2019年11月 4日 (月)

ホワイト・アルバム発売50周年記念盤

 ザ・ビートルズのアルバム「アビー・ロード」の発売50周年記念盤が世に出回っていて、好評のようだ。もう発売から半世紀も経ったのかと思うと感慨もひとしおだが、今回のお題はそれではなくて、昨年発売された「ホワイト・アルバム」の方である。

 話は脱線するのだが、この"白い盤"には思い出があって懐かしい。1970年代のことだが、当時のザ・ビートルズ関連のレコードは値段が高かった。他のミュージシャンやバンドのアルバムは2200円というのもあったのだが、ザ・ビートルズのアルバムはきっちり2500円したし、2枚組の「ホワイト・アルバム」にもなると5000円もしたのである。当時の配給会社である東芝EMIの戦略だろう。同じ東芝EMIのピンク・フロイドのアルバムはもう少し安かったのに。あのレッド・ゼッペリンの2枚組ライブでも3600円だったはずだ。それでも売れるのだから、さすがザ・ビートルズである。

 それで当時貧乏だった自分は、なかなか「ホワイト・アルバム」を買えないでいた。だからお小遣いを貯めようと思ったのだけれど、そのお小遣い自体がなかった。それで修学旅行で持って行ったお小遣いをなるべく使わずに持って帰り、そのお金でやっと「ホワイト・アルバム」を手に入れたのだ。何という涙無くしては語れない話だろうか。そういう意味でも、非常に意義深いアルバムだったのだ。

 それでアルバムがCD化されたときも、もちろん購入した。CDもレコードと同じ2枚組だった。その後も"ザ・ビートルズ販売戦略"は続き、モノラル盤や紙ジャケット盤、リマスター盤といろんな種類が出されたが、やっている曲自体は同じなのだからそんなものは必要ないと思っていた。ところが、2018年には発売50周年記念盤ということで、デラックス盤は6枚組+ブルーレイ盤付きで、通常盤でもCD3枚組になっていた。えっ、3枚組ってどういうこと、ボーナス・トラックがそんなにあったのかと思ってしまったのだが、実際は少し、じゃなくて、かなり違っていた。当時のデモ・トラックが20曲以上収められているということで、それならちょっと聞いてみようと思って購入したのだった。もちろん中古の輸入盤である、いまだに貧乏なのだから仕方ない。71lgdiwklgl__sl1500_   この音源は"イーシャー・デモ"と呼ばれていて、コアなファンなら昔から知っていたことだ。あの「アンソロジー・シリーズ」でも「シリーズ3」の中に一部(7曲)は収録されていたし、ブートレッグでもかなり浸透していた。ジョージ・ハリソンの"While My Guitar Gently Weeps"のアコースティック・バージョンも以前から聞いていたので知っていた。でも、こうやってまとまったもの、全27曲が一度に収録されている公式盤はなかったので、これはぜひ「一家に一枚」と思い、手に入れたのである。

 もう一度確認のために記すと、"イーシャー・デモ"とは1968年の5月に、インドからの瞑想旅行から戻ってきたメンバーが、サリー州のイーシャーという場所にあったジョージ・ハリソンのコテージに集まって、レコーディング・セッションを行った時の音源を指す。当時のジョージのコテージには本格的な、ただし4トラックのレコーディング・システム(といってもオープン・リールだった)が設置されていて、いつでも好きな時にレコーディングできた。それでも設備的には一般的なレコーディング・スタジオと変わらない音質だったという。Kinfauns_george_harrison_house

 ただ、スタジオではなかったため、持ち込める機材は限られており、ほとんどがアコースティック・ギターだった。つまり90年代に流行した"アンプラグド"の原型が、この"イーシャー・デモ"だったわけだ。さすがザ・ビートルズ、30年後のことを予想していたのか先見の明がある。
 冗談はともかく、この音源を聞くと、とても彼らの関係が険悪だったとは思えない。少なくともこの時点では、まだまだバンドという形態を保っていたし、お互いに声を掛け合ったりと、とても友好的なのが分かる。全体的に、キャンプファイヤーをしながら歌っているような感じがするし、手拍子や拍手なども入っている。曲自体もほとんど完成されていて、「ホワイト・アルバム」の中の楽曲と比べても、曲によっては全く遜色のないものもある。彼らは、インドでの瞑想旅行中、瞑想以外にほとんどやることがなかったらしく、曲ばかり作っていたようだ。だから、ポールは1ダースくらい、ジョージは6曲、ジョンは15曲くらい作ってこのイーシャーに集まったという。その曲をお互いで披露しあったのだろう。

 CDの3枚目に収録されている"イーシャー・デモ"の曲順は、「ホワイト・アルバム」の順番に似せている。このアルバムをリミックスしたジャイルズ・マーティンの意向なのだろうか、よくわからない。だから"Back in the U.S.S.R."、"Dear Prudence"、"Glass Onion"と曲は続いている。"Back in the U.S.S.R."も"Dear Prudence"もアコースティック・ギターとポール、ジョンのそれぞれのボーカルはダブル・トラックでレコーディングされている。"Back in the U.S.S.R."にはボンゴのようなシンプルなパーカッションが使われていて、たぶんオーバーダビングされたのだろう。"Glass Onion"の歌詞は一部まだ確定していなかった。  71fezkjidl__sl1123_   "Ob-La-Di, Ob-La-Da"もギター一本で演奏されているし、変なかけ声も挿入されていたが、メロディ自体は正規盤と変わりはない。"The Continuing Sory of Bungalow Bill"も手拍子が入っていて、基本はのちの「ホワイト・アルバム」と同じだが、裏声やオノ・ヨーコが歌う部分はない。"While My Guitar Gently Weeps"はややテンポが速すぎて、叙情性に欠けているが、ギター一本で歌われると、さすがに曲の芯の部分が露わになるので、確かに良い曲だとわかる。

 ジョンの"Happiness is A Warm Gun"は断片的に作った曲を繋ぎ合わせたものということが分かるし、"I'm So Tired"や"Blackbird"などは、このまま収録してもおかしくないほど、すでに体裁を整えている。ハープシコードの伴わない"Piggies"はシンプルだし、元々アコースティックだった"Rocky Raccon"は、「ホワイト・アルバム」での同曲の冒頭の部分が省略された形でレコーディングされていた。まだ未完成だったのだろう。一方で、ジョンの"Julia"はほぼ完成されているし、"Yer Blues"はやや淡白すぎて粘っこさがなかった。曲はいいのだが、ブルーズまでは昇華されていないようだ。

 "Mother Nature's Son"は完成型だし、"Everybody's Got Something to Hide Except Me and My Monkey"ではイントロのハードなエレクトリック・ギターによる演奏がないので、ラフな感じに聞こえてくる。ジョンの声も裏返っていないし、まだ未完成という感じがした。一方では、"Sexy Sadie"はほとんど完成している。"Revolution"は「ホワイト・アルバム」のそれをシングル・バージョンのテンポで演奏していて、これが「ホワイト・アルバム」ではスローになったんだなあということが分かった。この時までは、ジョンもザ・ビートルズのリーダーとしての自負もあったのではないだろうか。ジョン主導の曲の方が元気がいいような気がしたからだが、まさか1年後には解散状態になるとは思っていなかっただろう。

 ポールの作った"Honey Pie"もメロディーは完成していて、「ホワイト・アルバム」では歌詞の一部を手直ししたようだ。"Cry Baby Cry"も同様にほぼ完成しているが、アウトロの"Can You Take Me Back"は付属していない。そこはポールが後でつけ足したものだった。ジョージの作った"Sour Milk Sea"は「ホワイト・アルバム」に収録されていない。のちに当時のアップル・レコードに所属していたジャッキー・ロマックスというシンガーに、デビュー・シングルとして提供している。ちなみにこのシングルにはジョン以外のザ・ビートルズと、エリック・クラプトン、ニッキー・ホプキンスなども参加していた。

 "Junk"もまた「ホワイト・アルバム」には収録されていなくて、1970年のポール・マッカートニーのソロ・アルバムに収録された。ここでは歌詞の部分がまだ未完成で、ハミングしているところもあった。ただ、この時点でメロディ自体は完成していたから、しばらくポールが温めていたのだろう。"Child of Nature"も同じように、ジョンがのちに1971年の「イマジン」に収録したものだ。ただその「イマジン」では、曲のタイトルが"Jealous Guy"に変更されている。このデモではマンドリンやマラカスなども使用されている。ジョンといいポールといい、良い曲をストックしていたのだろうし、お互いがあの曲はザ・ビートルズ時代に作った曲をモチーフにしているとわかっていただろう。そういう意味でも二人はライバルであり、競い合っていたのかもしれない。

 "Circles"はジョージが作った曲で、この曲もまた「ホワイト・アルバム」未収録である。このCDの後半は未収録曲が並んでいる。ただ、1982年に「ゴーン・トロッポ」というアルバムにジョージ自身が収録していた。ここではハーモニウムが使用されていて、何となく瞑想用のインド音楽といった感じだ。続く"Mean Mr.Mustard"と"Polythene Pam"は「ホワイト・アルバム」には収録されなかったものの、ご存知のように「アビー・ロード」の後半のメドレーに使用されている。"Polythene Pam"は1分26秒しかなかったから、単独では使いにくかったのだろう。

 "Not Guilty"はジョージの曲だが、「ホワイト・アルバム」には使用されていないものの、のちの彼の1979年のソロ・アルバム「ジョージ・ハリソン」でやっと日の目を見ている。また「アンソロジー3」で、違うテイクの音源が使用されている。この曲だけで102テイクを要したというから、他にも違う音源があるに違いない。
 そして最後の曲"What's the New Mary Jane"はジョンが作った曲だが、ザ・ビートルズのアルバムには収録されていない。ここでは2分42秒と短いが、「アンソロジー3」では6分12秒とロング・バージョンが収録されている。たぶんオノ・ヨーコの影響を受けたせいか、実験的な要素が強く、シングルやアルバム収録には向かないと判断したのではないだろうか。Small_photosbyjohnkellyapplecorpsltd_102

 全27曲中の"イーシャー・デモ"のうち19曲が「ホワイト・アルバム」で発表されている。そして、これ以外に「ホワイト・アルバム」で初お披露目されたのは、次の11曲だった。ポールの曲が目立つ。"Wild Honey Pie"、"Martha My Dear"、"Don't Pass Me By"、"Why Don't We Do it in the Road"、"I Will"、"Birthday"、"Helter Skelter"、"Long, Long, Long"、"Savoy Truffle"、"Revolution 9"、"Good Night"

 何度も言うようだが、この時点では彼らはバンドとして機能しており、ジョンもポールも、もちろん他のメンバーも、だれもがザ・ビートルズから脱退するとか、バンドが解散するとか思っていなかっただろう。逆に、2枚組だったにもかかわらず収録されていない曲があったわけで、それ以降のアルバム用としても準備していたかもしれない。Whitealbumhero2
 このイーシャー・デモをモチーフにして、アビー・ロード・スタジオでの収録が始まったわけだが、当時の彼らはみんなが納得するまでレコーディング作業に集中していたらしく、だから何度も何度もテイクを重ねていった。"Not Guilty"が102テイクを重ねて、やっとみんなが納得したにもかかわらず「ホワイト・アルバム」やそれ以降のアルバムにも収録されなかった。自分にはその理由はよくわからないのだが、とにかく当時のザ・ビートルズは完璧主義者集団だったのだ。その完璧主義が仇になって軋轢が生じ、ギスギスした関係になっていったのだろうし、ザ・ビートルズ以外の人たち、たとえばオノ・ヨーコやアラン・クラインなどが口を挟むようになって、バンドは壊れていったのではないかと考えている。

 とにかく、こういう音源がまとまって披露されたという点では、感動ものである。長生きしてよかったと喜びを噛みしめているところだ。ただ、まだまだ音源は残っているようで、"Ob-La-Di, Ob-La-Da"だけでも47テイクもあるというのだから、きっと違うバージョンは存在するに違いない。"ザ・ビートルズの販売戦略"は、まだまだ続くのかもしれない。

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2019年10月14日 (月)

