられているし、あのエリック・クラプトンの歴史的名曲"Layla"や、日本でもヒットした"Wonderful Tonight"もパティについて歌われたものだった。

 "Here Comes the Sun"では、今まで長い長い冬が続いてきたけれど、やっと太陽が顔を出したと歌われていて、ポールはこれを聞いて、初期の頃のように、みんなが集まってお互いがよくわかっている方法で曲作りが進んで行くことを意味していると喜んでいたそうだ。ただこの曲は、レコーディングが嫌になったジョージがアビイ・ロード・スタジオを抜け出して、エリック・クラプトンの家で作った曲だった。だから、ポールの考えと少し違うのではないかと考えられる。実際は、ザ・ビートルズ解散後のことも視野に入れての自分自身のことを歌っているのではないだろうか。ちなみにこの曲でも、ジョージはギターとシンセサイザーを担当していた。005

 そして、このアルバムが完成までこぎつけることができたのは、やはりポール・マッカートニーのおかげだろう。"Oh! Darling"では声をからして迫力を出すために、1週間毎朝スタジオに出てきて歌っていたし、ジョンの曲だった"Come Together"ではエレクトリック・ピアノを、"I Want You(She's So Heavy)"ではアレンジを行い、実際に自分で歌ったりもしていたそうだ。

 さらには後半の"You Never Give Me Your Money"から続く一連のメドレーは、まさにこのアルバムの白眉だろう。このメドレーのおかげで、このアルバムの価値がさらに高まったはずである。当時はすでにプログレッシヴ・ロックというジャンルが確立されつつあったが、こういうメドレー形式もプログレッシヴ・ロックに影響を与えたに違いないだろう。「アビイ・ロード」は「サージャント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」とは違ってトータル・アルバムではないけれど、怪物バンドが放った最後の輝きという点では、トータル・アルバムと言ってもいいのかもしれない。

 "You Never Give Me Your Money"はもちろんアラン・クラインを含むアップル社や自分たちの財政上のトラブルを歌ったもので、"A Day in the Life"のように、いくつかの曲を一つにまとめたもの。"Sun King"はジョンの曲で、元のタイトルは"Los Paranoias"と付けられていた。一部はスペイン語で歌われているが、単語を並べただけの様だ。"Mean Mr. Mustard"と"Polythene Pam"は、インドでジョンが作った曲で、いずれも未完成のものだった。この曲の原型は「ホワイト・アルバム」50周年記念盤の"Esher Demos"に収められていた。

 "She Came In Through the Bathroom Window"は実際にあった事件に基づいて作られた曲で、ポールの家にファンが侵入し、父親の大事な写真を持って行ったという実話を脚色している。確か、映画「Let It Be」でも歌われていたんじゃないかなあ、ちょっと記憶がはっきりしないけれど。"Golden Slumbers"は、16世紀のエリザベス朝の劇作家トマス・デッカーの詩にポールが曲をつけ、一部歌詞を付け加えたもの。続く"Carry That Weight"もポールの曲で、これもまたビジネス上の問題について歌ったものだった。

 でも、リスナーとしては、あるいは自分のように英語がよくわからない人にとっては、そんな経済的な問題ではなくて、なんか人生における生き方というか、処世訓のような意味を心の中で期待していたし、そのように捉えていた。当時のザ・ビートルズは、若者にとっての教祖のような、そして教師のような、また親のような、そんな側面も含んで見せてくれていたのである。

 そして"The End"である。果たして彼ら自身は、これで終わりと思っていたのだろうか。雰囲気的にはこれでザ・ビートルズも終わりだろうという漠然とした思いはもっていたように思える。でも、ポールだけは解散はしないと思っていたに違いない。彼は最後までザ・ビートルズを守ろうとしていた。だから彼の言葉にはこうある。『僕がザ・ビートルズをやめたのではない。ザ・ビートルズがザ・ビートルズを去っていったんだ』

 とにかく、この曲ではフィナーレを飾るように、リンゴのドラム・ソロからポール、ジョージ、ジョンの順番でギター・ソロをとっている。この終りの3曲、"Golden Slumbers"から"The End"までは全員そろってレコーディングされた。1969年7月30日のことで、4人そろってのレコーディングとしては、この日が最後になった。002

 "Her Majesty"については面白いエピソードがあって、もともとはメドレーの中の"Mean Mr. Mustard"と"Polythene Pam"の間に収められていたのだが、最終的にはカットされた。ところが当時の慣習で、完成したマスターテープからカットされたものは、すべてリールの最後のリーダー・テープに残しておいてメモ書きを残すというものがあって、担当のエンジニアだったジョン・カーランダーもそうしたのにもかかわらず、何故かメモが無視され、"Her Majesty"が最後にくっついたテープがアップル社に回され、そのオリジナル盤がポールによって試聴されたのである。

 ポールは全部聴いて帰ろうと立ち上がった時に、この曲が聞こえてきてびっくりしたという。でも、それもまた楽しいだろうということで、"Mean Mr. Mustard"の最後のコードが入った"Her Majesty"が残されたわけだ。今ではポールによるアンコール・ナンバーという位置づけだが、実際はメドレーの中の一曲だったのである。71bdcieitgl__ac_sl1106_

 とにかく、レコードでいうところのサイドBは、最初の2曲は除いて、残りの"You Never Give Me Your Money"から"Her Majesty"までは、まるでジグソー・パズルを組み合わせるかのような感じで構成されていた。しかもそのパズルが100%完璧にマッチしていたのである。まさに偶然の産物とはいえ、偶然が重なれば必然になるわけで、これはもうなるべくしてなったとしか言えないのではないか、そう思っている。ちょうどロウソクの炎が燃え尽きる時に、それまでとは違って一段と大きい炎に燃え上がるように。

 自分は、真面目に自分の葬儀の時には「アビイ・ロード」を流すようにお願いをしている。たぶん家族葬だから、もともと親族は少ないし、自分が死ぬときはほとんどいなくなっているだろうから、家族以外は誰も来ない。安心して流せるわけだ、自分は聞くことができないけれど。だから、どういう死に方をするかわからないけれど、もし病気なら死ぬ前に何度も聞くだろう。自分にとって「アビイ・ロード」とは、そういうアルバムなのである。
 また、これを作った時のジョンは誕生日が来ていなかったので28歳、ポールは27歳だった。ジョージにいたっては26歳で、最年長のリンゴは29歳だった。つまりみんなまだ20代だったのだ。やっぱりザ・ビートルズは史上空前のバンドだったのである。800x_image_20200216003801

 

 

[お知らせ]
 突然ですが、今回を持ちましてこのブログ「ろくろくロック夜話」を終了いたします。こんなつまらないブログでも13年間も続いてきました。最近ちょっと疲れてきて、あまりいい内容が書けなくなってきたと思うので、ここらへんで終わりにしたいと思いました。だから最後のテーマも「アビイ・ロード」にしました。
 一度でも読んでいただいた人に感謝いたします。ありがとうございました。たぶんもう再開はしないと思いますが、ひょっとしたら、どこか違うところで、何かしているかもしれません。ブログはやめてもロック・ミュージックはやめられません。死ぬまで聞き続けることでしょう。最後に、世界中の皆さんが健康で、平和な人生を送れるように願っています。それでは、さようなら。お元気でいて下さい。

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2020年3月23日 (月)

アビイ・ロード(1)

   いよいよ終りに近づいてきたようだ。今回と次回は2週にわたって、ザ・ビートルズの実質的ラスト・アルバムになった「アビイ・ロード」のことについて記そうと思う。何しろ、自分の葬儀の際には、このアルバムを流し続けてほしいと近親のものにも随分前から伝えているくらい、このアルバムが大好きなのである。

 記憶が曖昧で申し訳ないけれども、確かレコードで発売されていた時には、それに付随していた帯に『A面の野性味、B面の叙情性』と書かれていたような気がするのだが、レコードのA面ではジョンの印象が強くて、"ロック"していたし、B面では例のメドレーの印象があって、ポールのイメージが強かった。Thebeatlesin19691280x720

 それに、いまさらこんなことを言うのも変だけど、あのザ・ビートルズのラスト・アルバムなのだ。発売順では1969年の9月に「アビイ・ロード」が発表され、1970年5月には「レット・イット・ビー」だったが、「レット・イット・ビー」のオリジナルは、"ゲット・バック・セッション"として知られていて、これは1969年1月にレコーディングされていたから、やはり「アビイ・ロード」の方がラストになる。「アビイ・ロード」のレコーディングは、69年の2月以降から始められたからだ。それにまた、確かに1970年に入っても「レット・イット・ビー」のレコーディングは行われたが、4人そろって行われたことはなく、断片的な追加のレコーディングだった。ということは、やはりザ・ビートルズとしてのアルバムとしては、「アビイ・ロード」の方が実質的にはラスト・アルバムになるのではないかと考えている。 Thebeatlesletitbe_0

 これもまたみんな知っていることだけど、ザ・ビートルズの「ホワイト・アルバム」あたりから、メンバー間の仲が悪くなり、亀裂が入り、口論まで行われるようになった。途中で、ジョージ・ハリソンやジョン・レノンがレコーディングに参加しなくなったり、公然とバンド脱退を口にしたりするようになった。

 普通のバンドなら、もうこれで終わり、解散するはずだ。アルバムを作るなんてありえないし、せいぜい解散ライヴを行うくらいが関の山というもの。それをこのザ・ビートルズは、スタジオ・アルバム1枚分を作ってしまったのだ。しかもそのアルバムの水準が、これはもう当時のアルバムとは比較できないほど素晴らしく、ザ・ビートルズの過去のアルバムと比べても遜色ないというよりは、一、二を争うほどの素晴らしい内容の出来栄えだった。まさに怪物バンド、こんなバンドは唯一無二の存在だし、もう二度と現れないだろう。Unnamed

 「アビイ・ロード」がどれほど素晴らしいのか、どれくらい歴史的な価値があるのか、自分の表現力では伝えようがない。職業作家なら正確に記述することもできるだろうが、一介のブロガーでは、しかも自分のような素人には、どうしようもなく無力である。だから、歴史的に検証したり、楽曲的に解説を加えるのではなくて、自分の心の浮かんだことや、今まで知り得た知識を使って、自由気ままに、思いつくままに記してみたいと思う。

 1969年1月に行われた"ゲット・バック・セッション"は、未完に終わった。レコーディングは行ったものの、そのままほったらかしにされてしまった。ザ・ビートルズにしてはそれまであり得なかったことで、いかに当時の彼らに集中力が欠けていたというか、やる気がなかったかという結果だろう。あるいは、作品作りよりも他にやることがあって、それどころではなかったということか。

 だから、そのセッション記録は、最初はグリン・ジョンズが担当したものの、みんな納得しなかった。それでジョン・レノンが当時親しかったフィル・スペクターにお願いをして、プロデュースしてもらったのだ。ジョンやジョージは納得したものの、もともと初期の頃のように何度もダビングするのではなく、ロックン・ロール・バンドとしての荒々しさや情熱が発揮されるものを望んでいたポール・マッカートニーは、承服しなかったのだ。だって"Get Back"なんだから、原点に返ろうよと言っているのに、コーラスやストリングスなんかは必要なかったはずだ。7c99f1bc6ba36943ff9e26ad41ff10d3

 時系列的に見ると、1969年2月には悪名高きアラン・クラインがマネージメントを行うようになるし、3月にはジョンがヨーコ・オノと、ポールがリンダ・イーストマンと結婚している。また逆に、ジョージは妻のパティ・ボイドと大麻所持で逮捕されているし、リンゴは映画「マジック・クリスチャン」でピーター・セラーズと共演をしていた。だから、レコーディングどころではなかったのかもしれない。

 こういう状況を疎ましく思っていたのが、ポール・マッカートニーだった。"ゲット・バック・セッション"もポールの提案で、もう一度デビュー当時の原点に戻ろうと、他のメンバーに呼び掛けて実現したものだった。それが未完に終わったのだから、これはこのままでは終われないと考えたのだろう。それで、ポールはジョージ・マーティンの所を訪ねてニュー・アルバムのレコーディングに協力してくれるように頼んだのである。そして、ジョージ・マーティンは、全員が協力してくれるならという条件の下で、引き受けたのだった。 95415e0657c0446a9332698885c4d427

