2019年4月15日 (月)

クィーンのラスト三部作(3)

 映画「ボヘミアン・ラプソディ」にも登場したフレディの恋人のジム・ハットンによれば、1986年当時の様子について、次のように述べていた。『フレディには特定の恋人はいないと、世間の人やファンには思わせるようにしていた。そういう線で通した方が僕たちふたりにとって何かと楽に運ぶとフレディはずっと考えていた。実際その通りだった。メアリー(注:フレディの女性としての最初の恋人)は、もうずいぶん前からマスコミでフレディの生活に関わる人間として知られているから、彼女なら簡単にマスコミをあしらえるだろうとフレディは思っていた。でも僕のこと(注:ジム・ハットンのこと)は常にマスコミから守ろうとしていた。フレディは初めて自分の中に満ち足りた思いを感じているとインタビューにこたえていたが、それは僕たちのことを言っているのだと彼は僕に言ったんだ』

 同時期のロジャー・テイラーもジムに対して、フレディは以前とはまるで別人になったようだと言っていた。以前はみんながホテルに戻った後もゲイのたまり場をうろついていたのに、そんなことはもうしなくなった。いったいフレディに何をしたんだとわかってて聞いたようだが、ジムにとっては何よりの誉め言葉だったに違いない。
 確かにフレディ・マーキュリーはハード・ゲイのような態度や雰囲気を湛えていたから、その当時も暗黙の了解みたいなものがあったのだろうけれど、ゲイということは公式にも非公式にも明かされてはいなかった(と思う)。また、メアリーという女性の元恋人がいるなんて自分は全く知らなかった。そんなプライベートなことよりも、音楽性の方が大事だったし、バラエティ豊かな音楽性の中からファンクに走ったり、映画音楽を担当したりと、何となく方向性が定まらない80年代以降のバンドの行く先の方が、最大の関心事だった。また、それと同時に不安の原因にもなっていたのである。

 さて、「クィーンのラスト三部作」の最終回は、1995年に発表された「メイド・イン・ヘヴン」である。当然のことながら、フレディ・マーキュリーの死後発表されたアルバムだが、収録された曲の中には、1991年の「イニュエンドゥ」制作時に録音された曲をもとにして作られたものもあり、そういう意味では、フレディ・マーキュリーの遺作ともいうべき内容を伴っていた。
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 大雑把に言うと、フレディ・マーキュリーの死後、約4年間をかけて過去の既発や未発の曲を集めてきて、さらにブラッシュアップしたアルバムといえるだろう。つまり、フレディを除く3人がフレディの意志を引き継ぎ、バンドとしての最後の輝きを放とうとしたような、そんなバンドとしての結束性や力強さを感じさせてくれるアルバムなのだ。だからこのアルバムは、バンドとしての15枚目のスタジオ・アルバムとして公認されている。アルバムのフロント・カバー写真には、スイスのモントルーにあるジュネーヴ湖(別名レマン湖)のほとりに立つフレディの銅像の写真が使われていて、実際にこの場所は、観光地にもなっているという。
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 曲数自体は11曲と、以前のバンドのアルバムとしては多くはなく、むしろ少ない方だ。これはフレディの最後のレコーディングができるだけ数多く収録したものの、断片的なものしか残っていないということが主な原因だった。だから、他のメンバーの作品も収録されているのである。実際にブライアンは、当時を回顧しながら、「イニュエンドゥ」完成後もスタジオで生活しながら、フレディの調子のいい時を待ってレコーディングを行っていて、『バンドのメンバーは、フレディにとって残された時間は本当に少ないと聞かされていたからだ。僕らは目一杯、彼の意向に沿うことにした。彼は歌わせてくれ、書ける曲は何でも書いてくれ、それを歌うからと言っていた』と述べていた。

 プロデューサーだったデヴィッド・リチャーズは、普段のフレディの録音時の様子からこのアルバムを次のように判断していた。『フレディは、いつも最後にボーカルの音入れをやっていた。曲が完成するまで待ってから自分の声を入れていたんだ。ところが、「メイド・イン・ヘヴン」に収められている曲の中には、まだ曲が完成していないにもかかわらず自分の声を吹き込んでいるのもあった。自分の残された時間を考えると、曲が完成するまで待てなかったのだろう。だからこのアルバムは、彼が絶対にリリースしたいと考えていただろうし、彼の最後のアルバムだ、絶対に世の中に発表しないといけないと思ったね』