追悼:ジンジャー・ベイカー

 ジンジャー・ベイカーが亡くなった。享年80歳だった。病気のために亡くなったようなのだが、具体的な病名は伏せられていた。ただ、以前から心臓が悪くて、手術を受けたぐらいだから、おそらくは心臓病か、それから来る合併症だったのだろう。また長年にわたって喫煙の習慣とヘロイン中毒に悩まされていたから、その辺の事情もあるのかもしれない。4ea7b7f2

 ジンジャー・ベイカーといえば、やはりクリームだろう。エリック・クラプトンとジャック・ブルース、そしてジンジャー・ベイカーの3人で結成されたこのロック・バンドは、1966年当時は革新的で先鋭的な音楽をやっていた。レコードでは1曲3分くらいだった曲を、ステージでは20分近く演奏してしまうからだ。また、アンプを大量に配置して轟音で演奏していた。やっている音楽は、基本的にブルーズに根差したものだったが、ステージでは即興演奏、いわゆるインプロビゼーション中心だったから、必然的に時間も長くかかってしまったのである。

 基本的に、ベーシストのジャック・ブルースとドラマーのジンジャー・ベイカーは、ジャズ・ミュージシャンだった。そしてギタリストのエリック・クラプトンは、ブルーズの探究者だった。3人は対等の立場でそれぞれの楽器を通して表現の可能性を追い求め、その限界を超えようとしていた。ある意味、真剣勝負のステージだっただろうし、その緊張感たるや、言葉では言い表されられないくらいきついものだったのだろう。だから2年しかもたなかったのだと思う。Cream_clapton_bruce_baker_1960s

 そんなジャックとエリックを結び付けたのが、ジンジャー・ベイカーだった。もともとジャック・ブルースとジンジャー・ベイカーは知り合いで同じバンドにも在籍していたし、ジャズという共通するバックグラウンドがあったのだが、エリックとは面識がなかった。ジンジャーに言わせれば、この男(エリック・クラプトンのこと)と組んで活動すれば、かなり面白いことができると直感したようで、まずジャックに声をかけ、そしてエリックに迫っていった。エリック・クラプトンは同意はしたものの、自分はブルーズ・ギタリストで、ジャズ・ミュージシャンではないと最後まで認めなかったようだが、ジンジャー・ベイカーにいわせれば、ジャズもブルーズも根っこは一緒ということで、押し切ったようだ。さすがジンジャー・ベイカー、押しの強さは昔から有名だった。

 彼らの代表作に、1968年の「クリームの素晴らしき世界」という2枚組レコードがある。1枚目はスタジオ録音で、もう1枚はライヴ・レコーディングだった。スタジオ録音とライヴ録音の両方を聞き比べることができるという優れモノのレコードで、自分が手に入れたときは、両方ともよく聞いていたものである。811gi9mdgl__sl1400_  そのスタジオ録音された曲の中に、"Pressed Rat and Warthog"という曲があった。この曲を歌っていたのが、ジンジャー・ベイカーだった。歌うというよりもポエトリー・リーディングのようなものだった。もう少し早口で歌っていれば、ラップ・ミュージックと呼ばれるかもしれないが、レコードではトランペットなどの楽器も使用されていて、実験的な要素が強い曲だった。曲はジンジャー・ベイカーとマイク・テイラーの共作で、マイク・テイラーという人もジャズ系のピアノ・プレイヤーだった。そして残念ながら、マイクは1969年の1月にトーマス川で溺れて亡くなった。麻薬中毒だったから、誤って川に落ちたのではないかと囁かれている。

 ジンジャーはこの"Pressed Rat and Warthog"をライヴでは演奏しようとはせず、極力避けていた。しかし、2005年の"リユニオン・コンサート"では歌っていた。時の流れは人の気持ちも変えてしまうのだろう。513pfyw53fl
 ちなみに、この「クリームの素晴らしき世界」では、"Passing the Time"や"Those Were the Days"もジンジャー・ベイカーとマイク・テイラーの曲だった。"Passing the Time"のリード・ボーカルはジャック・ブルースだったが、エリック・クラプトンとジンジャー・ベイカーも歌っていた。ただギター・ソロなどはなく、やや前衛的でプログレッシヴな雰囲気を醸し出していた。"Those Were the Days"では、ジンジャー・ベイカーはチューベラー・ベルズも使用している。51el2txia7l

 ディスク2のフィルモア・ウエストでのライヴでは、4曲目にジンジャー・ベイカー作の"Toad"を聞くことができる。この曲のオリジナルは、1966年の彼らのデビュー・アルバム「フレッシュ・クリーム」に収められていたインストゥルメンタルで、5分の曲が16分に延ばされていた。ロック・バンドのドラム・ソロをライヴ・レコーディングするという発想は画期的なもので、ここから、特にハード・ロックの分野ではライヴ演奏におけるドラム・ソロのレコーディングが一般化していったのではないかと思われる。5169tagbyl

 それに、ジンジャー・ベイカーはツイン・バス・ドラムだったから、視覚的にも訴えるものがあったし、音楽的にも低音が強調され、タムタムやハイファットとの相性も良かった。ドラマーとしても一流なのは当然のことだが、他のミュージシャンの追随を許さない程のセンスやアイデアも秘めていた。のちに彼がアフリカン・リズムやワールド・ミュージックを追及するようになったのも、本来備わっていたリズムを追い求めるという鋭敏な感覚のせいではないだろうか。9d78353e77a3d5be439f3da46a501c02

 なぜ彼が"ジンジャー"と呼ばれたのかというと、彼の燃えるような赤い髪の毛が遠目に見ると、"生姜"のように見えたからだという。"ベイカー"は本名だが、別にパン屋ではなかった。謹んでご冥福をお祈りいたします。

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2019年9月 2日 (月)

ホージアの新作

 「今年上半期の気になった新作シリーズ」の第2弾は、アイルランド出身のシンガー・ソングライター、ホージアの新作である。このホージアという人は3年前にもデビュー・アルバムについて、このブログでも取り上げていた。期待の大型新人として紹介したつもりだったが、ここ日本ではイマイチ盛り上がりに欠けていたようだった。日本でも海外のシンガー・ソングライターは受けないのだろうか。受けるのはバンド活動をしている人たちやエド・シーランぐらいかもしれないなどと思っていた。1

 前回にも書いたけれど、ホージアのシングル"Take Me to the Church"は2013年に全米2位を獲得し、翌年のデビュー・アルバム「ホージア」は全英で3位、全米では2位まで上昇した。母国アイルランドでは、当然のことながら首位に輝いている。また、2014年度のグラミー賞の"Song of the Year"にもノミネートされていた。
 それほどの人気なのに、何故か日本では一部で盛り上がってはいるものの、いま一つパッとしない。これはきっと国内盤が発表されなかったからではないか、そして発表されないから当然のことながらプロモーション不足ではないかと思っている。無名の新人については国内盤が出されるのに、これほど実力あるミュージシャンが冷遇されているのは腑に落ちないのである。81nsetbgiol__sl1500_

 前回も書いたけれど、もう一度、簡単に彼のプロフィールを紹介したいと思う。現在は29歳のホージアは、父親の影響で幼い頃から音楽に親しんでいた。父親はブルーズ・ミュージシャンで普段は銀行で働きながら、夜はパブや、声がかかれば地方のスタジオなどでドラムを叩いていたようだ。
 ホージア自身も15歳頃から曲を書き始め、高校卒業後はダブリンにあるトリニティ・カレッジで音楽を専攻した。しかし、学校生活に馴染めなかったのか、あるいはプロとしての意識が芽生えたからなのか、1年で退学して作曲に専念したり、デモ・テープ作りを行うようになって行った。ただ、退学しても合唱団に所属し、人前で歌うことは心がけていたようだ。
 2013年に5曲入りのEPを自主制作すると、その中に収められていた"Take Me to the Church"がインターネットで評判になり、あれよあれよという間に世界中でヒットしていったのである。まさに、この辺はシンデレラ・ストーリーだろう。

 この"Take Me to the Church"という曲は、性的マイノリティーに対する教会側の方針に対して異を唱えるもので、特にアイルランドでは、昔から権力側にいた教会が、マイノリティーの人々や他宗派の人たちに対して、偏見をもって接していたようだ。ホージア自身はアイルランドでは珍しい少数派のプロテスタントに属していたから、カトリックであれプロテスタントであれ、宗教的権威については根強い反発があるのかもしれない。

 それでデビュー・アルバムから約5年、この間ツアーを続けながら曲作りに励んでいたホージアは、2018年に、「ニーナ・クライド・パワー」という4曲入りのEPを発表した。タイトル曲にはアメリカのR&Bシンガーであるマーヴィス・ステイプルズがフィーチャーされていた。名前を見て気づかれた人もいるかもしれないけれど、彼女はあの名高いステイプル・シンガーズの一員でもある。Nina_cried_power_ep
 そして2019年には、ついにセカンド・アルバムとなる「ウェストランド、ベイビー!」を発表した。全14曲、57分というボリューム豊かな作品で、EP「ニーナ・クライド・パワー」とのダブりは2曲("Nina Cried Power"、"Shrike")だけだった。
 一聴した限りでは、アルバム前半はロック色がにじみ出ているが、後半は前作のようなシンガー・ソングライター風の曲が続いているようだった。

 "Nina Cried Power"は”ゴスペル+ロック・ミュージック”といった感じで、力強いビートに乗って、ゴスペル風のバック・コーラスが展開される中で、ホージアの歌声が性急に何かを訴えるかのように表れてくる。また、途中にはマーヴィス・ステイプルの声がフィーチャーされ、曲に色どりを添えるのである。
 このアルバムにはホージアを入れて4人の名前がプロデューサーとしてクレジットされているが、その中の一人マーカス・ドレイヴスとの共同プロデュースがこの"Nina Cried Power"だった。

 ちなみに、ホージアはそれぞれのプロデューサーと全曲で共同制作していて、マーカスとは9曲、残りの2人については、アメリカ人のアリエル・レクトシェイドと2曲、アイルランド人プロデューサーのロブ・カーワンと3曲である。プロデューサーの違いで曲の趣向が全く違ってくるということはないのだが、アリエルとの曲、5曲目の"Nobody"と6曲目の"To Noise Making"は何となくポップな感じがした。”ゴスペル+ポップ・ミュージック”である。何となく協会の合唱団をバックに歌うエド・シーランのような気がした。

 また、1曲を除いてすべてホージアの作詞・作曲である。その1曲とは7曲目の"As It Was"で、これはアレックス・ライアンという人との共作曲だった。この曲は雰囲気的にダークで、それまでの楽曲とは少しイメージが違った。バラード系には間違いないのだが、暗い冬空と荒涼と吹きすさぶ原野を想起させる。

 2曲目の"Almost"には"(Sweet Music)"という副題がついているのだが、そんなに甘い歌ではない。これもソウル風で、これにアイリッシュ風のリズムが微妙に合体している。その危うさが非常に印象的で、そういう意味では"Sweet Music"なのかもしれない。
 "Movement"はスローなバラード曲。これはデビュー・アルバムの系列に含まれるような曲で、空間を生かしたバック・コーラスが素晴らしい。
 この人の特徴は、やはりゴスペル・ミュージックとは切っても切れない関係という点ではないだろうか。一人で切々と歌うというような従来のシンガー・ソングライター風ではなくて、壮大なバック・コーラスやエコーを生かした空間的な響きをどの曲も伴っていて、そういう意味では、アイリッシュ風でもあり、アメリカ南部風でもある。だから、欧米、特にアメリカでは好まれるのであろう。

 4曲目の"No Plan"もバックの重く引きずり込むようなビートがロック的でもあるし、逆に、それを膨らましているコーラスは天空にいざなうかのように持ち上げるのである。
 "Shrike"は前年に発表されたEPにも収録されていた曲で、これはホージア風のフォーク・ソングだろう。基本的にはアコースティック・ギターだけなのだが、この人の場合はこれだけでは終わらずに、最小限度の装飾音がついてくる。それでもそれが嫌味にならず、むしろ豊かな想像力が引き出されて行くのだから見事なものである。

