2019年6月24日 (月)

ワイルド・ライフ(2)

 ポール・マッカートニー&ウィングスのアルバム「ワイルド・ライフ」についてである。このアルバムについては、2014年の5月に一度触れているので、今回はどうしようかなと思ったのだが、あえて書くことにした。理由は、ジョンとポールの確執について最後まできちんと記したいと思ったからである。B5mzcem90w26b_600

 どういうことかというと、ジョンのアルバム「イマジン」で2人の確執はまだ終わってはいなかったからだ。さらにポールの反論が続くのである。あえて前回までのことを繰り返すと、ポールがザ・ビートルズを脱退した(と言われていた)ことから、それについて反論を行った。それがアルバム「ラム」においてであり、その矛先はポール以外の3人+オノ・ヨーコに向けられていた。
 アルバム「ラム」が発表されたあと、同年の1971年9月にジョン・レノンの「イマジン」が発表された。そして、そのアルバムの中で"Crippled Inside"や"How Do You Sleep?"を通して、ポールに辛辣な批判を加えていた。そしてそれに応えるような形で発表されたのが、同じ1971年12月に発表された「ワイルド・ライフ」だった。ただし、正式にはポール・マッカートニー名義ではなくて、ポールの名前もない”ウィングス”とだけ記名されたアルバムだった。B0d2a58798425405476657f5d17d1694

 これはバンド活動にこだわったポールの意向が反映されていて、今までの自分の名声や評判を借りずに、バンドの力だけで活動しようとした表れであり、実力勝負に徹しようとした結果だった。確かに、ジョン・レノンは、パーマネントなバンドではないものの、”プラスティック・オノ・バンド”を率いてアルバムも発表していたし、ライヴ活動も行っていた。ザ・ビートルズでは1966年以降、全くライヴ活動を行っていなかったため、それまでの鬱憤を晴らすかのような活動だった。(映画「レット・イット・ビー」ではアップル社の屋上でライヴを行っていたが、あれを正式なライヴ活動と評するのには無理があるだろう)

 というわけで、実際に「ワイルド・ライフ」を発表した後も、”ウィングス”名義でイギリス国内でライヴ活動を行った。ただそれは、きちんとプロモーターが仕切るようなコンサートではなくて、機材を詰め込んだヴァンとポール・マッカートニー一家とミュージシャンたちが乗り込んだトレーナー、機材を運ぶローディーも2人のみと極めてシンプルで、行先も大学構内のホールのような小さいところだった。
 もちろんライヴ自体は、回数を重ねるにつれて熱気と興奮に満たされて行き、まさに熱烈歓迎状態になっていったのだが、最初は”ウィングス”といっても誰のバンドなのか誰も知らず、ライヴが始まってやっとみんなが気づくという有様だった。ある意味、覆面バンドのようなものだ。今の時代であれば、ネットやSNSですぐに拡散され、あっという間に評判になっていっただろうが、70年代の初めにはそんなことが起こりうるはずがなく、徐々に知られて行ったのである。Shutterstock_802243is

 しかもこのアルバムの「ワイルド・ライフ」は、3日でレコーディングが終了し、2週間でミキシング等も完了させたと言われていて、ポールはライヴ感覚を大事にしたと述べていたが、確かにこのバンドでのライヴは意識していただろうけれど、まだまだバンドとしてまとまっていなかったということは言えるだろう。特に、この当時のリンダ・マッカートニーのキーボードの腕前はお世辞にも上手とは言えず、とても人前でソロを聞かせるような代物ではなかった。また、デニー・レインや1972年から加入したリード・ギタリストのヘンリー・マッカロクなどの他のメンバーも、まだまだポールと十分な意思疎通はできていなかったようだ。

 だからアルバム自体も散々な評価を受けていた。早くライヴ活動を開始したいという気持ちが逆に焦りを呼んだのだろうか、シンプルで聞きやすいと言えば聞こえはいいが、前作「ラム」よりは手抜きというか、勢いだけで作りましたという印象が強かった。
 その証拠に、ポールのアルバムにしては珍しく他者の楽曲のカバー曲を入れていて、何とか曲数の帳尻合わせをしたという感じだった。そのカバー曲が"Love is Strange"で、オリジナルは1956年、ミッキー&シルビアというフォーク・デュオが歌った曲だった。また、1965年にはエヴァリー・ブラザーズもカバーしていたから、当時の欧米では有名な曲だったのだろう。最初はインストゥルメンタルで発表するつもりだったようだが、当時流行っていたレゲエ風にアレンジし直している。また、このアルバムからのシングル曲として準備していたが、最終的に版権の関係か、シングルとしては見送られた。

 それで全10曲、39分余りの時間的に短いアルバムだった。リンダ・マッカートニーは”ダンスで立ち上がって踊りたいときはサイドAを、女の子にキスさせたいときはサイドBを”と述べていたが、そんな簡単に割り切れるような感じではなかった。それならロッド・スチュワートの「アトランティック・クロッシング」や「明日へのキック・オフ」の方が編集方針としては明確になっているだろう。

 それで話題を元に戻すと、この10曲の中でジョンに対する回答は、5曲目の"Some People Never Know"と9曲目の"Dear Friend"だった。ポールも執念深いというか、よほど言いたいことが積もり積もっていたのだろう。30e80b21
 ただし、この2曲はジョンの「イマジン」を聞いて、その回答として考えたわけではなかった。この「ワイルド・ライフ」のレコーディングは、1971年の7月から8月にかけて録音、編集されているからで、「イマジン」のレコーディングが1971年の2月から7月まで断続的に続けられていたことから考えると、「イマジン」を聞いて反応を示すことは時間的に無理だったと思われる。

 だからこの2曲の内容は、反論や嫌悪といった感情をむき出しにしたものではなくて、むしろ諦観や受容といった内面的で静的な印象を与えるものだった。例えば"Some People Never Know"では、"I Know I was Wrong,Make Me Right"(自分が悪かったと思っている、自分を正しい方向に向かわせよう)と述べていて、むしろジョンに対して謝罪ともいえる言葉を述べていた。
 また、"Dear Friend"では、いきなり"Dear Friend,What's the Time? Is This Really Border Line"(親愛なる友だちへ、いま何時だい?本当にこれがギリギリなの)と今までの友情が途切れることを恐れているようなフレーズも見て取れる。

 曲調も"Some People Never Know"では、アコースティック・ギターが中心の落ち着いた雰囲気だったし、"Dear Friend"では、逆にピアノ中心の切々と歌い上げられたバラードだった。これらの曲には攻撃性や風刺性などは全く見られず、むしろ落ち着いて自分の意見を述べているような姿勢が伺えたのだ。
 先ほども述べたように、これらの曲は「イマジン」を聞いてから作られたものではなくて、「ラム」から「ワイルド・ライフ」に移るにしたがって、徐々にポール自身の考えが変化していったことを表している。ジョンに対して恨みつらみや非難中傷を加えるのではなく、現実を受け入れて、違う形でジョンやヨーコ、ほかの元メンバーと向き合おうとしたのだろう。だから「諦観」や「受容」といったイメージが浮かんで来たのだと思っている。

 実際にインタビューでもポールはこう答えていた。『"Some People Never Know"は僕とリンダのことについて述べた曲で、僕らのことをわかってくれない人たちがいるんだというメッセージを込めているんだ』また、『"Dear Friend"は直接的にジョンのことについて言っているのではない。ただ、ジョンのことを意識していることは間違いないと思う』だからある意味、ポールはザ・ビートルズに代わって新しいバンドを結成して、自分の目標に向かって旅立つために、一つの区切りとしてこの曲たちを準備したのだろう。

 ジョンとポールは友人でもあり、ライバルでもあった。だからお互いに意識しながら曲作りを行い、行動を起こしていった。さらにはライフスタイルも、相互に影響を及ぼしながら進展させていった。ジョンがヨーコというパートナーを得れば、ポールもリンダを娶って心の支えにしながら、生涯の伴侶にしようとした。
 ジョンが平和運動に心を砕き取り組んでいけば、ポールは逆に環境運動や動物愛護運動に力を注ぎ、ついにはヴェジタリアンになってしまった。そして、ジョンがプラスティック・オノ・バンドを組めば、ポールはウィングスを結成してライヴ活動に精力的に取り組むようになったのである。Paulmccartneyandwingswildlifepressphotow

 最後に、この「ワイルド・ライフ」以降、ポールはジョンのことを直接的に歌うことはなかった、1982年の「タッグ・オブ・ウォー」でジョンを追悼した"Here Today"までは。ジョンもまたあからさまにポールのことを非難することはなかった。
 一説では、1976年にポールがアメリカ公演を行った際に、ニューヨークでジョンに会い、今から一緒にラジオ局に行ってみんなを驚かせてやろうかと話し合ったと言われているが、真偽のほどは定かではない。

 だけど、公式スタジオ・アルバムを通して、お互いのことを言い合うというのもジョンとポールだから許される?ことであって、普通のミュージシャンがやったら、見向きもされないかもしれない。確かに自分の体験や感情などを、楽曲を通して表現するのがミュージシャンの本来の務めなのかもしれないが、ここまであからさまにオープンに行ったのもジョンとポール以外にはいないのではないだろうか。そういう記録という意味でも、「ラム」や「イマジン」、「ワイルド・ライフ」などは、歴史的に貴重なアルバム群だったと思っている。

 ちなみに”ウィングス”という名前は、リンダが1971年にステラという女の子を出産したときにポールが思いついた名前で、「天使の翼」をイメージして名付けたという。確かに70年代のウィングスは、ここから大きく世界に羽ばたいていったのである。

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2019年6月10日 (月)

イマジン

 ザ・ビートルズが解散した切っ掛けというのがあって、前回はポール・マッカートニーがザ・ビートルズを脱退して当時のマネージャーだったアラン・クレインを解雇しようとして裁判になったというようなお話をしたと思う。でも実際は、ポールよりも先にジョンの方がザ・ビートルズを脱退するよ電話をしてきたのが定説になっているらしい。今となってはどうでもいいことかもしれないが、70年代の初めではとても重要なことだった。
 そして、何故ジョンがザ・ビートルズを脱退しようとしたかというと、”事件の陰に女あり”の言葉ではないが、ジョン・レノンの背後にはオノ・ヨーコがいて、その影響でジョンが脱退を希望したというのである。だから熱烈なザ・ビートルズのファンなら、オノ・ヨーコを目の敵にしていて、彼女の存在がなければもう少し長くザ・ビートルズは活動したに違いないと思っているのである。

 私たち日本人の中にもそう思っている人は少なからずいると思うし、ましてや海外の人ならもはや確信に近いというか、信仰に近いものがあるのではないだろうか。実際に、私自身もアメリカ人の青年から”オノ・ヨーコ黒幕説”を聞いたことがあったし、それは違うよと私が否定しても、決して自分の説を翻そうとはしなかった。オノ・ヨーコは今でも世界中のザ・ビートルズ・ファンから嫌われているのだろう。ひょっとしたら、藁人形に名前が貼られて五寸釘が打ち込まれていたかもしれない。何という可哀そうなオノ・ヨーコだろうか。

 ザ・ビートルズの最後のフィルムが「レット・イット・ビー」だったが、そのレコーディング風景にもオノ・ヨーコは写り込んでいた。髪の毛も長くて黒いし、服装も黒っぽかったから、まるで背後霊のようだったが、ほかのメンバーの奥さんや恋人はレコーディングには参加していなかったのに、彼女だけがジョンから招かれたのだろう、レコーディング・スタジオの中でずっと座っていた。このことも他のメンバーから反感を買ったようである。ジョンに言わせれば、彼女の存在は”ミューズ”のように彼の音楽的創造性の源泉だった。また、音楽的な影響のみならず、平和や文化活動、反戦行動のような具体的な理念や行動面まで影響を受けていたから、彼ら2人は恋人や夫婦という枠組みを超えていて、もはや”ソウルメイト”とも言うべきものだった。だからジョンの行くところ常にオノ・ヨーコがいたし、逆にオノ・ヨーコがいれば、必ずジョンもまたその場に存在していたのだ。 Johnandyokoaboveusonlysky20181