 本格的なレコーディングは、1969年の7月から始まったが、その年の2月くらいからいくつかの曲のレコーディングが始まっていた。例えば、ポールの"Maxwell's Silver Hammer"であり、ジョンの"Mean Mr. Mustard"の原型になった"Dirty Old Man"などだった。
 ところが一説によれば、この時レコーディングされたマスター・テープが盗難にあってしまい、取り戻しはしたものの、なぜか税関のX線検査で録音されていた曲が消去されたと言われている。真偽のほどは定かではないが、当時の雑誌にはそういう記載があったという(The Rolling Stone誌69年9月17日号)

 また3月にはジョンの"I Want You(She's So Heavy)"が出来上がり、4月になると、ジョージの"Something"のファースト・テイクが録音され、ポールの"Oh! Darling"も始まっていた。5月ではリンゴの"Octopus's Garden"やポールの"You Never Give Me Your Money"のデモ・テープも制作されるようになったのである。だから、当時のレコードのA面の主な曲の原型は、この時期に作られたものであり、だからサイドAは1曲1曲が独立した印象を与えてくれるのだろう。"A面の野性味"には、こういう背景があったのだ。

 それで結局7月になってから、彼らはロンドンのEMIスタジオに集まり、60年代初期のやり方でレコーディングを開始していった。ポールはこう述べている。『トンネルを抜けつつあった。またみんなで集まって、よくわかっているやり方に戻って、すごくうれしかったんだ』
 しかし実際は、2人や3人の時には和やかな雰囲気でレコーディングが進んでいったが、4人揃うとなぜか険悪なムードになり、些細なことで言い争いが始まったようだ。リンゴはあまりスタジオに来なくなったし、ジョンはヨーコとの共同作業、つまりプラスティック・オノ・バンドの作業があって、これまた徐々に顔を出さなくなっていった。

 さらには、ベイシック・トラックが録音されると、それにオーヴァーダビングをつけるために、ジョンやジョージは、もちろんポールも含めて、それぞれが自分のスタジオに持って帰り、そこで作業をするようになった。そうなると、これはもうソロ・アルバムの作成とほとんど変わらなくなってしまったのである。これでは"ゲット・バック・セッション"の二の舞になってしまう、これはよくないぞ、そう感じたのがポール・マッカートニーだった。Imagesjouzjb3n

 だから、最初から最後までバンドを引っ張っていったのはポール・マッカートニーで、彼の情熱というか、最後まで続けようとする強い信念が、ザ・ビートルズをザ・ビートルズたらしめていたのである。
 しかし、運命の女神は皮肉なもので、7月にジョンとヨーコ、先妻の子のジュリアン・レノンは、ジョンの運転する車で事故にあってしまい、特にヨーコは背骨を折るほどの重症になって、しばらくは寝たきり状態になったのである。ジョンのそばにいたいヨーコは、体は動かせなくてもベッドは動かせると考えて、レコーディング中のスタジオにベッドを運ばせて、その中で生活するようになった。

 関係者が言うには、ベッドの上にはマイクがぶら下がっていて、それはヨーコが何か伝えたいときのために、用意されたものだった。また、彼女を見舞うためのお客さんがひっきりなしに訪れてきてかなり騒がしかったようだが、メンバーはそんな状況の中でレコーディングを続けていった。そういう状態の中で緊張感を保つには、人並み以上の集中力が必要だろう。よくまあ、あんな素晴らしいアルバムが出来上がったものである。

 さらには当時20歳だったアラン・パーソンズは、ヨーコは誰かに使いを出してもらって食べ物を持ってこさせていて、時々寝ていたと言っている。ジョンが横にいる時もあったし、いない時もあったが、でもどう見ても、あれはホテル暮らしにしか見えなかったよ、と当時を振り返っていた。

 ザ・ビートルズのリーダーは、名実ともにジョン・レノンだったから、誰もジョンには気兼ねして言えなかったのだろう。ポールは、ジョンには頭が上がらなかったから、びっくりしたようだが彼女のそばで仕事を続けるしかなかった。彼は言う、彼女を避けて歩くしかなかったんだよ、そのベッドをのかせ、なんて言えないよ。ジョンの彼女なんだから、と。

 同時に、音楽面だけでなくて、財政的な面でも危機的な状況にあった。彼らが設立したアップル・レコードは放漫経営で赤字続き、倒産も時間の問題といわれていたし、当時の英国の税金制度による破格の徴収率も問題になった。だから稼いでも稼いでも湯水のように消えていってしまうのである。

 ポールは、ビジネス面ではきつくなっていって、自分たちが稼いだものをすべて失ってしまいそうだった、と述べていた。実際は印税が入るからすべて失うことはないだろうけれど、その印税も彼らの版権を所有していたノーザン・ソングス社が売却に出されたため、自分たちで管理できなくなってしまったのは事実である。そのうえお金だけでなく、ザ・ビートルズまで失いそうになったのだから、ポールにしてはかなり深刻な状況だっただろう。さらに彼はまた、必死の思いで稼いだ、朝から晩までずっと音楽活動に励んでいたよ、僕らはすごい働き者だったからとも言っていて、職人集団のように完璧を目指して音楽活動に取り組んでいた。その完璧さを求めるがあまりに、結局はバンド内に亀裂が走ったのである。 Images6n0j5hk0

 そんな中でもレコーディングは続けられた。ポールの作った"Maxwell's Silver Hammer"なんかは2日半もかかってやっとレコーディングが完了したという。プロデューサーのジョージ・マーティンは、時間がかかりすぎると本気で怒ったらしい。最初の予定では、午前中2曲、午後2曲録音するつもりでいたからだ。つまり荒削りのようなライヴ感覚を生かしたレコーディングが目標だったのだろう。"ゲット・バック・セッション"の趣旨がそうだったのだから。

 ただし、この"アビイ・ロード・セッション"では、ジョージ・マーティンと約束したように、4人がそろうことももちろんあった。リンゴ・スターの作った"Octopus's Garden"では、ピアノがポール、リード・ギターがジョージ、ギターのアルペジオを弾いているのがジョンで、コーラスはポールとジョージだった。泡の音は、リンゴ自身がストローでコップの水を吹いて作っている。上記にもあるように5月に一度録音されたが、7月にもう一度レコーディングされている。

 アルバムの最終ミックスが行われ、完成したのは1969年の8月20日だったが、その日もザ・ビートルズの4人が立ち会っている。そして、それがザ・ビートルズとして4人がそろった最後の日になったのである。
(To Be Continued...)

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2020年3月16日 (月)

WHO

 「WHO」といっても「世界保健機構」のことではない。確かに、新型コロナウイルスは世界中に猛威をまき散らしていて、なかなか収束の道筋が見えないのだが、このブログは音楽、特に洋楽が中心なので、保健衛生とは無関係である。
 それで「WHO」とは、イギリスのロック・バンド、ザ・フーの新しいアルバムのタイトルだ。ザ・フーだぞ、ザ・フー、もう活動中止というか、永遠に活動しなくなっただろうと思っていたのに、何とまあ、ほとんど新曲でニュー・アルバムを発表してくれたのだ。これはもう奇跡的なことではないだろうか。また、チャート・アクションも良くて、英国ではアルバム・チャート3位に、米国ではビルボードで初登場2位だった。81dpka3wzql__ac_sl1400_

 何しろ元は4人組だったのに、ドラマーのキース・ムーンは1978年に、ベーシストのジョン・エントウィッスルは2002年に、それぞれ亡くなっていて、結局残ったのは、リーダーのギタリスト、ピート・タウンゼントとボーカリストのロジャー・ダルトリーの2人だけになったのだ。
 しかも現在は、ピートは74歳、ロジャーは75歳の老老コンビだったから、これはツアーはもちろんのこと、新作を期待するのは100%無理だろうと思っていた。ところがどっこい、ロック・ミュージックの神様は、不可能を可能にする力を持っていたのだ。これを世の中の人は、"奇跡"と呼ぶのだろう。

 ピートは2014年に始まった「結成50周年記念ツアー」終了後、長期の休みを取ったが、その時に、新曲をレコーディングしない限り、もう二度とロジャーと一緒にはツアーには出かけないと決心したようだ。そして、ザ・フー向けの曲は書けないけれど、ロジャー・ダルトリーのための曲ならまだまだ書けるだろうと考えて、曲を15曲準備したという。74歳にしてこの創造力、やはりロック・レジェンドは、常人とは違う何かを持っているのだろう。こういうのを世間の人は、"天賦の才"と呼ぶのだろう。

 ロジャー・ダルトリーは、送られてきた曲をピート・タウンゼントのソロ・アルバム用の曲だと勘違いしてしまい、最初はスルーしていたそうだ。それでピートから『これらの曲はお前のために書いたんだよ。おまえのための曲だ』と何度も力説されて、ついに歌うことを説得させられたそうである。もちろん説得の効果だけでなく、曲自体の出来も良かったからだろう。アルバム発表後にロジャーは、このニュー・アルバムは「四重人格」以来のベストなレコードだと言っていたからだ。2b68da21804b961b8062f34645107a40

 それにまた、曲自体の良さだけでなく、ロジャー・ダルトリーの声の調子も良かったから、レコーディングに踏み切ったのだろう。ロジャーは、2年前にソロ・アルバム「アズ・ロング・アズ・アイ・ハヴ・ユー」を発表していて、ピートはアルバムを聞いた途端、ロジャーの調子の良さを実感したそうなのだ。当時73歳ぐらいだったから、年齢を気にさせないほど良かったのだろう。

 ピートは、ザ・フーに合う音楽を書こうとしたのだが、その時、あらためて"ザ・フーとは何か"と考えたらしい。彼は、ザ・フーは存在しないと考え、今のザ・フーは自分(ピート)とロジャーだけだと思ったというのである。そして、この新作アルバムについても、『ザ・フーの今までやってきたこと』を再現すべく取り掛かったらしく、その時にザック・スターキーとピノ・パラディーノをスタジオに呼んで、一緒にレコーディングを開始したのだが、決して"ザ・フー"になることはなくて、それはあくまでもピートとロジャーとザックとピノの4人組であって、ザ・フーではないということを力説していた。なるほど、今のザ・フーは2人組のユニットというわけだ。

 それでこの13年振りのニュー・アルバム「WHO」には11曲(日本国内盤には15曲)収められている。1曲を除いて、いずれもピート・タウンゼントの作品か共作になっている。
 何しろ冒頭の"All This Music Must Fade"からしてカッコいい。カッコいいだけでなく、まさに"ザ・フー"ともいうべき作品だと思う。曲にもキレがあるし、ノリもいいし、アルバムの1曲目にふさわしいのだ。ロジャーのボーカルも全然年齢を感じさえないし、ほとんど衰えを感じさせない。これが75歳の声なのだろうか、25歳でも十分通じるのではないだろうか。さらにまた歌詞がいいのだ。
「俺は気にしない
俺はお前らがこの歌を嫌いになることはわかっている
そしてその通りだろう
俺たちは本当に仲良くやってこなかった
新しくないし、変化もない
お前らのパレードのような出来事を明るく照らしたりもしない
それはただの単純な一節さ

全てのこんな音楽は消えていくだろう
手刀の刃のように欠けていくだろう
全てのこんな音楽は消えていくだろう
ちょうど刀の刃のように欠けるだろう

俺は消えていきつつある
そして二度と戻ってこないだろう
白鳥のように
俺は本当にまったく愛想がよくない
俺はブルーじゃないし、ピンクでもない
ただの灰色で、心配症だ
そしてほんの一瞬のように見えるんだ

お前たちのものはお前たちのものさ
俺のものは俺のものなんだ」
(訳プロフェッサー・ケイ)

 この自己認識の的確さ、表現の正確さが、21世紀の今でも通用するところがすごい。さすがザ・フーであり、ピート・タウンゼントの持つ感性の鋭さの表れだろう。
 この逆の立場をとったのが、1970年代半ばに勃興したパンク・ロックの持つ意識だった。当時のパンク・ロッカーやバンドたちは、もうお前たちの時代は終わった、1曲、5分も6分もあるような曲なんか聞いていられねえ、退屈なんだよ、もっとシンプルにスパッと言いたいことを言えよ、と言っていたのだが、あれから約50年たって、この曲はそのパンク・ロックに対するアンサー・ソング的な性格をも有しているし、この曲自体、オールド・ロッカーによるパンク・ソングなのだと思う。A1967661141574498_jpeg

 つまり、ザ・フーはその表現方法の中に、パンク・ロック的な意識を内蔵しており、いつの時代にも変わらずその考えを発揮してきたのだ。1964年のデビューからずっと、意識していたかどうかは別として、体制を批判するものとして、あるいは現状維持を忌み嫌うものとしてのパンク・バンドの立場や表現を維持してきたのではないだろうか。