 この"Shrike"や次の"Talk"などを聞くと、デビュー・アルバムの延長上に連なる楽曲だとわかる。前半までは重いビートやテンポ良い曲が目立ったのだが、このアルバム中盤辺りからは落ち着いてくるのである。
 10曲目の"Be"もバックのファズ・ギターが目立つものの、全体的には静かな部類に入るだろう。大ヒットした"Take Me to the Church"の二番煎じという声もあるが、こういう音的感覚はホージア独特のものではないだろうか。これに類するものとしては、同じアイルランド出身のU2にも感じられるところだ。特に、U2のエッジのギター感覚に類似するところもあるのだが、アイルランドという土地柄とも関係があるのかもしれない。

 一転して、アルバム前半の雰囲気に戻るのが次の曲の"Dinner&Diatribes"だ。ここでもドラムスが強調されていて、それにエレクトリック・ギターが絡みつき、女性コーラスも後を追うようについてくる。このアルバムが、前作よりもハードになったといわれるのもうなずけるところである。
 そして"Would That I"では、また一転してアコースティック色になり、デビュー・アルバムを彷彿とさせる。従来からのファンやアイリッシュ・ソングが好きな人には懐かしいだろう。

 13曲目の"Sunlight"は、自分にはキーボードの音がチャーチ・オルガンに聞こえてくるほどのホージア風ゴスペル・ミュージックである。これはまさに21世紀に生きるゴスペル・ソングだろう。全体的にはゆったりなものの、途中にはアコースティック・ギターがリードする部分はあるし、バックのコーラスが目立つところもある。そういうバランスが素晴らしいと思う。

 そして最後の曲が、アルバム・タイトルの"Wasteland,Baby!"である。冒頭はアコースティック・ギターで導かれ、徐々にキーボードやベースなどの楽器が加わり、ゆったりと盛り上がってゆく。ところが、それはある意味、ホージアの定石通りではあるものの、その盛り上がりのスケール感はあえて抑え気味であり、逆に言えば肩すかしを食らったような展開になっている。この辺は、彼のシンガー・ソングライター資質が表れているような気がした。この曲が最後に置かれたのも、そういう意図的な印象操作みたいなものがあったのかもしれない。でも、良い曲だと思っている。

 このアルバムは、全米アルバム・チャートでは1位を獲得したし、全英でも6位、アイルランドでは当然1位になっている。これは昨年度EPを発表した後、プロモーションを兼ねたライヴ活動を行ったからではないかといわれているが、約5年間待たされた世界中のファンの期待度の表れでもあろう。
 また、アルバム・ジャケットはホージアの母親が手掛けていて、彼女は画家でもあるそうだ。そういう意味では、彼は芸術一家に生まれたのだろう。71lk89vobel__sl1500_  いずれにしても、これだけの世界的な評価を得ているミュージシャンのアルバムが国内盤未発売という点はいかがなものかと考えている。権利や契約の関係で難しい部分があるのかもしれないが、その点は早く解消して発表してほしい。その時は、2018年に発表されたEP4曲分をボーナス・トラックとして付け加えてほしいものである。

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2019年6月24日 (月)

ワイルド・ライフ(2)

 ポール・マッカートニー&ウィングスのアルバム「ワイルド・ライフ」についてである。このアルバムについては、2014年の5月に一度触れているので、今回はどうしようかなと思ったのだが、あえて書くことにした。理由は、ジョンとポールの確執について最後まできちんと記したいと思ったからである。B5mzcem90w26b_600

 どういうことかというと、ジョンのアルバム「イマジン」で2人の確執はまだ終わってはいなかったからだ。さらにポールの反論が続くのである。あえて前回までのことを繰り返すと、ポールがザ・ビートルズを脱退した(と言われていた)ことから、それについて反論を行った。それがアルバム「ラム」においてであり、その矛先はポール以外の3人+オノ・ヨーコに向けられていた。
 アルバム「ラム」が発表されたあと、同年の1971年9月にジョン・レノンの「イマジン」が発表された。そして、そのアルバムの中で"Crippled Inside"や"How Do You Sleep?"を通して、ポールに辛辣な批判を加えていた。そしてそれに応えるような形で発表されたのが、同じ1971年12月に発表された「ワイルド・ライフ」だった。ただし、正式にはポール・マッカートニー名義ではなくて、ポールの名前もない”ウィングス”とだけ記名されたアルバムだった。B0d2a58798425405476657f5d17d1694

 これはバンド活動にこだわったポールの意向が反映されていて、今までの自分の名声や評判を借りずに、バンドの力だけで活動しようとした表れであり、実力勝負に徹しようとした結果だった。確かに、ジョン・レノンは、パーマネントなバンドではないものの、”プラスティック・オノ・バンド”を率いてアルバムも発表していたし、ライヴ活動も行っていた。ザ・ビートルズでは1966年以降、全くライヴ活動を行っていなかったため、それまでの鬱憤を晴らすかのような活動だった。(映画「レット・イット・ビー」ではアップル社の屋上でライヴを行っていたが、あれを正式なライヴ活動と評するのには無理があるだろう)

 というわけで、実際に「ワイルド・ライフ」を発表した後も、”ウィングス”名義でイギリス国内でライヴ活動を行った。ただそれは、きちんとプロモーターが仕切るようなコンサートではなくて、機材を詰め込んだヴァンとポール・マッカートニー一家とミュージシャンたちが乗り込んだトレーナー、機材を運ぶローディーも2人のみと極めてシンプルで、行先も大学構内のホールのような小さいところだった。
 もちろんライヴ自体は、回数を重ねるにつれて熱気と興奮に満たされて行き、まさに熱烈歓迎状態になっていったのだが、最初は”ウィングス”といっても誰のバンドなのか誰も知らず、ライヴが始まってやっとみんなが気づくという有様だった。ある意味、覆面バンドのようなものだ。今の時代であれば、ネットやSNSですぐに拡散され、あっという間に評判になっていっただろうが、70年代の初めにはそんなことが起こりうるはずがなく、徐々に知られて行ったのである。Shutterstock_802243is

 しかもこのアルバムの「ワイルド・ライフ」は、3日でレコーディングが終了し、2週間でミキシング等も完了させたと言われていて、ポールはライヴ感覚を大事にしたと述べていたが、確かにこのバンドでのライヴは意識していただろうけれど、まだまだバンドとしてまとまっていなかったということは言えるだろう。特に、この当時のリンダ・マッカートニーのキーボードの腕前はお世辞にも上手とは言えず、とても人前でソロを聞かせるような代物ではなかった。また、デニー・レインや1972年から加入したリード・ギタリストのヘンリー・マッカロクなどの他のメンバーも、まだまだポールと十分な意思疎通はできていなかったようだ。

 だからアルバム自体も散々な評価を受けていた。早くライヴ活動を開始したいという気持ちが逆に焦りを呼んだのだろうか、シンプルで聞きやすいと言えば聞こえはいいが、前作「ラム」よりは手抜きというか、勢いだけで作りましたという印象が強かった。
 その証拠に、ポールのアルバムにしては珍しく他者の楽曲のカバー曲を入れていて、何とか曲数の帳尻合わせをしたという感じだった。そのカバー曲が"Love is Strange"で、オリジナルは1956年、ミッキー&シルビアというフォーク・デュオが歌った曲だった。また、1965年にはエヴァリー・ブラザーズもカバーしていたから、当時の欧米では有名な曲だったのだろう。最初はインストゥルメンタルで発表するつもりだったようだが、当時流行っていたレゲエ風にアレンジし直している。また、このアルバムからのシングル曲として準備していたが、最終的に版権の関係か、シングルとしては見送られた。

 それで全10曲、39分余りの時間的に短いアルバムだった。リンダ・マッカートニーは”ダンスで立ち上がって踊りたいときはサイドAを、女の子にキスさせたいときはサイドBを”と述べていたが、そんな簡単に割り切れるような感じではなかった。それならロッド・スチュワートの「アトランティック・クロッシング」や「明日へのキック・オフ」の方が編集方針としては明確になっているだろう。

 それで話題を元に戻すと、この10曲の中でジョンに対する回答は、5曲目の"Some People Never Know"と9曲目の"Dear Friend"だった。ポールも執念深いというか、よほど言いたいことが積もり積もっていたのだろう。30e80b21
 ただし、この2曲はジョンの「イマジン」を聞いて、その回答として考えたわけではなかった。この「ワイルド・ライフ」のレコーディングは、1971年の7月から8月にかけて録音、編集されているからで、「イマジン」のレコーディングが1971年の2月から7月まで断続的に続けられていたことから考えると、「イマジン」を聞いて反応を示すことは時間的に無理だったと思われる。

 だからこの2曲の内容は、反論や嫌悪といった感情をむき出しにしたものではなくて、むしろ諦観や受容といった内面的で静的な印象を与えるものだった。例えば"Some People Never Know"では、"I Know I was Wrong,Make Me Right"(自分が悪かったと思っている、自分を正しい方向に向かわせよう)と述べていて、むしろジョンに対して謝罪ともいえる言葉を述べていた。
 また、"Dear Friend"では、いきなり"Dear Friend,What's the Time? Is This Really Border Line"(親愛なる友だちへ、いま何時だい?本当にこれがギリギリなの)と今までの友情が途切れることを恐れているようなフレーズも見て取れる。

 曲調も"Some People Never Know"では、アコースティック・ギターが中心の落ち着いた雰囲気だったし、"Dear Friend"では、逆にピアノ中心の切々と歌い上げられたバラードだった。これらの曲には攻撃性や風刺性などは全く見られず、むしろ落ち着いて自分の意見を述べているような姿勢が伺えたのだ。
 先ほども述べたように、これらの曲は「イマジン」を聞いてから作られたものではなくて、「ラム」から「ワイルド・ライフ」に移るにしたがって、徐々にポール自身の考えが変化していったことを表している。ジョンに対して恨みつらみや非難中傷を加えるのではなく、現実を受け入れて、違う形でジョンやヨーコ、ほかの元メンバーと向き合おうとしたのだろう。だから「諦観」や「受容」といったイメージが浮かんで来たのだと思っている。

 実際にインタビューでもポールはこう答えていた。『"Some People Never Know"は僕とリンダのことについて述べた曲で、僕らのことをわかってくれない人たちがいるんだというメッセージを込めているんだ』また、『"Dear Friend"は直接的にジョンのことについて言っているのではない。ただ、ジョンのことを意識していることは間違いないと思う』だからある意味、ポールはザ・ビートルズに代わって新しいバンドを結成して、自分の目標に向かって旅立つために、一つの区切りとしてこの曲たちを準備したのだろう。

 ジョンとポールは友人でもあり、ライバルでもあった。だからお互いに意識しながら曲作りを行い、行動を起こしていった。さらにはライフスタイルも、相互に影響を及ぼしながら進展させていった。ジョンがヨーコというパートナーを得れば、ポールもリンダを娶って心の支えにしながら、生涯の伴侶にしようとした。
 ジョンが平和運動に心を砕き取り組んでいけば、ポールは逆に環境運動や動物愛護運動に力を注ぎ、ついにはヴェジタリアンになってしまった。そして、ジョンがプラスティック・オノ・バンドを組めば、ポールはウィングスを結成してライヴ活動に精力的に取り組むようになったのである。Paulmccartneyandwingswildlifepressphotow

 最後に、この「ワイルド・ライフ」以降、ポールはジョンのことを直接的に歌うことはなかった、1982年の「タッグ・オブ・ウォー」でジョンを追悼した"Here Today"までは。ジョンもまたあからさまにポールのことを非難することはなかった。
 一説では、1976年にポールがアメリカ公演を行った際に、ニューヨークでジョンに会い、今から一緒にラジオ局に行ってみんなを驚かせてやろうかと話し合ったと言われているが、真偽のほどは定かではない。

 だけど、公式スタジオ・アルバムを通して、お互いのことを言い合うというのもジョンとポールだから許される?ことであって、普通のミュージシャンがやったら、見向きもされないかもしれない。確かに自分の体験や感情などを、楽曲を通して表現するのがミュージシャンの本来の務めなのかもしれないが、ここまであからさまにオープンに行ったのもジョンとポール以外にはいないのではないだろうか。そういう記録という意味でも、「ラム」や「イマジン」、「ワイルド・ライフ」などは、歴史的に貴重なアルバム群だったと思っている。

 ちなみに”ウィングス”という名前は、リンダが1971年にステラという女の子を出産したときにポールが思いついた名前で、「天使の翼」をイメージして名付けたという。確かに70年代のウィングスは、ここから大きく世界に羽ばたいていったのである。