 それで前回のブログでは、ポールが滅茶苦茶他のザ・ビートルズのメンバー、特にジョンやオノ・ヨーコのことを非難していたことを述べたのだが、その原因についてはあまり触れなかった。その原因については、もちろん他のメンバーとの確執みたいなものもあっただろうし、ザ・ビートルズが解散した切っ掛けが、ポールの思いと関係なく、ポールの言動にあったと決めつけられたことにも無念さがあったに違いないだろう。

 そしてまた、もっと具体的にいうなら、ポールのソロ・アルバム「マッカートニー」が本家ザ・ビートルズのアルバム「レット・イット・ビー」発売よりも1ヶ月も早く発表されていて、バンドのラスト・アルバムになるであろうアルバムよりも自分のソロ・アルバムを優先させた形になってしまったからだろう。しかも内容的に優れているのならまだしも、半分近くはインストゥルメンタルだったし、残りの半分も宅録でシンプルな飾りつけのみだったから、ザ・ビートルズのファンのみならず、批評家や何より元バンド・メンバーからも非難されてしまった。ポールはそういう状況の中で、自分のプライドを守り、自分の存在を主張し、自分の音楽性を認めさせようと思ったのだろう。そして、特に自分を強く批判していたジョンに対してメッセージを込めた楽曲を作ったに違いない。そういう音楽性も孕んでいたのがポールのアルバムの「ラム」だった。

 そしてそれに反論する形でアルバムを制作し、発表したのが、1971年の9月(イギリスでは10月)に世に出された歴史的名盤である「イマジン」だったのだ。81wjk15j6el__sl1300_
 自分は発表当時にはこのアルバムを聞いていなくて、中学生になって初めて聞いた。アルバムが発表されてから3年は経っていたと思う。アルバム冒頭の"Imagine"を聞いたときには、何というシンプルな曲だろうと思ったし、その歌詞もまた単語の意味が分かれば文の意味が分かるような簡単なものだった。もちろんジョン・レノンのことは知っていたし、どんな思いでこのアルバムを作ったかもだいたいはわかっていたし、当時は平和活動家というイメージが私の中では強くて、ある意味、もう少し硬質な音楽性を期待していたから肩透かしを食ったような気がした。ジョンってロックン・ローラーなんだろう、もっとロックしてよと言いたかったのだ。何という若気の至りだろうか。当時は本当のジョンの強さや優しさを理解できなかった、まだそういう感性が備わっていなくて、もう少し大人になってから初めてジョンの偉大さが分かったのだ(それでも本当に理解しているのかと問われると何とも言えない)。

 個人的な見解だけど、ポールのアルバムは個々の楽曲だけを聞いても問題ないと思うけれど、ジョンのアルバムは全体をきちんと聞かないと正確に理解できないと考えている。例えばこの「イマジン」というアルバムも、冒頭の"Imagine"やロッド・スチュワートやブライアン・フェリーもカバーした名バラード"Jealous Guy"だけを聞いて、ジョンという人の性格や才能、このアルバムの価値を判断することはできない。むしろ”群盲像を評す”という失敗を犯してしまうだろう。A0e5a3d71ffdcc53e2565ef6f63c9f6d

 だからこのアルバム「イマジン」も"Imagine"や"Jealous Guy"、"How?"だけ聞いて判断するのではなくて、ジョンの魂の叫びとも言うべき"It's So Hard"や"I Don't Want to Be a Soldier"、"Give Me Some Truth"も聞いてから全体として味あわないといけないと思っている。ポールのアルバムは優等生的で確かに楽曲的にも構成的にも技巧的で素晴らしいものだと思っているけど、ジョンのアルバムはジョン自身の生き方や考え方、”知行一致”ではないけれど、ジョン・レノンという人間性の一部がサウンドや歌詞として表現され、発表されてきた経緯があると思っているし、どちらかどうと優劣を競い合うのは意味がなく、それぞれの独創性として尊重するべきだと思っている。

 それで、特に1970年の「ジョンの魂」と、この「イマジン」は、そういうジョンの人間性が一番よく表現されていると思っていて、この2枚のアルバムはやはり歴史的な名盤だと考えている。そして気楽に聞いてみようかという気持ちで聞いてもいいのだけれども、むしろジョン自身はそれを望んでいるに違いないのだろうけれど、自分にとってはやはりワンクッションを置いて、気持ちを新たに気合を入れ直して聞いている。新興宗教の教祖に近づくような、そんな厳粛な気持ちになってしまう。51fste2ymql

 それで本題に戻すと、本題というのはポールの宣戦布告に対してのジョンの返答のことだが、これも個人的な見解なのだが2曲目の"Crippled Inside"もポールに対する当てつけではないかと思っている。ただこの曲を聞くと、歌詞の内容よりもジョージの演奏するドブロ・ギターの方が印象的だし、曲自体も軽快で聞きやすい。だからどうしても”怒り”や”憎しみ”などは印象が薄くなってしまうのだが、でも歌詞をよく見ると、やっぱり何か気になるよなあという感じになってしまうのである。

 このアルバムは3部構成ではないだろうか。第1部は平和を希求し、個人としての生き方を考える楽曲で、"Imagine"や"I Don't Want to Be a Soldier"、"It's So Hard"、"Give Me Some Truth"であり、第2部はヨーコに対する愛情を示す楽曲、"Jealous Guy"や"How?"、"Oh My Love"、"Oh Yoko!"、そしてポールに対する反論である第3部、"Crippled Inside"と"How Do You Sleep?"だろう。
 第1部の楽曲は穏やかな雰囲気とハードでロックン・ロールとして躍動する両面を味わえるし、第2部ではオノ・ヨーコに対するストレートで率直な愛情に満ち溢れていて感動的だった。そして第3部では同じミュージシャンとは思えないほどの辛辣で悪意に満ちた歌詞が書き留められている。

 特に、"How Do You Sleep?"はそこまで言うかと思うほど中傷している。この時の「イマジン」の制作過程が収められたビデオが残っていて、その中でもジョンはいつもと違って、かなり激しく悪意を込めて演奏するようにジョージやアラン・ホワイトに述べていたが、そこまでしなくてもいいのではないかと思ってしまうのだ。だって、”人生は短し、芸術は長し”の言葉通りに、作られた作品は永遠に残ってしまうのである。ある意味、証拠物件として保存されているのと同じだろう。
 曲の冒頭もザ・ビートルズのアルバム「サージャント・ペパーズ」のオープニングをパロディに使っているし、歌詞の中にも"Yesterday"という言葉や"Another Day"というポールの曲名を使用している。"Your Momma"というのは、当時の年上女房だったリンダのことを言っているのだろう。でもオノ・ヨーコも年上だったはずだが、その点はどうなのだろう。

 実際にも同席していたリンゴ・スターがジョンに忠告して何とか聞くに堪えられる内容まで戻したというから、実際はもっと悲惨で恐らくは放送禁止語に満ち満ちていたのだろう。もしそのまま発表していたら、おそらく当時のアップル社が販売停止処分にしただろう。

 これも有名なお話だが、ザ・ビートルズ時代のポールには、”目が大きすぎて夜は目を開けたまま眠る”という都市伝説みたいなものがあって、他のメンバーはポールをからかう時にこれを用いていたようだ。だからポールのことを揶揄するために、このタイトルを用いたのだ。このお話はメンバー以外にも広く流通していたようで、当時の彼らのファンなら知っている話だったらしい。

 まあとにかく、この曲1曲で、ポールの"Too Many People"や"3 Legs"、"Dear Boy"などをまとめて粉砕するようなパワーを秘めていて、強烈な印象と憎悪をリスナーにもたらしている。あらためて違う意味でも、ジョンの才能の偉大さを感じ取ることができる楽曲だった。敵にまわすと怖い相手だ。敵にまわすことはもうないけれど…Dh510ee7c7

 結局、ジョンは1980年になって『ひどい悪意や恐ろしい敵意を表明するためではなく、曲を作るためにポールに対する恨みを利用したんだ。それにポールやザ・ビートルズから撤退しようと思っていてね、ポールに対しては、本当にいつもそんなふうに思っているわけじゃないんだよ』とインタビューに答えている。確かに公式には、ポールに対してこれぽっちも悪意や恨みを述べたことはない。この「イマジン」に収められた"How Do You Sleep?"についても、1969年から曲を作り始めたと述べていたからポールに対しての確執はないと述べていた。ちょっと眉唾なのだが、ジョンのポールに対するおとなの対応というものだろう。

 ポールが「ラム」という素晴らしいアルバムを発表できたのも、リンダと彼女を含む”家族”の支えや彼らに対する愛情があって、制作できたと思っている。それと同様に、ジョンもまたヨーコに対する愛情があったからこそ、この歴史的名盤ともいえる「イマジン」を制作し、発表することができたのだろう。
 そう考えると、偉大な2人のビートルズの陰には偉大な女性の存在が外せないのである。ジョンもポールも、最終的にはザ・ビートルズを脱退したことになってしまったが、その原因は音楽性だけではなくて、愛する女性の影響力も見逃せないと思っている。

 今となって考えれば、偉大な才能を持つ2人のミュージシャンが、その有り余るほどの才能を使って、お互いに非難中傷を、歴史に残る形で行ったという事実の方が、画期的というか衝撃性を持っているし、そのインパクトは、時間が流れるに従って、いろんな意味でますます輝きを発しているように思えてならない。

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2019年6月 3日 (月)

マッカートニーの「ラム」

 なぜか無性にポール・マッカートニーの「ラム」を聞きたくなって聞いてしまった。結果当たり前のことだが、相変わらず名アルバムということが分かった。
 このアルバムは1971年、ポールが29歳の時に発表されたもので、全英アルバム・チャートでは1位を、全米ビルボードでは2位を記録した。ちなみにその時の1位はキャロル・キングの「タペストリー(つづれおり)」だった。

 彼やザ・ビートルズのファンなら知っていると思うけれど、ポールは1970年にザ・ビートルズから脱退を宣言し、結局解散してしまったのだが、そのせいで解散の原因はすべてポールにあると非難されていた。あるいはポールと当時のザ・ビートルズのマネージャーだったアラン・クレインとの確執ともいわれていて、裁判沙汰にまでなっていった(と思う)。当時、自分はまだ小学生だったから詳しいことはよくわからなかったのだが、いずれにしても、何故かポールばかり非難されていたような気がする。

 そのせいかどうかはわからないのだが、ザ・ビートルズ解散直後から、ポールを含めてザ・ビートルズのメンバーは、自分のアルバムを発表している。みんなが自分こそザ・ビートルだ見たいな感じがして、特にジョージなんかは3枚組のアルバムまで発表していて、まさに水を得た魚みたいに活躍していた。もちろんジョンもリンゴもアルバムを発表しているのだが、ポールは意外に早くファースト・ソロ・アルバム「マッカートニー」を発表していた。71yjwvlfw3l__sl1200_

 自分はジョンの「ジョンの魂」やジョージの「オール・シングス・マスト・パス」のアルバムの方が印象が強くて、ポールの「マッカートニー」についてはあまり覚えていなかったし、当時の友だちから借りて聞いてみてもパッとしなかった思い出があった。実際、「マッカートニー」は35分くらいしかなかったし、半分はインストゥルメンタルだった。まともな曲はあまりなくて、これがあのマッカートニーのアルバムなのかと思ってショックというよりも驚いた覚えがある。
 ところがこれが売れたのである。当時はまさに飛ぶ鳥を落とすほどの勢いがあったザ・ビートルである。解散宣言が出されても、元メンバーたちの動向は注目を集めていたし、彼らの言動もそうだったし、ましてやアルバムならどういうメッセージを含んでいるのか、どんな音楽性なのか、またザ・ビートルとの類似点や相違点など、いろんな意味で世界から注視されていたのである。

 確かに「マッカートニー」は売れたものの、その音楽性はむしろ素朴でシンプルだった。リンゴのアルバムは彼の好きなカバー曲集だったので除外するとして、ジョージやジョンのアルバムは、内容のみならずメッセージ性や彼らなりの個性が発揮されていて、発表された時点で歴史的な名盤になるでろうという予感性を十分秘めていたし、実際にもそうなっている。
 逆に、「マッカートニー」の方は商業的には成功したかもしれないが、内容的にはポールの趣味的なアルバムといっていいようなものだったし、ほかの元ザ・ビートルズたちは他のミュージシャンと一緒に制作していたが、ポールのアルバムはすべての楽器を自分でこなしていて、レコーディングに関してもほとんどが自宅録音だった。51vsewmzesl

