2018年10月15日 (月)

ジョー・コッカー(2)

 “レコードの時はショボかったけど、CD化されてお買い得になったアルバム”のシリーズの第5弾である。
 このシリーズを続けてみると、やはり記憶媒体の容量が原因だというのがよくわかる。そしてそれは、ライヴ・レコーディングの時に顕著に表れるということだった。 

 要するに、レコードとCDの違いからくるのである。80年代初めまでは主流だったレコードだが、CDが登場したことで表舞台から消えてしまう結果になってしまった。やはり45分と80分では、昔のレコードなら1枚分くらいの違いはあるだろう。

 また、昔のスタジオ・アルバムがCD化された場合には、ボーナス・トラックをつけることで、レコードよりもお得感が増すし、ファンならば購買意欲も高まっていくだろう。そうすると、再発アルバムのリマスター盤なら、音質も向上しているし、未発表曲も聞けるとあって、ファンならば何度も聞いていたとしても、手に入れようとするに違いない。

 特にライヴ・アルバムとなると、その傾向はますます強まるのではないだろうか。音も向上していれば臨場感も違ってくるだろうし、しかも未発表曲が含まれているとなれば、実際のライヴを味わっている雰囲気に近づくだろう。

 だからというわけではないだろうが、このシリーズを始めてみてライヴ・アルバムにお買い得感が高まるものが多いということに改めて気がついてしまった。レコード発表当時は時間の関係で曲数も限られていたものの、CD化されて曲数も増えていれば、これはもう即買いになるだろう。

 さらに、スタジオ盤のボーナス・トラックとは違って、ライヴ・アルバムでは“その時その場所での記録”という意味合いもある。制限時間に合わせて曲数を削り、ベスト・トラックだけが選ばれたとしても、ファンからすれば、やはり完全な記録として、その時に演奏されたトラックを聞きたいと思うだろう。だからライヴ・アルバムのCD化には期待が高まるのではないかと考えている。

 前置きが長くなってしまったが、今回はジョー・コッカーの「マッド・ドッグス&イングリッシュメン」のことについて記したい。
 ジョー・コッカーについては昨年の“スワンプ・ロック特集”で紹介したので、それと重複がないように気をつけたいと思う。

 このアルバムを聞きながらジョー・コッカーの人気について考えてみたのだが、やはり彼が世界的に有名になったのは、映画「ウッドストック」における映像が強烈だったからではないだろうか。
 確かに、発作か何かで痙攣でも起こしたのではないだろうかと思わせるようなボーカル・スタイルには、忘れがたい印象を与えるパワーが備わっていた。まるで男性版ジャニス・ジョプリンだった。

 もちろん彼は、1968年秋に発表された"With A Little Help From My Friends"がイギリスでヒットしたおかげで有名になったのだが、このライヴ・アルバムでもそうだけれど、果たして彼にはオリジナルの曲、オリジナルでヒットした曲などがあるのだろうか。

 「マッド・ドッグス&イングリッシュメン」のレコードでは2枚組だったし、2010年に発表された再発CDも1枚もので全19曲だった。正確に言うと、曲の紹介なども曲数に含まれていたので、実際に歌われていた曲は14曲だった。
 そしてその14曲すべてが誰かのカバー曲か他の人の手によるものであった。つまり、ジョー・コッカー自身が作った曲はないのである。51nbrhz31l
 自身はソングラィティングをしなくても、他の人の曲を歌って十分食っていけるのである。それだけ元歌を自分流に解釈して、聴衆に訴えていく表現力が豊かなのだろう。
 自分はロック・シンガーについては詳しくないのだが、あのロッド・ステュワートやジャニス・ジョプリンでさえも自分で曲を作っていたから、カバー曲だけで売れるというのも、それはそれで才能のひとつなのかもしれない。

 ちなみに、ここに彼のベスト・アルバムがある。そのタイトルも「ザ・ベスト・オブ・ジョー・コッカー」というベタなものだが、12曲あってそのすべてが他の人の手による曲だった。曲の中にはジェフ・リンやエルトン・ジョン&バーニー・トーピン、ランディ・ニューマンなどの有名ミュージシャンの名前もあるのだが、ジョー・コッカーのオリジナル曲はなかった。ただ、ジョーに歌ってほしいという意味で贈られた曲はあるかもしれない。

 それで「マッド・ドッグス&イングリッシュメン」に話を戻すと、2005年にCD2枚組の「デラックス・エディション」が発表された。ディスク1には12曲、ディスク2には14曲が収められていて、そこには曲名の紹介は曲数には含まれてはいなかった。
 合計26曲になるが、ディスク2の最後の4曲はシングル用のスタジオ・セッションの曲だったから、ライヴだけの曲は22曲だった。Joecockermaddogsandenglishmen3cd
 だからライヴ曲は14曲から22曲に増えたわけで、しかも4曲のボーナス・トラックまで付属しているのだから、これはもう即買いのアルバムだと思っている。だから今回“レコードの時はショボかったけど、CD化されてお買い得になったアルバム”のシリーズの中に入れてみたのだ。

 スタジオ・セッションの曲も含む追加された12曲のうち、もちろんジョー・コッカーのオリジナル曲は含まれていない。また、追加された曲は以下の曲だった。
"The Weight"
"Something"
"Darling Be Home Soon"
"Let It Be"
"Further On Up The Road"
"Hummingbird"
"Dixie Lullaby"
"With A Little Help From My Friends"
 以上がライヴにおける曲だ。次の4曲はスタジオ・セッションの曲になる。"Warm Up Jam including Under My Thumb"、"The Letter"、"Space Captain"、"The Ballad Of Mad Dogs & Englishmen"

 それにしてもザ・ビートルズ関連の曲からザ・バンド、古いブルーズの曲などいろいろ歌っているのだが、どういう基準で選曲したのかが気になるところ。自分の歌いたい曲や適している曲を選んだのだろうか。

 また、曲数だけでなく曲順も違っていた。実際のライヴに近い曲順は、こちらのデラックス・エディションの方だろう。3曲が披露された"Blue Medley"で盛り上がって"With A Little Help From My Friends"で締めて、アンコールがボブ・ディランの"Girl From The North Country"だ。1148366882
 このライヴ・アルバムは、1970年の3月27日と28日の2日間、ニューヨークのフィルモア・イーストにおける昼夜2回の公演から収録されていて、2006年にはリミックスされたCD6枚組の「コンプリート・フィルモア・コンサート」が発表されている。すでに廃盤になっているので、もし中古店やネットで見かけたら、ファンならずともゲットした方がいいかもしれない。

 結局、ジョー・コッカーはブルーズ・シンガーだったと考えている。ブルーズ・シンガーなら古い曲の再解釈もできるし、新しい曲でもブルーズにアレンジすることもできるからだ。だから自分で曲を作らなくても済むのである。
 しかも、彼のしわがれた声は、アメリカ南部のブルーズやトラディショナルな曲に相応しいし、このライヴを聞けばわかるように、レオン・ラッセルを中心として当時大流行したスワンプ・ロックにもピッタリだ。

 それに、レオンの曲は当然のことだけど、ザ・ビートルズの"Let It Be"やザ・ローリング・ストーンズの"Honky Tonk Women"など、元々ゴスペルやブルーズの要素を備えた曲だからブルーズ・シンガーが歌ってもおかしくない。そういう意味でもジョー・コッカーは、自分に合う曲を選んでいたのだろう。

 前回のジョー・コッカーのところでも述べたけれど、1970年のこのツアーは全米39都市を巡回することになり、約2か月間も続いた。毎日ではないけれど、ほぼこのライヴ・アルバムと同じような曲を披露していたのだから、その疲労やストレスなどはかなりのものだったに違いない。Lindaontour2_2
 しかも途中からレオン・ラッセルとの確執も表面化してきたし、バンドとも対立してしまい、自分自身を見失うまでになってしまった。確かに当時のレオン・ラッセルとリタ・クーリッジは恋人同士だったし、周りのミュージシャンはレオン・ラッセルを慕っていたから、ジョーが孤立してしまったのも無理もないだろう。

 しかもこのデラックス・エディションの方を聞いていると、ライヴの最後はレオン・ラッセルのピアノが主導する"Girl From The North Country"で、ジョーとレオンのデュエットになっているし、スタジオ・セッションの曲も"The Ballad Of Mad Dogs & Englishmen"で終わる。この曲はストリングスも施された美しいバラードだが、レオン・ラッセルの独り舞台である。

 だから最後まで聞いていると、ジョー・コッカーのアルバムなのか、レオン・ラッセルのアルバムなのか、分からなくなってしまった。ジョー・コッカーは単なるメインのシンガーで、仕切っているのはレオン・ラッセルだ、しかも十分存在感を示しているとあっては、ジョーの立場もないだろう。ジョーが酒やドラッグに溺れてしまったのもむべなるかなという気がした。

 このあとのジョーのことについては、既述しているので省略したい。ただ、2007年にはそれまでの功績が評価されて、女王陛下より大英帝国勲章を受けている。Screenshot20141222at124251pm
 ジョー・コッカーは、2014年12月22日にアメリカのコロラド州クロフォードで肺癌のために亡くなった。享年70歳だった。生きている姿はもう見られなくなったけれども、あの素晴らしいパフォーマンスはロック・ファンの記憶の中に生き続けるに違いない。

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2018年10月 8日 (月)

ライヴ・アット・ザ・ハリウッド・ボウル

 いま自分の前に1枚のレコードがある。1977年に発売されたもので、タイトルは「ザ・ビートルズ・スーパー・ライヴ!」と名付けられていた。これは日本でのタイトルらしく、正式なタイトルは“The Beatles at The Hollywood Bowl”というものだった。The_beatleslive_at_the_hollywood_bo
 これは、ザ・ビートルズが1964年の8月23日と翌65年の8月30日に、ロサンゼルスのハリウッド・ボウルで行ったライヴ演奏を収めたもので、全13曲、時間にして33分余りだった。
 当初は、レコードとして発表する予定はなかった。当時の彼らのライヴ映像を見ればわかると思うけれども、観客が興奮してしまい、声援というか奇声があまりにも激しすぎて、音を拾える状態ではなかったからだ。