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2019年6月10日 (月)

イマジン

 ザ・ビートルズが解散した切っ掛けというのがあって、前回はポール・マッカートニーがザ・ビートルズを脱退して当時のマネージャーだったアラン・クレインを解雇しようとして裁判になったというようなお話をしたと思う。でも実際は、ポールよりも先にジョンの方がザ・ビートルズを脱退するよ電話をしてきたのが定説になっているらしい。今となってはどうでもいいことかもしれないが、70年代の初めではとても重要なことだった。
 そして、何故ジョンがザ・ビートルズを脱退しようとしたかというと、”事件の陰に女あり”の言葉ではないが、ジョン・レノンの背後にはオノ・ヨーコがいて、その影響でジョンが脱退を希望したというのである。だから熱烈なザ・ビートルズのファンなら、オノ・ヨーコを目の敵にしていて、彼女の存在がなければもう少し長くザ・ビートルズは活動したに違いないと思っているのである。

 私たち日本人の中にもそう思っている人は少なからずいると思うし、ましてや海外の人ならもはや確信に近いというか、信仰に近いものがあるのではないだろうか。実際に、私自身もアメリカ人の青年から”オノ・ヨーコ黒幕説”を聞いたことがあったし、それは違うよと私が否定しても、決して自分の説を翻そうとはしなかった。オノ・ヨーコは今でも世界中のザ・ビートルズ・ファンから嫌われているのだろう。ひょっとしたら、藁人形に名前が貼られて五寸釘が打ち込まれていたかもしれない。何という可哀そうなオノ・ヨーコだろうか。

 ザ・ビートルズの最後のフィルムが「レット・イット・ビー」だったが、そのレコーディング風景にもオノ・ヨーコは写り込んでいた。髪の毛も長くて黒いし、服装も黒っぽかったから、まるで背後霊のようだったが、ほかのメンバーの奥さんや恋人はレコーディングには参加していなかったのに、彼女だけがジョンから招かれたのだろう、レコーディング・スタジオの中でずっと座っていた。このことも他のメンバーから反感を買ったようである。ジョンに言わせれば、彼女の存在は”ミューズ”のように彼の音楽的創造性の源泉だった。また、音楽的な影響のみならず、平和や文化活動、反戦行動のような具体的な理念や行動面まで影響を受けていたから、彼ら2人は恋人や夫婦という枠組みを超えていて、もはや”ソウルメイト”とも言うべきものだった。だからジョンの行くところ常にオノ・ヨーコがいたし、逆にオノ・ヨーコがいれば、必ずジョンもまたその場に存在していたのだ。 Johnandyokoaboveusonlysky20181

 それで前回のブログでは、ポールが滅茶苦茶他のザ・ビートルズのメンバー、特にジョンやオノ・ヨーコのことを非難していたことを述べたのだが、その原因についてはあまり触れなかった。その原因については、もちろん他のメンバーとの確執みたいなものもあっただろうし、ザ・ビートルズが解散した切っ掛けが、ポールの思いと関係なく、ポールの言動にあったと決めつけられたことにも無念さがあったに違いないだろう。

 そしてまた、もっと具体的にいうなら、ポールのソロ・アルバム「マッカートニー」が本家ザ・ビートルズのアルバム「レット・イット・ビー」発売よりも1ヶ月も早く発表されていて、バンドのラスト・アルバムになるであろうアルバムよりも自分のソロ・アルバムを優先させた形になってしまったからだろう。しかも内容的に優れているのならまだしも、半分近くはインストゥルメンタルだったし、残りの半分も宅録でシンプルな飾りつけのみだったから、ザ・ビートルズのファンのみならず、批評家や何より元バンド・メンバーからも非難されてしまった。ポールはそういう状況の中で、自分のプライドを守り、自分の存在を主張し、自分の音楽性を認めさせようと思ったのだろう。そして、特に自分を強く批判していたジョンに対してメッセージを込めた楽曲を作ったに違いない。そういう音楽性も孕んでいたのがポールのアルバムの「ラム」だった。

 そしてそれに反論する形でアルバムを制作し、発表したのが、1971年の9月(イギリスでは10月)に世に出された歴史的名盤である「イマジン」だったのだ。81wjk15j6el__sl1300_
 自分は発表当時にはこのアルバムを聞いていなくて、中学生になって初めて聞いた。アルバムが発表されてから3年は経っていたと思う。アルバム冒頭の"Imagine"を聞いたときには、何というシンプルな曲だろうと思ったし、その歌詞もまた単語の意味が分かれば文の意味が分かるような簡単なものだった。もちろんジョン・レノンのことは知っていたし、どんな思いでこのアルバムを作ったかもだいたいはわかっていたし、当時は平和活動家というイメージが私の中では強くて、ある意味、もう少し硬質な音楽性を期待していたから肩透かしを食ったような気がした。ジョンってロックン・ローラーなんだろう、もっとロックしてよと言いたかったのだ。何という若気の至りだろうか。当時は本当のジョンの強さや優しさを理解できなかった、まだそういう感性が備わっていなくて、もう少し大人になってから初めてジョンの偉大さが分かったのだ(それでも本当に理解しているのかと問われると何とも言えない)。

 個人的な見解だけど、ポールのアルバムは個々の楽曲だけを聞いても問題ないと思うけれど、ジョンのアルバムは全体をきちんと聞かないと正確に理解できないと考えている。例えばこの「イマジン」というアルバムも、冒頭の"Imagine"やロッド・スチュワートやブライアン・フェリーもカバーした名バラード"Jealous Guy"だけを聞いて、ジョンという人の性格や才能、このアルバムの価値を判断することはできない。むしろ”群盲像を評す”という失敗を犯してしまうだろう。A0e5a3d71ffdcc53e2565ef6f63c9f6d

 だからこのアルバム「イマジン」も"Imagine"や"Jealous Guy"、"How?"だけ聞いて判断するのではなくて、ジョンの魂の叫びとも言うべき"It's So Hard"や"I Don't Want to Be a Soldier"、"Give Me Some Truth"も聞いてから全体として味あわないといけないと思っている。ポールのアルバムは優等生的で確かに楽曲的にも構成的にも技巧的で素晴らしいものだと思っているけど、ジョンのアルバムはジョン自身の生き方や考え方、”知行一致”ではないけれど、ジョン・レノンという人間性の一部がサウンドや歌詞として表現され、発表されてきた経緯があると思っているし、どちらかどうと優劣を競い合うのは意味がなく、それぞれの独創性として尊重するべきだと思っている。

 それで、特に1970年の「ジョンの魂」と、この「イマジン」は、そういうジョンの人間性が一番よく表現されていると思っていて、この2枚のアルバムはやはり歴史的な名盤だと考えている。そして気楽に聞いてみようかという気持ちで聞いてもいいのだけれども、むしろジョン自身はそれを望んでいるに違いないのだろうけれど、自分にとってはやはりワンクッションを置いて、気持ちを新たに気合を入れ直して聞いている。新興宗教の教祖に近づくような、そんな厳粛な気持ちになってしまう。51fste2ymql

 それで本題に戻すと、本題というのはポールの宣戦布告に対してのジョンの返答のことだが、これも個人的な見解なのだが2曲目の"Crippled Inside"もポールに対する当てつけではないかと思っている。ただこの曲を聞くと、歌詞の内容よりもジョージの演奏するドブロ・ギターの方が印象的だし、曲自体も軽快で聞きやすい。だからどうしても”怒り”や”憎しみ”などは印象が薄くなってしまうのだが、でも歌詞をよく見ると、やっぱり何か気になるよなあという感じになってしまうのである。

 このアルバムは3部構成ではないだろうか。第1部は平和を希求し、個人としての生き方を考える楽曲で、"Imagine"や"I Don't Want to Be a Soldier"、"It's So Hard"、"Give Me Some Truth"であり、第2部はヨーコに対する愛情を示す楽曲、"Jealous Guy"や"How?"、"Oh My Love"、"Oh Yoko!"、そしてポールに対する反論である第3部、"Crippled Inside"と"How Do You Sleep?"だろう。
 第1部の楽曲は穏やかな雰囲気とハードでロックン・ロールとして躍動する両面を味わえるし、第2部ではオノ・ヨーコに対するストレートで率直な愛情に満ち溢れていて感動的だった。そして第3部では同じミュージシャンとは思えないほどの辛辣で悪意に満ちた歌詞が書き留められている。

 特に、"How Do You Sleep?"はそこまで言うかと思うほど中傷している。この時の「イマジン」の制作過程が収められたビデオが残っていて、その中でもジョンはいつもと違って、かなり激しく悪意を込めて演奏するようにジョージやアラン・ホワイトに述べていたが、そこまでしなくてもいいのではないかと思ってしまうのだ。だって、”人生は短し、芸術は長し”の言葉通りに、作られた作品は永遠に残ってしまうのである。ある意味、証拠物件として保存されているのと同じだろう。
 曲の冒頭もザ・ビートルズのアルバム「サージャント・ペパーズ」のオープニングをパロディに使っているし、歌詞の中にも"Yesterday"という言葉や"Another Day"というポールの曲名を使用している。"Your Momma"というのは、当時の年上女房だったリンダのことを言っているのだろう。でもオノ・ヨーコも年上だったはずだが、その点はどうなのだろう。

 実際にも同席していたリンゴ・スターがジョンに忠告して何とか聞くに堪えられる内容まで戻したというから、実際はもっと悲惨で恐らくは放送禁止語に満ち満ちていたのだろう。もしそのまま発表していたら、おそらく当時のアップル社が販売停止処分にしただろう。

 これも有名なお話だが、ザ・ビートルズ時代のポールには、”目が大きすぎて夜は目を開けたまま眠る”という都市伝説みたいなものがあって、他のメンバーはポールをからかう時にこれを用いていたようだ。だからポールのことを揶揄するために、このタイトルを用いたのだ。このお話はメンバー以外にも広く流通していたようで、当時の彼らのファンなら知っている話だったらしい。

 まあとにかく、この曲1曲で、ポールの"Too Many People"や"3 Legs"、"Dear Boy"などをまとめて粉砕するようなパワーを秘めていて、強烈な印象と憎悪をリスナーにもたらしている。あらためて違う意味でも、ジョンの才能の偉大さを感じ取ることができる楽曲だった。敵にまわすと怖い相手だ。敵にまわすことはもうないけれど…Dh510ee7c7

 結局、ジョンは1980年になって『ひどい悪意や恐ろしい敵意を表明するためではなく、曲を作るためにポールに対する恨みを利用したんだ。それにポールやザ・ビートルズから撤退しようと思っていてね、ポールに対しては、本当にいつもそんなふうに思っているわけじゃないんだよ』とインタビューに答えている。確かに公式には、ポールに対してこれぽっちも悪意や恨みを述べたことはない。この「イマジン」に収められた"How Do You Sleep?"についても、1969年から曲を作り始めたと述べていたからポールに対しての確執はないと述べていた。ちょっと眉唾なのだが、ジョンのポールに対するおとなの対応というものだろう。

 ポールが「ラム」という素晴らしいアルバムを発表できたのも、リンダと彼女を含む”家族”の支えや彼らに対する愛情があって、制作できたと思っている。それと同様に、ジョンもまたヨーコに対する愛情があったからこそ、この歴史的名盤ともいえる「イマジン」を制作し、発表することができたのだろう。
 そう考えると、偉大な2人のビートルズの陰には偉大な女性の存在が外せないのである。ジョンもポールも、最終的にはザ・ビートルズを脱退したことになってしまったが、その原因は音楽性だけではなくて、愛する女性の影響力も見逃せないと思っている。

 今となって考えれば、偉大な才能を持つ2人のミュージシャンが、その有り余るほどの才能を使って、お互いに非難中傷を、歴史に残る形で行ったという事実の方が、画期的というか衝撃性を持っているし、そのインパクトは、時間が流れるに従って、いろんな意味でますます輝きを発しているように思えてならない。

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2019年6月 3日 (月)

マッカートニーの「ラム」

 なぜか無性にポール・マッカートニーの「ラム」を聞きたくなって聞いてしまった。結果当たり前のことだが、相変わらず名アルバムということが分かった。
 このアルバムは1971年、ポールが29歳の時に発表されたもので、全英アルバム・チャートでは1位を、全米ビルボードでは2位を記録した。ちなみにその時の1位はキャロル・キングの「タペストリー(つづれおり)」だった。