 だから、彼の「マッカートニー」は批評家や音楽ライターから批判された。批判というよりはバッシングに近いものだったかもしれない。それはアルバムの評価のみならず、ザ・ビートルを解散させた一因としての責任を問うような意味合いもあったに違いない。そして、そのことで悩んだのかもしれないのだが、その後ポールはスコットランドの自分の自宅兼農場に引きこもってしまい、しばらくは家族と過ごすことを決めたようだった。

 しかし、この当時のポールはまさに才能のあふれ出る状態だったし、まだ30歳前で、意欲も行動力も十分すぎるほど漲っている状態だった。だから確かに一時はスコットランドにひきこもっていたものの、むしろ愛する妻と子どもたちに囲まれて心の傷も、たとえ傷があったとしても、癒されて、次への希望につながったに違いない。Paulmccartney71
 ポールは、実際に1970年の10月にはレコーディング・メンバーをリクルートするためにアメリカに旅立っている。おそらくスコットランドにいた時に、次のアルバムは他のミュージシャンを集めて、一緒にレコーディングしようと思ったのだろう。他の元ザ・ビートルズたちがそうやってアルバムを発表したように。

 年が明けて1971年の1月になると、ポールはニューヨークで、ギタリストのデヴィッド・スピノザやヒュー・マクラッケンなどの一流スタジオ・ミュージシャンと、のちにウィングスの初代ドラマーになったデニー・シーウェルと一緒にレコーディングを開始した。そうやって出来上がったアルバムがその年の5月に発表された「ラム」だったのである。やっとたどり着いた。

 全12曲、時間にして約44分のアルバムで、全体的にポールのやる気と自信がリスナーに伝わってくるアルバムだった。アルバム形式も「サージャント・ペパーズ」やのちの「ヴィーナス・アンド・マーズ」、「バック・トゥ・ジ・エッグ」のようなトータル・アルバムになっていて、ここでは3曲目と11曲目に"Ram on"が踏襲されている。
 また、メロディ・メイカーとしてのポールの魅力が100%発揮されていて、どの曲も捨てがたい。強いてあげれば後半の1,2曲はカットしてもよかったかなと思うが、それでも前作「マッカートニー」よりははるかに上出来だと思う。少なくとも100倍気合いを入れて作ったに違いないと思う。 81ad7ox9ol__sl1400_

 ただ問題なのは、メロディーよりも歌詞である。歌詞の内容なのだ。特に、昔のレコードのサイドAには問題のある歌詞が含まれた楽曲が用意されていた。冒頭の"Too Many People"もそうだし、2曲目の"3 Legs"や"Ram on"、"Dear Boy"など、考えようによっては6曲目の"Smile Away"もまたその種の楽曲かもしれない。そして、その歌詞の内容は元のザ・ビートルのメンバーに対してであり、特に盟友ジョン・レノンに対しては辛辣な内容を含んでいたようだ。

 ジョージ・ハリソンとリンゴ・スターは、"3 Legs"とは自分たち2人とジョンを含んだ3人のことを指していると考えていたし、ジョンはジョンで、"Too Many People"と"Dear Boy"は自分とオノ・ヨーコのことを指していると思っていた。ポールはポールで、確かに当時の自分の気持ちを表しているとは言っていたが、直接的に誰か特定の人を非難したつもりはないと述べていて、特に"Dear Boy"は当時の妻だったリンダ・マッカートニーの別れた元夫のことを歌っていたと述べていた。
 それに、レコードでもCDでも裏ジャケットにカブトムシが交尾をしている写真が使用されているが、これは当時の(解散直前の)ザ・ビートルの3人が自分のことをどう思っていたかを象徴する写真だとも述べていた。ポールもある意味、被害妄想というか解散の傷を引きずっていたのだろう。 71rcqbgdzxl__sl1363_

 当然のことながら、ジョンが黙っておくはずもなく、このアルバムの数曲に対するアンサー・ソングとして、アルバム「イマジン」の中で反論している。また、レコード時代にはジョンがブタの耳を引っ張っているポストカードが同封されていたが、これはこの「ラム」のアルバム・ジャケットのパロディだと考えられている。つまり、羊の代わりにブタの写真を使用したというわけだった。

 これもまたどうでもいいことだが、"UNcle Albert/Admiral Halsey"は1971年の9月4日に1週間だけ全米シングル・チャートで1位になったが、この曲の作曲クレジットが"Linda&Paul McCartney"となっていることに対して、当時のザ・ビートルの著作権を管理していたノーザン・ソングスのオーナーだったルー・グレイドがリンダが作曲できるはずがないと言って、裁判所に訴え出たのだ。最終的にはその訴訟は取り下げられたのだが、ポールはこう弁明していた。『曲の半分はリンダと一緒に書き上げたのだから、リンダの名前があって当然だろう。ソングライターとして認められているかどうかは関係ない。とにかく、誰であれ、どんな形であれ、本当に僕の歌作りを手伝ってくれた人には、その歌の一部を担うことになるんだよ』R367126014147226136254_jpeg

 ということで、全12曲中、ポール1人名義の曲は6曲、残りの6曲はリンダ&ポール・マッカートニー名義だった。公平に半分半分にしたのだろうか。いずれにしてもアルバム前半はブルーズ風味の曲やバラード、ロックン・ロールなどバラエティ豊かな曲で占められているし、7曲目以降の後半では、ロックン・ロールというよりも、メロディアスなミディアム・テンポの曲やニューヨーク・フィルハーモニー・オーケストラを用いた感動的なバラード曲"The Back Seat of My Car"などが印象的だった。

 このアルバムの成功に気を良くしたポールは、自分のやることに自信を深めたのだろう、ザ・ビートルと同じようなパーマネントなバンド活動を始めようと考え、ウィングスというバンドを結成するのである。その発端となったアルバムがこの「ラム」であるとともに、ジョンや他の元ザ・ビートルズのメンバーとの確執がまだ根強いというメッセージを世界中に曝け出していたのもこのアルバムだった。

 このアルバムを発表してからもポールは、40年以上も第一線で活躍している。今でこそポールの才能や意欲などを正当に評価できるだろうが、70年代の初期では、この先ポールを始め、それぞれのメンバーがどうなっていくのか全く予想できない状態だった。当時はインターネットやSNSもない時代だったから、今後の展開を予想できる数少ない証拠というか、記録としての意義をも含むアルバムだった。自分はそんなことまでは考えずに、ただ単にああいいなあと思いながら聞いていたのだが、実は世界中の音楽ファンをも巻き込んでの”戦闘モード全開”のアルバムだったのである。

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2019年5月27日 (月)

スローハンド

 「スローハンド」といえば、エリック・クラプトンの代名詞でもある。彼のギター・ソロの時に、指運びはゆっくりなように見えて、実際は多くの音を弾き出している様子やフレージングの豊かさなどを表現した言葉だが、当時のニックネームにもなっていた。Eric・"Slowhand"・Clapton というわけだ。
 その言葉をアルバム・タイトルにしたのが1977年に発表された彼の5枚目のスタジオ・ソロ・アルバムだった。世間一般の評判ではかなり人気があって、70年代の彼のソロ・アルバムの中では1974年の「461オーシャン・ブールヴァード」と並び称されるほどだった。

 当時の彼の音楽は”レイド・バック”と呼ばれていて、かつてのクリームのようにギターをメインに置くのではなくて、曲の合間にさりげなく聞かせるくらいで、彼のボーカルと楽曲、演奏、ギター・ソロと、トータルな意味で表現しようとしていた。だから、60年代の彼を知る者としては、少々物足りない気もしていた。 09_spx450

 自分はそんな彼を表面上しか見ていなくて、ヒット曲や”イージーリスニング・アルバム”ばかりつくって、商業主義に毒されたミュージシャンだと思っていた。せっかくドラッグ中毒から復活したのに、もう激しい曲はやらないんだ、ひょっとしたらドラッグの後遺症かとも思っていた。だからもっと激しいハードな曲を求めて、レインボーやマイケル・シェンカーなどに走っていった。若気の至りだったかもしれない。

 だからこのアルバムが発表された当時は、シングル・カットされた"Cocaine"や"Lay Down Sally"ばかりが耳に残ってしまい、アルバム自体についてはまっとうな判断もできなかった。ただ後になって、後といってもこのアルバムを発表したクラプトンとほぼ同じ年齢になった時、つまり32歳頃だろうか、何となくこのアルバムの良さが分かったような気がした。クラプトンのような浮き沈みの激しい人生は送っては来なかったものの、実の母に拒絶されたり、人を信じられなかったり、そういう経験は自分にも覚えがあったし、人生は理不尽なものだということも体感できていたからかもしれない。41b7xnxwqzl__sx466_   アルバムは、JJケイルの曲"Cocaine"から始まる。この曲は、アルゼンチンでは当時の軍事政府によって1984年まで発売禁止処分になった。理由は、若者が誘導されてドラッグに走ってしまうからというものだった。もちろん、クラプトンはこれを否定し、これはアンチ・ドラッグの曲ということをわかってもらうために、ライヴでは"that dirty cocaine"と歌詞を変えて歌っていたという。さすがクラプトン、このことをもっと早くから知っていたら、コカインに耽溺した芸能人も出てこなかったのかもしれない。全米のビルボードのシングル・チャートでは30位だった。

 "Wonderful Tonight"はライヴではもう少しゆっくりと演奏される曲で、この曲のエピソードはエリックの自伝映画でも述べられていたから、多くの人が知っているはずだ。ポール・マッカートニー夫妻が主催したバディ・ホリーを記念するパーティーに出かける間際の10分くらいの間に作った曲で、その10分というのは、当時の恋人だったパティ・ボイドの身支度を待っている間の時間だったのだ。
 だから歌詞にも、何の服を着ていこうか迷っている彼女に対して、”今夜の君はステキだよ”と臆面もなく囁いているのである。当時のパティはジョージ・ハリソンとの離婚が成立していたから、法律的にも道義的にも何の問題はないのだが、まあこうやって歴史の中で、また世界中に永遠に残っていくのだから、歌というのは考えようによっては諸刃の剣みたいなものだろう。ちなみにエリックとパティはこの2年後に正式に結婚し、その10年後に離婚した。もちろんこの曲は今でもステージ歌い継がれている。

 "Lay Down Sally"は全米シングル・チャートで3位まで上昇したヒット曲で、JJケイル風のカントリー・ブルーズを意識して作った曲だった。クラプトンのギターも小刻みに動いているが、当時のバックでギターを弾いていたテリー・リードのギターもクラプトンに負けじ劣らず頑張っている。
 このアルバムの優れているところは、いわゆる”捨て曲”が見当たらない点だろう。4曲目の"Next Time You See Her"もメロディアスかつポップであり、一度聞くとサビのフレーズが頭から離れない。クラプトンの歴史の中ではそんなに重要な曲ではないだろうが、それでもこのアルバムの中では、あるべきところに納まっている感じがする。

 それは次の曲"We're All the Way"にも当てはまることで、呟くようなクラプトンのボーカルが印象的だが、うっかりすると子守歌のように聞こえてきて、目を閉じると思わず眠りに落ちてしまいそうになった。この曲は、アメリカのカントリー・シンガーであるドナルド・レイ・ウィリアムスという人が作った曲で、彼はカントリー・ミュージックの殿堂入りを果たしている。ただ残念ながら2017年の9月、肺癌により78歳で亡くなった。

 レコードではここからサイドBになる。このB面の1曲目が強烈だった。この”The Core”という曲でのクラプトンのギターは、全盛期つまり60年代後半を彷彿させる音を出していて、聞き方によってはサックスのメル・コリンズとバトルを繰り広げているようだった。ただメインはやっぱりボーカルなので、曲自体は8分44秒もあるのに、バトルの時間はそんなに長くはないのが悲しいところだ。クラプトンと女性ボーカルのマーシー・レヴィの掛け合いもまたこの曲を際立たせている。

 "May You Never"はイギリス人のシンガー・ソングライターであるジョン・マーティンという人の持ち歌で、ポップなミディアムテンポの曲だった。大作"The Core"のあとの曲だったから、お口直しみたいな感じがするようなそんな小曲だった。この曲の作曲者だったジョン・マーティンも2009年の1月に肺に関する病気で、60歳で亡くなっている。彼は才能のわりにはイギリス以外では正当な評価を得ることができず、そのせいかドラッグやアルコールで苦しんでいたようだ。