 ザ・ビートルズのメンバー自身も、当時はモニター自体がなかったし、たとえあったとしてもモニターからの音も聞こえなかっただろうと述べている。しかも当時の貧弱な録音機材では十分な音質も保証されなかったことは間違いないだろう。だからステージの上で彼らの音が合っていること自体、奇跡のような出来事だった。

 しかし、これは奇跡でもなんでもないと考えている。彼らはドイツのハンブルグやイギリスのリバプールでライヴ・バンドとして日夜、経験を積んでいたし、ザ・ビートルズとして正式にデビューしてからも世界中を回っては演奏していたからだ。当時の彼らにしてみれば、モニターから流れる自分たちの演奏を耳にしなくても、普通に歌や演奏を行って、当たり前に音もあっていたのだろう。

 当時のレコードの解説に、このアルバムをプロデュースしたジョージ・マーティンが記したコメントが載せられていた。それによると、最初からライヴ・アルバムのことを頭に入れて、録音されていたらしい。 しかしそれでも10年以上もお蔵入りになっていた。当時集まった1万7千人以上のファンの声で聞き取れなかったからだ。

 それをジョージ・マーティンと当時の録音技師のジェフ・エメリックが、3トラックをマルチトラックに移し替え、リミックスやイコライジングを施して、ついに鑑賞に堪えうる歴史的なライヴ・アルバムにまで仕上げたのである。
 ジョージ・マーティンによれば、この作業に取り掛からせる思いに至ったのは、ザ・ビートルズの演奏から伝わってくる熱狂的な雰囲気と荒削りなエネルギーをみんなに伝え、後世にまで残そうとする情熱からだった。

 だから、声と楽器はすべて当時のオリジナルのままだったし、オーヴァーダビングなどは一切加えられていないのだ。楽曲は、2回分の公演の中からベスト・トラックを選んだそうである。Yhst73969762682587_2180_44116662
 当時の記録では、2回の公演での楽曲数は、2回とも12曲だった。このライヴ・レコードでは13曲だったから、実際のライヴよりは1曲分多いことになる。
 また、2回の公演で実際には演奏されたが、録音状態の問題で収録を見合わされたのは、次の曲群だった。
"You Can't Do That"
"If I Fell"
"I Want to Hold Your Hand"
(以上1964年8月23日分)

"I Feel Fine"
"Everybody's Trying to Be My Baby"
"Baby's in Black"
"I Wanna Be Your Man"
"I'm Down"
(以上1965年8月30日分)

 ザ・ビートルズの公式アルバムはすべてCD化されていたが、なぜかこのライヴ・アルバムの公式CD盤は発売されていなかった。

 2016年に、アカデミー受賞監督のロン・ハワードによる、彼らの初期のキャリアを追った、バンド公認の長編ドキュメンタリー映画『ザ・ビートルズ: Eight Days A Week - The Touring Years』が公開されたが、これに合わせて発表されたのが、「ライヴ・アット・ザ・ハリウッド・ボウル」だった。61qvarhmq3l

 それでこのアルバムには、1977年のアルバムの曲数+ボーナス・トラックとして4曲が加えられていた。
 結局、このCD化されてもなお収録されなかった曲は、"If I Fell"、"I Feel Fine"、"I'm Down"の3曲だけになった。ただ、ブートレッグなどでは完全収録盤なども出回っているようなので、その気になれば聞くことができるようだ。

 また、CDのプロデュースは、ジョージ・マーティンの息子であるジャイルズ・マーティンが担当している。彼が言うには、1977年の父親がプロデュースしたレコードをリミックスした際に、曲順も印象の強さと音の鮮明さをもとに自分で新しく考えて決めようとしたが、結局、それは父親が考えたのと同じ曲順になったという。息子も父親と同じ才能を引き継いでいるのだろう。61jmko7dqdl

 それでCDは、全17曲で時間にして約44分にヴォリューム・アップしている。これはやはり即買いだろう。“レコードの時はショボかったけど、CD化されてお買い得になったアルバム”のシリーズの第4弾は、ザ・ビートルズの「ライヴ・アット・ザ・ハリウッド・ボウル」だった。

 それにこのアルバムは、純粋にザ・ビートルズの音楽を楽しむだけでなく、歴史的な記念品として味わう側面もあるのではないかと思っている。

 ちなみに、ハリウッド・ボウルとは、アメリカのカリフォルニア州ハリウッド・ヒルズに位置する半円形の野外公会堂のことで、1922年から使用されている。主にクラシックのオーケストラや人気歌手、エンターティナーなどの公演が催されている。Hb_shell_2010_03_hi
客席数は17,376席だそうである。

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2018年10月 1日 (月)

レインボー・コンサート

 レッド・ゼッペリン、ディープ・パープルとくれば、次はブラック・サバスかクリームか、ということになるのかもしれない。それで今回はエリック・クラプトンのライヴ・アルバム、「レインボー・コンサート」の登場だ。

 “レコードの時は貧弱だったけど、CD化されてお買い得になったアルバム”のシリーズ第3弾は、1973年1月13日に行われたライブ盤である。
 最初のアルバムは同年の9月に発表されたが、全6曲の34分48秒しかなかった。自分も80年代に再発されたレコードを購入して聞いたものだが、非常に物足りずに、これでいいのかクラプトンと愚痴ったものだった。516hcje3pl

 6曲しか収録しなかったというよりも、収録できなかったといった方が正確だろう。何しろこの時のクラプトンは、ヘロインの後遺症が続いていたし、引きこもりからやっと出てきた状態だった。だからギター演奏もキレがなく、ボーカルも伸びがなかった。

 ご存知のように、エリック・クラプトンは60年代半ばから、ヤードバーズ、ジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズ、クリーム、ブラインド・フェイス、デラニー&ボニー・アンド・フレンズ、デレク&ザ・ドミノスと、その都度輝かしい名声と素晴らしい業績を残してきた。

 そのクラプトンが1971年の途中から引きこもりを見せるようになったのだ。デレク&ザ・ドミノスの解散、親友であるデュアン・オールマンの事故死、ジョージ・ハリソンとその妻パティとの三角関係、そんな人間関係の複雑さや煩わしさと音楽的キャリアの行き詰まりなど諸々のことが原因で引きこもってしまった。

 単に引きこもるだけならともかく、コカインやヘロインというドラッグに手を出してしまい、ほとんど廃人になりかけていた。この時クラプトン28歳だった。
 当時のクラプトンは、アリスという女性と同棲をしていた。このアリスという人は上流階級出身で、父親はワシントンにあるイギリス大使館の元アメリカ大使も務めたサーの付く貴族だった。
 このハーレック卿という人は音楽に理解がある人で、ロック・ミュージックにも造詣が深く、エリック・クラプトンのことももちろん知っていた。

 世の中何が災いになり、逆に何が幸いするかわからないものである。エリック・クラプトンにとって幸いだったのは、ガールフレンドの父親がたまたま音楽に理解があり、そして娘とその恋人がドラッグ中毒だったから何とか助けてあげたいと思ったことだろう。

 もう一人クラプトンのことを心配していた人がいた。ザ・フーのピート・タウンゼントである。彼もまた古くからクラプトンと親交があり、クラプトンもまたピートのことを信頼していた。この引きこもり状態の時に、唯一連絡を取り合えることのできたミュージシャンがピート・タウンゼントだった。

 このハーレック卿とピート・タウンゼントのおかげで、このコンサートが企画され、メンバーが集められ、ロン・ウッドの家でリハーサルを行い、1月13日にコンサートが開かれた。ただ、引きこもり状態は約2年ほど続いたので、たった数回のリハーサルでは完全に復活することは無理があったようだ。81ihimf54zl__sl1084_

 この1月13日には18:30スタートの第1部と、20:30スタートの第2部の2回の公演だったが、やはり1回目の時のクラプトンの状態はあまり芳しいとは言えず、むしろまだリハーサル状態に近いものだったようだ。だからアルバムには2回目の演奏のものを多く収録していた。

 ちなみに、レコードで(もちろん初期のCDでも)聞くことのできる6曲は次の曲だった。
1.Badge
2.Roll It Over
3.Little Wing
4.After Midnight
5.Presence of The Lord
6.Pearly Queen
 この6曲のうち、1回目のライヴで演奏された曲は"After Midnight"だけだった。また、エリック・クラプトンのボーカルは4曲だけで、"Presence of The Lord"、"Pearly Queen"の2曲ではオリジナルと同様に、スティーヴ・ウィンウッドが務めていた。

 6曲という収録数と4曲のクラプトンのボーカルを聞いて、これでクラプトンが戻ってきたと安堵したファンは少なかっただろう。むしろ、逆に、これからクラプトンは大丈夫だろうかと不安に思った人の方が多かったのではないだろうか。

 自分も不安に思ったし、このアルバムを購入してむしろ損をした気分になっていた。ところが1995年に、当日のステージのほぼ完全盤が発表されたのだ。71np5pp0wl__sl1242_
 これはオリジナルの6曲に8曲も追加収録をされていて、さらに当日のライヴのほぼ演奏順に配置されていた。これはもう自分にとっては、欣喜雀躍、狂喜乱舞、完全跳躍?、とにかくオリジナルの倍以上の73分49秒も聞くことができたのである。この時に追加された曲は、次の8曲だった。
1.Layla
2.Blues Power
3.Bottle of Red Wine
4.Bell Bottom Blues
5.Tell the Truth
6.Key to the Highway
7.Let It Rain
8.Crossroads
 