 彼やザ・ビートルズのファンなら知っていると思うけれど、ポールは1970年にザ・ビートルズから脱退を宣言し、結局解散してしまったのだが、そのせいで解散の原因はすべてポールにあると非難されていた。あるいはポールと当時のザ・ビートルズのマネージャーだったアラン・クレインとの確執ともいわれていて、裁判沙汰にまでなっていった(と思う)。当時、自分はまだ小学生だったから詳しいことはよくわからなかったのだが、いずれにしても、何故かポールばかり非難されていたような気がする。

 そのせいかどうかはわからないのだが、ザ・ビートルズ解散直後から、ポールを含めてザ・ビートルズのメンバーは、自分のアルバムを発表している。みんなが自分こそザ・ビートルだ見たいな感じがして、特にジョージなんかは3枚組のアルバムまで発表していて、まさに水を得た魚みたいに活躍していた。もちろんジョンもリンゴもアルバムを発表しているのだが、ポールは意外に早くファースト・ソロ・アルバム「マッカートニー」を発表していた。71yjwvlfw3l__sl1200_

 自分はジョンの「ジョンの魂」やジョージの「オール・シングス・マスト・パス」のアルバムの方が印象が強くて、ポールの「マッカートニー」についてはあまり覚えていなかったし、当時の友だちから借りて聞いてみてもパッとしなかった思い出があった。実際、「マッカートニー」は35分くらいしかなかったし、半分はインストゥルメンタルだった。まともな曲はあまりなくて、これがあのマッカートニーのアルバムなのかと思ってショックというよりも驚いた覚えがある。
 ところがこれが売れたのである。当時はまさに飛ぶ鳥を落とすほどの勢いがあったザ・ビートルである。解散宣言が出されても、元メンバーたちの動向は注目を集めていたし、彼らの言動もそうだったし、ましてやアルバムならどういうメッセージを含んでいるのか、どんな音楽性なのか、またザ・ビートルとの類似点や相違点など、いろんな意味で世界から注視されていたのである。

 確かに「マッカートニー」は売れたものの、その音楽性はむしろ素朴でシンプルだった。リンゴのアルバムは彼の好きなカバー曲集だったので除外するとして、ジョージやジョンのアルバムは、内容のみならずメッセージ性や彼らなりの個性が発揮されていて、発表された時点で歴史的な名盤になるでろうという予感性を十分秘めていたし、実際にもそうなっている。
 逆に、「マッカートニー」の方は商業的には成功したかもしれないが、内容的にはポールの趣味的なアルバムといっていいようなものだったし、ほかの元ザ・ビートルズたちは他のミュージシャンと一緒に制作していたが、ポールのアルバムはすべての楽器を自分でこなしていて、レコーディングに関してもほとんどが自宅録音だった。51vsewmzesl

 だから、彼の「マッカートニー」は批評家や音楽ライターから批判された。批判というよりはバッシングに近いものだったかもしれない。それはアルバムの評価のみならず、ザ・ビートルを解散させた一因としての責任を問うような意味合いもあったに違いない。そして、そのことで悩んだのかもしれないのだが、その後ポールはスコットランドの自分の自宅兼農場に引きこもってしまい、しばらくは家族と過ごすことを決めたようだった。

 しかし、この当時のポールはまさに才能のあふれ出る状態だったし、まだ30歳前で、意欲も行動力も十分すぎるほど漲っている状態だった。だから確かに一時はスコットランドにひきこもっていたものの、むしろ愛する妻と子どもたちに囲まれて心の傷も、たとえ傷があったとしても、癒されて、次への希望につながったに違いない。Paulmccartney71
 ポールは、実際に1970年の10月にはレコーディング・メンバーをリクルートするためにアメリカに旅立っている。おそらくスコットランドにいた時に、次のアルバムは他のミュージシャンを集めて、一緒にレコーディングしようと思ったのだろう。他の元ザ・ビートルズたちがそうやってアルバムを発表したように。

 年が明けて1971年の1月になると、ポールはニューヨークで、ギタリストのデヴィッド・スピノザやヒュー・マクラッケンなどの一流スタジオ・ミュージシャンと、のちにウィングスの初代ドラマーになったデニー・シーウェルと一緒にレコーディングを開始した。そうやって出来上がったアルバムがその年の5月に発表された「ラム」だったのである。やっとたどり着いた。

 全12曲、時間にして約44分のアルバムで、全体的にポールのやる気と自信がリスナーに伝わってくるアルバムだった。アルバム形式も「サージャント・ペパーズ」やのちの「ヴィーナス・アンド・マーズ」、「バック・トゥ・ジ・エッグ」のようなトータル・アルバムになっていて、ここでは3曲目と11曲目に"Ram on"が踏襲されている。
 また、メロディ・メイカーとしてのポールの魅力が100%発揮されていて、どの曲も捨てがたい。強いてあげれば後半の1,2曲はカットしてもよかったかなと思うが、それでも前作「マッカートニー」よりははるかに上出来だと思う。少なくとも100倍気合いを入れて作ったに違いないと思う。 81ad7ox9ol__sl1400_

 ただ問題なのは、メロディーよりも歌詞である。歌詞の内容なのだ。特に、昔のレコードのサイドAには問題のある歌詞が含まれた楽曲が用意されていた。冒頭の"Too Many People"もそうだし、2曲目の"3 Legs"や"Ram on"、"Dear Boy"など、考えようによっては6曲目の"Smile Away"もまたその種の楽曲かもしれない。そして、その歌詞の内容は元のザ・ビートルのメンバーに対してであり、特に盟友ジョン・レノンに対しては辛辣な内容を含んでいたようだ。

 ジョージ・ハリソンとリンゴ・スターは、"3 Legs"とは自分たち2人とジョンを含んだ3人のことを指していると考えていたし、ジョンはジョンで、"Too Many People"と"Dear Boy"は自分とオノ・ヨーコのことを指していると思っていた。ポールはポールで、確かに当時の自分の気持ちを表しているとは言っていたが、直接的に誰か特定の人を非難したつもりはないと述べていて、特に"Dear Boy"は当時の妻だったリンダ・マッカートニーの別れた元夫のことを歌っていたと述べていた。
 それに、レコードでもCDでも裏ジャケットにカブトムシが交尾をしている写真が使用されているが、これは当時の(解散直前の)ザ・ビートルの3人が自分のことをどう思っていたかを象徴する写真だとも述べていた。ポールもある意味、被害妄想というか解散の傷を引きずっていたのだろう。 71rcqbgdzxl__sl1363_

 当然のことながら、ジョンが黙っておくはずもなく、このアルバムの数曲に対するアンサー・ソングとして、アルバム「イマジン」の中で反論している。また、レコード時代にはジョンがブタの耳を引っ張っているポストカードが同封されていたが、これはこの「ラム」のアルバム・ジャケットのパロディだと考えられている。つまり、羊の代わりにブタの写真を使用したというわけだった。

 これもまたどうでもいいことだが、"UNcle Albert/Admiral Halsey"は1971年の9月4日に1週間だけ全米シングル・チャートで1位になったが、この曲の作曲クレジットが"Linda&Paul McCartney"となっていることに対して、当時のザ・ビートルの著作権を管理していたノーザン・ソングスのオーナーだったルー・グレイドがリンダが作曲できるはずがないと言って、裁判所に訴え出たのだ。最終的にはその訴訟は取り下げられたのだが、ポールはこう弁明していた。『曲の半分はリンダと一緒に書き上げたのだから、リンダの名前があって当然だろう。ソングライターとして認められているかどうかは関係ない。とにかく、誰であれ、どんな形であれ、本当に僕の歌作りを手伝ってくれた人には、その歌の一部を担うことになるんだよ』R367126014147226136254_jpeg

 ということで、全12曲中、ポール1人名義の曲は6曲、残りの6曲はリンダ&ポール・マッカートニー名義だった。公平に半分半分にしたのだろうか。いずれにしてもアルバム前半はブルーズ風味の曲やバラード、ロックン・ロールなどバラエティ豊かな曲で占められているし、7曲目以降の後半では、ロックン・ロールというよりも、メロディアスなミディアム・テンポの曲やニューヨーク・フィルハーモニー・オーケストラを用いた感動的なバラード曲"The Back Seat of My Car"などが印象的だった。

 このアルバムの成功に気を良くしたポールは、自分のやることに自信を深めたのだろう、ザ・ビートルと同じようなパーマネントなバンド活動を始めようと考え、ウィングスというバンドを結成するのである。その発端となったアルバムがこの「ラム」であるとともに、ジョンや他の元ザ・ビートルズのメンバーとの確執がまだ根強いというメッセージを世界中に曝け出していたのもこのアルバムだった。

 このアルバムを発表してからもポールは、40年以上も第一線で活躍している。今でこそポールの才能や意欲などを正当に評価できるだろうが、70年代の初期では、この先ポールを始め、それぞれのメンバーがどうなっていくのか全く予想できない状態だった。当時はインターネットやSNSもない時代だったから、今後の展開を予想できる数少ない証拠というか、記録としての意義をも含むアルバムだった。自分はそんなことまでは考えずに、ただ単にああいいなあと思いながら聞いていたのだが、実は世界中の音楽ファンをも巻き込んでの”戦闘モード全開”のアルバムだったのである。

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2019年5月27日 (月)

スローハンド

 「スローハンド」といえば、エリック・クラプトンの代名詞でもある。彼のギター・ソロの時に、指運びはゆっくりなように見えて、実際は多くの音を弾き出している様子やフレージングの豊かさなどを表現した言葉だが、当時のニックネームにもなっていた。Eric・"Slowhand"・Clapton というわけだ。
 その言葉をアルバム・タイトルにしたのが1977年に発表された彼の5枚目のスタジオ・ソロ・アルバムだった。世間一般の評判ではかなり人気があって、70年代の彼のソロ・アルバムの中では1974年の「461オーシャン・ブールヴァード」と並び称されるほどだった。

 当時の彼の音楽は”レイド・バック”と呼ばれていて、かつてのクリームのようにギターをメインに置くのではなくて、曲の合間にさりげなく聞かせるくらいで、彼のボーカルと楽曲、演奏、ギター・ソロと、トータルな意味で表現しようとしていた。だから、60年代の彼を知る者としては、少々物足りない気もしていた。 09_spx450

 自分はそんな彼を表面上しか見ていなくて、ヒット曲や”イージーリスニング・アルバム”ばかりつくって、商業主義に毒されたミュージシャンだと思っていた。せっかくドラッグ中毒から復活したのに、もう激しい曲はやらないんだ、ひょっとしたらドラッグの後遺症かとも思っていた。だからもっと激しいハードな曲を求めて、レインボーやマイケル・シェンカーなどに走っていった。若気の至りだったかもしれない。

 だからこのアルバムが発表された当時は、シングル・カットされた"Cocaine"や"Lay Down Sally"ばかりが耳に残ってしまい、アルバム自体についてはまっとうな判断もできなかった。ただ後になって、後といってもこのアルバムを発表したクラプトンとほぼ同じ年齢になった時、つまり32歳頃だろうか、何となくこのアルバムの良さが分かったような気がした。クラプトンのような浮き沈みの激しい人生は送っては来なかったものの、実の母に拒絶されたり、人を信じられなかったり、そういう経験は自分にも覚えがあったし、人生は理不尽なものだということも体感できていたからかもしれない。41b7xnxwqzl__sx466_   アルバムは、JJケイルの曲"Cocaine"から始まる。この曲は、アルゼンチンでは当時の軍事政府によって1984年まで発売禁止処分になった。理由は、若者が誘導されてドラッグに走ってしまうからというものだった。もちろん、クラプトンはこれを否定し、これはアンチ・ドラッグの曲ということをわかってもらうために、ライヴでは"that dirty cocaine"と歌詞を変えて歌っていたという。さすがクラプトン、このことをもっと早くから知っていたら、コカインに耽溺した芸能人も出てこなかったのかもしれない。全米のビルボードのシングル・チャートでは30位だった。