 8曲目の"Mean Old Frisco"は、これもまたこのアルバムを象徴するようなカントリー・ブルーズ調の曲で、発表当時はクラプトンのオリジナル曲と記載されていたが、今はエルビス・プレスリーの曲"That's All Right"も書いたデルタ・ブルーズの巨匠アーサー・クルドップと表記されている。自分はどちらでもよいのだが、こうやって見ると、クラプトンという人は、自分のボーカル・スタイルに合う曲を見つけてきては、実に上手にカバーし、自分のものとしている。こういった音楽センスもまた一流ミュージシャンとしての証なのだろう。

 そして最後の曲"Peaches And Diesel"は、4分49秒のインストゥルメンタル曲だった。何となく"Wonderful Tonight"のインスト版みたいに聞こえてくるのだが、気のせいだろうか。この曲はクラプトンとアルビー・ギャルーテンというアメリカ人作曲家の2人で作った曲だった。このギャルーテン(もしくはガルーテン)という人は、13曲の全米ナンバーワンのヒット曲に携わった人で、主にビージーズやバーブラ・ストライザンドに曲を提供したり、彼らのアルバムをプロデュースしたりしている。91d1c0i64zl__sl1500_

 このアルバムは、それまでジャマイカやアメリカのマイアミでレコーディングされていたのを、久しぶりにイギリスのロンドンに戻り、プロデューサーをトム・ダウドからグリン・ジョーンズに替えて制作されたものだった。だからというわけではないだろうが、サックス・プレイヤーにあのメル・コリンズを招いたのだろうし、同じイギリス人としても呼びやすかったのだろう。
 従来のファンからすれば、イギリスに戻ったのでそれまでのアメリカナイズされた音楽から原点回帰されて、ブルーズ・ロック中心になるのではないかと思われていたが、実際は上記のようなカントリー・ブルーズやアメリカ南部のブルーズに影響された楽曲が中心になった。

 彼の伝記映画である「エリック・クラプトン~12小節の人生~」によると、当時のクラプトンはドラッグ中毒で、コカインからヘロインへとよりヘヴィなドラッグに移っていった。ヘロインはかなりお金がかかるようで、クラプトンでさえも経済的な余裕がなければやらなかったと告白していたし、静脈注射だと一度で多量に摂取してしまうので、鼻から吸引するようにしていたという。実際に、ヘリコプターで病院に運ばれたこともあったようで、現在、こうやって生きていられるのは彼自身奇跡のようなものだとインタビューに答えている。確かに、クラプトンのことを知っている人なら、だれしもそう思うに違いない。

 さらに、ドラッグだけでなくアルコール中毒にもなっていて、恋人のパティ・ボイドにも"Wonderful Tonight"のように優しく接するときもあったし、それとは全く逆に、我を失って空の酒瓶を投げつけたこともあった。もちろん酩酊していて自分が何をしているのかわからなかったのだろう。だから当時のパティに対して”奴隷兼パートナー”と後になって説明していた。クラプトンにとってもパティにとっても天国と地獄を往来していたに違いない。

 それにしても、そんな状態の中でこれだけレベルの高い、しかも商業的にも成功したアルバムを発表していたのだから、エリック・クラプトンとは、常識の範囲内では捉えきれない、あるいは常識で判断してはいけない、規格外のミュージシャンだと思う。もし彼がドラッグやアルコールに手を出していなかったなら、どうなっていただろうか。もっと素晴らしい音楽を創造できたかというと、それはよくわからない。あるいは全くの逆で、ドラッグやアルコールに手を出していたからこそ、これだけの音楽を創出できたのかもしれない。0eric_clapton105
 そして彼がなぜそういう危険なものに手を出していったかというと、それはやはり彼自身の弱さであり、ある意味、幼少期の親子関係からくる運命的なものかもしれない。自分は、彼自身が依存体質だと思っているし、実際、ドラッグとアルコールだけでなく女性(恋愛)にも依存していた。

 そして、クラプトンの偉大さは、そんな自分自身を対象化し、ブルーズという音楽とギター演奏という技術を通して、自分の想いや感情を万人に伝わるように表現していったところだと思っている。彼が死を意識し、それと隣り合わせでも今まで生きて来れたのも彼の類まれなる能力のおかげだろう。また、自分自身をブルーズという音楽の体現者として意識しているからに違いない。

 結局、彼は最終的には”ブルーズ”という音楽に依存していたからこそ、生き延びることができて、現在では満ち足りた生活を送ることができているのだと思っている。今年の4月には22回目の来日公演を行ったクラプトンだが、恐らく自分の人生がブルーズだと認識している限りは、これからも世界のどこかでライヴを行っていくだろう。

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2019年5月20日 (月)

ウィズ・ザ・ビートルズ

 久しぶりに、ザ・ビートルズのセカンド・アルバム「ウィズ・ザ・ビートルズ」を聞いた。自分のザ・ビートルズ体験を言うと、初期の曲はシングルを通してしか知らなくて、主に中期のアルバムを通して知るようになった。最初に印象を受けたのは1965年に発表された「ラバー・ソウル」だったし、最初に買ったアルバムは同じく65年の「ヘルプ」だった。もちろん"Yesterday"が収められている英国盤の方である。ただ、自分はザ・ビートルズと同世代に生きていたわけではなく、70年代になって遅れて知ったから、アルバムを聞いたときにはすでにバンドは解散していた。Withthebeatles2_700

 だからすでに解散していたこともあって、中期から後期へと聞き進んでいって、最後の「レット・イット・ビー」から初期のアルバムへとさかのぼっていった。そして「ウィズ・ザ・ビートルズ」を聞いてぶっ飛んでしまった。まさに革新的ともいえる珠玉の名曲群が並んでいたからだった。
 その前に、アルバム・ジャケットの写真を見て、子ども心でもカッコいいと思っていた。単なるモノクロームの写真なのだが、まるで夜空に浮かぶ半月のように、正面の顔の半分だけが照らされているし、背景も漆黒に塗り固められていた。のちに「ハーフ・シャドウ」と呼ばれるようになった写真だが、1963年のイギリスツアー中に、ホテルの食堂で撮影されたものだった。このアルバム・ジャケットを見ただけでも購買意欲がそそられるようだった。811yclohkal__sl1500_ 

 そして中身の曲も鮮烈で、斬新で印象的だった。特に冒頭の曲"It Won't Be Long"でのイントロなしの歌い出しや、ジョンとポールやジョージとの掛け合い(Yeah)などは、それまでそういった曲を聞いたことがなかったのでとても新鮮に思えた。さすがザ・ビートルズである。こういう発想はどこから出てきたのだろうか。アルバム冒頭に相応しいノリのよい曲でもある。

 続く"All I've Got to Do"もジョンの曲だが、一転してミディアム調のメロディアスな曲だ。あらためてジョンの作曲能力の高さを感じさせられた。ポールとともに2人の天才的なミュージシャンがいたのだから、売れないわけがない。当時の2人はいい意味で競い合って曲作りをしていたのだろう。

 そのポールが作った曲が"All My Loving"だった。並のミュージシャンなら、生涯を通してこういう曲1曲だけで充分評価されるだろうが、ポールはこのレベルの曲を何百曲と作ってきたのだから、まさに天才的なメロディーメイカーである。一度聞いただけで覚えてしまいそうなメロディーやジョージ・ハリソンのチェット・アトキンスをまねたリード部分は初期の彼らを代表するオリジナル曲だと思っている。

 4曲目の"Don't Bother Me"はジョージ・ハリソンの曲で、ツアー中のホテルの中で体調を崩した時に書いたものらしい。この曲も意外とメロディアスで、最初はジョージが作った曲とは知らなくて聞いていた。バンドの中では一番若かったジョージ・ハリソンだったが、ジョンとポールの影響を受けて曲作りを進めていった。ただ、アルバムには取り上げられる回数は少なかった。ジョンやポールとほぼ同じ水準の曲を作れと言われても、そう簡単にはいかなかっただろう。しかし、活動の後期には"Something"、"Here Comes The Sun"などのスタンダード曲と化した超名曲を発表している。

 "Little Child"は誰かのカバー曲だとずっと思っていて、”レノン=マッカートニー”の作品とは思っていなかった。実際は、ジョンの曲だそうで、ハーモニカもジョン自身が演奏している。ちなみにピアノはポールが弾いているらしい。
 "Till There Was You"はカバー曲で、1957年のミュージカル「ミュージック・マン」の中の挿入曲だった。ただし、ザ・ビートルズは、1960年のアニタ・ブライアントという人が歌ったバージョンを参考にしていて、レコーディングを勧めたのはポールだった。ここではジョージ・ハリソンがクラシック・ギターを、ジョンがアコースティック・ギターを演奏していた。

 A面最後の曲だった"Please Mister Postman"は、カーペンターズも歌った有名曲で、元はモータウンのR&B曲だった。モータウンの女性コーラス・グループのマーヴェレッツが歌って、1961年12月11日に全米シングル・チャートでNo.1になっている。

 1956年のチャック・ベリーの古典ともいうべき楽曲が、"Roll Over Beethoven"で、ここではジョージがリード・ボーカルをとっていた。こういう曲を聞くと、初期のザ・ビートルズはロックン・ロール・バンドだったということが分かる。おそらくデビュー前のハンブルグ修業時代から歌っていたのだろう。

 このアルバムには、メンバー間の”掛け合い”の曲が多く収められていて、この"Hold Me Tight"でも同様に聞くことができる。ポールの作った曲で、ホントはデビュー・アルバムに収められる予定だったが、出来具合が良くなくてセカンド・アルバムに収録されたもの。このアルバムの中の曲はどれも素晴らしくて捨て曲などないのだが、強いてあげれば、この曲くらいがやや薄い印象かもしれない。

 続く"You Really Got A Hold On Me"は、このアルバムの中で唯一3分に届いた曲で、オリジナルは、モータウン・レコードのスモーキー・ロビンソンとザ・ミラクルズが1962年に歌っていた。全米シングル・チャートでは、8位まで上昇している。ここではジョンが歌い、ジョージがハーモニーをつけ、途中からポールも参加して歌っていた。ピアノはプロデューサーだったジョージ・マーティンが担当している。

 "I Wanna Be Your Man"は、元々ザ・ビートルズが作った曲を当時のライバル・バンドとみなされていたザ・ローリング・ストーンズの2枚目用のシングルとして1963年に贈ったもので、楽屋でジョンとポールが書き上げた曲だった。このアルバムではリンゴ・スターがリード・ボーカルをとっている。リンゴは本当は"Little Child"を歌う予定だったらしいのだが、なぜかこの曲を歌うようになった。音域が合わなかったのだろうか。

 "Devil in Her Heart"もまたアメリカのアフリカ系アメリカ人女性グループ、ザ・ドネイズが、1962年に発表した曲。この曲はヒットせずに、ザ・ドネイズ自体もこのシングルだけを残して解散してしまった。ザ・ビートルズが取り上げたおかげで有名になった曲で、レコーディングを提案したのはジョージ・ハリソンだった。そのせいか、彼自身がリード・ボーカルをとっている。この曲もまた”掛け合い”が見事である。

 13曲目の"Not A Second Time"は、レノン=マッカートニーの作品で、実質的にはジョンが作った曲だった。もちろんボーカルもジョン自身である。当時のザ・ビートルズは、というか、ジョン・レノンとポール・マッカートニーは徐々にそれぞれ個人による楽曲制作が進んでいて、それぞれが作った曲をお互いにアドバイスを受けながらレコーディングを進めていったと言われている。そういう意味では、まだまだ共同作業といえるかもしれない。

 そして最後の曲、"Money"はバレット・ストロングというシンガーが1959年に歌ったもので、翌年にはモータウン・レコードから再発されて、全米シングル・チャートの23位を記録した。ジョンが歌い、ポールとジョージが”掛け合い”のコーラスを付けている。歌詞を見ると、とにかくお金が欲しいという切実な内容になっていて、夢も希望もないような現実的な歌詞だった。日本のロック・シンガーだった忌野清志郎もザ・タイマーズとしてレコーディングしていた。もちろん日本語で歌っている。 51zkg6zmj0l