 このリストを見れば、むしろこちらの8曲の方が華があり、演奏も期待できそうな気がする。ちなみに、この8曲の中で第1部で演奏された曲は"Bell Bottom Blues"だけであり、逆に、第2部でしか演奏されなかった曲は、オリジナルの6曲分も含めて、ブルーズの名曲である"Key to the Highway"だけだった。

 また、実際のライヴでは"Nobody Knows You When You're Down And Out"も演奏されたそうだが、こちらもスティーヴ・ウィンウッドがボーカルを務めているためか、収録されていない。確かに、クラプトンのためのコンサートなのだから、スティーヴばかりがそんなに目立っちゃいけないよね。

 世の中には、この時の2回分のライヴの完全盤がブートレッグとして出回っているようだが、それだけこの時の演奏を聴きたいという熱心なファンが多くいるのだろう。需要は未だ尽きないようだ。

 余談だが、この時のメンバーはクラプトンの他には、ギターにロン・ウッドとピート・タウンゼント、ベース・ギターにリック・グレッチ、キーボードはスティーヴ・ウィンウッド、ドラムスにはジム・キャパルディとジミー・カーシュタイン、パーカッションにリーバップというミュージシャンたちだった。A0054043_16135454
 また、当日の聴衆の中にはジョージ・ハリソンにジミー・ペイジ、エルトン・ジョン、ジョー・コッカーなどの有名人もいたと伝えられている。

 エリック・クラプトンはこのコンサートをきっかけに自信を取り戻し、ドラッグ中毒の治療を開始して、約1年後には「461オーシャン・ブールヴァード」という名盤を携えて見事完全復活を遂げるようになるのだが、ある意味、彼の人生の転機となった記念碑的ライヴ・アルバムといってもいいのではないだろうか。

 おそらく今は、この8曲を追加した計14曲の「レインボー・コンサート」のCDしか出回っていないと思うのだが、私のような昔からのファンからすれば、よくぞこのアルバムを出してくれたと当時のポリドール・レコードに感謝しているに違いない。

 最後に、この日のクラプトンは、第1部で“ブラッキー”という愛称の黒のフェンダー・ストラトキャスターを、第2部では赤のレスポールを演奏したという。この時の写真を見れば、第1部か第2部かの違いが分かるはずである。Hqdefault

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2018年9月24日 (月)

ライヴ・イン・ジャパン

 「ライヴ・イン・ジャパン」というタイトルのライヴ・アルバムは、たくさんあると思う。古くはザ・ベンチャーズやピーター、ポール&マリー、新しいところではフィル・マンザネラやアルカトラスなどがある。
 フィル・マンザネラやアルカトラスがなぜ新しいのかと不思議に思う人もいるかもしれないが、マンザネラは今年の2月に、アルカトラスの1984年の来日記念実況録音完全盤が4日後の9月28日に発売されるからだ。

 そんな数ある「ライヴ・イン・ジャパン」というタイトルのアルバムの中で、やはりこのアルバムが唯一無二というか、“ジャパン”という名前を世界に知らしめたのではないだろうか。そう、このブログの愛好者ならすぐに頭に思い浮かぶだろう(愛好者という人はほとんどいないと思うけれど)、ディープ・パープルの「ライヴ・イン・ジャパン」である。61pvrhc762l
 レコードとしては、1972年の12月に発表された。実際の録音は、その年の8月15日から17日の3日間、場所は東京の日本武道館と大阪の厚生年金会館(当時)で行われた。

 これは有名な話だが、このライヴ盤を制作するにあたって、いくつかの条件がバンド側から提出された。
 ①日本でのみ発売すること、ただし、発売するかしないかはバンド側が決める
 ②録音はバンド側が行い、機材は日本のものを使用する
 ③ミックスダウンはバンド側が行う

 なんか幕末に結んだ不平等条約のような感じがするが、要するに、バンドのマネージメント側としては、そんなに期待してはいなかったのだろう。2枚組のアルバムは値段が高額になるので、売れることはそんなに期待していなかったに違いない。
 バンド側としても契約上のアルバム消化につながるし、それなりのお小遣いも稼げると思っていたのだろう。Deep_purple_live_in_japan_1972c
 それに、基本的にバンド側は自分たちの熱狂的なライヴが、レコードでは再現されないだろうと思っていたようだ。ところが、ストーンズやザ・フーのライヴ盤が好評を得てからは少しは考えも変わってきたらしい。また、海賊盤対策という思惑もあったとのこと。彼らは、それまで公演の模様をライヴ盤として発表していなかったからだ。

 そんなバンド側の思惑に反して、このアルバムは日本では評判が良かったし、予想に反して、かなり売れた。バンド側も録音状態や内容に満足していたので、日本だけでなく母国イギリスやヨーロッパでも発売しようと決めて、やはり12月にイギリスで、翌1973年の4月にはアメリカでも手に入れることができるようになった。
 ただし、アルバム・タイトル名は「メイド・イン・ジャパン」に変更され、アルバム・ジャケットも日本盤とは異なっていた。71sxpky9fkl__sl1300__2
 チャート的には、オーストリアやドイツ、カナダでは1位、アメリカでは6位、イギリスでは16位を記録し、日本では30万枚以上、アメリカでは200万枚以上売れている。2枚組のライヴ・アルバムでは異例の売上げだった。

 そして、80年代の終わりにCD化されたときは、もちろんレコードと同じ7曲しか収められていなかった。CDは針も飛ばないし、多少汚れても音は変わらないし、傷もつきにくい。しかも途中で盤をひっくり返す必要もなかったから、1枚1875円で販売されても文句はなかっただけでなく、むしろあの名盤が手軽に聞くことができるようになってうれしかったことを覚えている。

 ところが、である。このアルバムもゼッペリンの「永遠の詩」と同じように、その後、完全盤が発表された。しかも手を変え品を変え、追加の完全盤が、紙ジャケット化も含めて、次々と発表されて行った。これは「永遠の詩」以上の編集の仕方だ。

 残念ながら、自分はそんなに詳しくはないのでよくわからないのだが、少なくとも1993年には3日間の公演の3枚組完全盤が、98年には25周年の2枚組リマスター盤が、そして、2014年には更なるデラックス・エディションまで発表されている。

 ただし、1993年の3枚組の完全盤といっても、1日目の大阪でのライヴでは演奏された"Smoke on the Water"はディスク1には収められていないし、その日のアンコール曲だった"Speed King"はディスク3にまわされていた。
 また、2日目の大阪のアンコール曲"Black Night"と"Lucille"は収録されていない。3日目の東京の分も同じように、当日演奏された"The Mule"とアンコールの"Black Night"はディスク3ではカットされているし、収録されていた"Speed King"は上にもあるように、初日の大阪公演のものだった。

 演奏順は実際の本番と同じ順番だったものの、やはりこの3枚組は、完全盤とはいっても8割くらいは完全なものであって、まだまだ不完全だったのだ。Kq23wfr4zy7auzx7i2rcsb
 ということで、2014年のデラックス・エディションは、それを補っている。ただ補ってはいるものの、3日分の本編と3日分のアンコール曲を分けていて、本編だけで3枚のCD、アンコール曲だけで1枚のCDに収めていた。たぶん収録時間の関係だろう。
 同時に、当時のドキュメンタリーDVDやプロモーション用のシングルCDも含まれていて、豪華6枚組ボックス・セット仕様だった。

 また、2014年のバージョンには廉価盤の2枚組CDも発表されていて、これはリミックスされた通常の7曲と、3日分のアンコール曲が収められた2枚組だった。演奏順については、6枚組は当時と同じだったが、2枚組の方は"Child in Time"と"Smoke on the Water"が入れ替わっていて、前者が2曲目、後者が3曲目に配置されていた(実際の演奏は"Smoke on the Water"から"Child in Time"の演奏順だった)。

 自分が持っているのは、1998年の25周年記念のリマスター盤2枚組である。これは残念ながら曲順は通常盤と同じものの、アンコールが3曲入っていて、つまり3日間で演奏された曲だけはアンコールを含めて1曲ずつ聞くことができるものだった。
 ちなみに、アンコールの"Black Night"と"Speed King"は最終日の東京バージョンで、最後の曲の"Lucille"は16日の大阪バージョンだった。51kzbh8cl
 自分のようなパープル・ファンなら、この2枚組がちょうど合っているような気がした。しかも輸入盤だったし、お値段も手ごろだった。

 というわけで、ゼップのライヴ盤は、確かに今年リマスター盤が出たものの、ディープ・パープルのような編集方針は取っていない。ジミー・ペイジはケチだとか、セコイとか言われているが、あくどい金儲けをしているのは、実はパープルの方なのかもしれない。

 そういえば来月彼らは来日するが、これが最後のライヴともいわれているから、そのライヴも録音してアルバムを発表するかもしれない。そのときは、できれば最初から完全盤を出してほしいものである。

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2018年9月17日 (月)

永遠の詩(最強盤)

 今頃になってこんなことを言うのも変だし、恥ずかしいことなのだけれど、自分はレッド・ゼッペリンのライヴ・アルバム「永遠の詩」が【最強盤】として再発されていたことを知らなかった。71ed9v6ttl__sl1500_
 これはもう何というか、知らなかったでは済まされないことなので、洋楽ファン、特にゼップの音楽をこよなく愛するファンとしては、まさに切腹ものだと反省している。
 ただ2014年あたりからジミー・ペイジによる過去のアルバムのリマスタリングが始まっていて、当然、この「永遠の詩」もリマスタリングされているだろうとは思っていた。

 ところが、今回というか正確に言うと、10日前の9月7日に、このアルバムは最新リマスター盤として生まれ変わっていたのだった。
 つまり2014年から始まったジミー・ペイジによる過去のアルバムのリマスター・シリーズの最終章として、このアルバムと「伝説のライヴ-ハウ・ザ・ウエスト・ワズ・ワン-」の2種類のライヴ盤が発表されたのである。