 以前といってももう40年近く前になるが、あるコミック誌にザ・フーを模したようなシーンがあった。主人公の男性がロンドン市内で追ってから逃げているときに、高級レストランに逃げ込んできた。そこはドレスコードがあり、ネクタイ着用じゃないと入れないところだった。主人公は着の身着のままだからネクタイなんかはしていない。困ったところに、ザ・フーと思われる風貌の一団が到着してきた。彼らも公演が終わった直後なので、ネクタイはしていない。すると、その場を察知したロジャー・ダルトリーっぽい人が、それならこれでいいだろうと言って、ロンドンブーツのひもをとって首に巻いたのだ。一本は自分用に、もう一本は主人公用に…

 いまだにこのシーンを覚えているのは、このしぐさというか対応が、いかにもザ・フーらしいからである。この機転の巧みさや旧体制に対する反抗心などが、このコミックの一コマ一コマから垣間見られたのである。このコミックを描いた人もザ・フーのもつパンク的な部分を鮮やかに切り取っていたと思っている。O0500040113562061756

 このアルバムには、そういう反骨精神が脈々と息づいている。だから新鮮に感じるのだ。2曲目もそう。"Ball And Chain"とは文字通り、囚人に着ける足枷のことだ。キューバにあるグアンタナモ収容所のことが歌われている。ニュースでも知れ渡ったように、湾岸戦争の捕虜やテロ組織の人たちが入居させられて、ひどい拷問を受けたところである。もともとの曲は、ピート・タウンゼントの2015年のベスト盤に収められていたもので、今回リリースするにあたって再録したのである。ボーカルはロジャー・ダルトリーだ。このアルバムから最初にシングル・カットされた。

 音楽的にもザ・フーの魅力があふれていて、"I Don't Wanna Get Wise"ではポップな一面を見せてくれるし、"Detour"では1曲の中に転調が目立っていて、まるで70年代のロック・オペラの超コンパクト版を聞いているかのようだ。
 また、"Beads on One String"は哀愁味を伴ったミディアムテンポの曲で、はっきり言って"美しい曲"だ。こういう"美しさ"は今どきのロック・バンドでは表現できないのではないだろうか。単にメロディラインが綺麗だというだけでなく、曲の持つ雰囲気やアレンジなど、曲全体が美しいのである。最近のコールドプレイにも、こういう曲をやってほしかったと思ってしまった。

 またストリングス付きのロック"Hero Ground Zero"にはこう表現されている。
「俺はヒーローだ
グラウンド・ゼロ
最後はどんなリーダーも
ピエロになってしまう

あるゆるロック・スターは
映画を作りたがる
しかし闇の方が
光より安全なんだ

俺は戻るつもりはない
洒落た音楽に
この昔の丘の頂上から
飛び立つのさ」

 このアルバムには、テーマもコンセプトもストーリーもないとピート・タウンゼントは言っていた。ただピートと弟のサイモンが、歌声を新たに甦らせたロジャーのために刺激とやりがいと展望を与えようと書いた曲を集めたと述べていたのだが、ザ・フー流のバラード曲である"I'll Be Back"については、ロジャーは気に入ったものの、自分には歌えないと思ったようで、この曲のボーカルについてはピート・タウンゼントが担当していた。ザ・フーとモータウン・サウンドのハイブリット版である。

 ピートの弟のサイモン・タウンゼントが書いた曲が"Break the News"であり、テンポの良いアコースティック・ギターをバックに歌われていて、この曲もなかなかの佳曲である。途中のギターのアルペジオやハンド・クラッピングもいい味を出しているし、ハードなイメージのあるザ・フーにしては意外性があってよかった。

 "Rockin' in Rage"には、タイトル通りの憤りというか怒りが込められていて、まさに60年代後期にザ・フーが歌っていたような曲の再現だった。それに、単なる"怒り"だけでなく、それに至るまでの過程も含まれていて、最初から最後までハードであるならば、それはハード・ロックになってしまうが、ザ・フーの場合は緩急をつけた"ハード"なのである。昔からのファンならわかってもらえると思う。

 "She Rocked My World"は、異国情緒が味わえる想定外の曲だ。何となく南欧州の雰囲気で、アル・ディ・メオラが出てきてもおかしくはない。どこかでギター・ソロでもあるのかと思っていたけど、何もなかった。もともとザ・フーには長いギター・ソロなんかないし、むしろカッティングのキレの良さや曲全体の調和が美点だったから、それはそれでいいのだろう。

 確かにこのアルバムには、テーマやコンセプトはないかもしれない。また、壮大なスケールの曲も含まれていないだろう。でも、強いてあげるなら、60年代の生き残りバンドから今を生きる若者(もしくは全世代)に向けての強力なメッセージが含まれたアルバムに違いない。それは、我々60年代組は、こういう風にサバイバルしてきて、こんな決意をしているんだよ、お前たちはどう生きていくんだいと挑戦状をたたきつけているようだ。190313_rg_the_who_shot_1_042

 恐るべし、ザ・フーである。こんな爺さんたちにどう立ち向かえばいいのだろうか、どう応えればいいのか、乗り越えて行けるすべはあるのか、考えさせてくれるアルバムでもある。

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2020年3月 9日 (月)

コールドプレイの新作

 昨年の秋に、コールドプレイの新作「エヴリディ・ライフ」が発表された。このアルバムは、いわゆるコンセプト・アルバムで、"サンライズ"と"サンセット"の2部形式に分かれていて、一日24時間を描いている。こういう企画は、コールドプレイにとっては初めての試みのようで、今までのアルバムとは一線を画している。A1ikwr302xl__ac_sl1500_

 何が彼らをこういうアルバムにさせたかというと、彼らがワールド・ツアーをしていた2016年から2017年当時では、アメリカのトランプ大統領の出現やイギリスのEU離脱問題、それに中東のテロ組織との戦いやそれに伴う難民問題、キリスト教徒イスラム教の対立、さらには自国第一主義(逆に言えば排他主義)にポピュリズムの問題等々、政治的、宗教的、思想的に分断や対立が深刻化していったときで、そういったことを乗り越え、対立から融合への道を模索するために、アルバム制作を開始し、彼ら流のメッセージを込めているのである。

 このアルバムには荘厳な雰囲気を湛えた曲や、アメリカ南部のようなゴスペル曲も含まれているし、2曲の人種問題に言及した曲や銃規制を訴える曲などのメッセージ性を伴った曲もある。バンドのベーシストであるガイ・ベリーマンは、「クリスはもっと怒りを表現したいんだ。僕らが作ったアルバムの中で"ペアレンタル・アドバイザリー"のステッカーが貼られた初めてのアルバムなんだ」と言っていたが、今までよりも一歩踏み込んで、メッセージを発している点では評価されるだろう。

 さらには、旅客機の移動による二酸化炭素の排出が気候変動の大きな要因の一つとされていることから、このアルバムに関してのワールド・ツアーは行わないらしい。彼らは「今後、サステナブルなツアーを模索し、環境にプラスの影響を与えられる方法を考えていく」としており、ある一定の目途が立つようになれば、ツアーを行うのだろうが、それまでは封印するようだ。それこそ1960年代のツアーのように、バンかマイクロバスをレンタルして、楽器を乗せて移動するという気持ちなのだろうか。イギリス国内ならまだしも、それじゃ来日公演は無理だろう。ここ日本では、しばらくは彼らの姿をステージで見ることはできないようだ。Maxresdefault_20200125174501

 でも思うに、世界中のどんな地域でもコールドプレイの演奏する姿を見たいと思っている人はいるだろうし、インターネットで見るよりは、実際の生の姿や演奏に触れたいと思う人は、数えきれないほどいるだろう。そういうファンの姿にどう応えていくのだろうか。そんなファンよりも飛行機の排出ガスの方が、気になるというのだろうか。社会正義を体現するのはいいのだけれども、ミュージシャンという立場を忘れないでほしいし、それとこれとは別問題のように思えるのだが、どうだろうか。

 それと、このアルバムを一聴した限りでは、どうもメッセージ性の方が音楽性よりも前面に出されていて、ロック・ミュージックの持つダイナミズムとか疾走感や衝動性が伝わってこないのである。ある意味、観念性の強いアルバムであり、彼らのメッセージを支える音楽性が脆弱なのだ。だから聞いていくにつれて、だんだんと暗く沈むようになってしまう。

 こういう観念性の強いアルバムというのはプログレッシヴ・ロックにはよくあるもので、例えばジョン・アンダーソンの「サンヒローのオリアス」、マイク・オールドフィールドやタンジェリン・ドリームの一連のアルバムには、そういう傾向が強い。それらのアルバムの特徴は、耽美的で、静寂性は伴っているものの、やはりロック本来の破壊性や衝動性にはほど遠い。感動はあっても、スカッと爽やかな感覚には浸れないのである。

 もし、これがU2なら、同じような問題意識を持っていたとしても、表現方法は異なるだろう。もっとロック寄りのアルバムを制作するに違いない。また、これがもしアメリカのバンドであるグリーン・デイだったら、どうだろうか。あの問題作「アメリカン・イディオット」で時のブッシュ政権を痛烈に批判した彼らなら、おそらく違う音楽性でメッセージを放出していくであろう。
 確かに、バンドの姿勢というか、バンドの音楽性によっては、表現方法が異なってくるのは事実だし、そのバンド本来の音楽で勝負するのが本来の姿なのだろうから、コールドプレイがこの「エヴリディ・ライフ」で表現したような音楽性を非難することはできないだろう。ただ、それを好むか好まないかは個人の問題であり、個人の嗜好なのだから、好き嫌いをとやかく言うつもりはない。自分にとっては、このアルバムは合わないというだけのことである。

 アルバムの1曲目は"Sunrise"で始まる。これは"Viva La Vida"のような室内管弦楽団風の曲で、こういう音楽を"チェンバー・ロック"というのだろう。ゆっくりと、まるで朝日が昇るかのように、徐々に徐々に彼らの世界観にいざなっていく。続く"Church"から彼らの流のロック・ミュージックが始まる。朝の祈りにしてはちょっとリズムが強い気もするが、今までコールドプレイの音楽を聞いてきた人なら、安心して聞くことができるだろう。途中でアラビア語で女性が歌っている箇所があり、まさにイスラム圏とキリスト教圏の対立を超克するかのようだ。

 曲間もなしに、次の曲"Trouble in Town"が始まる。これは人種間の対立を歌っていて、アメリカのアフリカ系アメリカ人が有無を言わさずヨーロッパ系アメリカ人の警官から射殺されている現実を歌っている。ダークな内容なので曲調も暗いし、途中で警察官の実際の音声も挿入されているのでよりいっそう既視感が強くなっていく。最後は、ズールー語でネルソン・マンデラを讃える子どもの声で終わるのだが、何となく無理にくっ付けた感じがして、どうせならもっとシンプルに終わらせてくれた方が、印象度は強かったのではないだろうか。

 "Broken"は、直球のアメリカ南部のゴスペル・ソングだ。まるで初期のレオン・ラッセルかデラニー&ボニーの曲のようだ。曲のどこかでクラプトンのギターでも聞こえてくるのかと思った。"Daddy"は文字通り父親を求める歌で、バンド・リーダーのクリス・マーティンが2人の子どもの父親だからという理由もあったのだろう。ピアノを主体にしたスロー・バラードで、ジョン・レノンの"Mother"に対抗して作られたのだろうか。曲の雰囲気が似ているので、そう思ってしまった。ただし、クリスの方は声を押さえて静謐の中で歌っていて、決してシャウトはしていなかった。また、クリス自身はこの曲のモチーフは3つあって、1つは自分自身のこと、1つは今まで父親を失ってきた人を数多く見てきたこと、もう1つはアメリカにおける刑務所産業複合体についてであり、たくさんの法律に人種差別が織り込まれていて、その結果、子どもたちが父親を奪われているということらしい。いずれにしても、シンプルで美しいバラードである。

 "Daddy"のあと小鳥の声が挿入されて、"Wonder of the World/Power of the People"が始まるのだが、これは曲自体が未完成で、アコースティック・ギター一本で歌われていて、まだデモの段階らしい。それならアルバムに収録するなよといいたくなるのだが、彼らの感性のなせる業というべきか。"Arabesque"は前半のクライマックスとも言うべき曲で、思想的にはイスラムとキリスト文化の融合を訴えており、音楽的にもフィーチャーされたサックス・ソロが、現実の悲劇と痛みと哀しみを表現している。パワーを秘めた曲でもあり、このアルバムで、コールドプレイの表現したいことが集約されている曲でもある。曲の後半のサックスはフェミ・クティという人が演奏していて、彼はアフリカ系の人の解放と平和のために戦ったフェラ・クティの息子だった。フェラ・クティは"音楽は武器、音楽は未来の武器"と述べていて、この曲にもこのメッセージが歌われていた。また、ベルギー人のストロミーという人も歌っている。