 とにかく、このアルバムを聞いて思ったことは、この時期のザ・ビートルズはロックン・ロール・バンドだったということであり、さらにまた彼らが作ったオリジナル曲は優れていて、カバー曲は元のオリジナル曲よりもハードでロックン・ロールしているということだった。
 同時に、ロックン・ロールやリズム・アンド・ブルーズの影響が強くて、ヒットした曲からあまり知られていない曲まで、幅広いレパートリーを誇っているということだった。特に女性コーラス・グループの曲には詳しくて、その影響からか"掛け合い"を含む曲が目立っている。

 とにかく、21世紀の今でも影響力を残しているモンスター・バンドのザ・ビートルズである。聞くたびに新しい発見があり、それぞれの曲は、人によってそれぞれの想いを抱かせるパワーを秘めているようだ。

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2019年4月15日 (月)

クィーンのラスト三部作(3)

 映画「ボヘミアン・ラプソディ」にも登場したフレディの恋人のジム・ハットンによれば、1986年当時の様子について、次のように述べていた。『フレディには特定の恋人はいないと、世間の人やファンには思わせるようにしていた。そういう線で通した方が僕たちふたりにとって何かと楽に運ぶとフレディはずっと考えていた。実際その通りだった。メアリー(注:フレディの女性としての最初の恋人)は、もうずいぶん前からマスコミでフレディの生活に関わる人間として知られているから、彼女なら簡単にマスコミをあしらえるだろうとフレディは思っていた。でも僕のこと(注:ジム・ハットンのこと)は常にマスコミから守ろうとしていた。フレディは初めて自分の中に満ち足りた思いを感じているとインタビューにこたえていたが、それは僕たちのことを言っているのだと彼は僕に言ったんだ』

 同時期のロジャー・テイラーもジムに対して、フレディは以前とはまるで別人になったようだと言っていた。以前はみんながホテルに戻った後もゲイのたまり場をうろついていたのに、そんなことはもうしなくなった。いったいフレディに何をしたんだとわかってて聞いたようだが、ジムにとっては何よりの誉め言葉だったに違いない。
 確かにフレディ・マーキュリーはハード・ゲイのような態度や雰囲気を湛えていたから、その当時も暗黙の了解みたいなものがあったのだろうけれど、ゲイということは公式にも非公式にも明かされてはいなかった(と思う)。また、メアリーという女性の元恋人がいるなんて自分は全く知らなかった。そんなプライベートなことよりも、音楽性の方が大事だったし、バラエティ豊かな音楽性の中からファンクに走ったり、映画音楽を担当したりと、何となく方向性が定まらない80年代以降のバンドの行く先の方が、最大の関心事だった。また、それと同時に不安の原因にもなっていたのである。

 さて、「クィーンのラスト三部作」の最終回は、1995年に発表された「メイド・イン・ヘヴン」である。当然のことながら、フレディ・マーキュリーの死後発表されたアルバムだが、収録された曲の中には、1991年の「イニュエンドゥ」制作時に録音された曲をもとにして作られたものもあり、そういう意味では、フレディ・マーキュリーの遺作ともいうべき内容を伴っていた。
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 大雑把に言うと、フレディ・マーキュリーの死後、約4年間をかけて過去の既発や未発の曲を集めてきて、さらにブラッシュアップしたアルバムといえるだろう。つまり、フレディを除く3人がフレディの意志を引き継ぎ、バンドとしての最後の輝きを放とうとしたような、そんなバンドとしての結束性や力強さを感じさせてくれるアルバムなのだ。だからこのアルバムは、バンドとしての15枚目のスタジオ・アルバムとして公認されている。アルバムのフロント・カバー写真には、スイスのモントルーにあるジュネーヴ湖(別名レマン湖)のほとりに立つフレディの銅像の写真が使われていて、実際にこの場所は、観光地にもなっているという。
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 曲数自体は11曲と、以前のバンドのアルバムとしては多くはなく、むしろ少ない方だ。これはフレディの最後のレコーディングができるだけ数多く収録したものの、断片的なものしか残っていないということが主な原因だった。だから、他のメンバーの作品も収録されているのである。実際にブライアンは、当時を回顧しながら、「イニュエンドゥ」完成後もスタジオで生活しながら、フレディの調子のいい時を待ってレコーディングを行っていて、『バンドのメンバーは、フレディにとって残された時間は本当に少ないと聞かされていたからだ。僕らは目一杯、彼の意向に沿うことにした。彼は歌わせてくれ、書ける曲は何でも書いてくれ、それを歌うからと言っていた』と述べていた。

 プロデューサーだったデヴィッド・リチャーズは、普段のフレディの録音時の様子からこのアルバムを次のように判断していた。『フレディは、いつも最後にボーカルの音入れをやっていた。曲が完成するまで待ってから自分の声を入れていたんだ。ところが、「メイド・イン・ヘヴン」に収められている曲の中には、まだ曲が完成していないにもかかわらず自分の声を吹き込んでいるのもあった。自分の残された時間を考えると、曲が完成するまで待てなかったのだろう。だからこのアルバムは、彼が絶対にリリースしたいと考えていただろうし、彼の最後のアルバムだ、絶対に世の中に発表しないといけないと思ったね』

 2013年には、ブライアン・メイが「メイド・イン・ヘヴン」は、今まで制作してきたクィーンのアルバムの中で最上の作品だとインタビューに答えていた。『何より美しいし、作り上げるまでに長くて険しい道のりを歩んできたからだ。本当の愛の苦悩の結晶なんだ』確かに、どちらかというと、バラエティ豊かで、ある意味、散漫な印象もあったクィーンのアルバムの中では、“フレディの意志”という点では首尾一貫しているし、統一性があるといえよう。
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 1曲目の"It's a Beautiful Day"は、1980年のドイツのミュンヘンでデモテープが制作されていたものを、ジョン・ディーコンが2分32秒までに引き延ばしたもの。当時のクィーンは「ザ・ゲーム」のアルバムを制作中だった。その時にフレディが作った曲が原曲になっている。アルバムの全体の雰囲気をよく掴んでいる曲だと思う。

 2曲目のアルバム・タイトル曲"Made in Heaven"もまた、力強いフレディのボーカルを堪能できる曲で、1985年の彼のソロ・アルバム「ミスター・バッド・ガイ」の中の曲だった。バックの演奏は、このアルバムのためにブライアンとジョンとロジャーで再録している。
 "Let me Live"は、ゴスペル風味あふれるバラード曲で、元は1984年の「ザ・ワークス」制作時に作られたものだった。ロッド・スチュワートとともに録音されたと言われている。それをロッドの部分を削除して、録音し直されている。珍しいところでは、ボーカルがフレディからブライアン・メイ、ロジャー・テイラーと引き継がれて歌われているところだろう。また、歌詞がエマ・フランクリンの"Piece of My Heart"と似ていたため、著作権に引っかからないように改作されていた。

 "Mother Love"は、フレディとブライアンが一緒に作った最後の曲で、1991年の5月13日から16日にかけて録音された。曲の最後のヴァースになって、フレディはちょっと休んでくるといって、スタジオから出ていってからまた戻って書き上げた。しかし、それからはスタジオに戻ってくることはなく、仕方なくブライアンが最後の部分を歌っている。この曲にはまた、1986年のウェンブリー・スタジオのライヴ音源や"One Vision"、"Tie Your Mother Down"のスタジオ・ヴァージョンのイントロ、フレディが1972年に歌っているキャロル・キング&ジェリー・ゴフィンの曲"Goin' Back"もほんの一部ではあるが使用されていた。

 "My Life Has Been Saved"はジョン・ディーコンの作品で、元々はアコースティック・ヴァージョンだった。それを当時のプロデューサーだったデヴィッド・リチャーズがキーボードを加え、バンド全体で演奏して、1989年のシングル"Scandal"のBサイドに収録された。今回アルバムに収録するときに、フレディのボーカルはそのままで、演奏を取り直している。ちなみに、基本のギターやベース、キーボードはジョンが演奏している。

 6曲目の"I was Born to Love You"は、日本でも特に人気の高い曲で、テレビドラマやCMでも使用されていた。音源は「ミスター・バッド・ガイ」のアルバムからで、このアルバムではテンポを少し早くし、ブライアンのギターをフィーチャーしていて、この「メイド・イン・ヘヴン」の中では、ハード・ロックとして聞こえてきそうだった。

 7曲目の"Heaven for Everyone"もまたミディアム・テンポの曲で、いかにもフレディのボーカルを噛み締めて味あわせようとするかのような曲調だった。元々は1987年にロジャー・テイラーの書いた曲で、自身のバンド、ザ・クロスのアルバム用だった。ゲストとしてフレディが歌ったものをボーカル部分だけ取り出して録り直している。

 "Too Much Love Will Kill You"は、「ザ・ミラクル」前後にブライアン・メイとフランク・マスカー、エリザべス・ラマーズという3人が共作したバラード曲で、著作権の関係からか、それまでクィーンのアルバムの中では発表されず、のちにブライアン・メイの1992年のソロ・アルバム「バック・トゥ・ザ・ライト」で発表されている。「フレディ・マーキュリー追悼コンサート」で初めて公にされたもので、ブライアン・メイはピアノを弾きながら歌っていた。

 "You Don't Fool Me"は、何となくファンキーで、お洒落な感じを伴う曲で、クィーンらしくない。曲の枠組みはかつてのプロデューサーだったデヴィッド・リチャーズが手掛けていて、それにフレディがボーカルを入れ、バンドが演奏を加えている。ただ、このアルバムの中では躍動感があり、ハードではないものの、好印象を与えてくれる。この曲もフレディが亡くなる前の録音だと言われている。

 10曲目の"A Winter's Tale"は、フレディが病気の末期にスイスのモントルーに来て、自分のフラットで作曲したもの。彼の最後の自作曲だと言われている。そういう経緯があったからか、ジュネーヴ湖畔に彼の銅像が建てられたのだろう。この曲もまた、フレディ自身が死期を強く意識しながら書かれたものだろうが、哀しみや苦しみなどは全く感じさせず、むしろ彼の力強いボーカルに逆にこちらが励まされるようだ。まさに感動的なバラードで、クィーン・ファンでなくても、感慨はひとしおだろう。
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 11曲目は、冒頭の曲"It's a Beautiful Day"のハード・ロック・ヴァージョンだった。最後に"The Seven Seas of Rhye"のピアノが挿入されていた。アルバムのクレジットはこれで終わっているが、11曲目に続いて12曲目に"Yeah"という曲が収められているそうで、これは単にフレディが、"Yeah"と言っているもの。むしろ、11曲目の曲の最後にフレディが歌ったものと考えても問題はないようにも思えた。

 問題は13曲目で、22分32秒にわたって、アンビエント・ミュージックのようなサウンドが延々と続く。いわゆる隠しトラックだろう。約2か所くらいでちょっとした演奏っぽい雰囲気が伝わって来そうになったが、すぐに元の環境音楽に戻ってしまった。最後に一言が聞こえてきて終わるのだが、たぶんフレディの声だろうけれど、何と言っているのかわからなかった。ネットで検索してみると"FAB!"と言っていると書かれていたが、本当だろうか。でも、"FAB"って、“素晴らしい”という意味だけど、フレディは最後に自分の人生を振り返って、素晴らしい人生だったと思ったのだろうか。そりゃ自分の誕生パーティーに8000万円も一晩でお金をかけるのだから、素晴らしいに違いない。
 前述のジム・ハットンの手記によれば、そのパーティーの様子はすべてビデオ撮影されていたらしいのだが、あまりにもエグイので鑑賞に堪えられず、すべてお蔵入りになったという。関係者がこの世からいなくなれば、そのうちどこからか、ひょっこりと出てくるかもしれない。ただ一般公開は無理だろうけれど。
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 というわけで、遅ればせながら、映画「ボヘミアン・ラプソディ」の影響を受けて、クィーンの最後の三作品について綴ってみた。もちろんフレディ・マーキュリー自身も素晴らしい不出世のボーカリストだと思うが、最後まで輝かしいキャリアを築き上げることができたのも、他の3人のメンバーが彼の最後を看取るという決意で、彼を支えていったからではないだろうかと思っている。
 それはまた、彼がエイズという、当時では不治の病と言われた病気になってしまい、人生自体が限定的になってしまったからだろう。エイズという病に冒されたからこそ、最後の三部作は、輝かしい不滅の光を放つ作品群になったのである。

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2019年4月 8日 (月)

クィーンのラスト三部作(2)