 しかし、それはあくまでも“リマスター・シリーズ”としての作品であって、【最強盤】として再発されたのは、今から10年以上も前の2007年(国内盤は2008年)であり、それまでは2枚組全9曲だったのが、それ以降は2枚組全15曲にボリュームアップしていたのである。
 また、収録時間については、99分から2時間以上の131分にも増えていて、これはもう彼らのファンなら垂涎の的ともいうべきマスト・バイ・アイテムである。

 自分は70年代初頭からのファンだったから、1976年に発表された2枚組レコード「永遠の詩」は当時から購入していたし、もちろんCD化された1989年以降はCDとしても所有していた。だから自分は、この【最強盤】については必需品として購入していなければいけなかったのである。が、しかし何故かスルーしてしまっていたのだ。

 ということで、これではファンとして申し訳ないのと同時に、自分自身をも許せないと思って、まずは旧盤の「永遠の詩」【最強盤】を購入したのであった。

 結局、以前のアルバムに6曲が追加されていて、その曲名は次のようなものであった。
・Black Dog
・Over the Hills And Far Away
・Misty Mountain Hop
・Since I've Been Loving You
・The Ocean
・Heartbreaker

 そして、Disc1にはそれまでの5曲が10曲に、Disc2では1曲増えて5曲になっていた。確かにレコードという表現形態では、片面25分程度だったし、2枚組でも最大90分少々だったから、収録される曲数に制限があるということは理解できる。71tdqrv3gl__sl1100_
 だけど、CD化されたときから80分は収録できるとわかっていたのだから、何もレコード時代のままでCD化することはなかったのではないかと思うのだが、今さら言ってみても仕方がない。
 1980年代の終わりからCDという表現形態に移行していったのだが、当時はレコードをそのまま忠実にCD化していたものだった。だから、この「永遠の詩」もそのままCD化されたのであろう。

 ただ、このゼップの1973年のマディソン・スクエア・ガーデンでのライヴは映画化やDVD化もされていて、フィルムの中では、上記の"Black Dog"や"Since I've Been Loving You"なども演奏されていたから、音源があるのはわかっていた。ただ、それが、何度もしつこく言うけれども、2007年に発表されていたとは知らなかったのだ。Ledzeppelinthesongremainsthesame064
 また、昔も今もキャメロン・クロウ監督のコメントが記載されているということもわかった。昔の2枚組CDのキャメロン監督のコメントは短くて、主に個人的なレッド・ゼッぺリンへの思い入れや73年時のニューヨークでのライヴ映画(後にDVD化もされた“The Song Remains the Same”のこと)について述べていたように思えたが、【最強盤】ではかなり長くコメントを寄せていた。

 曲数が増えたからコメントも長くなったのかと思ったのだが、1969年のセカンド・アルバムとの出会いから2003年のDVDについてまで、メンバーの発言なども引用しながら愛情あふれるコメントを寄せていた。
 さすがキャメロン・クロウ監督だけあると思ったのだが、ということはこの【最強盤】発表にあたって、新たに書き下ろしたものなのだろう。Ledzeppelinthesongremainsthesame1
 それでは、もう一つのライブ盤である「伝説のライヴ-ハウ・ザ・ウエスト・ワズ・ワン-」についてはどうなのだろうか、未発表音源も含まれているのだろうかと思ったので調べてみることにした。

 すると、新しい音源は含まれておらず、3枚組18曲は変わっていなかった。時間的にも約150分とほとんど同じだったが、"Whole Lotta Love"におけるロックン・ロール・メドレーで一部カットされているようだ。ただ、もちろんリマスター盤なので音質は向上している。でも内容的には同じなので、よほどのファンかマニアの人でないと購入しないのではないだろうか。71m4qnt9mzl__sl1104_
 ということで、今回はレッド・ゼッペリンのライヴ盤におけるリマスター盤についてだった。ジミー・ペイジにおけるリマスター・シリーズもこれで最後となるのだろうか。
 ちなみに、2003年のDVDには1975年のアールズ・コートのライヴや1979年のネブワース・フェスティバルでの映像が記録されていた。

 特に、ネブワース・フェスティバルにおけるゼップの演奏はブートレッグも出回っているように、久しぶりにスタジオ・アルバムを発表して2年振りにライヴ活動を再開したせいか、かなりの熱の込めようだった。記録では1979年の8月4日と11日の2日間で、日によってセットリストは異なってはいるものの、だいたい本公演で18~19曲、アンコールでは3~4曲披露されていた。O0500033114004998678
 DVDでは7曲しか収録されていなかったので、残りの映像もきっとどこかに、恐らくはジミー・ペイジの手のもとに保存されているはずだ。その完全版を発表してほしいし、こう思っているのは、自分一人ではないはずだ。

 とりあえず今回のリマスター盤で、音源に関してはこれでほとんどと尽くしたようなので、これからは映像関連での蔵出しを願っている。
 ということは、今回のリマスター盤「永遠の詩」は、【超強力盤】ということになるのかもしれない。

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2018年9月10日 (月)

フランツ・フェルディナンド

 もう10年以上も前の話になるのだけれど、自分が彼らの音楽を聞いたときに思ったことは、これは売れるだろうなということだった。
 最初に聞いた曲は"Take Me Out"だったが、この曲のメロディ、サビの印象度、クラブで踊れそうなリズム感覚などは、新人バンドとは思えないほどの才能を示していた。

 このバンド、フランツ・フェルディナンドは2001年にイギリスのグラスゴーで産声を上げた。当時のメンバーは次の4人だった。
アレックス・カプラノス(ギター&ボーカル)
ロバート・ハーディ(ベース・ギター)
ニコラス・マッカーシー(ギター、キーボード、ボーカル)
ポール・トムソン(ドラムス)9377
 グラスゴー芸術大学で英文学を学んでいたアレックスと芸術を専攻していたロバートが出会ってバンドが結成されたといわれているが、当初、ロバートは自分は画家なので音楽を始めようとは思っていなかったようだ。
 ところが、アレックスから芸術家なんだから、絵画だけでなく音楽でも表現してみようよとアレックスから説得されて、手近にあったベース・ギターを勧められたという。だから、ロバートは、大学生になってから音楽を始めている。

 ちなみに、このベース・ギターは、アレックスが同郷のバンドのベル&セバスチャンのメンバーであるミック・クックから譲り受けたもので、それをアレックスがロバートに渡したものだと言われている。ロバートは、それをアレックスのフラットの台所で練習していたらしい。

 名前を聞けばわかるかもしれないけれど、アレックスはギリシャ人の父親とイギリス人の母親との間のハーフで、7歳の時にグラスゴーに引っ越してきた。
 グラスゴー芸術大学で学ぶ前には、アバディーン大学で神学を学んでいたが、世俗に執着があってか?、牧師になることをあきらめて退学をして、違う大学に入り直している。

 彼はこのバンドの中心メンバーなのだが、若い時からバーテンダーや運転手などでアルバイトをしながら、音楽活動を始めている。
 1990年代には、セミ・プロのバンドでの音楽活動も行っていて、その経験がフランツ・フェルディナンドにおいても活かされているようだ。そして、フランツ・フェルディナンド結成時は29歳だったから、そんなに若くはないデビューだった。

 アレックスと一緒にボーカルを取っているニコラスは、ドイツ生まれのイギリス人で、子どもの頃からクラシック音楽を学んでいて、ピアノ以外にもチェロやリュートなども得意である。
 また、ドイツ国内でもカメラキノやエンブリヨというバンドで、ロックやジャズ、ワールド・ミュージックをプレイしていた。その後、イギリスの戻る決意をして、友人の勧めでグラスゴーで生活をするようになったらしい。

  ポールは子どもの頃から音楽に興味があって、ドラムス以外にもギターやキーボードを演奏することができる。彼はアレックスと一緒にヤミー・ファーというバンドで活動していたが、バンド解散後はクラブのDJや絵のヌード・デッサンのモデルなど、様々な仕事を経験している。

 2004年に発表された彼らのデビュー・アルバム「フランツ・フェルディナンド」は、2003年と04年に発表された2曲のシングル"Darts of Pleasure"と"Take Me Out"のヒットのおかげで、商業的に大成功した。61ogsbvefl__sl1500_
 特に後者の"Take Me Out"は、全英で3位、カナダでは8位、全米でも66位まで上昇していて、彼らの音楽観を象徴するようなモニュメント的曲に育っていった。

 彼らの音楽を一言で言うと、“歌って踊れるロック・ミュージック”である。あるいは、“ポップでダンサンブルなロック・ミュージック”と言い直してもいいかもしれない。例えていうなら、ポップでチープなロキシー・ミュージックといった感じだろうか。もしくは“ロキシー・ミュージック+T・レックス÷2=フランツ・フェルディナンド”という公式が生まれてくるかもしれない、そんな感じがした。

 ビジュアルに関してもスノッブな英国紳士風で、ダンディというよりは何かいかがわしい下世話な成金趣味という匂いがプンプン漂っていて、逆にそれが若者受けするというか、少し手を伸ばせば届くような感覚が気持ち良かったりもした。

 アレックスはこうも述べている。“アート・ロックってすごく笑えるよね。僕の好きなバンドはみんないわゆるアート・ロックなのだけれど、僕からすれば彼らは単純に良いバンドだったという、それだけのことなんだ。
 確かに僕たちはアートに興味を持っているし、バンドのビジュアル面にも気を遣っている。だけど僕たちがクリエイトしている音楽は、アート・ロックではなくて、僕たちはポップ・バンドなんだ。本質まで突き止めるとそこに行き当たるんだよ”

 確かに、チャック・ベリーの昔からロック・ミュージックは、歌や踊りと切り離せないものだった。言葉の意味から考えても、“岩が転がる音楽”は人の心も体も自由にさせたし、本来は“性愛”という意味の“ロックン・ロール”は、アフリカ系アメリカ人のスラングだった。