 "Wonderful Tonight"はライヴではもう少しゆっくりと演奏される曲で、この曲のエピソードはエリックの自伝映画でも述べられていたから、多くの人が知っているはずだ。ポール・マッカートニー夫妻が主催したバディ・ホリーを記念するパーティーに出かける間際の10分くらいの間に作った曲で、その10分というのは、当時の恋人だったパティ・ボイドの身支度を待っている間の時間だったのだ。
 だから歌詞にも、何の服を着ていこうか迷っている彼女に対して、”今夜の君はステキだよ”と臆面もなく囁いているのである。当時のパティはジョージ・ハリソンとの離婚が成立していたから、法律的にも道義的にも何の問題はないのだが、まあこうやって歴史の中で、また世界中に永遠に残っていくのだから、歌というのは考えようによっては諸刃の剣みたいなものだろう。ちなみにエリックとパティはこの2年後に正式に結婚し、その10年後に離婚した。もちろんこの曲は今でもステージ歌い継がれている。

 "Lay Down Sally"は全米シングル・チャートで3位まで上昇したヒット曲で、JJケイル風のカントリー・ブルーズを意識して作った曲だった。クラプトンのギターも小刻みに動いているが、当時のバックでギターを弾いていたテリー・リードのギターもクラプトンに負けじ劣らず頑張っている。
 このアルバムの優れているところは、いわゆる”捨て曲”が見当たらない点だろう。4曲目の"Next Time You See Her"もメロディアスかつポップであり、一度聞くとサビのフレーズが頭から離れない。クラプトンの歴史の中ではそんなに重要な曲ではないだろうが、それでもこのアルバムの中では、あるべきところに納まっている感じがする。

 それは次の曲"We're All the Way"にも当てはまることで、呟くようなクラプトンのボーカルが印象的だが、うっかりすると子守歌のように聞こえてきて、目を閉じると思わず眠りに落ちてしまいそうになった。この曲は、アメリカのカントリー・シンガーであるドナルド・レイ・ウィリアムスという人が作った曲で、彼はカントリー・ミュージックの殿堂入りを果たしている。ただ残念ながら2017年の9月、肺癌により78歳で亡くなった。

 レコードではここからサイドBになる。このB面の1曲目が強烈だった。この”The Core”という曲でのクラプトンのギターは、全盛期つまり60年代後半を彷彿させる音を出していて、聞き方によってはサックスのメル・コリンズとバトルを繰り広げているようだった。ただメインはやっぱりボーカルなので、曲自体は8分44秒もあるのに、バトルの時間はそんなに長くはないのが悲しいところだ。クラプトンと女性ボーカルのマーシー・レヴィの掛け合いもまたこの曲を際立たせている。

 "May You Never"はイギリス人のシンガー・ソングライターであるジョン・マーティンという人の持ち歌で、ポップなミディアムテンポの曲だった。大作"The Core"のあとの曲だったから、お口直しみたいな感じがするようなそんな小曲だった。この曲の作曲者だったジョン・マーティンも2009年の1月に肺に関する病気で、60歳で亡くなっている。彼は才能のわりにはイギリス以外では正当な評価を得ることができず、そのせいかドラッグやアルコールで苦しんでいたようだ。

 8曲目の"Mean Old Frisco"は、これもまたこのアルバムを象徴するようなカントリー・ブルーズ調の曲で、発表当時はクラプトンのオリジナル曲と記載されていたが、今はエルビス・プレスリーの曲"That's All Right"も書いたデルタ・ブルーズの巨匠アーサー・クルドップと表記されている。自分はどちらでもよいのだが、こうやって見ると、クラプトンという人は、自分のボーカル・スタイルに合う曲を見つけてきては、実に上手にカバーし、自分のものとしている。こういった音楽センスもまた一流ミュージシャンとしての証なのだろう。

 そして最後の曲"Peaches And Diesel"は、4分49秒のインストゥルメンタル曲だった。何となく"Wonderful Tonight"のインスト版みたいに聞こえてくるのだが、気のせいだろうか。この曲はクラプトンとアルビー・ギャルーテンというアメリカ人作曲家の2人で作った曲だった。このギャルーテン(もしくはガルーテン)という人は、13曲の全米ナンバーワンのヒット曲に携わった人で、主にビージーズやバーブラ・ストライザンドに曲を提供したり、彼らのアルバムをプロデュースしたりしている。91d1c0i64zl__sl1500_

 このアルバムは、それまでジャマイカやアメリカのマイアミでレコーディングされていたのを、久しぶりにイギリスのロンドンに戻り、プロデューサーをトム・ダウドからグリン・ジョーンズに替えて制作されたものだった。だからというわけではないだろうが、サックス・プレイヤーにあのメル・コリンズを招いたのだろうし、同じイギリス人としても呼びやすかったのだろう。
 従来のファンからすれば、イギリスに戻ったのでそれまでのアメリカナイズされた音楽から原点回帰されて、ブルーズ・ロック中心になるのではないかと思われていたが、実際は上記のようなカントリー・ブルーズやアメリカ南部のブルーズに影響された楽曲が中心になった。

 彼の伝記映画である「エリック・クラプトン~12小節の人生~」によると、当時のクラプトンはドラッグ中毒で、コカインからヘロインへとよりヘヴィなドラッグに移っていった。ヘロインはかなりお金がかかるようで、クラプトンでさえも経済的な余裕がなければやらなかったと告白していたし、静脈注射だと一度で多量に摂取してしまうので、鼻から吸引するようにしていたという。実際に、ヘリコプターで病院に運ばれたこともあったようで、現在、こうやって生きていられるのは彼自身奇跡のようなものだとインタビューに答えている。確かに、クラプトンのことを知っている人なら、だれしもそう思うに違いない。

 さらに、ドラッグだけでなくアルコール中毒にもなっていて、恋人のパティ・ボイドにも"Wonderful Tonight"のように優しく接するときもあったし、それとは全く逆に、我を失って空の酒瓶を投げつけたこともあった。もちろん酩酊していて自分が何をしているのかわからなかったのだろう。だから当時のパティに対して”奴隷兼パートナー”と後になって説明していた。クラプトンにとってもパティにとっても天国と地獄を往来していたに違いない。

 それにしても、そんな状態の中でこれだけレベルの高い、しかも商業的にも成功したアルバムを発表していたのだから、エリック・クラプトンとは、常識の範囲内では捉えきれない、あるいは常識で判断してはいけない、規格外のミュージシャンだと思う。もし彼がドラッグやアルコールに手を出していなかったなら、どうなっていただろうか。もっと素晴らしい音楽を創造できたかというと、それはよくわからない。あるいは全くの逆で、ドラッグやアルコールに手を出していたからこそ、これだけの音楽を創出できたのかもしれない。0eric_clapton105
 そして彼がなぜそういう危険なものに手を出していったかというと、それはやはり彼自身の弱さであり、ある意味、幼少期の親子関係からくる運命的なものかもしれない。自分は、彼自身が依存体質だと思っているし、実際、ドラッグとアルコールだけでなく女性(恋愛)にも依存していた。

 そして、クラプトンの偉大さは、そんな自分自身を対象化し、ブルーズという音楽とギター演奏という技術を通して、自分の想いや感情を万人に伝わるように表現していったところだと思っている。彼が死を意識し、それと隣り合わせでも今まで生きて来れたのも彼の類まれなる能力のおかげだろう。また、自分自身をブルーズという音楽の体現者として意識しているからに違いない。

 結局、彼は最終的には”ブルーズ”という音楽に依存していたからこそ、生き延びることができて、現在では満ち足りた生活を送ることができているのだと思っている。今年の4月には22回目の来日公演を行ったクラプトンだが、恐らく自分の人生がブルーズだと認識している限りは、これからも世界のどこかでライヴを行っていくだろう。

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2019年5月20日 (月)

ウィズ・ザ・ビートルズ

 久しぶりに、ザ・ビートルズのセカンド・アルバム「ウィズ・ザ・ビートルズ」を聞いた。自分のザ・ビートルズ体験を言うと、初期の曲はシングルを通してしか知らなくて、主に中期のアルバムを通して知るようになった。最初に印象を受けたのは1965年に発表された「ラバー・ソウル」だったし、最初に買ったアルバムは同じく65年の「ヘルプ」だった。もちろん"Yesterday"が収められている英国盤の方である。ただ、自分はザ・ビートルズと同世代に生きていたわけではなく、70年代になって遅れて知ったから、アルバムを聞いたときにはすでにバンドは解散していた。Withthebeatles2_700

 だからすでに解散していたこともあって、中期から後期へと聞き進んでいって、最後の「レット・イット・ビー」から初期のアルバムへとさかのぼっていった。そして「ウィズ・ザ・ビートルズ」を聞いてぶっ飛んでしまった。まさに革新的ともいえる珠玉の名曲群が並んでいたからだった。
 その前に、アルバム・ジャケットの写真を見て、子ども心でもカッコいいと思っていた。単なるモノクロームの写真なのだが、まるで夜空に浮かぶ半月のように、正面の顔の半分だけが照らされているし、背景も漆黒に塗り固められていた。のちに「ハーフ・シャドウ」と呼ばれるようになった写真だが、1963年のイギリスツアー中に、ホテルの食堂で撮影されたものだった。このアルバム・ジャケットを見ただけでも購買意欲がそそられるようだった。811yclohkal__sl1500_ 

 そして中身の曲も鮮烈で、斬新で印象的だった。特に冒頭の曲"It Won't Be Long"でのイントロなしの歌い出しや、ジョンとポールやジョージとの掛け合い(Yeah)などは、それまでそういった曲を聞いたことがなかったのでとても新鮮に思えた。さすがザ・ビートルズである。こういう発想はどこから出てきたのだろうか。アルバム冒頭に相応しいノリのよい曲でもある。

 続く"All I've Got to Do"もジョンの曲だが、一転してミディアム調のメロディアスな曲だ。あらためてジョンの作曲能力の高さを感じさせられた。ポールとともに2人の天才的なミュージシャンがいたのだから、売れないわけがない。当時の2人はいい意味で競い合って曲作りをしていたのだろう。

 そのポールが作った曲が"All My Loving"だった。並のミュージシャンなら、生涯を通してこういう曲1曲だけで充分評価されるだろうが、ポールはこのレベルの曲を何百曲と作ってきたのだから、まさに天才的なメロディーメイカーである。一度聞いただけで覚えてしまいそうなメロディーやジョージ・ハリソンのチェット・アトキンスをまねたリード部分は初期の彼らを代表するオリジナル曲だと思っている。

 4曲目の"Don't Bother Me"はジョージ・ハリソンの曲で、ツアー中のホテルの中で体調を崩した時に書いたものらしい。この曲も意外とメロディアスで、最初はジョージが作った曲とは知らなくて聞いていた。バンドの中では一番若かったジョージ・ハリソンだったが、ジョンとポールの影響を受けて曲作りを進めていった。ただ、アルバムには取り上げられる回数は少なかった。ジョンやポールとほぼ同じ水準の曲を作れと言われても、そう簡単にはいかなかっただろう。しかし、活動の後期には"Something"、"Here Comes The Sun"などのスタンダード曲と化した超名曲を発表している。

 "Little Child"は誰かのカバー曲だとずっと思っていて、”レノン=マッカートニー”の作品とは思っていなかった。実際は、ジョンの曲だそうで、ハーモニカもジョン自身が演奏している。ちなみにピアノはポールが弾いているらしい。
 "Till There Was You"はカバー曲で、1957年のミュージカル「ミュージック・マン」の中の挿入曲だった。ただし、ザ・ビートルズは、1960年のアニタ・ブライアントという人が歌ったバージョンを参考にしていて、レコーディングを勧めたのはポールだった。ここではジョージ・ハリソンがクラシック・ギターを、ジョンがアコースティック・ギターを演奏していた。

 A面最後の曲だった"Please Mister Postman"は、カーペンターズも歌った有名曲で、元はモータウンのR&B曲だった。モータウンの女性コーラス・グループのマーヴェレッツが歌って、1961年12月11日に全米シングル・チャートでNo.1になっている。

 1956年のチャック・ベリーの古典ともいうべき楽曲が、"Roll Over Beethoven"で、ここではジョージがリード・ボーカルをとっていた。こういう曲を聞くと、初期のザ・ビートルズはロックン・ロール・バンドだったということが分かる。おそらくデビュー前のハンブルグ修業時代から歌っていたのだろう。