 前半最後の曲が"When I Need A Friend"で、ピアノをバックに、エコーのかかったアカペラのコーラスで歌われている。これにも雨音や街のざわめきなどのSEが加えられている。2分35秒という長さなのだが、静かな曲だったせいか、自分にはもっと短く感じられた。71os3tkjial__ac_sl1200_

 後半の"Sunset"は"Guns"から始まる。学校の始まりのようなチャイムのあと、ザ・フーのピート・タウンゼントが弾いているようなアコースティック・ギターに乗ってクリス・マーティンが歌っている。文字通り、銃規制の曲で怒りを込めて歌っているようなのだが、それならもっとシャウトするとか大声で歌うとか、何かしら表現方法はあると思うのだが、そこまで至っていない。内に秘めた炎というものだろうか。

 "Guns"は1分55秒と短く、あっという間に終わって次の"Orphans"が始まる。これは孤児のことを歌っていて、歌詞の中ではダマスカスと限定されていたが、もちろん戦争孤児や難民のことも含まれているのだろう。悲惨な内容の割には意外とポップで、思わず口ずさんだりもできるだろう。それはもちろん、ちょっと不謹慎だと思うけど。ちなみに"Arabesque"と"Orphans"は両面シングルで発表された。

 "Eko"はピアノとアコースティック・ギターによるアコースティックな作品で、これまた軽くて耳になじみやすい。彼らのポップな一面が垣間見られる曲だろう。"Cry Cry Cry"はジェイコブ・コリアーという人とのデュエット曲で、何となく60年代のモータウン風か50年代のキャンディ・ポップな魅力を伴っているややスローな曲。"Old Friends"はアコースティック・ギター一本で歌われるフォーク・ソングだろう。この辺は2分台の曲が続く。

 "Bani Adam"は輸入盤ではアラビア語で表記されていて、ベートーベンの"月光"のようなピアノ・ソロからエレクトロ・ミュージックへと一転する。"Bani Adam"とは13世紀のイスラムの詩人サアディーという人の作品で、かつてはオバマ大統領も演説で引用したほどの著名な作品の様だ。歌というよりも朗読のようで、もちろんアラビア語でなされている。
 その詩の朗読を受けて、"Champion of the World"が始まる。ミディアム・テンポの明るい曲で、何となく心がホッとしてしまった。この曲は当時10代だったクリスが経験したことを基にしていて、宗教に夢中だったクリスが周りの子どもたちからいじめられたことを歌っている。「いま大変な思いをしている若者たちに向けて、君ならできるって言っているんだ」と語っていたから、肯定的な内容なのだろう。だから曲のメロディーも明るくなっているのだろう。

 そして最後の曲は、アルバム・タイトルでもある"Everyday Life"だ。この曲もシングル・カットされていて、スローなリズムと美しいメロディを包み込むかのように室内管弦楽団が繊細なアンサンブルを披露している。"Sunrise"という曲と呼応しているかのようで、そういう意味では、確かに円環的手法のプログレッシヴ・ロックを踏襲している。

 彼らのファンなら言うことはないだろうが、個人的には、いまひとつ気持ちが晴れないのだ。彼らの初期に見られたようなギター・ロック・サウンドを再び期待していたのだが、2008年の「美しき生命」の成功以降、観念的というか思想性が重厚過ぎて音楽性が押されているような気がしてならない。確かに、曲自体は素晴らしいのだが、アルバム全体を通して聞くと、ロックのカタルシスを得ることができないのだ。
 ただ、このアルバムはセールス的には大成功で、アルバム・チャートでは全英1位、全米7位を記録した。歪んでいるのは、私の感性なのかもしれない。Rs18403353049468

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2019年11月 4日 (月)

ホワイト・アルバム発売50周年記念盤

 ザ・ビートルズのアルバム「アビー・ロード」の発売50周年記念盤が世に出回っていて、好評のようだ。もう発売から半世紀も経ったのかと思うと感慨もひとしおだが、今回のお題はそれではなくて、昨年発売された「ホワイト・アルバム」の方である。

 話は脱線するのだが、この"白い盤"には思い出があって懐かしい。1970年代のことだが、当時のザ・ビートルズ関連のレコードは値段が高かった。他のミュージシャンやバンドのアルバムは2200円というのもあったのだが、ザ・ビートルズのアルバムはきっちり2500円したし、2枚組の「ホワイト・アルバム」にもなると5000円もしたのである。当時の配給会社である東芝EMIの戦略だろう。同じ東芝EMIのピンク・フロイドのアルバムはもう少し安かったのに。あのレッド・ゼッペリンの2枚組ライブでも3600円だったはずだ。それでも売れるのだから、さすがザ・ビートルズである。

 それで当時貧乏だった自分は、なかなか「ホワイト・アルバム」を買えないでいた。だからお小遣いを貯めようと思ったのだけれど、そのお小遣い自体がなかった。それで修学旅行で持って行ったお小遣いをなるべく使わずに持って帰り、そのお金でやっと「ホワイト・アルバム」を手に入れたのだ。何という涙無くしては語れない話だろうか。そういう意味でも、非常に意義深いアルバムだったのだ。

 それでアルバムがCD化されたときも、もちろん購入した。CDもレコードと同じ2枚組だった。その後も"ザ・ビートルズ販売戦略"は続き、モノラル盤や紙ジャケット盤、リマスター盤といろんな種類が出されたが、やっている曲自体は同じなのだからそんなものは必要ないと思っていた。ところが、2018年には発売50周年記念盤ということで、デラックス盤は6枚組+ブルーレイ盤付きで、通常盤でもCD3枚組になっていた。えっ、3枚組ってどういうこと、ボーナス・トラックがそんなにあったのかと思ってしまったのだが、実際は少し、じゃなくて、かなり違っていた。当時のデモ・トラックが20曲以上収められているということで、それならちょっと聞いてみようと思って購入したのだった。もちろん中古の輸入盤である、いまだに貧乏なのだから仕方ない。71lgdiwklgl__sl1500_   この音源は"イーシャー・デモ"と呼ばれていて、コアなファンなら昔から知っていたことだ。あの「アンソロジー・シリーズ」でも「シリーズ3」の中に一部(7曲)は収録されていたし、ブートレッグでもかなり浸透していた。ジョージ・ハリソンの"While My Guitar Gently Weeps"のアコースティック・バージョンも以前から聞いていたので知っていた。でも、こうやってまとまったもの、全27曲が一度に収録されている公式盤はなかったので、これはぜひ「一家に一枚」と思い、手に入れたのである。

 もう一度確認のために記すと、"イーシャー・デモ"とは1968年の5月に、インドからの瞑想旅行から戻ってきたメンバーが、サリー州のイーシャーという場所にあったジョージ・ハリソンのコテージに集まって、レコーディング・セッションを行った時の音源を指す。当時のジョージのコテージには本格的な、ただし4トラックのレコーディング・システム(といってもオープン・リールだった)が設置されていて、いつでも好きな時にレコーディングできた。それでも設備的には一般的なレコーディング・スタジオと変わらない音質だったという。Kinfauns_george_harrison_house

 ただ、スタジオではなかったため、持ち込める機材は限られており、ほとんどがアコースティック・ギターだった。つまり90年代に流行した"アンプラグド"の原型が、この"イーシャー・デモ"だったわけだ。さすがザ・ビートルズ、30年後のことを予想していたのか先見の明がある。
 冗談はともかく、この音源を聞くと、とても彼らの関係が険悪だったとは思えない。少なくともこの時点では、まだまだバンドという形態を保っていたし、お互いに声を掛け合ったりと、とても友好的なのが分かる。全体的に、キャンプファイヤーをしながら歌っているような感じがするし、手拍子や拍手なども入っている。曲自体もほとんど完成されていて、「ホワイト・アルバム」の中の楽曲と比べても、曲によっては全く遜色のないものもある。彼らは、インドでの瞑想旅行中、瞑想以外にほとんどやることがなかったらしく、曲ばかり作っていたようだ。だから、ポールは1ダースくらい、ジョージは6曲、ジョンは15曲くらい作ってこのイーシャーに集まったという。その曲をお互いで披露しあったのだろう。

 CDの3枚目に収録されている"イーシャー・デモ"の曲順は、「ホワイト・アルバム」の順番に似せている。このアルバムをリミックスしたジャイルズ・マーティンの意向なのだろうか、よくわからない。だから"Back in the U.S.S.R."、"Dear Prudence"、"Glass Onion"と曲は続いている。"Back in the U.S.S.R."も"Dear Prudence"もアコースティック・ギターとポール、ジョンのそれぞれのボーカルはダブル・トラックでレコーディングされている。"Back in the U.S.S.R."にはボンゴのようなシンプルなパーカッションが使われていて、たぶんオーバーダビングされたのだろう。"Glass Onion"の歌詞は一部まだ確定していなかった。  71fezkjidl__sl1123_   "Ob-La-Di, Ob-La-Da"もギター一本で演奏されているし、変なかけ声も挿入されていたが、メロディ自体は正規盤と変わりはない。"The Continuing Sory of Bungalow Bill"も手拍子が入っていて、基本はのちの「ホワイト・アルバム」と同じだが、裏声やオノ・ヨーコが歌う部分はない。"While My Guitar Gently Weeps"はややテンポが速すぎて、叙情性に欠けているが、ギター一本で歌われると、さすがに曲の芯の部分が露わになるので、確かに良い曲だとわかる。

 ジョンの"Happiness is A Warm Gun"は断片的に作った曲を繋ぎ合わせたものということが分かるし、"I'm So Tired"や"Blackbird"などは、このまま収録してもおかしくないほど、すでに体裁を整えている。ハープシコードの伴わない"Piggies"はシンプルだし、元々アコースティックだった"Rocky Raccon"は、「ホワイト・アルバム」での同曲の冒頭の部分が省略された形でレコーディングされていた。まだ未完成だったのだろう。一方で、ジョンの"Julia"はほぼ完成されているし、"Yer Blues"はやや淡白すぎて粘っこさがなかった。曲はいいのだが、ブルーズまでは昇華されていないようだ。

 "Mother Nature's Son"は完成型だし、"Everybody's Got Something to Hide Except Me and My Monkey"ではイントロのハードなエレクトリック・ギターによる演奏がないので、ラフな感じに聞こえてくる。ジョンの声も裏返っていないし、まだ未完成という感じがした。一方では、"Sexy Sadie"はほとんど完成している。"Revolution"は「ホワイト・アルバム」のそれをシングル・バージョンのテンポで演奏していて、これが「ホワイト・アルバム」ではスローになったんだなあということが分かった。この時までは、ジョンもザ・ビートルズのリーダーとしての自負もあったのではないだろうか。ジョン主導の曲の方が元気がいいような気がしたからだが、まさか1年後には解散状態になるとは思っていなかっただろう。

 ポールの作った"Honey Pie"もメロディーは完成していて、「ホワイト・アルバム」では歌詞の一部を手直ししたようだ。"Cry Baby Cry"も同様にほぼ完成しているが、アウトロの"Can You Take Me Back"は付属していない。そこはポールが後でつけ足したものだった。ジョージの作った"Sour Milk Sea"は「ホワイト・アルバム」に収録されていない。のちに当時のアップル・レコードに所属していたジャッキー・ロマックスというシンガーに、デビュー・シングルとして提供している。ちなみにこのシングルにはジョン以外のザ・ビートルズと、エリック・クラプトン、ニッキー・ホプキンスなども参加していた。

 "Junk"もまた「ホワイト・アルバム」には収録されていなくて、1970年のポール・マッカートニーのソロ・アルバムに収録された。ここでは歌詞の部分がまだ未完成で、ハミングしているところもあった。ただ、この時点でメロディ自体は完成していたから、しばらくポールが温めていたのだろう。"Child of Nature"も同じように、ジョンがのちに1971年の「イマジン」に収録したものだ。ただその「イマジン」では、曲のタイトルが"Jealous Guy"に変更されている。このデモではマンドリンやマラカスなども使用されている。ジョンといいポールといい、良い曲をストックしていたのだろうし、お互いがあの曲はザ・ビートルズ時代に作った曲をモチーフにしているとわかっていただろう。そういう意味でも二人はライバルであり、競い合っていたのかもしれない。