 だから、ロック・ミュージックは、いとも簡単にダンス・ミュージックに転嫁できたし、ものすごい短期間に世界中に広まっていった。そして時間や空間を超越して、これからも数々の派生と流行を伴いながら拡大していくだろう。まさに、ポピュラー・ミュージックとしての本質をも備えているのである。

 さらにまた彼は、こうも述べている。“デヴィッド・ボウイやT・レックスは誰も聞いたことのない音楽を創り出した。それはアヴァンギャルドであるにもかかわらず、音楽の限界を広げ、人々から受け入れられたポップな音楽でもあった。僕らが目指しているものは、ポップであり、実験精神に富んだ音楽なんだ。それは最も難しくて、最も偉大なことだと思っている”

 そういう意図で作られたのがセカンド・アルバムの「ユー・クッド・ハヴ・イット・ソー・マッチ・ベター」で、2005年に発表された。51n3ikjzcal
 確かに、このアルバムは進化していた。彼らのトレードマークともいうべき踊れる音楽は存在していたが、ただそれだけでなくドラムレスな曲やピアノで構成された曲、ロック的なエッジが際立っている曲などもあって、かられの野心というか意図がリスナーによく伝わってくるアルバムだった。

 また、曲の一つ一つにアレンジがよく行き届いていて、サビだけで構成された曲や前奏なしで始まる曲など、よく工夫されているし凝ってもいる。また、音の圧力も高くて情熱的であり、こちらに迫ってくるような印象もあった。

 これが売れないわけはないだろうと思っていたが、案の定、英国では初登場第1位、ドイツやアイルランドでは2位、全米でも最高8位を記録し、ダウンロードが主流の現在の音楽状況で200万枚以上のセールスを記録し、いまだに売れ続けている。彼らを代表するアルバムであることは間違いないだろう。

 このアルバムを制作するときは、とにかくアイデアが豊富に湧き出ていたようで、スタジオに入る前から何百というアイデアがあって、1曲につき4~5パターンのアレンジが用意されていたそうだ。
 また、アルバムのプロデューサーはリッチ・コスティという人で、彼はレイジ・アゲインスト・ザ・マシーン、ジェインズ・アディクション、ミューズなどと仕事をしていて、ポスト・パンクというかインディー・ロック系も得意としているプロデューサーでもある。そういう意味でも前作よりはロック寄りともいえるだろう。

 彼らは、その後もコンスタントにアルバムを発表してはツアーを行っていたが、2016年にオリジナル・メンバーのニコラスが音楽活動に疲れてしまい、家族との時間を大事にしたいという理由から脱退してしまった。
 バンドは代わりにディーノ・バルドーとジュリアン・コリーという2名のメンバーを加えて活動を継続している。69f70a1e965a716d400771a84607bc9f 
 ディーノは主にギターを演奏していて、アレックスやポールが在籍していたヤミー・ファーが再結成されたときのベーシストだった。
 ジュリアンはキーボードとギターを専門にしていて、ベル&セバスチャンのアルバムをリミックスするなど、プロデューサー業もこなす33歳のミュージシャンで、子どもの頃は父親の仕事の関係で南米のペルーに住んでいた。

 彼らは、というかアレックスはアメリカ人ミュージシャンのロン&ラッセル兄弟が在籍しているスパークスが大好きで、2015年には彼らとコラボしたアルバム「FFS」を発表している。
 フランツ・フェルディナンドとスパークスは、2007年あたりから一緒にコラボしているせいか、このアルバムは15日間という短期間でレコーディングされている割にはよくできていて、評論家からも好意的な評価を与えられた。全英17位、全米ロックチャートで22位とセールス的にも好評だったようだ。61r2kbxprl

 そんなフランツ・フェルディナンドだが、今年の2月には5枚目の公式スタジオ・アルバム「オールウェイズ・アセンディング」を発表して、11月末には来日公演も実現した。
 彼らの音楽には、英国の伝統であるポップネスと脈打つダンス・ビートが備わっている。この伝統と革新性、これがこのバンドの強みであり、この両方が止揚されている限りは、人気を失うことはないだろう。

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2018年8月20日 (月)

アークティック・モンキーズ

 今年の春、アークティック・モンキーズの6枚目のスタジオ・アルバムが発表された。前作のアルバム「AM」から4年8か月も経っていて、ひょっとしたら彼らはアルバムを発表することもなく解散してしまうのではないかと噂されていたから、ファンにとっては一安心とも呼べる出来事になった。

 ところがこの「トランクイリティ・ベース・ホテル・アンド・カジノ」と題されたアルバムは、それまでのアルバムとは違っていて、ほとんどの楽曲でピアノが使用されていた。
 これはバンドの中心メンバーであるアレックス・ターナーが、30歳の誕生日に友だちからスタインウェイのピアノを贈られ、それを使って曲作りを行ったからだった。

 今まで彼はギターを主体に曲を作っていて、ピアノを使って曲を書いたことがなかった。それで今回ピアノを使ってみたところ、これが思いのほか順調にいったようで、新鮮な気持ちで作曲に取り組むことができたらしい。
 そういうことで、このアルバムはそれまでの5作品とは違い、ロックする疾走感や浮遊感から離れて、まるで映画音楽のようなリリカルな美しい曲で占められている。71bb2fybxkl__sl1215_
 最初に新作の紹介になってしまったが、今回のテーマは、アークティック・モンキーズである。2000年代に入ってのイギリスを代表するロックン・ロール・バンドであり、90年代のオアシス以来、最大の人気と影響力を誇るバンドといってもいいかもしれない。それくらい母国イギリスのみならず、米国を含む全世界で高い支持を得ているバンドなのだ。

 彼らは、2002年にイギリス中部のシェフィールドで活動を始めた。元となったのは幼馴染だったアレックスとギタリストのジェーミー・クックの2人だった。それにベーシストとドラマーが加わって今のようなスタイルになった。

 最初は、彼らも他のバンドと同じように、地元のパブやクラブで演奏を行いながら、自分たちで作った曲をCDにして販売していた。
 すると、ある時彼らの曲がネット上で公開され流れるようになると、あっという間に有名になり、たちまち多くのファンが生まれ、彼らの次の曲やアルバムを待望するようになったのである。91mgvklowl__sl1500__2
 だから、21世紀のインターネット隆盛の昨今に相応しいデビューの仕方であり、名前の売れ方だった。
 また、アークティック・モンキーズのデビュー・シングルの"I Bet You Look Good on the Dancefloor"は、1週間で4万枚以上の売り上げを記録し、シングル・チャートでは初登場1位になった。

 2006年に発表された彼らのデビュー・アルバム「ホワットエヴァー・ピープル・セイ・アイ・アム、ザッツ・ホワット・アイム・ノット」は、発売後の1週間で約36万枚を売り上げ、これまたチャートでは初登場第1位を記録している。

 このアルバムは米国でも初登場24位と、新人としては素晴らしい結果を収めていて、決して英国だけの人気には頼っていないということを示していた。61n3ikz3yrl__sl1002_
 それにこの年のブリット・アワードでは、最優秀新人賞を獲得したし、それ以降はベスト・ブリティッシュ・グループとベスト・ブリティッシュ・アルバムをそれぞれ3回ずつ受賞している。また、アメリカのグラミー賞にも3回ノミネートされている。

 とにかくデビュー時の彼らは、まさに飛ぶ鳥をも落とす勢いだった。例えば、1992年にブリット・アワードに対抗してマーキュリー・ミュージック・プライズという賞が設立されたが、2006年のアルバム賞は、彼らのデビュー・アルバムに贈られている。
 彼らほど新人バンドとして、人気と実力を兼ね備えているバンドは他に探すのが困難なほどで、ヒップ・ホップを中心としたブラック・ミュージックやダンス・ミュージックであふれかえっていた当時の英国のミュージック・シーンに、大きな風穴を開ける結果になった。

 このアルバムには、新人バンドとしての潔さと純粋さ、疾走感や焦燥感などで溢れかえっていて、ロックン・ロール・バンドからのダンス・ミュージックやブラック・ミュージックへの回答が込められていたと思っている。要するに、ロックン・ロールサイドからダンス・ミュージックなどへの再解釈と考えてもいいのではないだろうか。

 そういえば、当時の音楽雑誌などでは、“ロックン・ロールのリバイバル”とか書かれていたが、21世紀になってのロックン・ロールの新たなる進化だったのかもしれない。

 ギター、ベース、ドラムス、ボーカルという古典的なバンド構成にもかかわらず、ブリット・ポップやクラブ、レイブンなどでのダンス・ミュージックを消化しながら、新たな方向性を提示したのが、アークティック・モンキーズだと考えている。(同時期にフランツ・フェルディナンドもダンス・ミュージックとロック・ミュージックの融合を行っていたが、フランツの方が、どちらかというとポップな要素が強かったのではないかと思っている)

 例えば、このデビュー・アルバムでもシングル・カットされた"I Bet You Look Good on the Dancefloor"だけでなく、アルバム冒頭の"View Fron the Afternoon"、聞くだけで体が思わず動いてしまう"Dancing Shoes"、昔ならガレージ・ロックとでも言われそうな"Perhaps Vampires is a bit Strong But..."など、はっきりとした肉感を伴う優れた曲が多い。

 一方で、詩情漂う"Riot Van"や、意外とポップなメロディラインを持っていて、レッチリの曲にも似ている"Mardy Bum"のような曲も収められている。まさにこのアルバムは、21世紀を代表するアルバムになるであろう。71hk3zyzjdl__sl1153_
 1曲を除いて、すべての曲をアレックスが手掛けているのだが、このバンドのキーパーソンは、ドラマーのマット・ヘルダースだろう。数多くのフィル・インや重たいバスドラ、効果的なハイハットなどは豊かな色彩さえ感じさせてくれるのだ。
 一説によると、彼はレッド・ゼッペリンのジョン・ヘンリー・ボーナムに強い影響を受けたようで、そういわれると何となくそんな気がしてきた。だけど、ジョン・ボーナムはダンス・ミュージックの曲には参加しないだろうなあとも思っている。