 このアルバムには、メンバー間の”掛け合い”の曲が多く収められていて、この"Hold Me Tight"でも同様に聞くことができる。ポールの作った曲で、ホントはデビュー・アルバムに収められる予定だったが、出来具合が良くなくてセカンド・アルバムに収録されたもの。このアルバムの中の曲はどれも素晴らしくて捨て曲などないのだが、強いてあげれば、この曲くらいがやや薄い印象かもしれない。

 続く"You Really Got A Hold On Me"は、このアルバムの中で唯一3分に届いた曲で、オリジナルは、モータウン・レコードのスモーキー・ロビンソンとザ・ミラクルズが1962年に歌っていた。全米シングル・チャートでは、8位まで上昇している。ここではジョンが歌い、ジョージがハーモニーをつけ、途中からポールも参加して歌っていた。ピアノはプロデューサーだったジョージ・マーティンが担当している。

 "I Wanna Be Your Man"は、元々ザ・ビートルズが作った曲を当時のライバル・バンドとみなされていたザ・ローリング・ストーンズの2枚目用のシングルとして1963年に贈ったもので、楽屋でジョンとポールが書き上げた曲だった。このアルバムではリンゴ・スターがリード・ボーカルをとっている。リンゴは本当は"Little Child"を歌う予定だったらしいのだが、なぜかこの曲を歌うようになった。音域が合わなかったのだろうか。

 "Devil in Her Heart"もまたアメリカのアフリカ系アメリカ人女性グループ、ザ・ドネイズが、1962年に発表した曲。この曲はヒットせずに、ザ・ドネイズ自体もこのシングルだけを残して解散してしまった。ザ・ビートルズが取り上げたおかげで有名になった曲で、レコーディングを提案したのはジョージ・ハリソンだった。そのせいか、彼自身がリード・ボーカルをとっている。この曲もまた”掛け合い”が見事である。

 13曲目の"Not A Second Time"は、レノン=マッカートニーの作品で、実質的にはジョンが作った曲だった。もちろんボーカルもジョン自身である。当時のザ・ビートルズは、というか、ジョン・レノンとポール・マッカートニーは徐々にそれぞれ個人による楽曲制作が進んでいて、それぞれが作った曲をお互いにアドバイスを受けながらレコーディングを進めていったと言われている。そういう意味では、まだまだ共同作業といえるかもしれない。

 そして最後の曲、"Money"はバレット・ストロングというシンガーが1959年に歌ったもので、翌年にはモータウン・レコードから再発されて、全米シングル・チャートの23位を記録した。ジョンが歌い、ポールとジョージが”掛け合い”のコーラスを付けている。歌詞を見ると、とにかくお金が欲しいという切実な内容になっていて、夢も希望もないような現実的な歌詞だった。日本のロック・シンガーだった忌野清志郎もザ・タイマーズとしてレコーディングしていた。もちろん日本語で歌っている。 51zkg6zmj0l

 とにかく、このアルバムを聞いて思ったことは、この時期のザ・ビートルズはロックン・ロール・バンドだったということであり、さらにまた彼らが作ったオリジナル曲は優れていて、カバー曲は元のオリジナル曲よりもハードでロックン・ロールしているということだった。
 同時に、ロックン・ロールやリズム・アンド・ブルーズの影響が強くて、ヒットした曲からあまり知られていない曲まで、幅広いレパートリーを誇っているということだった。特に女性コーラス・グループの曲には詳しくて、その影響からか"掛け合い"を含む曲が目立っている。

 とにかく、21世紀の今でも影響力を残しているモンスター・バンドのザ・ビートルズである。聞くたびに新しい発見があり、それぞれの曲は、人によってそれぞれの想いを抱かせるパワーを秘めているようだ。

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2019年4月15日 (月)

クィーンのラスト三部作(3)

 映画「ボヘミアン・ラプソディ」にも登場したフレディの恋人のジム・ハットンによれば、1986年当時の様子について、次のように述べていた。『フレディには特定の恋人はいないと、世間の人やファンには思わせるようにしていた。そういう線で通した方が僕たちふたりにとって何かと楽に運ぶとフレディはずっと考えていた。実際その通りだった。メアリー(注:フレディの女性としての最初の恋人)は、もうずいぶん前からマスコミでフレディの生活に関わる人間として知られているから、彼女なら簡単にマスコミをあしらえるだろうとフレディは思っていた。でも僕のこと(注:ジム・ハットンのこと)は常にマスコミから守ろうとしていた。フレディは初めて自分の中に満ち足りた思いを感じているとインタビューにこたえていたが、それは僕たちのことを言っているのだと彼は僕に言ったんだ』

 同時期のロジャー・テイラーもジムに対して、フレディは以前とはまるで別人になったようだと言っていた。以前はみんながホテルに戻った後もゲイのたまり場をうろついていたのに、そんなことはもうしなくなった。いったいフレディに何をしたんだとわかってて聞いたようだが、ジムにとっては何よりの誉め言葉だったに違いない。
 確かにフレディ・マーキュリーはハード・ゲイのような態度や雰囲気を湛えていたから、その当時も暗黙の了解みたいなものがあったのだろうけれど、ゲイということは公式にも非公式にも明かされてはいなかった(と思う)。また、メアリーという女性の元恋人がいるなんて自分は全く知らなかった。そんなプライベートなことよりも、音楽性の方が大事だったし、バラエティ豊かな音楽性の中からファンクに走ったり、映画音楽を担当したりと、何となく方向性が定まらない80年代以降のバンドの行く先の方が、最大の関心事だった。また、それと同時に不安の原因にもなっていたのである。

 さて、「クィーンのラスト三部作」の最終回は、1995年に発表された「メイド・イン・ヘヴン」である。当然のことながら、フレディ・マーキュリーの死後発表されたアルバムだが、収録された曲の中には、1991年の「イニュエンドゥ」制作時に録音された曲をもとにして作られたものもあり、そういう意味では、フレディ・マーキュリーの遺作ともいうべき内容を伴っていた。
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 大雑把に言うと、フレディ・マーキュリーの死後、約4年間をかけて過去の既発や未発の曲を集めてきて、さらにブラッシュアップしたアルバムといえるだろう。つまり、フレディを除く3人がフレディの意志を引き継ぎ、バンドとしての最後の輝きを放とうとしたような、そんなバンドとしての結束性や力強さを感じさせてくれるアルバムなのだ。だからこのアルバムは、バンドとしての15枚目のスタジオ・アルバムとして公認されている。アルバムのフロント・カバー写真には、スイスのモントルーにあるジュネーヴ湖(別名レマン湖)のほとりに立つフレディの銅像の写真が使われていて、実際にこの場所は、観光地にもなっているという。
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 曲数自体は11曲と、以前のバンドのアルバムとしては多くはなく、むしろ少ない方だ。これはフレディの最後のレコーディングができるだけ数多く収録したものの、断片的なものしか残っていないということが主な原因だった。だから、他のメンバーの作品も収録されているのである。実際にブライアンは、当時を回顧しながら、「イニュエンドゥ」完成後もスタジオで生活しながら、フレディの調子のいい時を待ってレコーディングを行っていて、『バンドのメンバーは、フレディにとって残された時間は本当に少ないと聞かされていたからだ。僕らは目一杯、彼の意向に沿うことにした。彼は歌わせてくれ、書ける曲は何でも書いてくれ、それを歌うからと言っていた』と述べていた。

 プロデューサーだったデヴィッド・リチャーズは、普段のフレディの録音時の様子からこのアルバムを次のように判断していた。『フレディは、いつも最後にボーカルの音入れをやっていた。曲が完成するまで待ってから自分の声を入れていたんだ。ところが、「メイド・イン・ヘヴン」に収められている曲の中には、まだ曲が完成していないにもかかわらず自分の声を吹き込んでいるのもあった。自分の残された時間を考えると、曲が完成するまで待てなかったのだろう。だからこのアルバムは、彼が絶対にリリースしたいと考えていただろうし、彼の最後のアルバムだ、絶対に世の中に発表しないといけないと思ったね』

 2013年には、ブライアン・メイが「メイド・イン・ヘヴン」は、今まで制作してきたクィーンのアルバムの中で最上の作品だとインタビューに答えていた。『何より美しいし、作り上げるまでに長くて険しい道のりを歩んできたからだ。本当の愛の苦悩の結晶なんだ』確かに、どちらかというと、バラエティ豊かで、ある意味、散漫な印象もあったクィーンのアルバムの中では、“フレディの意志”という点では首尾一貫しているし、統一性があるといえよう。
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 1曲目の"It's a Beautiful Day"は、1980年のドイツのミュンヘンでデモテープが制作されていたものを、ジョン・ディーコンが2分32秒までに引き延ばしたもの。当時のクィーンは「ザ・ゲーム」のアルバムを制作中だった。その時にフレディが作った曲が原曲になっている。アルバムの全体の雰囲気をよく掴んでいる曲だと思う。

 2曲目のアルバム・タイトル曲"Made in Heaven"もまた、力強いフレディのボーカルを堪能できる曲で、1985年の彼のソロ・アルバム「ミスター・バッド・ガイ」の中の曲だった。バックの演奏は、このアルバムのためにブライアンとジョンとロジャーで再録している。
 "Let me Live"は、ゴスペル風味あふれるバラード曲で、元は1984年の「ザ・ワークス」制作時に作られたものだった。ロッド・スチュワートとともに録音されたと言われている。それをロッドの部分を削除して、録音し直されている。珍しいところでは、ボーカルがフレディからブライアン・メイ、ロジャー・テイラーと引き継がれて歌われているところだろう。また、歌詞がエマ・フランクリンの"Piece of My Heart"と似ていたため、著作権に引っかからないように改作されていた。

 "Mother Love"は、フレディとブライアンが一緒に作った最後の曲で、1991年の5月13日から16日にかけて録音された。曲の最後のヴァースになって、フレディはちょっと休んでくるといって、スタジオから出ていってからまた戻って書き上げた。しかし、それからはスタジオに戻ってくることはなく、仕方なくブライアンが最後の部分を歌っている。この曲にはまた、1986年のウェンブリー・スタジオのライヴ音源や"One Vision"、"Tie Your Mother Down"のスタジオ・ヴァージョンのイントロ、フレディが1972年に歌っているキャロル・キング&ジェリー・ゴフィンの曲"Goin' Back"もほんの一部ではあるが使用されていた。

 "My Life Has Been Saved"はジョン・ディーコンの作品で、元々はアコースティック・ヴァージョンだった。それを当時のプロデューサーだったデヴィッド・リチャーズがキーボードを加え、バンド全体で演奏して、1989年のシングル"Scandal"のBサイドに収録された。今回アルバムに収録するときに、フレディのボーカルはそのままで、演奏を取り直している。ちなみに、基本のギターやベース、キーボードはジョンが演奏している。

 6曲目の"I was Born to Love You"は、日本でも特に人気の高い曲で、テレビドラマやCMでも使用されていた。音源は「ミスター・バッド・ガイ」のアルバムからで、このアルバムではテンポを少し早くし、ブライアンのギターをフィーチャーしていて、この「メイド・イン・ヘヴン」の中では、ハード・ロックとして聞こえてきそうだった。

 7曲目の"Heaven for Everyone"もまたミディアム・テンポの曲で、いかにもフレディのボーカルを噛み締めて味あわせようとするかのような曲調だった。元々は1987年にロジャー・テイラーの書いた曲で、自身のバンド、ザ・クロスのアルバム用だった。ゲストとしてフレディが歌ったものをボーカル部分だけ取り出して録り直している。

 "Too Much Love Will Kill You"は、「ザ・ミラクル」前後にブライアン・メイとフランク・マスカー、エリザべス・ラマーズという3人が共作したバラード曲で、著作権の関係からか、それまでクィーンのアルバムの中では発表されず、のちにブライアン・メイの1992年のソロ・アルバム「バック・トゥ・ザ・ライト」で発表されている。「フレディ・マーキュリー追悼コンサート」で初めて公にされたもので、ブライアン・メイはピアノを弾きながら歌っていた。

 "You Don't Fool Me"は、何となくファンキーで、お洒落な感じを伴う曲で、クィーンらしくない。曲の枠組みはかつてのプロデューサーだったデヴィッド・リチャーズが手掛けていて、それにフレディがボーカルを入れ、バンドが演奏を加えている。ただ、このアルバムの中では躍動感があり、ハードではないものの、好印象を与えてくれる。この曲もフレディが亡くなる前の録音だと言われている。