 "Circles"はジョージが作った曲で、この曲もまた「ホワイト・アルバム」未収録である。このCDの後半は未収録曲が並んでいる。ただ、1982年に「ゴーン・トロッポ」というアルバムにジョージ自身が収録していた。ここではハーモニウムが使用されていて、何となく瞑想用のインド音楽といった感じだ。続く"Mean Mr.Mustard"と"Polythene Pam"は「ホワイト・アルバム」には収録されなかったものの、ご存知のように「アビー・ロード」の後半のメドレーに使用されている。"Polythene Pam"は1分26秒しかなかったから、単独では使いにくかったのだろう。

 "Not Guilty"はジョージの曲だが、「ホワイト・アルバム」には使用されていないものの、のちの彼の1979年のソロ・アルバム「ジョージ・ハリソン」でやっと日の目を見ている。また「アンソロジー3」で、違うテイクの音源が使用されている。この曲だけで102テイクを要したというから、他にも違う音源があるに違いない。
 そして最後の曲"What's the New Mary Jane"はジョンが作った曲だが、ザ・ビートルズのアルバムには収録されていない。ここでは2分42秒と短いが、「アンソロジー3」では6分12秒とロング・バージョンが収録されている。たぶんオノ・ヨーコの影響を受けたせいか、実験的な要素が強く、シングルやアルバム収録には向かないと判断したのではないだろうか。Small_photosbyjohnkellyapplecorpsltd_102

 全27曲中の"イーシャー・デモ"のうち19曲が「ホワイト・アルバム」で発表されている。そして、これ以外に「ホワイト・アルバム」で初お披露目されたのは、次の11曲だった。ポールの曲が目立つ。"Wild Honey Pie"、"Martha My Dear"、"Don't Pass Me By"、"Why Don't We Do it in the Road"、"I Will"、"Birthday"、"Helter Skelter"、"Long, Long, Long"、"Savoy Truffle"、"Revolution 9"、"Good Night"

 何度も言うようだが、この時点では彼らはバンドとして機能しており、ジョンもポールも、もちろん他のメンバーも、だれもがザ・ビートルズから脱退するとか、バンドが解散するとか思っていなかっただろう。逆に、2枚組だったにもかかわらず収録されていない曲があったわけで、それ以降のアルバム用としても準備していたかもしれない。Whitealbumhero2
 このイーシャー・デモをモチーフにして、アビー・ロード・スタジオでの収録が始まったわけだが、当時の彼らはみんなが納得するまでレコーディング作業に集中していたらしく、だから何度も何度もテイクを重ねていった。"Not Guilty"が102テイクを重ねて、やっとみんなが納得したにもかかわらず「ホワイト・アルバム」やそれ以降のアルバムにも収録されなかった。自分にはその理由はよくわからないのだが、とにかく当時のザ・ビートルズは完璧主義者集団だったのだ。その完璧主義が仇になって軋轢が生じ、ギスギスした関係になっていったのだろうし、ザ・ビートルズ以外の人たち、たとえばオノ・ヨーコやアラン・クラインなどが口を挟むようになって、バンドは壊れていったのではないかと考えている。

 とにかく、こういう音源がまとまって披露されたという点では、感動ものである。長生きしてよかったと喜びを噛みしめているところだ。ただ、まだまだ音源は残っているようで、"Ob-La-Di, Ob-La-Da"だけでも47テイクもあるというのだから、きっと違うバージョンは存在するに違いない。"ザ・ビートルズの販売戦略"は、まだまだ続くのかもしれない。

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2019年10月14日 (月)

追悼:ジンジャー・ベイカー

 ジンジャー・ベイカーが亡くなった。享年80歳だった。病気のために亡くなったようなのだが、具体的な病名は伏せられていた。ただ、以前から心臓が悪くて、手術を受けたぐらいだから、おそらくは心臓病か、それから来る合併症だったのだろう。また長年にわたって喫煙の習慣とヘロイン中毒に悩まされていたから、その辺の事情もあるのかもしれない。4ea7b7f2

 ジンジャー・ベイカーといえば、やはりクリームだろう。エリック・クラプトンとジャック・ブルース、そしてジンジャー・ベイカーの3人で結成されたこのロック・バンドは、1966年当時は革新的で先鋭的な音楽をやっていた。レコードでは1曲3分くらいだった曲を、ステージでは20分近く演奏してしまうからだ。また、アンプを大量に配置して轟音で演奏していた。やっている音楽は、基本的にブルーズに根差したものだったが、ステージでは即興演奏、いわゆるインプロビゼーション中心だったから、必然的に時間も長くかかってしまったのである。

 基本的に、ベーシストのジャック・ブルースとドラマーのジンジャー・ベイカーは、ジャズ・ミュージシャンだった。そしてギタリストのエリック・クラプトンは、ブルーズの探究者だった。3人は対等の立場でそれぞれの楽器を通して表現の可能性を追い求め、その限界を超えようとしていた。ある意味、真剣勝負のステージだっただろうし、その緊張感たるや、言葉では言い表されられないくらいきついものだったのだろう。だから2年しかもたなかったのだと思う。Cream_clapton_bruce_baker_1960s

 そんなジャックとエリックを結び付けたのが、ジンジャー・ベイカーだった。もともとジャック・ブルースとジンジャー・ベイカーは知り合いで同じバンドにも在籍していたし、ジャズという共通するバックグラウンドがあったのだが、エリックとは面識がなかった。ジンジャーに言わせれば、この男(エリック・クラプトンのこと)と組んで活動すれば、かなり面白いことができると直感したようで、まずジャックに声をかけ、そしてエリックに迫っていった。エリック・クラプトンは同意はしたものの、自分はブルーズ・ギタリストで、ジャズ・ミュージシャンではないと最後まで認めなかったようだが、ジンジャー・ベイカーにいわせれば、ジャズもブルーズも根っこは一緒ということで、押し切ったようだ。さすがジンジャー・ベイカー、押しの強さは昔から有名だった。

 彼らの代表作に、1968年の「クリームの素晴らしき世界」という2枚組レコードがある。1枚目はスタジオ録音で、もう1枚はライヴ・レコーディングだった。スタジオ録音とライヴ録音の両方を聞き比べることができるという優れモノのレコードで、自分が手に入れたときは、両方ともよく聞いていたものである。811gi9mdgl__sl1400_  そのスタジオ録音された曲の中に、"Pressed Rat and Warthog"という曲があった。この曲を歌っていたのが、ジンジャー・ベイカーだった。歌うというよりもポエトリー・リーディングのようなものだった。もう少し早口で歌っていれば、ラップ・ミュージックと呼ばれるかもしれないが、レコードではトランペットなどの楽器も使用されていて、実験的な要素が強い曲だった。曲はジンジャー・ベイカーとマイク・テイラーの共作で、マイク・テイラーという人もジャズ系のピアノ・プレイヤーだった。そして残念ながら、マイクは1969年の1月にトーマス川で溺れて亡くなった。麻薬中毒だったから、誤って川に落ちたのではないかと囁かれている。

 ジンジャーはこの"Pressed Rat and Warthog"をライヴでは演奏しようとはせず、極力避けていた。しかし、2005年の"リユニオン・コンサート"では歌っていた。時の流れは人の気持ちも変えてしまうのだろう。513pfyw53fl
 ちなみに、この「クリームの素晴らしき世界」では、"Passing the Time"や"Those Were the Days"もジンジャー・ベイカーとマイク・テイラーの曲だった。"Passing the Time"のリード・ボーカルはジャック・ブルースだったが、エリック・クラプトンとジンジャー・ベイカーも歌っていた。ただギター・ソロなどはなく、やや前衛的でプログレッシヴな雰囲気を醸し出していた。"Those Were the Days"では、ジンジャー・ベイカーはチューベラー・ベルズも使用している。51el2txia7l

 ディスク2のフィルモア・ウエストでのライヴでは、4曲目にジンジャー・ベイカー作の"Toad"を聞くことができる。この曲のオリジナルは、1966年の彼らのデビュー・アルバム「フレッシュ・クリーム」に収められていたインストゥルメンタルで、5分の曲が16分に延ばされていた。ロック・バンドのドラム・ソロをライヴ・レコーディングするという発想は画期的なもので、ここから、特にハード・ロックの分野ではライヴ演奏におけるドラム・ソロのレコーディングが一般化していったのではないかと思われる。5169tagbyl

 それに、ジンジャー・ベイカーはツイン・バス・ドラムだったから、視覚的にも訴えるものがあったし、音楽的にも低音が強調され、タムタムやハイファットとの相性も良かった。ドラマーとしても一流なのは当然のことだが、他のミュージシャンの追随を許さない程のセンスやアイデアも秘めていた。のちに彼がアフリカン・リズムやワールド・ミュージックを追及するようになったのも、本来備わっていたリズムを追い求めるという鋭敏な感覚のせいではないだろうか。9d78353e77a3d5be439f3da46a501c02

 なぜ彼が"ジンジャー"と呼ばれたのかというと、彼の燃えるような赤い髪の毛が遠目に見ると、"生姜"のように見えたからだという。"ベイカー"は本名だが、別にパン屋ではなかった。謹んでご冥福をお祈りいたします。

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2019年9月 2日 (月)

ホージアの新作

 「今年上半期の気になった新作シリーズ」の第2弾は、アイルランド出身のシンガー・ソングライター、ホージアの新作である。このホージアという人は3年前にもデビュー・アルバムについて、このブログでも取り上げていた。期待の大型新人として紹介したつもりだったが、ここ日本ではイマイチ盛り上がりに欠けていたようだった。日本でも海外のシンガー・ソングライターは受けないのだろうか。受けるのはバンド活動をしている人たちやエド・シーランぐらいかもしれないなどと思っていた。1

 前回にも書いたけれど、ホージアのシングル"Take Me to the Church"は2013年に全米2位を獲得し、翌年のデビュー・アルバム「ホージア」は全英で3位、全米では2位まで上昇した。母国アイルランドでは、当然のことながら首位に輝いている。また、2014年度のグラミー賞の"Song of the Year"にもノミネートされていた。
 それほどの人気なのに、何故か日本では一部で盛り上がってはいるものの、いま一つパッとしない。これはきっと国内盤が発表されなかったからではないか、そして発表されないから当然のことながらプロモーション不足ではないかと思っている。無名の新人については国内盤が出されるのに、これほど実力あるミュージシャンが冷遇されているのは腑に落ちないのである。81nsetbgiol__sl1500_

 前回も書いたけれど、もう一度、簡単に彼のプロフィールを紹介したいと思う。現在は29歳のホージアは、父親の影響で幼い頃から音楽に親しんでいた。父親はブルーズ・ミュージシャンで普段は銀行で働きながら、夜はパブや、声がかかれば地方のスタジオなどでドラムを叩いていたようだ。
 ホージア自身も15歳頃から曲を書き始め、高校卒業後はダブリンにあるトリニティ・カレッジで音楽を専攻した。しかし、学校生活に馴染めなかったのか、あるいはプロとしての意識が芽生えたからなのか、1年で退学して作曲に専念したり、デモ・テープ作りを行うようになって行った。ただ、退学しても合唱団に所属し、人前で歌うことは心がけていたようだ。
 2013年に5曲入りのEPを自主制作すると、その中に収められていた"Take Me to the Church"がインターネットで評判になり、あれよあれよという間に世界中でヒットしていったのである。まさに、この辺はシンデレラ・ストーリーだろう。

 この"Take Me to the Church"という曲は、性的マイノリティーに対する教会側の方針に対して異を唱えるもので、特にアイルランドでは、昔から権力側にいた教会が、マイノリティーの人々や他宗派の人たちに対して、偏見をもって接していたようだ。ホージア自身はアイルランドでは珍しい少数派のプロテスタントに属していたから、カトリックであれプロテスタントであれ、宗教的権威については根強い反発があるのかもしれない。

 それでデビュー・アルバムから約5年、この間ツアーを続けながら曲作りに励んでいたホージアは、2018年に、「ニーナ・クライド・パワー」という4曲入りのEPを発表した。タイトル曲にはアメリカのR&Bシンガーであるマーヴィス・ステイプルズがフィーチャーされていた。名前を見て気づかれた人もいるかもしれないけれど、彼女はあの名高いステイプル・シンガーズの一員でもある。Nina_cried_power_ep
 そして2019年には、ついにセカンド・アルバムとなる「ウェストランド、ベイビー!」を発表した。全14曲、57分というボリューム豊かな作品で、EP「ニーナ・クライド・パワー」とのダブりは2曲("Nina Cried Power"、"Shrike")だけだった。
 一聴した限りでは、アルバム前半はロック色がにじみ出ているが、後半は前作のようなシンガー・ソングライター風の曲が続いているようだった。