 そんな若者の特権を示したようなアルバムがデビュー・アルバムだったが、その当時の彼らは平均20歳の若者だったから、そんな若者たちがこれほど密度の濃いアルバムを制作できたということがまさに驚異であり、それだけ彼らの才能が優れているという証明になったアルバムだと思う。

 その後、出すアルバム出すアルバム、すべて全英チャートでは初登場1位を記録した。2013年に発表されたアルバム「AM」では、デビュー当時のフレッシュさは幾分影を潜めたものの、逆に老成していて、ある意味、貫禄さえも感じさせられるものに仕上げられていた。

 このアルバムでも、全12曲中10曲をアレックス・ターナーが作っていて、彼のアイデアを中心にみんなで話し合いながら曲作りを進めていったようだ。71hetk3acpl__sl1500_
 アルバム自体は主に米国で録音されていて、ゲスト・ミュージシャンには、エルヴィス・コステロのバンド、ジ・アトラクションズのドラマー、ピート・トーマスも参加していた。

 アレックスが言うには、このアルバムは2曲目の"R U Mine?"に触発されて制作されていったようで、この曲が他の曲の青写真になったと述べていた。この曲のボーカルやメロディーを参考にしながら他の曲にも反映させていったそうだ。

 だから時間の制約を受けずに、スタジオを長く借りて時間をかけて進めていった。また、このアルバムがギターが中心となっているのも、アルバム制作前のツアー中に、ブラック・サバスやキャプテン・ビヨンドなどの70年代のクラシック・ロックやアウトキャストなどの今風のR&Bを聞いていたようで、その影響も色濃く出た結果となっている。

 ただ中には、珍しくピアノやストリングスが使用された"No.1 Party Anthem"のような曲も収められていて、何となく「心の壁、愛の橋」のジョン・レノンのような歌声を聞くことができるところがうれしかった。

 このアルバムを聞けば、着実に彼らが音楽的に進化、発展していることが分かる。激しいビートや弾むリズムだけでなく、"Mad Sounds"のようなミディアム・スローの曲もあれば、キーボードも目立つ"Fireside"、ひょっとしてバラード歌手になったのかと耳を疑うような"I Wanna Be Yours"のような曲もある。こういうバレエティ豊かなアルバムに仕上げられたのも、彼らの成長した姿の結果なのだろう。61nn5z4cv7l__sl1036_
 とにかく、今の若手ミュージシャンを代表するのがアレックス・ターナーであり、イギリスを代表するバンドのひとつがアークティック・モンキーズなのである。これからどんな楽曲を提供してくれるのか、ますます期待が高まっている。

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2018年8月13日 (月)

ステレオフォニックス

 今回のこのバンド、イギリスを代表する国民的なバンドだ。デビューしてもう20年以上にもなるのだが、アルバムを発表するたびにチャートの首位を飾り、ライヴでもスタジアム級の観客動員を行ってきている。そういう実力を持っているバンドなのだ、このステレオフォニックスというのは。

 最初は3人でスタートした。ギター、ベース、ドラムスという最低限の基本構成だった。メンバーはケリー・ジョーンズ(G&V)、リチャード・ジョーンズ(B)そしてステュワート・ケーブルだった。
 一般的には、3人ともイギリスのウェールズにある人口15000人くらいの田舎町カマーマン出身の幼なじみと言われているが、最初から3人でバンドを組んでいたわけではなかった。

 ケリーとステュワートと他のメンバーで活動していた時に、ベーシストが休みを取って不在になった。その時の穴を埋めたのがリチャード・ジョーンズで、そこから彼らの輝かしい歴史がスタートしたのだ。1991年頃のお話だそうだ。Stereophonics
 ケリーの父親も歌手で、若い頃はロイ・オービソンのバックでも歌っていたらしい。だからケリーも6歳頃から人前で歌を歌い始め、ギターを手にした。ステュワートも10歳頃からタイコをたたき始めた。
 それに小さな町だったから、あっという間に噂は広まって、彼らは活動の場を増やしていった。時には、メンバーを入れ替え、時にはケリーもステュワートもそれぞれ別のバンドで活動しながら、とにかく音楽活動を続けていったのである。

 ケリーとリチャードとステュワートの3人になった時に、最初彼らは“トラジック・ラヴ・カンパニー”と名乗っていたのだが、地元のコンサートの主催者が名前を変えるように要求してきた。
 地元の有力なプロモーターの指示に逆らうと、ライヴ活動にも制限がかかるだろうと思い、また、彼ら自身も名前が長いと思っていたので、思い切ってステュワートの家にあった蓄音機会社の「ファルコン・ステレオフォニックス」から後ろの部分を頂戴して、バンド名にしたと言われている。

 地元のウェールズでは大人気だった彼らにはマネージャーがついて、彼らの活動をさらにサポートしていった。彼らには30を超えるレコード会社から契約の申し込みがあったが、最終的にマネージャーはV2レコードを選んだ。この会社の設立者は、あのヴァージン・レコード社長だったリチャード・ブランソンだった。

 彼はヴァージン・レコードを育てた後、航空機業界に進出しそこでも成功したのだが、もう一度音楽業界に戻ろうと思って、このレコード会社を設立した。だから“ヴァージン・レコード”の2代目ということで、“V2”という名前にしたようだ。
 名前といえば、この契約時に、彼らは“ザ・ステレオフォニックス”から“ザ”を取って“ステレオフォニックス”にした。ちなみに、彼らがV2レコードと契約した最初のロック・バンドだった。

 彼らのデビュー・アルバムは、1997年に発表された「ワード・ゲッツ・アラウンド」だ。全英アルバム・チャートでは初登場6位を記録し、150万枚以上売れ、4枚のシングル・ヒットを記録した。61ecxove6bl
 面白いことに、彼らはハード・ロック・バンドとして認識されていた時もあったようで、ヘヴィメタルの専門誌「ケラング」には、その年の最優秀ブリティッシュ・バンド賞に認定されていた。一方、1998年のブリット・アワードでも最優秀新人賞を獲得していて、このことはブリット・ポップの終焉とともに、ニュー・ヒーローの登場を示唆するものだった。

 彼らの当時の音楽性については、ザ・フーやザ・ポリスと比べられることが多く、エレクトリック主体でありながら、アコースティック・ギターの使用方法とか、現実を直視したシビアな世界観などが話題に上がっていた。

 このアルバムでも"Billy Daveys Daughter"やシングル・カットされて20位まで上昇したバラードの"Traffic"など、スローな曲も素晴らしいし、ストリングスのアレンジなどは新人とは思えないほど手が入れられていて、レコード会社の期待がどれほど高かったかが分かると思う。

 続くセカンド・アルバム「パフォーマンス・アンド・カクテルズ」は、1999年に発表された。このアルバムからは5枚の曲がシングルになり、いずれも3位から11位まで獲得している。特に、3位になった"The Bartender And The Thief"は彼らを代表するヒット曲で、2分54秒と短いながらも疾走感のある曲調と物語性のある暗喩などがリスナーたちの心をとらえたようだ。

 また、"Hurry Up And Wait"や"Is Yesterday Tomorrow Today?"、"A Minute Longer"など、バラード風の曲も相変わらず美メロだし、スピード感のある曲の間に置かれていて、アルバム全体のバランスが取れるようになっている。こういう配慮もこのアルバムの素晴らしさを引き立てている気がする。

 このアルバムはチャートの1位になり、それから1年以上もの間チャートに残るというロングセラーを記録した。この年の6月にはエアロスミスの全英公演のオープニング・アクトとしてウェンブリー・スタジアムで演奏し、7月には地元のウェールズで5万人を集めた単独野外ライヴを行った。ここから彼らの快進撃が始まったのだ。51hexlysy1l

 このセカンド・アルバムから2007年までのアルバム、つまり「パフォーマンス・アンド・カクテルズ」、「ジャスト・イナフ・エデュケーション・トゥ・パフォーム」、「ユー・ガッタ・ゴー・ゼア・トゥ・カム・バック」、「ランゲージ・セックス・ヴァイオレンス・アザー?」、「プル・ザ・ビン」までの5作品は、連続してすべて全英アルバム・チャートの1位になっている。いかに彼らが多くの人から認められ、支持されてきたかが分かると思う。

 ただし、その道は決して平たんではなかった。2003年のアルバム「ユー・ガッタ・ゴー・ゼア・トゥ・カム・バック」前後からメンバー間の関係が悪化していった。特に、ドラマーのステュワート・ケーブルは、レコーディングとライヴ活動の繰り返しによるストレスからアルコールやドラッグに手を出して、薬物中毒になってしまった。

 また、他のメンバーも自分たちの存在意義を忘れて、単なる“ショウマン”に過ぎないと思うようになり、純粋に音楽の楽しみや喜びを伝えられなくなったと思うようになってしまった。

 2003年9月の全米ツアー中に、ついにドラマーのステュワート・ケーブルが脱退してしまうのだが、それから7年後の2010年6月に、彼はウェールズの自宅で亡くなった。原因は書かなくても分かると思う。まだ40歳という若さだった。

 その後彼らは新しいドラマーを入れたり、2009年にはそれまでのサポート・メンバーだったギタリストを正式なメンバーとして迎え入れるなど、現在では4人組として活躍している。O0600040013977437374
 また、連続1位のアルバム・チャートの記録は2013年の8枚目のアルバム「グラフィティ・オン・ザ・トレイン」で途切れたものの、それでも3位と健闘しているし、2年後のスタジオ・アルバム「キープ・ザ・ヴィリッジ・アライヴ」では再び1位になっている。