 1980年代から90年代にかけて、先天性免疫不全症候群(通称;エイズ)という病気は、不治の病として恐れられていた。つまり、一旦、エイズウィルスを保持してしまうと、ほぼ間違いなく数か月から数年のうちに亡くなってしまうと信じられていた。
 もちろんそれは間違いではなくて、確かに当時では、発症すれば死を待つしかないのは事実だった。しかし、その対策が進んだ現在では、発症を遅らせたり、発症しても進行をくい止める方法が研究され、実際に感染後でも治療を開始すれば、余命は平均寿命に並ぶと言われている。それだけ臨床検査などで、新薬の開発が進んだせいだろう。

 それで、クィーンのフレディ・マーキュリーがもしそういう新薬を接することができていれば、今もなお現役で活躍していたかもしれない。もし生きていれば、今年で73歳になっていた。ミック・ジャガーが今年76歳だから、ほぼ同世代なのである。

 それで、今回は、クィーンの実質的なラスト・アルバムとなった1991年に発表された「イニュエンドゥ」について記すことにした。Innuendo
 前作のアルバム「ザ・ミラクル」が久しぶりに気合の入ったアルバムで、メンバー全員で制作されていて、セールス的にも好調だった。それで引き続きメンバーは、1989年の3月からロンドンやスイスのモントルーでレコーディングを始めたのである。
 当初は、1990年のクリスマス時期を狙って発表しようと計画されていたが、残念ながらフレディ・マーキュリーの病気の進行が早くて、その時期が遅れてしまったのである。

 当時のフレディ・マーキュリーについて、様々なメディアがエイズではないか、しかも末期症状だとか根拠のない噂話(実際は本当の話だったのだが)を書き立てていた。もちろん、彼自身はそれらを認めることはなく完全否定を続けていたのだが、1990年2月のブリット・アワードの授賞式で4人全員がそろった時のフレディのやつれた姿は、誰がどう見ても間違いなく何かの病気にかかっていると思われた。

 それで、1991年の2月に発表されたアルバム「イニュエンドゥ」は、初期のクィーン・サウンドが甦ったような原点回帰されたアルバムとして好意的に迎えられた。ただ、“イニュエンドゥ”とは、“暗示”や“ほのめかし”という意味だそうで、今となって考えればフレディの病のことについて仄めかしていたのだろう。

 冒頭のアルバム・タイトル曲の"Innuendo"は、ブライアンとロジャーとジョンの3人のジャム・セッションから生まれた曲で、2階で聞いていたフェレディは慌てて降りてきて、この曲にメロディと中間部の歌詞を付け加えたという。
 また、歌詞はロジャー・テイラーが引き継いで書き加え、シンセサイザーによるオーケストラは共同プロデューサーのデヴィッド・リチャーズが、途中のフラメンコ・ギターはイエスのギタリストであるスティーヴ・ハウが担当していた。彼はスタジオに遊びに来た時に、演奏してくれと頼まれたようだ。できればもう少し長く演奏してほしかった。イギリスでは、この曲が1991年の1月にシングルカットされて、見事に初登場1位を記録している。

 続く"I'm Going Slightly Mad"は、フレディの書いたミディアム・テンポの曲で、スイスのモントルーで作られたもの。この曲のプロモーション・ビデオは黒白のフィルムで、フレディもぼさぼさの髪に白い手袋をして出演していたが、かなりの厚化粧だった。メンバーのロジャー・テイラーもこの時のフレディの姿を見て、かなり深刻な病気だなと思ったと後に告白していた。

 "Headlong"はテンポのよいハード・ロック風の曲で、ブライアンのギターが目立っている。もちろんブライアンが書いた曲だが、彼は自分のソロ・アルバム用に録音していたのだが、フレディがこの曲を聞いて、クィーンのアルバムに入れることを強く主張したので収められたもの。ブライアンの書いた曲はギターが目立っているのでわかりやすい。

 続く"I Can't Live With You"もまたブライアンのソロ・アルバム「バック・トゥ・ザ・ライト」用にレコーディングされたものだが、クィーンの他のメンバーが気に入ってしまい、このアルバムに収録された。いかにもクィーンと言われそうなコーラスと後半のギター・ソロが、彼らの全盛期を彷彿させる。

 "Don't Try So Hard"はフレディの作ったバラード曲で、ファルセットで始まり、高い音域までカバーしている。もちろんエコー処理などの音響的なテクニックなどを使用しているのだろうが、初期の彼らのアルバムを聞いているような感じがしてきて、まさに“原点回帰”という言葉がふさわしい曲に仕上げられている、

 勇ましいタイトルをつけられた"Ride the Wild Wind"は、サーフィン用の曲ではなくて、カーレースのことをイメージされて作られたもので、バンドの中で車といえばこの人、ロジャー・テイラーが作った曲。デモ・テープではロジャーが歌っていたが、本番ではフレディが歌い、ロジャーはバック・コーラスに回っている。また、「オペラ座の夜」の中の"I'm in Love with My Car"の続編とも言われていて、いかにもロックン・ローラーであるロジャーらしい作品になっている。Qooonlineshop_pfmyhbevh0_1
 "All God's People"は、フレディが自分のソロ・アルバム「バルセロナ」用に作った"Africa by Night"という曲が原曲で、このアルバムの中で唯一、個人名義のクレジットになっている。つまり、他の曲はすべてクィーン名義なのに、この曲だけは”フレディ・マーキュリーとマイク・モーラン”名義になっていた。本来ならフレディとモンセラート・カバリエが歌うはずだったのだが、結局、選から漏れてしまったようだ。
 自分のアルバム用の曲だったので、ボーカルがかなり多重録音されていて、オペラチックな印象を受ける。それでもクィーン風のロックにアレンジされているところが素晴らしいし、アルバムに統一感をもたらしていると思う。4分21秒のオペラだろう。

 8曲目の"These Are the Days of Our Lives"は、ロジャー・テイラーの作品で、全体的にシンプルで落ち着いた曲調になっている。その中でブライアン・メイのギターが、飛翔するかのように鳴り響いているのが印象的だった。また、この曲のプロモーション・ビデオもまた黒白のフィルムで、フレディ・マーキュリーの生前最後の姿が映されていて、最後に彼の唇が"I still love you"と動いていた(曲の中では歌っている)。ファンに対する最後のメッセージだったのだろう。

 "Delilah"は、フレディが買っていた11匹の猫の中の最も愛した雌猫の名前で、もちろんフレディが書いた曲だった。ブライアンがトーク・ボックスというエフェクターを用いて猫の声のような音を出している。ただ、ロジャーは後にこの曲は好きではないとインタビューで告白していた。

 ハード・ロック好きならこの曲は気に入るだろう。"The Hitman"は、フレディが基本的なリフを書き、ジョンが肉付けをして、ブライアンがキーを代えてレコーディングしたもの。この曲を聞いて、フレディが不治の病に冒されているなどとは思いもしないだろう。それだけインパクトの強い曲でもある。

 "Bijou"はフレディとブライアンの2人だけで作った曲で、アイデアはフレディからもらい、フレディが歌ったあとをブライアンのギターがその音を拾っていくという作業から生まれたもので、ギターが歌詞の部分を、ボーカルがサビの部分を担当していた。
 また、イエスの1974年のアルバム「リレイヤー」の中の通称"Soon"という部分に関連付けられることが多いようだ。ブライアンは後に、ジェフ・ベックの1989年のアルバム「ギター・ショップ」に収録されていた"Where Were You"に影響を受けた曲だと述べていた。最後の曲になった次の"The Show Must Go On"の序章のようにも思える。

 そして"The Show Must Go On"である。曲の基本は、ブライアンとロジャー、ジョンで作られていて、曲のテーマと歌詞はフレディが手掛けている。ただ、最初の節の部分は、ブライアンも手伝っているようだ。曲調はクィーンの1989年の曲"I Want It All"に似ているが、ブライアンはバロック期のドイツ人作曲家であるヨハン・パッヘルベルのカノンにインスピレーションを受けたと語っていた。いずれにしても、このアルバムの白眉であり、フレディ自身が希望と諦観を同居させながらも、自分自身の死に対峙して歌っているところが、涙無くして聞くことはできないだろう。199e675ddf22914cd7de7330e5eebaff
 自分がこのアルバムを聞いたときは、まだフレディは生きていて、曲の中の力強いボーカルを聞いたときは、数か月後に彼が亡くなるとは思ってもみなかった。実際は、アルバム発表後の約半年後には亡くなっていたから、レコーディングやプロモーション・ビデオ制作時にはかなり衰弱していたようだ。そんなことはこれっぽっちも知らなかったから、このアルバムを聞いても、もう少しシングル向けの曲が欲しかったなとか、珍しくゲスト・ミュージシャンがいるなとか、そんな感想しか持てなかった。

 しかも、ここ極東の日本にいては彼の詳細な様子はわからず、1991年の11月23日にフレディがエイズに冒されているという報道があり、翌24日に45歳で亡くなったということを知ったのは、25日だった。自分にとってはあまりにも早すぎる彼の死であった。

 だからこのアルバムは、クィーン版“アビー・ロード”ともいうべきものであり、迫り来る死を自覚したフレディが最後の気力を振り絞って制作したものであり、文字通り彼の遺作なのである。

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2019年4月 1日 (月)

クィーンのラスト三部作(1)

 遅ればせながらクィーンである。昨年末のクィーン再評価現象は、本当に影響力があったようで、ついにはその再評価のきっかけとなった映画「ボヘミアン・ラプソディ」が、アカデミー賞の主演男優賞ほか4部門で受賞までしてしまった。当時を知る者としては、誠に感慨深いものがあった。71gio3nhzfl__sy355_
 ただあくまでも個人的な感想だが、自分は一度見れば十分というか、70年代から80年代にかけてロックの黄金期に、やりたい放題し放題、自分の才能のほとばしるままに彗星のように生きていったフレディ・マーキュリーのストーリーには、心情的にはあまり共感できないでいる。それは自己責任だから仕方ないよなあと、単純に思ってしまったからだ。

 ある人が言っていたけど、あのフレディの生き方が映画になるのなら、ジャニス・ジョプリンやジミ・ヘンドリックス、ジム・モリソンやジョン・レノン、あっ、ジム・モリソンの映画はあったなあ、つまりそんなロック史における夭折した天才ミュージシャンの伝記映画を作ろうと思えば、他にもいくらでも題材はあるだろう。何もフレディ・マーキュリーにだけ焦点化しなくてもいいのではないのかと言っていたが、まあそれも一理あるだろう。ただこの人はクィーン嫌いの人だったので、半分やっかみみたいのもあったのかもしれない。

 確かにほぼ同時期に、エリック・クラプトン自身がナレーターも担当した彼の伝記映画も上映されていたが、こちらはクィーンの映画ほどは話題にはならなかったようだ。320
 自分的にはこちらの映画の方がショッキングで、ドラッグでラりって演奏するシーンや鼻から吸引する姿も映し出されていたから、これはR指定してもいいのではないのかと思ったりもした。さらに、90年代に入ってからもアルコール中毒症だったことを告白していて、結局、60年代の終わりから、ドラッグかアルコールか、あるいは恋愛か、ずっと何かに依存症だったということになる。クラプトンの映画は、そういう驚きが満載の映画だった。

 それはともかく本題に戻すと、クィーンがというか、フレディ・マーキュリーが自身がエイズという病気のキャリアだというのが分かった1985年か86年だったわけで、それ以降にクィーンのメンバー4人で制作したアルバムが1989年の「ザ・ミラクル」だった。タイトルがいかにもフレディの病気のことを想起させてくれるが、これはアルバムの中にある曲名から取られたものだった。71x9rn0y47l__sl1078_
 思えば、1986年の「マジック・ツアー」終了後に、フレディは“最低2年はバンドを離れる”と公言していたし、その言葉通りに2年後の88年頃から、約1年をかけてこのアルバムのレコーディングが開始されて行った。
 ただ、この2年の間に何もしなかったというわけではなくて、フレディはスペインのオペラ歌手モンセラート・カバリエとデュエット・アルバムを発表したし、他のメンバーでは、ドラマーのロジャー・テイラーは自身のバンド、ザ・クロスを結成してアルバムの発表とそれに伴うライヴ活動を行っていた。ブライアン・メイやジョン・ディーコンも他のバンドのプロデュースやアルバムに参加していた。だから、誰もがクィーンは健在だと思っていたのだ。