 "Nina Cried Power"は”ゴスペル+ロック・ミュージック”といった感じで、力強いビートに乗って、ゴスペル風のバック・コーラスが展開される中で、ホージアの歌声が性急に何かを訴えるかのように表れてくる。また、途中にはマーヴィス・ステイプルの声がフィーチャーされ、曲に色どりを添えるのである。
 このアルバムにはホージアを入れて4人の名前がプロデューサーとしてクレジットされているが、その中の一人マーカス・ドレイヴスとの共同プロデュースがこの"Nina Cried Power"だった。

 ちなみに、ホージアはそれぞれのプロデューサーと全曲で共同制作していて、マーカスとは9曲、残りの2人については、アメリカ人のアリエル・レクトシェイドと2曲、アイルランド人プロデューサーのロブ・カーワンと3曲である。プロデューサーの違いで曲の趣向が全く違ってくるということはないのだが、アリエルとの曲、5曲目の"Nobody"と6曲目の"To Noise Making"は何となくポップな感じがした。”ゴスペル+ポップ・ミュージック”である。何となく協会の合唱団をバックに歌うエド・シーランのような気がした。

 また、1曲を除いてすべてホージアの作詞・作曲である。その1曲とは7曲目の"As It Was"で、これはアレックス・ライアンという人との共作曲だった。この曲は雰囲気的にダークで、それまでの楽曲とは少しイメージが違った。バラード系には間違いないのだが、暗い冬空と荒涼と吹きすさぶ原野を想起させる。

 2曲目の"Almost"には"(Sweet Music)"という副題がついているのだが、そんなに甘い歌ではない。これもソウル風で、これにアイリッシュ風のリズムが微妙に合体している。その危うさが非常に印象的で、そういう意味では"Sweet Music"なのかもしれない。
 "Movement"はスローなバラード曲。これはデビュー・アルバムの系列に含まれるような曲で、空間を生かしたバック・コーラスが素晴らしい。
 この人の特徴は、やはりゴスペル・ミュージックとは切っても切れない関係という点ではないだろうか。一人で切々と歌うというような従来のシンガー・ソングライター風ではなくて、壮大なバック・コーラスやエコーを生かした空間的な響きをどの曲も伴っていて、そういう意味では、アイリッシュ風でもあり、アメリカ南部風でもある。だから、欧米、特にアメリカでは好まれるのであろう。

 4曲目の"No Plan"もバックの重く引きずり込むようなビートがロック的でもあるし、逆に、それを膨らましているコーラスは天空にいざなうかのように持ち上げるのである。
 "Shrike"は前年に発表されたEPにも収録されていた曲で、これはホージア風のフォーク・ソングだろう。基本的にはアコースティック・ギターだけなのだが、この人の場合はこれだけでは終わらずに、最小限度の装飾音がついてくる。それでもそれが嫌味にならず、むしろ豊かな想像力が引き出されて行くのだから見事なものである。

 この"Shrike"や次の"Talk"などを聞くと、デビュー・アルバムの延長上に連なる楽曲だとわかる。前半までは重いビートやテンポ良い曲が目立ったのだが、このアルバム中盤辺りからは落ち着いてくるのである。
 10曲目の"Be"もバックのファズ・ギターが目立つものの、全体的には静かな部類に入るだろう。大ヒットした"Take Me to the Church"の二番煎じという声もあるが、こういう音的感覚はホージア独特のものではないだろうか。これに類するものとしては、同じアイルランド出身のU2にも感じられるところだ。特に、U2のエッジのギター感覚に類似するところもあるのだが、アイルランドという土地柄とも関係があるのかもしれない。

 一転して、アルバム前半の雰囲気に戻るのが次の曲の"Dinner&Diatribes"だ。ここでもドラムスが強調されていて、それにエレクトリック・ギターが絡みつき、女性コーラスも後を追うようについてくる。このアルバムが、前作よりもハードになったといわれるのもうなずけるところである。
 そして"Would That I"では、また一転してアコースティック色になり、デビュー・アルバムを彷彿とさせる。従来からのファンやアイリッシュ・ソングが好きな人には懐かしいだろう。

 13曲目の"Sunlight"は、自分にはキーボードの音がチャーチ・オルガンに聞こえてくるほどのホージア風ゴスペル・ミュージックである。これはまさに21世紀に生きるゴスペル・ソングだろう。全体的にはゆったりなものの、途中にはアコースティック・ギターがリードする部分はあるし、バックのコーラスが目立つところもある。そういうバランスが素晴らしいと思う。

 そして最後の曲が、アルバム・タイトルの"Wasteland,Baby!"である。冒頭はアコースティック・ギターで導かれ、徐々にキーボードやベースなどの楽器が加わり、ゆったりと盛り上がってゆく。ところが、それはある意味、ホージアの定石通りではあるものの、その盛り上がりのスケール感はあえて抑え気味であり、逆に言えば肩すかしを食らったような展開になっている。この辺は、彼のシンガー・ソングライター資質が表れているような気がした。この曲が最後に置かれたのも、そういう意図的な印象操作みたいなものがあったのかもしれない。でも、良い曲だと思っている。

 このアルバムは、全米アルバム・チャートでは1位を獲得したし、全英でも6位、アイルランドでは当然1位になっている。これは昨年度EPを発表した後、プロモーションを兼ねたライヴ活動を行ったからではないかといわれているが、約5年間待たされた世界中のファンの期待度の表れでもあろう。
 また、アルバム・ジャケットはホージアの母親が手掛けていて、彼女は画家でもあるそうだ。そういう意味では、彼は芸術一家に生まれたのだろう。71lk89vobel__sl1500_  いずれにしても、これだけの世界的な評価を得ているミュージシャンのアルバムが国内盤未発売という点はいかがなものかと考えている。権利や契約の関係で難しい部分があるのかもしれないが、その点は早く解消して発表してほしい。その時は、2018年に発表されたEP4曲分をボーナス・トラックとして付け加えてほしいものである。

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2019年6月24日 (月)

ワイルド・ライフ(2)

 ポール・マッカートニー&ウィングスのアルバム「ワイルド・ライフ」についてである。このアルバムについては、2014年の5月に一度触れているので、今回はどうしようかなと思ったのだが、あえて書くことにした。理由は、ジョンとポールの確執について最後まできちんと記したいと思ったからである。B5mzcem90w26b_600

 どういうことかというと、ジョンのアルバム「イマジン」で2人の確執はまだ終わってはいなかったからだ。さらにポールの反論が続くのである。あえて前回までのことを繰り返すと、ポールがザ・ビートルズを脱退した(と言われていた)ことから、それについて反論を行った。それがアルバム「ラム」においてであり、その矛先はポール以外の3人+オノ・ヨーコに向けられていた。
 アルバム「ラム」が発表されたあと、同年の1971年9月にジョン・レノンの「イマジン」が発表された。そして、そのアルバムの中で"Crippled Inside"や"How Do You Sleep?"を通して、ポールに辛辣な批判を加えていた。そしてそれに応えるような形で発表されたのが、同じ1971年12月に発表された「ワイルド・ライフ」だった。ただし、正式にはポール・マッカートニー名義ではなくて、ポールの名前もない”ウィングス”とだけ記名されたアルバムだった。B0d2a58798425405476657f5d17d1694

 これはバンド活動にこだわったポールの意向が反映されていて、今までの自分の名声や評判を借りずに、バンドの力だけで活動しようとした表れであり、実力勝負に徹しようとした結果だった。確かに、ジョン・レノンは、パーマネントなバンドではないものの、”プラスティック・オノ・バンド”を率いてアルバムも発表していたし、ライヴ活動も行っていた。ザ・ビートルズでは1966年以降、全くライヴ活動を行っていなかったため、それまでの鬱憤を晴らすかのような活動だった。(映画「レット・イット・ビー」ではアップル社の屋上でライヴを行っていたが、あれを正式なライヴ活動と評するのには無理があるだろう)

 というわけで、実際に「ワイルド・ライフ」を発表した後も、”ウィングス”名義でイギリス国内でライヴ活動を行った。ただそれは、きちんとプロモーターが仕切るようなコンサートではなくて、機材を詰め込んだヴァンとポール・マッカートニー一家とミュージシャンたちが乗り込んだトレーナー、機材を運ぶローディーも2人のみと極めてシンプルで、行先も大学構内のホールのような小さいところだった。
 もちろんライヴ自体は、回数を重ねるにつれて熱気と興奮に満たされて行き、まさに熱烈歓迎状態になっていったのだが、最初は”ウィングス”といっても誰のバンドなのか誰も知らず、ライヴが始まってやっとみんなが気づくという有様だった。ある意味、覆面バンドのようなものだ。今の時代であれば、ネットやSNSですぐに拡散され、あっという間に評判になっていっただろうが、70年代の初めにはそんなことが起こりうるはずがなく、徐々に知られて行ったのである。Shutterstock_802243is

 しかもこのアルバムの「ワイルド・ライフ」は、3日でレコーディングが終了し、2週間でミキシング等も完了させたと言われていて、ポールはライヴ感覚を大事にしたと述べていたが、確かにこのバンドでのライヴは意識していただろうけれど、まだまだバンドとしてまとまっていなかったということは言えるだろう。特に、この当時のリンダ・マッカートニーのキーボードの腕前はお世辞にも上手とは言えず、とても人前でソロを聞かせるような代物ではなかった。また、デニー・レインや1972年から加入したリード・ギタリストのヘンリー・マッカロクなどの他のメンバーも、まだまだポールと十分な意思疎通はできていなかったようだ。

 だからアルバム自体も散々な評価を受けていた。早くライヴ活動を開始したいという気持ちが逆に焦りを呼んだのだろうか、シンプルで聞きやすいと言えば聞こえはいいが、前作「ラム」よりは手抜きというか、勢いだけで作りましたという印象が強かった。
 その証拠に、ポールのアルバムにしては珍しく他者の楽曲のカバー曲を入れていて、何とか曲数の帳尻合わせをしたという感じだった。そのカバー曲が"Love is Strange"で、オリジナルは1956年、ミッキー&シルビアというフォーク・デュオが歌った曲だった。また、1965年にはエヴァリー・ブラザーズもカバーしていたから、当時の欧米では有名な曲だったのだろう。最初はインストゥルメンタルで発表するつもりだったようだが、当時流行っていたレゲエ風にアレンジし直している。また、このアルバムからのシングル曲として準備していたが、最終的に版権の関係か、シングルとしては見送られた。

 それで全10曲、39分余りの時間的に短いアルバムだった。リンダ・マッカートニーは”ダンスで立ち上がって踊りたいときはサイドAを、女の子にキスさせたいときはサイドBを”と述べていたが、そんな簡単に割り切れるような感じではなかった。それならロッド・スチュワートの「アトランティック・クロッシング」や「明日へのキック・オフ」の方が編集方針としては明確になっているだろう。

 それで話題を元に戻すと、この10曲の中でジョンに対する回答は、5曲目の"Some People Never Know"と9曲目の"Dear Friend"だった。ポールも執念深いというか、よほど言いたいことが積もり積もっていたのだろう。30e80b21
 ただし、この2曲はジョンの「イマジン」を聞いて、その回答として考えたわけではなかった。この「ワイルド・ライフ」のレコーディングは、1971年の7月から8月にかけて録音、編集されているからで、「イマジン」のレコーディングが1971年の2月から7月まで断続的に続けられていたことから考えると、「イマジン」を聞いて反応を示すことは時間的に無理だったと思われる。

 だからこの2曲の内容は、反論や嫌悪といった感情をむき出しにしたものではなくて、むしろ諦観や受容といった内面的で静的な印象を与えるものだった。例えば"Some People Never Know"では、"I Know I was Wrong,Make Me Right"(自分が悪かったと思っている、自分を正しい方向に向かわせよう)と述べていて、むしろジョンに対して謝罪ともいえる言葉を述べていた。
 また、"Dear Friend"では、いきなり"Dear Friend,What's the Time? Is This Really Border Line"(親愛なる友だちへ、いま何時だい?本当にこれがギリギリなの)と今までの友情が途切れることを恐れているようなフレーズも見て取れる。