 自分は彼らの躍動感あふれる曲やしんみりと胸を打つバラードなどが好きなのだが、ひとつだけ気に入らないのが、アルバム・ジャケットである。セカンド・アルバムは曲はいいのだが、ジャケットが気に入らなかった。
 だから次のアルバムを購入するのにためらいがあり、結局購入しなかったのだ。もう少し工夫してくれれば、彼らのコアなファンになったに違いないのだが、そうはならなかった。

 また、彼らの音楽性は徐々にポップにもなっていった。2001年の"Have A Nice Day"や2005年の"Dakota"などはそのいい例だが、いずれもチャートの5位以内に入っていて、ポップになっても彼らの音楽性は受け入れられていったことを示している。
 一方で、"Maybe Tomorrow"や"Superman"のような少しR&B寄りの曲も演奏するようになっていった。彼らもU2のように、徐々に音楽性も広げていったようだ。

 そんな彼らの最初の10年を俯瞰したいと思うのなら、ベスト盤がお勧めである。2008年に発表されたこのアルバムには、彼らの10年間の代表曲が収められていて、お得感がある。また、新曲も含まれていたので、単なる回顧ではなくて、これからも頑張るぞという彼らの意気込みも感じられた。51wi5jztjxl
 彼らは昨年、10枚目のスタジオ・アルバム「スクリーム・アバヴ・ザ・サウンズ」を発表していて、今はツアーを行っている。ネットからのダウンロード中心のこの時代に、チャートでは2位と良い結果を出していた。まだまだ彼らの人気には衰えが見えない。

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2018年7月 9日 (月)

クーラ・シェイカー

 90年代や00年代初頭を回顧するシリーズとして、マイナーなブリティッシュ・ロック・バンドのことを書き綴ってきたが、今回はクーラ・シャイカーが登場する。マイナーとは言えないと思うし、知っている人は知っていると思うのだが、サイケデリック・ロックというか、正確に言うと、ラーガ・ロックの再来あるいは復興と呼ばれたバンドだった。

 「何かものすごい斬新なことが起きなきゃだめなんだ。ポップ・ミュージックがそれを形にできないようじゃ、もうポップ・ミュージックなんてあったってゴミってもんだ。とにかく俺たちは、人々の夢や希望を凝縮する究極のバンドを生み出したいんだ。
 究極のバンドとは?それは社会そのものの神経に触れるかどうかってことだよ。で、俺はそれをやってやろうと思う。革命をやってやろうと言っているんだよ」

 なんかすごい自信満々というか、“ビッグ・マウス”だ。まるで、オアシスのギャラガー兄弟の言葉のようだが、これを言ったのは、このバンドのギター&ボーカル、実質的なリーダーのクリスピアン・ミルズだった。やはり一発当ててやろうと思う人は、これくらいの自信がないとやっていけないのだろう。

 クーラ・シェイカーは、1988年にクリスピアン・ミルズとベース・ギター担当のアロンザ・べヴァンがリッチモンド大学在籍中に知り合って結成された。最初は“オブジェクツ・オブ・デザイア”と名乗っていたようだ。

 このクリスピアンという人は、中産階級出身である。イギリス人は名前を見て、労働者階級出身か中産階級出身かがわかるそうだが、私にはよくわからない。
 事実、クリスピアンの祖父は、イギリスの演劇界を代表するジョン・ミルズという人で、父親は映画監督、母親はハリウッドのディズニー映画にも出演していたヘイリー・ミルズという人だった。
 ただし、両親の結婚生活は4年間ぐらいしか続かなかったようで、クリスピアンは16歳になるまで父親と会うことはなかった。

 また、ベーシストのアロンザ・べヴァンの両親もまたモデル出身だったし、ドラマーのポール・ウィンターハートの両親もミュージシャンだった。だから彼らは、中産階級出身者で固められたバンドだったのである。A
 彼らの音楽性とは無縁の話だけれども、だからというわけでもないだろうが、労働者階級出身のオアシスとは仲が悪い。クリスピアンはこうも言っていた。「俺たちは、人々がため込んできたものをビッグ・バンド状態にできるように、そのために力を尽くしたいんだ。少なくともオアシスにそれをみすみすやらせるつもりじゃないのは、確かだよ」

 一方、リアムは「クリスピアン?何者?お遊びでやっているぽっと出のバンドだろ。流行が過ぎれば、消えていくのが目に見えている。本物は生き残るのさ、俺たちのように」と、これまた冷たい返事。かように階級闘争が、音楽・芸能面にも影響を与えるのがイギリス社会のようだ。

 それはともかく、クリスピアン一行は、メンバー・チェンジを行い、バンド名を何度も変えながら音楽活動を進めていった。その間の1993年頃に、クリスピアンは、バックパッカーとしてインドに旅行した。
 彼は、子どもの頃から生命の永遠性や必然的な身体の限界などについて考えていたようで、夜中に目が覚めては、いずれ訪れる死の前兆などを感じていたようだ。そしてその時に、手元にあったインドの神話的、哲学的叙事詩である「マハーバーラタ」を読んでは心を落ち着かせていたそうである。

 だから、こういうインド音楽に影響されたラーガ・ロックをやるのは、ある意味、運命的な必然性があったのだろう。
 また彼は、子どもの頃から様々な音楽を聞いていた。例えば、アメリカのフォーク・グループのピーター、ポール&マリーが歌った"Puff, the Magic Dragon"から始まり、70年代のラモーンズやアダム&ジ・アンツ、デュラン・デュラン、ボーイ・ジョージなどをよく聞いていたようだ。

 そのうち60年代の音楽にも触手を伸ばし、ザ・ドアーズを聞きながらLSDをきめていたが、ドラッグ中毒になった友だちを見て、ドラッグが人生を豊かにしてくれるとは思わなくなり、そういう習慣を断ち切ったらしい。意志が強かったのだろう。

 彼の運命を決めた曲のひとつが、キンクスの"You Really Got Me"だった。この曲を聞いて、彼はギタリストになる決意を固めた。また、リッチー・ブラックモアのギター・スタイルをお手本にして練習を重ねていった。
 1997年には、ディープ・パープルもカバーした"Hush"もシングルとして、発表しているから、リッチー・ブラックモアの影響は強いものがありそうだ。

 「俺が音楽で一番好きな時期は、1967年なんだ。ジョージ・ハリソンがインドっぽいことをやり始めた頃だね。そのせいで、俺もインドの神秘主義にどっぷりハマってしまって、実際に行ってみたくなったんだ」

 ともかく、クーラ・シェイカーというバンド名も、インドの歴史が影響している。「インドの皇帝の名前なんだ。インドの導師のヨギたちは、誰もがこの皇帝かヴィシュヌ神の武器の化身だといって、その名前をとればヴィシュヌのご加護に逢うということだった。で、そうしてみみたら3ヶ月もしないうちにレコード契約にありついたんだ」

 実際に、インド旅行で巡り合った人の出会いからグラストンベリー・フェスティバルの出演機会を得たり、バンド名を変えてから1995年に行われたマンチェスターでの「イン・ザ・シティ・フェスティバル」のバンド・コンテストで最優秀バンドに選ばれて、イギリスのコロンビア・レコードと契約を結ぶことができたのである。これらの出来事は、インドのヴィシュヌ神の恩恵なのだろうか。

 1996年にレコード・デビューした後は、トントン拍子に売れていった。グレイトフル・デッドの亡くなったジェリー・ガルシアとジャム・セッションをするという内容のセカンド・シングル"Grateful When You're Dead"は、シングル・チャートで35位になると、続くサード・シングル"Tattva"は4位まで上昇した。

 この曲は、500年前にチャイタンヤというインドの聖人によって書かれた宇宙の究極的な真理を唱えたもののようで、“永遠の真理”という意味らしい。この曲にはメロトロンも使用されていて、個人的には大いに気に入っている。

 さらに、デビュー・アルバム「K」の冒頭を飾っている"Hey Dude"は2位に、4曲目に配置された"Govinda"も7位まで上がった。
 確かに、"Hey Dude"には、シャウトするボーカル、うねるようなリズムと疾走感のある雰囲気がすばらしい。チャートの2位になる要素は備えているだろう。51tqm5vdol ただ、"Govinda"という曲は、クリスピアンによるヒンズー教のマントラに曲をつけたもので、インドの神、クリシュナの別名のひとつが"Govinda"で、クリシュナを讃える内容になっている。歌詞的には、パブやカラオケで歌えるようなものではないと思うのだが、演奏的にはインド風味のみならず、スペイシーで音響空間が豊かであり、優れていると思う。

 個人的には、5曲目の"Smart Dogs"の方が好きで、ロックの圧倒的なダイナミズムやギターとキーボードの見事な融合など、聞きどころは多いと思う。
 むしろこういうメロディアスでハードな曲風の方がヒットするのではないかとも思ったのだが、このデビュー・アルバムの素晴らしさは、こういう佳曲がさりげなく置かれているところにもあるのだろう。

 他にも、ジミ・ヘンドリックス的雰囲気のギター・サウンドを味わうことのできる"303"やミディアム・テンポのやや落ち着いた雰囲気の味わえる"Start All Over"、ピアノとシンセサイザーなどのキーボード演奏とアコースティック・ギターのコンビネーションがフィーチャーされたバラード風味の"Hollow Man Parts1&2"など、確かに良い曲が多く含まれているアルバムだと思っている。単なるブリット・ポップの流れの中で出てきたバンドとは思いたくないのだ。

 デビュー当時には、お金持ちの中産階級の若者が時間と金にまかせて作ったアルバムのような声も聞かれたのだが、音楽的な才能がなければこれほどのアルバムは作れないはずだし、クリスピアンの頭の中には音楽によって世の中を変えていくという決意が漲っていたようだ。