 それでこの89年のアルバム「ザ・ミラクル」では、曲のクレジットがすべて“クィーン”名義になっていた。それまでは各曲ごとに実際に手掛けたメンバーの名前が記載されていたが、もう一度バンド結成の原点に戻って、全員でアルバムを手掛けることになるのだから、権利関係も公平にしようとしたのだろう。

 この辺の経緯は、映画「ボヘミアン・ラプソディ」にも描かれていたから、見た人は分かると思う。フレディと他の3人の確執を解消するために、3人がフレディに認めさせた形になっていたけど、作曲クレジットによる金銭問題は、制作意欲の減退につながり、やがてはバンド解散という危険を含んでいたのだろう。

 今回のブログ用に久しぶりに引っ張り出して聞いたけど、このアルバムなかなか良い。1曲目の"Party"からノリノリなのである。だいたいクィーンのアルバムは、1曲目が特徴的でユニークなものが多い。"Procession"、"Brighton Rock"、"Death on Two Legs"、"We Will Rock You"、"Mustapha"、"Radio Ga Ga"など個性的で独創的だ。
 ただ、アルバムのジャケット写真が気に入らなかった。特に、裏ジャケットのメンバー4人の目だけの写真が不気味で、同様のアイデアの写真はレインボーのアルバムにもあったけれど、ちょっと個人的には抵抗感があった。だから、何となくリピートして聞くのを、ためらっていたのかもしれない。

 このアルバムでも"Party"から"Khashoggi's Ship"へはメドレー形式で続いていて、このアルバムがロックン・ロール・アルバムであるということを定義付けている。"Party"はフレディとブライアン、ジョン・ディーコンの3人がジャム・セッションをしながら形作っていったもので、曲の冒頭部分だけブライアンが歌っている。

 "Khashoggi's Ship"は、フレディのアイデアに他の3人が曲を膨らませていったもので、まさに4人の共同制作曲だ。曲のモチーフは、サウジアラビアの大富豪で武器商人の所有している世界最大規模のヨットのことを意味していて、ある意味、皮肉を込めた反戦歌なのだろう。

 アルバム・タイトル曲の"The Miracle"もフレディ特有のミディアム・テンポ調から後半はギター・ソロとベース音がフィーチャーされていて、彼らの意欲というかやる気が伝わってくるのである。ただ転調が多い曲で、誰が聞いてもフレディが作った曲というのがすぐわかるというもの。実際は、フレディとジョン・ディーコンの共作曲だった。

 このアルバムは気力十分で作られているせいか、ハードで硬質なイメージを伴っている。言ってみれば、“ギター・オリエンティッド・アルバム”なのである。それがよく表れているのが、"I Want It All"であり、"Breakthru"だろう。
 また"The Invisible Man"は、リズムが独特というか、クィーン流ファンク・ミュージックを表していて、ちょうど82年のアルバム「ホット・スぺイス」の曲を進化させた感じだ。Miracle2compressor
 7曲目の"Rain Must Fall"は、ジョン・ディーコンが曲を書き、フレディが歌詞をつけたもので、ラテン・パーカッションの部分はロジャー・テイラーが書き加えたもの。“クィーン流カリプソ”あるいは“ラテン・ミュージック”ともいうべきか。でも、ギター・ソロが加わったラテン・ミュージックはあまり聞いたことがない。さすがクィーンである。

 "Scandal"は、ブライアン・メイがイギリスのプレスについて書いたもので、当時の彼の離婚というデリケートな問題やフレディのエイズ疑惑について盛んに書き立てていたので、それについて一言述べている。要するに表面的に面白おかしく記事にするんじゃなくて、もっと本質的な部分を見ろよと言いたいのだろう。この曲のシンセ・ベースは、このアルバムの共同プロデューサーだったデヴィッド・リチャーズが演奏している。

 "My Baby Does Me"もフレディとジョン・ディーコンの共作で、これも“クィーン流ブラック・ミュージック”だろう。この時期のこの手の楽曲は、80年代初期よりも洗練されていて、なかなかいい雰囲気を醸し出している。

 そしてアルバム最後の曲、"Was It All Worth It"は、ファンの間でも特に人気の高い曲で、人によってはこのアルバムの中のベスト・ソングだと推す人もいるようだ。デビューして間もない70年代初期のハード・エッジなエネルギーに満ちていて、確かにこのアルバムの方向性を示している。基本はフレディが作っていて、ベース・ラインはジョン・ディーコンが、ギター・パートはブライアン・メイが手を加えている。L_0203902
 とにかく、このアルバムは気合が入っている。曲のクレジットをバンド名にしたのもうなずける話だった。とにかく、当時は表ざたにはなっていなかったけれど、フレディ自身の病への自覚が、このアルバムを統一感のあるものに仕上げたのかもしれない。
 ただ、他のメンバーはフレディの病気については薄々気がついていたのかもしれないが、それについて言及するのは避けていたようだ。

 この「ザ・ミラクル」は、そういうメンバー間の緊張感も伝わってくるような素晴らしいロックン・ロール・アルバムだった。(To be continued...)

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2018年12月24日 (月)

エジプト・ステーション

 今日はクリスマス・イヴということだった。バブルの頃は、日本中が何かに浮かれていたような感じで、高級宝飾品が飛ぶように売れ、一流ホテルは一年以上前からブッキングされて満室状態という様子だった。最近のクリスマス・イヴは、みんなどういうふうに過ごしているのだろうか。

 自分が若かった時、クリスマス・イヴの夜に街に繰り出すと、飲み屋はどこもガラガラ状態で何故か異様にチヤホヤされたことがあった。店員さんは頻繁に話しかけてくるし、おしぼりやお水を持ってくるなどの接客が半端ではなかった。他にお客がいないのだから仕方がないことなのだが、独身の人たちは恋人や友人と過ごすだろうし、家庭を持っている人はこの日ばかりは家族で過ごしたのだろう。そんな思い出がクリスマス・イヴの日にはある。

 それで神聖なそんな日に相応しいアルバムを紹介しようと思う。イギリス人の貴族であるサー・ポール・マッカートニーが今年の9月に発表したアルバム「エジプト・ステーション」である。アルバム・ジャケットは、ピラミッドの壁画のような横6面体の変則ジャケットだった。これはポール自身が1988年に制作したペインティングであり、絵の中に象形文字も書かれているという。81xh4mfzl__sl1000__2
 何しろ5年ぶりのニュー・アルバムということで事前の期待も高かった。しかも10月31日からは「フレッシュ・アップ・ジャパン・ツアー」という来日公演も予定されていたから、これはもう話題殺到だった。
 このアルバムは全16曲(国内盤はボーナス・トラック付きの18曲)が収められていて、約57分(国内盤は約64分)の間、ポールの楽曲に合わせてトリップ出来るということが謳われていた。

 どういうことかというと、今作はポールというか、ザ・ビートルズが得意としていたコンセプト・アルバムで、“エジプト・ステーション”という架空の駅を舞台に、人々が自由に往来するというテーマだったからだ。ポールは“1時間のヘッドフォンの旅”という譬えをしていたけれど、その通りだと思った。Main_2
 このアルバムについて、ポールは次のように述べていた。「最近のスターであるビヨンセやテイラー・スウィフトなどのアルバムはヒット・シングルの寄せ集めに過ぎない。ピンク・フロイドやザ・ビートルズのような流れがそこにはないんだ。それにテイラー・スウィフトみたいなミュージシャンには勝ち目がないし。何しろ足で負けているからね。
 自分は何が得意かというと、コンセプト・アルバムなんだ。全体を通して流れがあり、どこかに連れて行くようなアルバムだよ。新作はそんなアルバムだし、ジャケットにもエジプトの象形文字が含まれているからね」

 「このアルバムは駅のざわめきから始まる。駅の中に入ると、聖歌隊の歌声が聞こえてくる。ざわめいた駅が神聖な場所へと姿を変えるんだ。トリップだよ。そして、最後も駅に戻ってくる。それがコンセプトだよ。好きな曲だけ飛ばして聞きたい人はそうしてもいいし、全曲を聞きたい人は最後まで聞いてほしいな」

 というわけで、御年76歳にもかかわらず、音楽に捧げるこの情熱や創作欲には、ただただ頭が下がるばかりである。
 普通なら引退してもおかしくない年齢だし、実際、昔は名を馳せた有名ミュージシャンやバンドも引退状態で、最新アルバムは過去のアルバムのリマスター盤か、せいぜい最新ライヴ盤を出す程度だ。やっていることはどちらも過去のヒット曲というだけで、確かにファンなら喜ぶだろうが、そこには進歩も成長も見られない。

 ところが、ポール・マッカートニーは違う。2013年には「アウト・ゼア・ツアー」で11年振りに来日を果たしたかと思うと、2015年、2017年と立て続けに来日してツアーを行っている。そして今年もそうだった。その間に新作をレコーディングしていたのだから、この人の精神構造というか、創作意欲はいったいどこから湧いてくるのだろうか。まさに“メロディー・メイカー”であり、“ジーニアス”という名称がふさわしいミュージシャンである。

 今の彼には“元ザ・ビートルズ”という肩書は不要だろうし、名誉やお金のために音楽を創造しているわけではないだろう。お金など使いきれないほどあるだろうし、何もしなくても著作権などでかなりの額が入ってくるだろう。
 そんな人がそれなりに苦労しながら(たぶん)、曲を書き、演奏してレコーディングを行い、アルバムにまとめるのだから、これはもう黙って耳を傾けるしかないだろうということで、早速聞いてみたのだった。

 第一印象は、ポールの特徴がよく表れているということだった。つまり起伏のあるメロディー展開を基本としながらも、木管楽器や金管楽器、シタールなどの様々な楽器を使って、ロックからバラード、ダンス・ミュージック、サイケデリック風味の曲などが混然一体となりながらも、トータル・アルバムとしてリスナーに迫ってくるのである。

 今までのポールの音楽の集大成という見方もできるし、総合力を結集したともいえるだろう。個人的には1978年のアルバム「ロンドン・タウン」のような雰囲気があったし、それに1982年の「タッグ・オブ・ウォー」のようなコンセプトと曲の流れを加えたようなそんな感じがした。712tldatj4l__sl1094_
 プロデューサーは、アデルやベック、フー・ファイターズ等のアルバムを手掛けていたグレッグ・カースティンという人で、元々音楽大学を卒業したジャズ・ピアニスト出身の作曲家兼スタジオ・ミュージシャンだった人だ。
 ただ1曲"Fuh You"という曲についてはライアン・テダーという人が担当していて、これはスケジュールの都合上でそうなったようだ。

 普通のミュージシャンなら、プロデューサーが戻ってくるまで待つとか、自分でできるところまで進めておくとか、そういう方法をとると思うのだが、ポールはどうしても待てなくて、急遽探してきてようだった。ミューズの神が下りている間に、何とかやり遂げたかったのだろう。天才型ミュージシャンはやはり普通の人とは違うのである。

 このライアンという人も凄腕のプロデューサーで、エド・シーランやアデル、ビヨンセなどとも共演している。そういう人に声をかけて、すぐに担当させることができるというのも凡人には程遠い行いだろう。

 ライアンは、ポールに電話で何をしたいのかと聞いたらしい。するとポールは、「ヒット曲だ」と答えると、ライアンはすかさず「それなら僕に任せて。世界はヒット曲が大好きだから」と言った。確かにヒットする要素はある曲だった。
 それでも時にはポールは、曲の上に即興で歌詞をつける作業に怒りを露わにして、「僕には意味のある曲を書いてきたというキャリアがあるのに、いま行っていることには意味があるのか」と憤ったという。この辺はジェネレーション・ギャップの表れかもしれない。

 ライアンとは3曲ほど一緒にレコーディングしたそうだが、そのうち1曲がアルバムに収録された。残りの曲はいずれ世に発表されるに違いない。そんな未発表曲を集めれば、すぐに3枚組の、いやそれ以上のボックス・セットくらいはなるだろうなあ。

 全16曲のうち、冒頭の曲と15曲目は短いインストゥルメンタル曲だ。曲というよりは環境音楽といってもいいかもしれない。
 2曲目の"I Don't Know"と3曲目の"Come On To Me"が両面シングルとして発表されたもので、"I Don't Know"がピアノ中心の穏やかな曲で、"Come On To Me"の方はエレクトリック・ギターやピアノ、ハーモニカ、ブラス・セクションなどが使用されたミディアム・テンポのややハードな曲だ。インタビューの中では、"I Don't Know"はポールがこのアルバムの中で一番好きな曲と答えていた。