 曲調も"Some People Never Know"では、アコースティック・ギターが中心の落ち着いた雰囲気だったし、"Dear Friend"では、逆にピアノ中心の切々と歌い上げられたバラードだった。これらの曲には攻撃性や風刺性などは全く見られず、むしろ落ち着いて自分の意見を述べているような姿勢が伺えたのだ。
 先ほども述べたように、これらの曲は「イマジン」を聞いてから作られたものではなくて、「ラム」から「ワイルド・ライフ」に移るにしたがって、徐々にポール自身の考えが変化していったことを表している。ジョンに対して恨みつらみや非難中傷を加えるのではなく、現実を受け入れて、違う形でジョンやヨーコ、ほかの元メンバーと向き合おうとしたのだろう。だから「諦観」や「受容」といったイメージが浮かんで来たのだと思っている。

 実際にインタビューでもポールはこう答えていた。『"Some People Never Know"は僕とリンダのことについて述べた曲で、僕らのことをわかってくれない人たちがいるんだというメッセージを込めているんだ』また、『"Dear Friend"は直接的にジョンのことについて言っているのではない。ただ、ジョンのことを意識していることは間違いないと思う』だからある意味、ポールはザ・ビートルズに代わって新しいバンドを結成して、自分の目標に向かって旅立つために、一つの区切りとしてこの曲たちを準備したのだろう。

 ジョンとポールは友人でもあり、ライバルでもあった。だからお互いに意識しながら曲作りを行い、行動を起こしていった。さらにはライフスタイルも、相互に影響を及ぼしながら進展させていった。ジョンがヨーコというパートナーを得れば、ポールもリンダを娶って心の支えにしながら、生涯の伴侶にしようとした。
 ジョンが平和運動に心を砕き取り組んでいけば、ポールは逆に環境運動や動物愛護運動に力を注ぎ、ついにはヴェジタリアンになってしまった。そして、ジョンがプラスティック・オノ・バンドを組めば、ポールはウィングスを結成してライヴ活動に精力的に取り組むようになったのである。Paulmccartneyandwingswildlifepressphotow

 最後に、この「ワイルド・ライフ」以降、ポールはジョンのことを直接的に歌うことはなかった、1982年の「タッグ・オブ・ウォー」でジョンを追悼した"Here Today"までは。ジョンもまたあからさまにポールのことを非難することはなかった。
 一説では、1976年にポールがアメリカ公演を行った際に、ニューヨークでジョンに会い、今から一緒にラジオ局に行ってみんなを驚かせてやろうかと話し合ったと言われているが、真偽のほどは定かではない。

 だけど、公式スタジオ・アルバムを通して、お互いのことを言い合うというのもジョンとポールだから許される?ことであって、普通のミュージシャンがやったら、見向きもされないかもしれない。確かに自分の体験や感情などを、楽曲を通して表現するのがミュージシャンの本来の務めなのかもしれないが、ここまであからさまにオープンに行ったのもジョンとポール以外にはいないのではないだろうか。そういう記録という意味でも、「ラム」や「イマジン」、「ワイルド・ライフ」などは、歴史的に貴重なアルバム群だったと思っている。

 ちなみに”ウィングス”という名前は、リンダが1971年にステラという女の子を出産したときにポールが思いついた名前で、「天使の翼」をイメージして名付けたという。確かに70年代のウィングスは、ここから大きく世界に羽ばたいていったのである。

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2019年6月10日 (月)

イマジン

 ザ・ビートルズが解散した切っ掛けというのがあって、前回はポール・マッカートニーがザ・ビートルズを脱退して当時のマネージャーだったアラン・クレインを解雇しようとして裁判になったというようなお話をしたと思う。でも実際は、ポールよりも先にジョンの方がザ・ビートルズを脱退するよ電話をしてきたのが定説になっているらしい。今となってはどうでもいいことかもしれないが、70年代の初めではとても重要なことだった。
 そして、何故ジョンがザ・ビートルズを脱退しようとしたかというと、”事件の陰に女あり”の言葉ではないが、ジョン・レノンの背後にはオノ・ヨーコがいて、その影響でジョンが脱退を希望したというのである。だから熱烈なザ・ビートルズのファンなら、オノ・ヨーコを目の敵にしていて、彼女の存在がなければもう少し長くザ・ビートルズは活動したに違いないと思っているのである。

 私たち日本人の中にもそう思っている人は少なからずいると思うし、ましてや海外の人ならもはや確信に近いというか、信仰に近いものがあるのではないだろうか。実際に、私自身もアメリカ人の青年から”オノ・ヨーコ黒幕説”を聞いたことがあったし、それは違うよと私が否定しても、決して自分の説を翻そうとはしなかった。オノ・ヨーコは今でも世界中のザ・ビートルズ・ファンから嫌われているのだろう。ひょっとしたら、藁人形に名前が貼られて五寸釘が打ち込まれていたかもしれない。何という可哀そうなオノ・ヨーコだろうか。

 ザ・ビートルズの最後のフィルムが「レット・イット・ビー」だったが、そのレコーディング風景にもオノ・ヨーコは写り込んでいた。髪の毛も長くて黒いし、服装も黒っぽかったから、まるで背後霊のようだったが、ほかのメンバーの奥さんや恋人はレコーディングには参加していなかったのに、彼女だけがジョンから招かれたのだろう、レコーディング・スタジオの中でずっと座っていた。このことも他のメンバーから反感を買ったようである。ジョンに言わせれば、彼女の存在は”ミューズ”のように彼の音楽的創造性の源泉だった。また、音楽的な影響のみならず、平和や文化活動、反戦行動のような具体的な理念や行動面まで影響を受けていたから、彼ら2人は恋人や夫婦という枠組みを超えていて、もはや”ソウルメイト”とも言うべきものだった。だからジョンの行くところ常にオノ・ヨーコがいたし、逆にオノ・ヨーコがいれば、必ずジョンもまたその場に存在していたのだ。 Johnandyokoaboveusonlysky20181

 それで前回のブログでは、ポールが滅茶苦茶他のザ・ビートルズのメンバー、特にジョンやオノ・ヨーコのことを非難していたことを述べたのだが、その原因についてはあまり触れなかった。その原因については、もちろん他のメンバーとの確執みたいなものもあっただろうし、ザ・ビートルズが解散した切っ掛けが、ポールの思いと関係なく、ポールの言動にあったと決めつけられたことにも無念さがあったに違いないだろう。

 そしてまた、もっと具体的にいうなら、ポールのソロ・アルバム「マッカートニー」が本家ザ・ビートルズのアルバム「レット・イット・ビー」発売よりも1ヶ月も早く発表されていて、バンドのラスト・アルバムになるであろうアルバムよりも自分のソロ・アルバムを優先させた形になってしまったからだろう。しかも内容的に優れているのならまだしも、半分近くはインストゥルメンタルだったし、残りの半分も宅録でシンプルな飾りつけのみだったから、ザ・ビートルズのファンのみならず、批評家や何より元バンド・メンバーからも非難されてしまった。ポールはそういう状況の中で、自分のプライドを守り、自分の存在を主張し、自分の音楽性を認めさせようと思ったのだろう。そして、特に自分を強く批判していたジョンに対してメッセージを込めた楽曲を作ったに違いない。そういう音楽性も孕んでいたのがポールのアルバムの「ラム」だった。

 そしてそれに反論する形でアルバムを制作し、発表したのが、1971年の9月(イギリスでは10月)に世に出された歴史的名盤である「イマジン」だったのだ。81wjk15j6el__sl1300_
 自分は発表当時にはこのアルバムを聞いていなくて、中学生になって初めて聞いた。アルバムが発表されてから3年は経っていたと思う。アルバム冒頭の"Imagine"を聞いたときには、何というシンプルな曲だろうと思ったし、その歌詞もまた単語の意味が分かれば文の意味が分かるような簡単なものだった。もちろんジョン・レノンのことは知っていたし、どんな思いでこのアルバムを作ったかもだいたいはわかっていたし、当時は平和活動家というイメージが私の中では強くて、ある意味、もう少し硬質な音楽性を期待していたから肩透かしを食ったような気がした。ジョンってロックン・ローラーなんだろう、もっとロックしてよと言いたかったのだ。何という若気の至りだろうか。当時は本当のジョンの強さや優しさを理解できなかった、まだそういう感性が備わっていなくて、もう少し大人になってから初めてジョンの偉大さが分かったのだ(それでも本当に理解しているのかと問われると何とも言えない)。

 個人的な見解だけど、ポールのアルバムは個々の楽曲だけを聞いても問題ないと思うけれど、ジョンのアルバムは全体をきちんと聞かないと正確に理解できないと考えている。例えばこの「イマジン」というアルバムも、冒頭の"Imagine"やロッド・スチュワートやブライアン・フェリーもカバーした名バラード"Jealous Guy"だけを聞いて、ジョンという人の性格や才能、このアルバムの価値を判断することはできない。むしろ”群盲像を評す”という失敗を犯してしまうだろう。A0e5a3d71ffdcc53e2565ef6f63c9f6d

 だからこのアルバム「イマジン」も"Imagine"や"Jealous Guy"、"How?"だけ聞いて判断するのではなくて、ジョンの魂の叫びとも言うべき"It's So Hard"や"I Don't Want to Be a Soldier"、"Give Me Some Truth"も聞いてから全体として味あわないといけないと思っている。ポールのアルバムは優等生的で確かに楽曲的にも構成的にも技巧的で素晴らしいものだと思っているけど、ジョンのアルバムはジョン自身の生き方や考え方、”知行一致”ではないけれど、ジョン・レノンという人間性の一部がサウンドや歌詞として表現され、発表されてきた経緯があると思っているし、どちらかどうと優劣を競い合うのは意味がなく、それぞれの独創性として尊重するべきだと思っている。

 それで、特に1970年の「ジョンの魂」と、この「イマジン」は、そういうジョンの人間性が一番よく表現されていると思っていて、この2枚のアルバムはやはり歴史的な名盤だと考えている。そして気楽に聞いてみようかという気持ちで聞いてもいいのだけれども、むしろジョン自身はそれを望んでいるに違いないのだろうけれど、自分にとってはやはりワンクッションを置いて、気持ちを新たに気合を入れ直して聞いている。新興宗教の教祖に近づくような、そんな厳粛な気持ちになってしまう。51fste2ymql

 それで本題に戻すと、本題というのはポールの宣戦布告に対してのジョンの返答のことだが、これも個人的な見解なのだが2曲目の"Crippled Inside"もポールに対する当てつけではないかと思っている。ただこの曲を聞くと、歌詞の内容よりもジョージの演奏するドブロ・ギターの方が印象的だし、曲自体も軽快で聞きやすい。だからどうしても”怒り”や”憎しみ”などは印象が薄くなってしまうのだが、でも歌詞をよく見ると、やっぱり何か気になるよなあという感じになってしまうのである。

 このアルバムは3部構成ではないだろうか。第1部は平和を希求し、個人としての生き方を考える楽曲で、"Imagine"や"I Don't Want to Be a Soldier"、"It's So Hard"、"Give Me Some Truth"であり、第2部はヨーコに対する愛情を示す楽曲、"Jealous Guy"や"How?"、"Oh My Love"、"Oh Yoko!"、そしてポールに対する反論である第3部、"Crippled Inside"と"How Do You Sleep?"だろう。
 第1部の楽曲は穏やかな雰囲気とハードでロックン・ロールとして躍動する両面を味わえるし、第2部ではオノ・ヨーコに対するストレートで率直な愛情に満ち溢れていて感動的だった。そして第3部では同じミュージシャンとは思えないほどの辛辣で悪意に満ちた歌詞が書き留められている。

 特に、"How Do You Sleep?"はそこまで言うかと思うほど中傷している。この時の「イマジン」の制作過程が収められたビデオが残っていて、その中でもジョンはいつもと違って、かなり激しく悪意を込めて演奏するようにジョージやアラン・ホワイトに述べていたが、そこまでしなくてもいいのではないかと思ってしまうのだ。だって、”人生は短し、芸術は長し”の言葉通りに、作られた作品は永遠に残ってしまうのである。ある意味、証拠物件として保存されているのと同じだろう。
 曲の冒頭もザ・ビートルズのアルバム「サージャント・ペパーズ」のオープニングをパロディに使っているし、歌詞の中にも"Yesterday"という言葉や"Another Day"というポールの曲名を使用している。"Your Momma"というのは、当時の年上女房だったリンダのことを言っているのだろう。でもオノ・ヨーコも年上だったはずだが、その点はどうなのだろう。