 「現実逃避ってのは現状改革の第一歩だと思う。ただし重要なのは、それが幻想に過ぎないものか、それともちゃんとした現実に変換できる意志と可能性を作ったものであるか、それを見極める目を持つことだ。そもそも60年代のオプティミズムが無効になったのは、あれが、結局ただのファッションになってしまったからなんだ。それで僕らは、ただヒッピー風の格好をして、ヒッピー風の音を出したいからこのバンドをやってるわけじゃない。あの時代の基本理念を90年代型にモデル・チェンジしたくて、うずうずしているからだよ」

 確かにこのデビュー・アルバム「K」は売れた。イギリスでは、アルバム・チャートで初登場1位、オアシス以来の最速売上げを記録し、ダブル・プラチナ・アルバムに認定された。

 ただし、3年後に発表されたセカンド・アルバム「ぺザンツ、ピッグス&アストロノウツ」は全英8位になり、ゴールド・ディスクにはなったが、売り上げは芳しくなく、そのままバンドは新世紀の幕開けを見ることもなく、解散してしまった。デビューしてからわずか3年という短さだった。これもまた、ヴィシュヌ神の恩寵によるものなのか。

 ザ・ビートルズは、ロックン・ロールやバラード、室内管弦楽にレゲエ、ブルーズなどなど、様々な音楽性を有していて、その中のひとつにインド音楽があった。
 一方、クーラ・シェイカーには、メインがインド音楽であり、それ以外にも素晴らしい音楽的要素を有していたにもかかわらず、それを活かすことができなかった。この違いが、歴史に残るバンドになったかどうかの違いだと考えている。

 その後、クリスピンはソロ活動を行ったり、新しいバンドを結成したりするものの、思うような結果を出せず、結局、2004年にクーラ・シェイカーを再結成して、3枚のアルバムを発表しているが、アルバムごとにインド音楽を加味したラーガ・ロックから離れようとしたり、接近したりしている。もうこうなったら、インド映画のサウンドトラックを制作するなど徹底的にインド音楽を追及したらどうだろうか。

 というわけで、中産階級出身の人たちのバンドなのだが、音楽的には優れた能力を有しているミュージシャン達だと思っている。ただ、その豊かな才能が十分に発揮されていないのではないかと危惧しているのである。

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2018年6月25日 (月)

ザ・モントローズ・アヴェニュー

 このバンドは、なぜ売れなかったのだろうか?本当に良いバンドだったのに残念だ。たった1枚のアルバムを残して解散してしまった。北ロンドン出身のザ・モントローズ・アヴェニューのことである。マイナーなブリティッシュ・バンドの第2回は、このバンドについてになった。

 自分は彼らの曲をラジオで聞いて、またまた素晴らしい才能を持ったバンドが誕生したなあと思い、アルバムを購入したのである。1998年頃のお話だ。
 このバンドは5人組で、そのうち3人の優れたソングライターがいた。それに3人ともボーカルが取れるので、美しいコーラスも聞くことができたのだ。

 彼らの音楽的なポリシーというか方向性としては、アメリカの西海岸風のサウンド、たとえばザ・バーズやバッファロー・スプリングスティーンを志向していて、それにブリティッシュ・ロック的な骨太のダイナミズムを取り入れていた。

 だから、デビュー当時平均年齢22歳のバンドにしては老成していて、70年代のアメリカン・ロックやブリティッシュ・ロックが好きな人なら、きっと飛びつくに違いないという音楽性や面影を備えていた。それで自分としては一発で好きになってしまったのだろう。

 ザ・モントローズ・アヴェニューは、1996年頃にバンドの2人のギタリストであるスコット・ジェイムスとポール・ウィリアムスが出会ったところから始まった。そして、もうひとりのギタリスト兼キーボード・プレイヤーのロブ・リンゼイ・クラークとパブで出会い、バンド構想を練っていった。バンド名も自分たちが生まれ育ってきた場所から取られていた。8713130_2

 彼らは最初から、ザ・バーズやバッファロー・スプリングフィールド、モビー・グレイプなどのバンドの音楽性を取り入れようとしていた。3人の趣味が合ったのだろう。
 そして翌年には、リズム・セクションのベーシストとドラマーが参加して、バンドとして活動を始めたのである。ちなみに、ドラマーのマシュー・エヴェレットはメンズウェアというバンドの元メンバーだった。

 彼らは、当時のU.K.コロンビア・レコードと契約を結び、"She's Looking For Me"や"Where Do I Stand?"などを発表した。
 そして、これらの曲を含む彼らの唯一のアルバム「サーティ・デイズ・アウト」は、1998年の10月に発表された。418cv538yl
 このアルバムは、個人的には、時代の波にのれなかった名盤だと思っている。デビュー・アルバムらしい若さと疾走感が漲っていて、単なるアメリカ西海岸の音楽の焼き直しにはなっていない。
 また、自分たちのオリジナリティもしっかりと発揮されていて、何度も言うけれど、ザ・バーズやバッファロー・スプリングフィールドなどの二番煎じにはなっていなかった。

 全13曲(日本盤は14曲)のうち、4分台の曲は3曲しかなくて、ほとんどが2分か3分台の曲だった。この辺もいかにも新人バンドとしてのフレッシュさが発揮されているという気がした。

 アルバムの最初は、風雲急を告げるサイレンで始まる"She's Looking For Me"で、2分2秒という短い曲ながらもメロディーは際立っているし、テンポも速く、アルバムの冒頭に相応しい曲だった。ただ、シングルとしては118位というチャート・アクションで、ヒットはしなかった。

 2曲目は"Helpless Hoping"というタイトルで、このタイトルを見れば、思わずC,S,N&Yの曲を思い出してしまうだろう。
 ただ、同名異曲であって、C,S,N&Yの曲とは全く違う。この曲も若さに満ち溢れていて、コーラスの巧みさとソングライティングの上手さが伝わってくる。隠し味として、オルガンやピアノが使用されている点が印象的だった。

 一転して3曲目の"Start Again"はギターが主体の曲で、ギター・ソロやハンドクラッピング、交互のリード・ボーカルなどが織り込まれていて、とても新人バンドの曲とは思えないほど素晴らしい。

 このアルバムを聞いて、そんなに70年代風の曲やアレンジなどは意識させられないのだが、"Yesterday's Return"は、確かにザ・バーズのような感じがしてくる。70年代というよりも、60年代のホリーズのような感じだろう。雰囲気としては、ホリーズの"Bus Stop"に似ていると思った。

 バンドは2曲のバラード曲を用意していて、そのうちの1曲"Keep on the Radio"で、壮大なコーラスと流麗なストリングス、それにトランペットの管楽器まで使用されていて、盛り上げに必死である。だからというわけではないだろうが、聞かせるバラード曲になっていた。

 "Where Do I Stand?"は再び疾走する曲になっていたし、"Emergency Exit"もタイトルを反映したような焦燥感と性急感が漂っていた。ただ、このバンドが優れていたのは、それを単なるアップテンポの曲として終わらせることなく、コーラスの美しさや緩急をつけたリズムなどを配置している点だろう。
 この"Emergency Exit"の中でもスライド・ギターが要所要所で使われていて、確かにアメリカ西海岸のサウンドに影響されていたというのが伝わってきた。

 バンドの最後のバラード曲になった"Leaving in the Morning"はキーボードとスライド・ギターとブラスがフィーチャーされた曲で、バッファロー・スプリングフィールドの曲をハードにアレンジしたらこうなりましたよ、という感じがした。シングルとしてはヒットしないだろうけれど、決して悪い曲ではないはずだ。

 10曲目の"Closing Time"は、タイトル通りの穏やかな曲で、アコースティックギターとニッキー・ホプキンス風のリリカルなピアノがエヴァーグリーンな香りを漂わせてくれる。この曲もヒットはしないだろうけれど、佳曲だと思う。もっと注目が集まってもよかったのにと、残念でならない。

 ブリティッシュ・ロック・バンドとしてのパワーがあるのが"Lost for Words"だろう。アコースティック・ギターのイントロから始まり、エレクトリック・ギターのカッティングが始まると一気に勢いを増して走り出していく。それにキーボードが音に厚みをつけ、ボーカルとコーラスが盛り上げていく。わかっていても、こういう展開についつい耳を傾けてしまうのであった。

 アルバム・タイトル曲の"Thirty Days Out"は、約1か月間の恋愛や契約から抜け出そうというもので、コーラスの美しさや曲作りの巧みさ、メロディの印象深さなど、彼らの音楽の魅力を詰め込んだ曲でもあった。

 そして最後は、ニール・ヤングのカバー曲"Ohio"のライヴ・バージョンだった。エレクトリック・ギターが前年に押し出され、何のアレンジもなく、勢いで最後まで突っ走っている曲だったが、これも若さという特権の表れなのかもしれない。617nwl9aqll
 このアルバムは、全英チャートでは102位と全く振るわなかった。このアルバムから4曲がシングルとして発売されたが、"Where Do I Stand?"の38位が最高位だった。あとはすべて50位から出ていた。

 彼らは続く2枚目のアルバムを準備していたようだったが、チャートの結果を見たレコード会社が契約を打ち切ったようだ。実質、約1年間少々の活動で終わってしまった。
 もし彼らが60年代か70年代の初頭にデビューしていたならば、もう1枚はアルバムを発表できただろう。90年代にもなると、音楽性よりは商業性が上位に来る時代になってしまっていたのだ。

 とにかく、この1枚だけで解散してしまうには惜しいバンドだった。バンドのもつテンションは素晴らしかったし、時代の空気にはマッチしていたと思うのだが、オーディエンスの渇望感には欠けていたようだった。ということは、やはり結局は時代の空気感にも合っていなかったのだろうか。

 ブリット・ポップではないし、かといってハード・ロックでもない。ブリティッシュ・ロックの持つ陰鬱性は影を潜めているものの、アメリカ西海岸風のようなカラッとした明るさがメインになっているわけでもない。その辺の中途半端さが受け入れられなかったのかもしれない。

 しかし、それでも一度は耳を傾けてほしいアルバムでもある。何度も言うが、時代の波にのり切れなかった名盤だと思っている。

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