 10曲目の"A Winter's Tale"は、フレディが病気の末期にスイスのモントルーに来て、自分のフラットで作曲したもの。彼の最後の自作曲だと言われている。そういう経緯があったからか、ジュネーヴ湖畔に彼の銅像が建てられたのだろう。この曲もまた、フレディ自身が死期を強く意識しながら書かれたものだろうが、哀しみや苦しみなどは全く感じさせず、むしろ彼の力強いボーカルに逆にこちらが励まされるようだ。まさに感動的なバラードで、クィーン・ファンでなくても、感慨はひとしおだろう。
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 11曲目は、冒頭の曲"It's a Beautiful Day"のハード・ロック・ヴァージョンだった。最後に"The Seven Seas of Rhye"のピアノが挿入されていた。アルバムのクレジットはこれで終わっているが、11曲目に続いて12曲目に"Yeah"という曲が収められているそうで、これは単にフレディが、"Yeah"と言っているもの。むしろ、11曲目の曲の最後にフレディが歌ったものと考えても問題はないようにも思えた。

 問題は13曲目で、22分32秒にわたって、アンビエント・ミュージックのようなサウンドが延々と続く。いわゆる隠しトラックだろう。約2か所くらいでちょっとした演奏っぽい雰囲気が伝わって来そうになったが、すぐに元の環境音楽に戻ってしまった。最後に一言が聞こえてきて終わるのだが、たぶんフレディの声だろうけれど、何と言っているのかわからなかった。ネットで検索してみると"FAB!"と言っていると書かれていたが、本当だろうか。でも、"FAB"って、“素晴らしい”という意味だけど、フレディは最後に自分の人生を振り返って、素晴らしい人生だったと思ったのだろうか。そりゃ自分の誕生パーティーに8000万円も一晩でお金をかけるのだから、素晴らしいに違いない。
 前述のジム・ハットンの手記によれば、そのパーティーの様子はすべてビデオ撮影されていたらしいのだが、あまりにもエグイので鑑賞に堪えられず、すべてお蔵入りになったという。関係者がこの世からいなくなれば、そのうちどこからか、ひょっこりと出てくるかもしれない。ただ一般公開は無理だろうけれど。
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 というわけで、遅ればせながら、映画「ボヘミアン・ラプソディ」の影響を受けて、クィーンの最後の三作品について綴ってみた。もちろんフレディ・マーキュリー自身も素晴らしい不出世のボーカリストだと思うが、最後まで輝かしいキャリアを築き上げることができたのも、他の3人のメンバーが彼の最後を看取るという決意で、彼を支えていったからではないだろうかと思っている。
 それはまた、彼がエイズという、当時では不治の病と言われた病気になってしまい、人生自体が限定的になってしまったからだろう。エイズという病に冒されたからこそ、最後の三部作は、輝かしい不滅の光を放つ作品群になったのである。

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2019年4月 8日 (月)

クィーンのラスト三部作(2)

 1980年代から90年代にかけて、先天性免疫不全症候群(通称;エイズ)という病気は、不治の病として恐れられていた。つまり、一旦、エイズウィルスを保持してしまうと、ほぼ間違いなく数か月から数年のうちに亡くなってしまうと信じられていた。
 もちろんそれは間違いではなくて、確かに当時では、発症すれば死を待つしかないのは事実だった。しかし、その対策が進んだ現在では、発症を遅らせたり、発症しても進行をくい止める方法が研究され、実際に感染後でも治療を開始すれば、余命は平均寿命に並ぶと言われている。それだけ臨床検査などで、新薬の開発が進んだせいだろう。

 それで、クィーンのフレディ・マーキュリーがもしそういう新薬を接することができていれば、今もなお現役で活躍していたかもしれない。もし生きていれば、今年で73歳になっていた。ミック・ジャガーが今年76歳だから、ほぼ同世代なのである。

 それで、今回は、クィーンの実質的なラスト・アルバムとなった1991年に発表された「イニュエンドゥ」について記すことにした。Innuendo
 前作のアルバム「ザ・ミラクル」が久しぶりに気合の入ったアルバムで、メンバー全員で制作されていて、セールス的にも好調だった。それで引き続きメンバーは、1989年の3月からロンドンやスイスのモントルーでレコーディングを始めたのである。
 当初は、1990年のクリスマス時期を狙って発表しようと計画されていたが、残念ながらフレディ・マーキュリーの病気の進行が早くて、その時期が遅れてしまったのである。

 当時のフレディ・マーキュリーについて、様々なメディアがエイズではないか、しかも末期症状だとか根拠のない噂話(実際は本当の話だったのだが)を書き立てていた。もちろん、彼自身はそれらを認めることはなく完全否定を続けていたのだが、1990年2月のブリット・アワードの授賞式で4人全員がそろった時のフレディのやつれた姿は、誰がどう見ても間違いなく何かの病気にかかっていると思われた。

 それで、1991年の2月に発表されたアルバム「イニュエンドゥ」は、初期のクィーン・サウンドが甦ったような原点回帰されたアルバムとして好意的に迎えられた。ただ、“イニュエンドゥ”とは、“暗示”や“ほのめかし”という意味だそうで、今となって考えればフレディの病のことについて仄めかしていたのだろう。

 冒頭のアルバム・タイトル曲の"Innuendo"は、ブライアンとロジャーとジョンの3人のジャム・セッションから生まれた曲で、2階で聞いていたフェレディは慌てて降りてきて、この曲にメロディと中間部の歌詞を付け加えたという。
 また、歌詞はロジャー・テイラーが引き継いで書き加え、シンセサイザーによるオーケストラは共同プロデューサーのデヴィッド・リチャーズが、途中のフラメンコ・ギターはイエスのギタリストであるスティーヴ・ハウが担当していた。彼はスタジオに遊びに来た時に、演奏してくれと頼まれたようだ。できればもう少し長く演奏してほしかった。イギリスでは、この曲が1991年の1月にシングルカットされて、見事に初登場1位を記録している。

 続く"I'm Going Slightly Mad"は、フレディの書いたミディアム・テンポの曲で、スイスのモントルーで作られたもの。この曲のプロモーション・ビデオは黒白のフィルムで、フレディもぼさぼさの髪に白い手袋をして出演していたが、かなりの厚化粧だった。メンバーのロジャー・テイラーもこの時のフレディの姿を見て、かなり深刻な病気だなと思ったと後に告白していた。

 "Headlong"はテンポのよいハード・ロック風の曲で、ブライアンのギターが目立っている。もちろんブライアンが書いた曲だが、彼は自分のソロ・アルバム用に録音していたのだが、フレディがこの曲を聞いて、クィーンのアルバムに入れることを強く主張したので収められたもの。ブライアンの書いた曲はギターが目立っているのでわかりやすい。

 続く"I Can't Live With You"もまたブライアンのソロ・アルバム「バック・トゥ・ザ・ライト」用にレコーディングされたものだが、クィーンの他のメンバーが気に入ってしまい、このアルバムに収録された。いかにもクィーンと言われそうなコーラスと後半のギター・ソロが、彼らの全盛期を彷彿させる。

 "Don't Try So Hard"はフレディの作ったバラード曲で、ファルセットで始まり、高い音域までカバーしている。もちろんエコー処理などの音響的なテクニックなどを使用しているのだろうが、初期の彼らのアルバムを聞いているような感じがしてきて、まさに“原点回帰”という言葉がふさわしい曲に仕上げられている、

 勇ましいタイトルをつけられた"Ride the Wild Wind"は、サーフィン用の曲ではなくて、カーレースのことをイメージされて作られたもので、バンドの中で車といえばこの人、ロジャー・テイラーが作った曲。デモ・テープではロジャーが歌っていたが、本番ではフレディが歌い、ロジャーはバック・コーラスに回っている。また、「オペラ座の夜」の中の"I'm in Love with My Car"の続編とも言われていて、いかにもロックン・ローラーであるロジャーらしい作品になっている。Qooonlineshop_pfmyhbevh0_1
 "All God's People"は、フレディが自分のソロ・アルバム「バルセロナ」用に作った"Africa by Night"という曲が原曲で、このアルバムの中で唯一、個人名義のクレジットになっている。つまり、他の曲はすべてクィーン名義なのに、この曲だけは”フレディ・マーキュリーとマイク・モーラン”名義になっていた。本来ならフレディとモンセラート・カバリエが歌うはずだったのだが、結局、選から漏れてしまったようだ。
 自分のアルバム用の曲だったので、ボーカルがかなり多重録音されていて、オペラチックな印象を受ける。それでもクィーン風のロックにアレンジされているところが素晴らしいし、アルバムに統一感をもたらしていると思う。4分21秒のオペラだろう。

 8曲目の"These Are the Days of Our Lives"は、ロジャー・テイラーの作品で、全体的にシンプルで落ち着いた曲調になっている。その中でブライアン・メイのギターが、飛翔するかのように鳴り響いているのが印象的だった。また、この曲のプロモーション・ビデオもまた黒白のフィルムで、フレディ・マーキュリーの生前最後の姿が映されていて、最後に彼の唇が"I still love you"と動いていた(曲の中では歌っている)。ファンに対する最後のメッセージだったのだろう。

 "Delilah"は、フレディが買っていた11匹の猫の中の最も愛した雌猫の名前で、もちろんフレディが書いた曲だった。ブライアンがトーク・ボックスというエフェクターを用いて猫の声のような音を出している。ただ、ロジャーは後にこの曲は好きではないとインタビューで告白していた。

 ハード・ロック好きならこの曲は気に入るだろう。"The Hitman"は、フレディが基本的なリフを書き、ジョンが肉付けをして、ブライアンがキーを代えてレコーディングしたもの。この曲を聞いて、フレディが不治の病に冒されているなどとは思いもしないだろう。それだけインパクトの強い曲でもある。

 "Bijou"はフレディとブライアンの2人だけで作った曲で、アイデアはフレディからもらい、フレディが歌ったあとをブライアンのギターがその音を拾っていくという作業から生まれたもので、ギターが歌詞の部分を、ボーカルがサビの部分を担当していた。
 また、イエスの1974年のアルバム「リレイヤー」の中の通称"Soon"という部分に関連付けられることが多いようだ。ブライアンは後に、ジェフ・ベックの1989年のアルバム「ギター・ショップ」に収録されていた"Where Were You"に影響を受けた曲だと述べていた。最後の曲になった次の"The Show Must Go On"の序章のようにも思える。

 そして"The Show Must Go On"である。曲の基本は、ブライアンとロジャー、ジョンで作られていて、曲のテーマと歌詞はフレディが手掛けている。ただ、最初の節の部分は、ブライアンも手伝っているようだ。曲調はクィーンの1989年の曲"I Want It All"に似ているが、ブライアンはバロック期のドイツ人作曲家であるヨハン・パッヘルベルのカノンにインスピレーションを受けたと語っていた。いずれにしても、このアルバムの白眉であり、フレディ自身が希望と諦観を同居させながらも、自分自身の死に対峙して歌っているところが、涙無くして聞くことはできないだろう。199e675ddf22914cd7de7330e5eebaff
 自分がこのアルバムを聞いたときは、まだフレディは生きていて、曲の中の力強いボーカルを聞いたときは、数か月後に彼が亡くなるとは思ってもみなかった。実際は、アルバム発表後の約半年後には亡くなっていたから、レコーディングやプロモーション・ビデオ制作時にはかなり衰弱していたようだ。そんなことはこれっぽっちも知らなかったから、このアルバムを聞いても、もう少しシングル向けの曲が欲しかったなとか、珍しくゲスト・ミュージシャンがいるなとか、そんな感想しか持てなかった。

 しかも、ここ極東の日本にいては彼の詳細な様子はわからず、1991年の11月23日にフレディがエイズに冒されているという報道があり、翌24日に45歳で亡くなったということを知ったのは、25日だった。自分にとってはあまりにも早すぎる彼の死であった。

 だからこのアルバムは、クィーン版“アビー・ロード”ともいうべきものであり、迫り来る死を自覚したフレディが最後の気力を振り絞って制作したものであり、文字通り彼の遺作なのである。

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