 4曲目の"Happy With You"はアコースティック・ギターがメインの楽曲で、肩の力を抜いたようなリラックスした状態で歌っている。ここまでの曲の流れが「ロンドン・タウン」の最初の方の曲と似ていると感じたのだ。
 ただ残念なことに、声自体の衰えは否定できない。もし20歳代のポールが"Happy With You"を歌ったならば、"Mother Nature's Son"や"Blackbird"、"I Will"と比較されるほど話題になっただろう。

 それでも"Who Cares"ではしっかりとシャウトしているし、"Fuh You"でも高音部までしっかりと歌い上げている。76歳になってもここまでできるのだ。奇跡の76歳、自分もこうなりたいものである。
 12弦ギターの弾き語りというか、コード・カッティングをバックに歌っている"Confidante"を挟んで、平和を訴えた"People Want Peace"、ピアノ主体のバラード曲"Hand in Hand"と続いていくが、この辺は比較的おとなしめの曲が続いている。年相応というべきか、そういう意図があるのか、よくわからない。

 10曲目の"Dominoes"あたりから少しずつ様相が異なって来ていて、"Dominoes"は転調の多いミディアム・テンポの曲で、「バンド・オン・ザ・ラン」や「ヴィーナス・アンド・マーズ」の頃の佳曲を思い出させるし、ラテン音楽にインスパイヤされた"Back in Brazil"はポールのアイデアの豊富さを示している。

 "Do it Now"もまたピアノがメインのスローな曲で、後半にストリングスが用いられて壮大な風景が現出する。一旦終わったかと思ったら、また復活するところもかつての曲のアイデアを拝借しているようだ。冬景色の中の家の中で、暖炉の前でうたた寝をしているような気持ちにさせられる。3分17秒しか何のだが、5分くらいの長い曲に感じさせてくれた。

 "Caesar Rock"は“She's A Rock”との掛詞のようで、ポールの遊び心満載の楽曲に仕上げられている。全く意味不明の歌なのだが、その意味不明さが、逆に面白さに拍車をかけている。曲調も勢いがあって、なかなかインパクトがある。

 アルバムの中で一番問題作なのは、14曲目の"Despite Repeated Warnings"だろう。誰が聞いてもこの歌は、世界で一番有名な大統領のことを指しているということが分かるだろう。“Captain is Crazy”というところが痛快無比、拍手喝采である。
 楽曲の展開は、シングルの"Band on the Run"に似ていて、転調に次ぐ転調で、グイグイと引き込まれて行く。6分58秒の大作だが、まだまだこういう曲が書けるところが、並の老人ではないのである。

 オリジナルでは最後の曲、"Hunt You Down/Naked/C-Link"は、タイトル通りのいくつかの曲のイメージを合体させたもので、これもまた6分22秒と長い曲になっている。

 このアルバムの中では、一、二を争うほどのかなりハードな"Hunt You Down"からロッカ・バラードの"Naked"、ピンク・フロイド風のプログレッシヴ・ロック的な"C-Link"へと連なっていく。1973年の「レッド・ローズ・スピードウェイ」の中に"Loup"という曲があったが、あれを少しブルージィーにしたような感じだ。デヴィッド・ギルモアだったら喜んでギター・パートを担当しただろう。

 このアルバムは世界中で評価され、商業的にも成功している。本国イギリスでは最高位3位で終わったが、ドイツやスコットランドでは1位、ベルギー、オランダ、オーストリアなどのヨーロッパの国々でも2位などを記録しているし、アメリカのビルボードでは「タッグ・オブ・ウォー」以来、36年振りにNo.1に輝いている。Http___i_huffpost_com_gen_2890924_i
 今年の7月26日に、リバプールのキャバーン・クラブでシークレット・ギグを行ったポールだが、このアルバムの中から"Come On To Me"、"Confidante"、"Who Cares"、"Fuh You"の4曲が披露された。ポール・マッカートニー、まだまだその能力には翳りは見えないようだ。

*ポールのインタビューに関しては、雑誌「ロッキング・オン」の10月号と11月号を参考にしました。

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2018年12月10日 (月)

ライヴ・アット・リーズ

 “レコードの時はショボかったけど、CD化されてお買い得になったアルバム”シリーズの最終回である。前回はアメリカン・ロックを代表して、オールマン・ブラザーズ・バンドのライヴ・アルバムだったが、今回はブリティッシュ・ロックを代表して、ザ・フーのアルバムについて記したい。Thewho
 ザ・フーが初めて発表したライヴ・アルバムが「ライヴ・アット・リーズ」だった。これはザ・フーがイギリス北部にある地方都市の大学で行った公演をレコーディングしたものであり、最初からライヴ音源として発表することを意図して企画されたものだった。

 公演が行われたのは、1970年の2月14日である。ザ・フーは、前年の5月に歴史的名盤であるロック・オペラの2枚組スタジオ・アルバム「トミー」を発表していて、その後アルバムのプロモーションも兼ねてツアーで演奏して回り、アルバム全曲を披露することで彼らの人気はますます高まっていった。また、ツアーにはあのウッドストックでのライヴ演奏も含まれていて、彼らの人気はアメリカでも急上昇していった。

 このアルバムとツアーの成功で、彼らはそれまでのシングル・ヒット中心のロック・バンドから攻撃的で破壊的なステージングのみならず、文学的で哲学的なロック・バンドとして認められるようになったのだが、当時の彼らの最高のパフォーマンスを記録として残すと同時に、世の中に発表したのがこのリーズ大学でのライヴ演奏だったのである。

 この時の様子を、バンド・メンバーのピート・タウンゼントは、次のように語っていた。「このアルバムには、当時の俺たちの音には、並外れた流動性があるってことを証明しているんだ。恐ろしいほどのパワーが漲っていた。
 そして、ザ・フーにとって重要なことは役割が逆転していたってことだ。つまり、リード・ギターがベース兼ドラムスで、ベースとドラムがリード・ギターの役割を果たしていた。それでもベースとドラムは、リード・ギターに支えられてリズムをリードしていたっていうのかな。疑問に思うかもしれないけれど、この素晴らしいやり方がとてもうまく作用していた。8トラックでレコーディングしたわりには良く録れたと思うよ」Maxresdefault
 この「ライヴ・アット・リーズ」のプロデューサーも兼ねていたピートだから言える言葉だろう。このライヴ・アルバムに行きつくまでに、彼らはイギリスやアメリカで行ったライヴの模様をレコーディングしていたのだが、なかなか満足するものがなかったらしい。
 それで、彼らはリーズ大学で移動式のレコーディング・システムを持ってきて録音したのだが、万一、うまく行かなかったことを考慮して翌日もレコーディングを行った。これが世に名高い“ハル公演”である。

 結局、「ライヴ・アット・リーズ」は、1970年の5月に発表されたのだが、当然その時はレコード形式だったので、全6曲、約36分として収録された。
 それでもこのアルバムは、圧倒的な高評価を受けて、全英で3位、全米で4位を記録し、当時最高のライヴ・アルバムといわれていた。ちなみにその6曲とは、次のようなものだった。
サイドA
1.Young Man Blues
2.Substitute
3.Summertime Blues
4.Shakin' All Over
サイドB
1.My Generation
2.Magic Bus61dorxcsjjl__sl1184_
 今の時代からは信じられないのだが、たった6曲で“最高のライヴ・パフォーマンス”と呼ばれるくらいだから、どれだけ彼らのエネルギーというかパワーが凝縮されていたのだろうかと思ってしまう。それだけ彼らのライヴ・アルバムを待望する機運が高まっていたのだろうし、それだけでなく、実際にレコードを通して、凄まじい彼らのライヴ・アクトを経験することができたからだろう。

 そして、1995年に「“ライヴ・アット・リーズ”25周年記念アルバム」が発表され、それにはほぼ当日のセットリストに従って14曲が収められていた。41nlgxragml
1.Heaven And Hell
2.I Can't Explain
3.Fortune Teller
4.Tattoo
5.Young Man Blues
6.Substitute
7.Happy Jack
8.I'm A Boy
9.A Quick One, While He's Away
10.Amazing Journey/Sparks
11.Summertime Blues
12.Shakin' All Over
13.My Generation
14.Magic Bus

 御覧の通りに、オリジナル盤より8曲も増えている。これはやはり“レコードの時はショボかったけど、CD化されてお買い得になったアルバム”に認定されてもいいんじゃないかと思っている。71mdnkayiol__sl1194_
 ただここには、当時ツアーで演奏されていた「トミー」の楽曲は含まれていなかった。いや、正確に言うと、10曲目の"Amazing Journey/Sparks"は「トミー」に含まれていたので、それ以外の曲は収録されていなかったということになる。71l0lbkof2l__sl1257_
 それでもザ・フーのファンならば、「25周年記念エディション」でも十分満足できただろう。かくいう自分もこのCDは購入してしまった。
 ところが、それを凌駕する「“ライヴ・アット・リーズ”デラックス・エディション」が2001年に発表されたのだ。31周年記念だったのだろうか。51ue6cacudl
 このアルバムは2枚組になっていて、ディスク1が"Amazing Journey/Sparks"を除く全13曲、ディスク2は「トミー」全曲、全20曲が収められていた。
 オリジナルの「トミー」は2枚組、全24曲だったから、このライヴ・ヴァージョンでは4曲が削られていた。削られた4曲は次の曲たちだった。数字はオリジナル盤の曲順を意味している。
サイドB
2.Cousin Kevin
4.Underture
サイドC
8.Sensation
サイドD
4.Welcome

 アルバム「トミー」の楽曲は、実際にはディスク1の9曲目と10曲目に演奏されていた。だから「25周年記念エディション」では、その残滓として"Amazing Journey/Sparks"が残されていたのだろう。
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 また余談だが、このエディションでは、ディスク1における"Happy Jack"と"A Quick One, while He's Away"のボーカル部分をロジャー・ダルトリーが、"Heaven And Hell"のボーカルの一部をジョン・エントウィッスルが録音し直している。つまり25年後の声を入れたわけだが、全く違和感を覚えない。レコーディング技術が進歩したせいだろうか。

 ところが、である。これで終わったと思ったのだが、商魂たくましい、いやファンの心情に寄り添ったレコード会社は(なぜかポリドールが多いような気がするのだが)、2010年に今度は「40周年記念コレクターズ・エディション」を発表したのだ。

 これにはリーズ公演の次の日に行われた「ハル公演」(ハル・シティ・ホールにおける演奏)も含められており、ハル公演でのディスク1では"Magic Bus"が収録されていなかった。(ディスク2は全20曲で同じだった)
 また、「スーパー・デラックス・コレクターズ・エディション」というのも発表されていて、これには「リーズ公演」と「ハル公演」の合計4枚のCD、オリジナルLPに7インチ・シングル、豪華写真集などが備えられていて、お値段的には25000円以上もした。当然ながら、貧乏な自分は手を出していない。41skbdqml
 さらにさらに、2014年には音楽配信、いわゆるダウンロードして聞くことができるようになり、これは当時のセットリスト通りに全33曲を通して耳にすることができる。これも有料なのはいうまでもない。
 そして、2016年にはアナログのレコード盤でも入手することができるようになって全3枚組らしいが、自分はまだお目にかかっていない。

 次は紙ジャケ化とか、「50周年記念」とかになるのかもしれない。一体いつまで続くのかわからないが、“レコードの時はショボかったけど、CD化されてお買い得になったアルバム”については、「ライヴ・アット・リーズ25周年記念エディション」までで十分なように思うのだが、どうだろうか。

 というわけで、ミュージシャンたちも高齢化すると、なかなか新作を発表できないでいるが、その代わりに今まで表に出なかった曲などを含めた既発アルバムの再編集盤が発表されるのだろう。
 それにはスタジオ・アルバムよりも、当時の“熱狂”や“興奮”が詰まったライヴ・アルバムの方がふさわしいし、ファンもそれを望んでいるはずだ。

 まだまだ探せばこのテーマに相応しいアルバムは見つかるだろうが、きりがないのでこの辺で終わらせたい。みんなで、このアルバムやあのアルバムなどと、話題にしてみるのも面白いと思っている。

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