 実際にも同席していたリンゴ・スターがジョンに忠告して何とか聞くに堪えられる内容まで戻したというから、実際はもっと悲惨で恐らくは放送禁止語に満ち満ちていたのだろう。もしそのまま発表していたら、おそらく当時のアップル社が販売停止処分にしただろう。

 これも有名なお話だが、ザ・ビートルズ時代のポールには、”目が大きすぎて夜は目を開けたまま眠る”という都市伝説みたいなものがあって、他のメンバーはポールをからかう時にこれを用いていたようだ。だからポールのことを揶揄するために、このタイトルを用いたのだ。このお話はメンバー以外にも広く流通していたようで、当時の彼らのファンなら知っている話だったらしい。

 まあとにかく、この曲1曲で、ポールの"Too Many People"や"3 Legs"、"Dear Boy"などをまとめて粉砕するようなパワーを秘めていて、強烈な印象と憎悪をリスナーにもたらしている。あらためて違う意味でも、ジョンの才能の偉大さを感じ取ることができる楽曲だった。敵にまわすと怖い相手だ。敵にまわすことはもうないけれど…Dh510ee7c7

 結局、ジョンは1980年になって『ひどい悪意や恐ろしい敵意を表明するためではなく、曲を作るためにポールに対する恨みを利用したんだ。それにポールやザ・ビートルズから撤退しようと思っていてね、ポールに対しては、本当にいつもそんなふうに思っているわけじゃないんだよ』とインタビューに答えている。確かに公式には、ポールに対してこれぽっちも悪意や恨みを述べたことはない。この「イマジン」に収められた"How Do You Sleep?"についても、1969年から曲を作り始めたと述べていたからポールに対しての確執はないと述べていた。ちょっと眉唾なのだが、ジョンのポールに対するおとなの対応というものだろう。

 ポールが「ラム」という素晴らしいアルバムを発表できたのも、リンダと彼女を含む”家族”の支えや彼らに対する愛情があって、制作できたと思っている。それと同様に、ジョンもまたヨーコに対する愛情があったからこそ、この歴史的名盤ともいえる「イマジン」を制作し、発表することができたのだろう。
 そう考えると、偉大な2人のビートルズの陰には偉大な女性の存在が外せないのである。ジョンもポールも、最終的にはザ・ビートルズを脱退したことになってしまったが、その原因は音楽性だけではなくて、愛する女性の影響力も見逃せないと思っている。

 今となって考えれば、偉大な才能を持つ2人のミュージシャンが、その有り余るほどの才能を使って、お互いに非難中傷を、歴史に残る形で行ったという事実の方が、画期的というか衝撃性を持っているし、そのインパクトは、時間が流れるに従って、いろんな意味でますます輝きを発しているように思えてならない。

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2019年6月 3日 (月)

マッカートニーの「ラム」

 なぜか無性にポール・マッカートニーの「ラム」を聞きたくなって聞いてしまった。結果当たり前のことだが、相変わらず名アルバムということが分かった。
 このアルバムは1971年、ポールが29歳の時に発表されたもので、全英アルバム・チャートでは1位を、全米ビルボードでは2位を記録した。ちなみにその時の1位はキャロル・キングの「タペストリー(つづれおり)」だった。

 彼やザ・ビートルズのファンなら知っていると思うけれど、ポールは1970年にザ・ビートルズから脱退を宣言し、結局解散してしまったのだが、そのせいで解散の原因はすべてポールにあると非難されていた。あるいはポールと当時のザ・ビートルズのマネージャーだったアラン・クレインとの確執ともいわれていて、裁判沙汰にまでなっていった(と思う)。当時、自分はまだ小学生だったから詳しいことはよくわからなかったのだが、いずれにしても、何故かポールばかり非難されていたような気がする。

 そのせいかどうかはわからないのだが、ザ・ビートルズ解散直後から、ポールを含めてザ・ビートルズのメンバーは、自分のアルバムを発表している。みんなが自分こそザ・ビートルだ見たいな感じがして、特にジョージなんかは3枚組のアルバムまで発表していて、まさに水を得た魚みたいに活躍していた。もちろんジョンもリンゴもアルバムを発表しているのだが、ポールは意外に早くファースト・ソロ・アルバム「マッカートニー」を発表していた。71yjwvlfw3l__sl1200_

 自分はジョンの「ジョンの魂」やジョージの「オール・シングス・マスト・パス」のアルバムの方が印象が強くて、ポールの「マッカートニー」についてはあまり覚えていなかったし、当時の友だちから借りて聞いてみてもパッとしなかった思い出があった。実際、「マッカートニー」は35分くらいしかなかったし、半分はインストゥルメンタルだった。まともな曲はあまりなくて、これがあのマッカートニーのアルバムなのかと思ってショックというよりも驚いた覚えがある。
 ところがこれが売れたのである。当時はまさに飛ぶ鳥を落とすほどの勢いがあったザ・ビートルである。解散宣言が出されても、元メンバーたちの動向は注目を集めていたし、彼らの言動もそうだったし、ましてやアルバムならどういうメッセージを含んでいるのか、どんな音楽性なのか、またザ・ビートルとの類似点や相違点など、いろんな意味で世界から注視されていたのである。

 確かに「マッカートニー」は売れたものの、その音楽性はむしろ素朴でシンプルだった。リンゴのアルバムは彼の好きなカバー曲集だったので除外するとして、ジョージやジョンのアルバムは、内容のみならずメッセージ性や彼らなりの個性が発揮されていて、発表された時点で歴史的な名盤になるでろうという予感性を十分秘めていたし、実際にもそうなっている。
 逆に、「マッカートニー」の方は商業的には成功したかもしれないが、内容的にはポールの趣味的なアルバムといっていいようなものだったし、ほかの元ザ・ビートルズたちは他のミュージシャンと一緒に制作していたが、ポールのアルバムはすべての楽器を自分でこなしていて、レコーディングに関してもほとんどが自宅録音だった。51vsewmzesl

 だから、彼の「マッカートニー」は批評家や音楽ライターから批判された。批判というよりはバッシングに近いものだったかもしれない。それはアルバムの評価のみならず、ザ・ビートルを解散させた一因としての責任を問うような意味合いもあったに違いない。そして、そのことで悩んだのかもしれないのだが、その後ポールはスコットランドの自分の自宅兼農場に引きこもってしまい、しばらくは家族と過ごすことを決めたようだった。

 しかし、この当時のポールはまさに才能のあふれ出る状態だったし、まだ30歳前で、意欲も行動力も十分すぎるほど漲っている状態だった。だから確かに一時はスコットランドにひきこもっていたものの、むしろ愛する妻と子どもたちに囲まれて心の傷も、たとえ傷があったとしても、癒されて、次への希望につながったに違いない。Paulmccartney71
 ポールは、実際に1970年の10月にはレコーディング・メンバーをリクルートするためにアメリカに旅立っている。おそらくスコットランドにいた時に、次のアルバムは他のミュージシャンを集めて、一緒にレコーディングしようと思ったのだろう。他の元ザ・ビートルズたちがそうやってアルバムを発表したように。

 年が明けて1971年の1月になると、ポールはニューヨークで、ギタリストのデヴィッド・スピノザやヒュー・マクラッケンなどの一流スタジオ・ミュージシャンと、のちにウィングスの初代ドラマーになったデニー・シーウェルと一緒にレコーディングを開始した。そうやって出来上がったアルバムがその年の5月に発表された「ラム」だったのである。やっとたどり着いた。

 全12曲、時間にして約44分のアルバムで、全体的にポールのやる気と自信がリスナーに伝わってくるアルバムだった。アルバム形式も「サージャント・ペパーズ」やのちの「ヴィーナス・アンド・マーズ」、「バック・トゥ・ジ・エッグ」のようなトータル・アルバムになっていて、ここでは3曲目と11曲目に"Ram on"が踏襲されている。
 また、メロディ・メイカーとしてのポールの魅力が100%発揮されていて、どの曲も捨てがたい。強いてあげれば後半の1,2曲はカットしてもよかったかなと思うが、それでも前作「マッカートニー」よりははるかに上出来だと思う。少なくとも100倍気合いを入れて作ったに違いないと思う。 81ad7ox9ol__sl1400_

 ただ問題なのは、メロディーよりも歌詞である。歌詞の内容なのだ。特に、昔のレコードのサイドAには問題のある歌詞が含まれた楽曲が用意されていた。冒頭の"Too Many People"もそうだし、2曲目の"3 Legs"や"Ram on"、"Dear Boy"など、考えようによっては6曲目の"Smile Away"もまたその種の楽曲かもしれない。そして、その歌詞の内容は元のザ・ビートルのメンバーに対してであり、特に盟友ジョン・レノンに対しては辛辣な内容を含んでいたようだ。

 ジョージ・ハリソンとリンゴ・スターは、"3 Legs"とは自分たち2人とジョンを含んだ3人のことを指していると考えていたし、ジョンはジョンで、"Too Many People"と"Dear Boy"は自分とオノ・ヨーコのことを指していると思っていた。ポールはポールで、確かに当時の自分の気持ちを表しているとは言っていたが、直接的に誰か特定の人を非難したつもりはないと述べていて、特に"Dear Boy"は当時の妻だったリンダ・マッカートニーの別れた元夫のことを歌っていたと述べていた。
 それに、レコードでもCDでも裏ジャケットにカブトムシが交尾をしている写真が使用されているが、これは当時の(解散直前の)ザ・ビートルの3人が自分のことをどう思っていたかを象徴する写真だとも述べていた。ポールもある意味、被害妄想というか解散の傷を引きずっていたのだろう。 71rcqbgdzxl__sl1363_

 当然のことながら、ジョンが黙っておくはずもなく、このアルバムの数曲に対するアンサー・ソングとして、アルバム「イマジン」の中で反論している。また、レコード時代にはジョンがブタの耳を引っ張っているポストカードが同封されていたが、これはこの「ラム」のアルバム・ジャケットのパロディだと考えられている。つまり、羊の代わりにブタの写真を使用したというわけだった。

 これもまたどうでもいいことだが、"UNcle Albert/Admiral Halsey"は1971年の9月4日に1週間だけ全米シングル・チャートで1位になったが、この曲の作曲クレジットが"Linda&Paul McCartney"となっていることに対して、当時のザ・ビートルの著作権を管理していたノーザン・ソングスのオーナーだったルー・グレイドがリンダが作曲できるはずがないと言って、裁判所に訴え出たのだ。最終的にはその訴訟は取り下げられたのだが、ポールはこう弁明していた。『曲の半分はリンダと一緒に書き上げたのだから、リンダの名前があって当然だろう。ソングライターとして認められているかどうかは関係ない。とにかく、誰であれ、どんな形であれ、本当に僕の歌作りを手伝ってくれた人には、その歌の一部を担うことになるんだよ』R367126014147226136254_jpeg

 ということで、全12曲中、ポール1人名義の曲は6曲、残りの6曲はリンダ&ポール・マッカートニー名義だった。公平に半分半分にしたのだろうか。いずれにしてもアルバム前半はブルーズ風味の曲やバラード、ロックン・ロールなどバラエティ豊かな曲で占められているし、7曲目以降の後半では、ロックン・ロールというよりも、メロディアスなミディアム・テンポの曲やニューヨーク・フィルハーモニー・オーケストラを用いた感動的なバラード曲"The Back Seat of My Car"などが印象的だった。

 このアルバムの成功に気を良くしたポールは、自分のやることに自信を深めたのだろう、ザ・ビートルと同じようなパーマネントなバンド活動を始めようと考え、ウィングスというバンドを結成するのである。その発端となったアルバムがこの「ラム」であるとともに、ジョンや他の元ザ・ビートルズのメンバーとの確執がまだ根強いというメッセージを世界中に曝け出していたのもこのアルバムだった。

 このアルバムを発表してからもポールは、40年以上も第一線で活躍している。今でこそポールの才能や意欲などを正当に評価できるだろうが、70年代の初期では、この先ポールを始め、それぞれのメンバーがどうなっていくのか全く予想できない状態だった。当時はインターネットやSNSもない時代だったから、今後の展開を予想できる数少ない証拠というか、記録としての意義をも含むアルバムだった。自分はそんなことまでは考えずに、ただ単にああいいなあと思いながら聞いていたのだが、実は世界中の音楽ファンをも巻き込んでの”戦闘モード全開”のアルバムだったのである。

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