 2013年には、ブライアン・メイが「メイド・イン・ヘヴン」は、今まで制作してきたクィーンのアルバムの中で最上の作品だとインタビューに答えていた。『何より美しいし、作り上げるまでに長くて険しい道のりを歩んできたからだ。本当の愛の苦悩の結晶なんだ』確かに、どちらかというと、バラエティ豊かで、ある意味、散漫な印象もあったクィーンのアルバムの中では、“フレディの意志”という点では首尾一貫しているし、統一性があるといえよう。
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 1曲目の"It's a Beautiful Day"は、1980年のドイツのミュンヘンでデモテープが制作されていたものを、ジョン・ディーコンが2分32秒までに引き延ばしたもの。当時のクィーンは「ザ・ゲーム」のアルバムを制作中だった。その時にフレディが作った曲が原曲になっている。アルバムの全体の雰囲気をよく掴んでいる曲だと思う。

 2曲目のアルバム・タイトル曲"Made in Heaven"もまた、力強いフレディのボーカルを堪能できる曲で、1985年の彼のソロ・アルバム「ミスター・バッド・ガイ」の中の曲だった。バックの演奏は、このアルバムのためにブライアンとジョンとロジャーで再録している。
 "Let me Live"は、ゴスペル風味あふれるバラード曲で、元は1984年の「ザ・ワークス」制作時に作られたものだった。ロッド・スチュワートとともに録音されたと言われている。それをロッドの部分を削除して、録音し直されている。珍しいところでは、ボーカルがフレディからブライアン・メイ、ロジャー・テイラーと引き継がれて歌われているところだろう。また、歌詞がエマ・フランクリンの"Piece of My Heart"と似ていたため、著作権に引っかからないように改作されていた。

 "Mother Love"は、フレディとブライアンが一緒に作った最後の曲で、1991年の5月13日から16日にかけて録音された。曲の最後のヴァースになって、フレディはちょっと休んでくるといって、スタジオから出ていってからまた戻って書き上げた。しかし、それからはスタジオに戻ってくることはなく、仕方なくブライアンが最後の部分を歌っている。この曲にはまた、1986年のウェンブリー・スタジオのライヴ音源や"One Vision"、"Tie Your Mother Down"のスタジオ・ヴァージョンのイントロ、フレディが1972年に歌っているキャロル・キング&ジェリー・ゴフィンの曲"Goin' Back"もほんの一部ではあるが使用されていた。

 "My Life Has Been Saved"はジョン・ディーコンの作品で、元々はアコースティック・ヴァージョンだった。それを当時のプロデューサーだったデヴィッド・リチャーズがキーボードを加え、バンド全体で演奏して、1989年のシングル"Scandal"のBサイドに収録された。今回アルバムに収録するときに、フレディのボーカルはそのままで、演奏を取り直している。ちなみに、基本のギターやベース、キーボードはジョンが演奏している。

 6曲目の"I was Born to Love You"は、日本でも特に人気の高い曲で、テレビドラマやCMでも使用されていた。音源は「ミスター・バッド・ガイ」のアルバムからで、このアルバムではテンポを少し早くし、ブライアンのギターをフィーチャーしていて、この「メイド・イン・ヘヴン」の中では、ハード・ロックとして聞こえてきそうだった。

 7曲目の"Heaven for Everyone"もまたミディアム・テンポの曲で、いかにもフレディのボーカルを噛み締めて味あわせようとするかのような曲調だった。元々は1987年にロジャー・テイラーの書いた曲で、自身のバンド、ザ・クロスのアルバム用だった。ゲストとしてフレディが歌ったものをボーカル部分だけ取り出して録り直している。

 "Too Much Love Will Kill You"は、「ザ・ミラクル」前後にブライアン・メイとフランク・マスカー、エリザべス・ラマーズという3人が共作したバラード曲で、著作権の関係からか、それまでクィーンのアルバムの中では発表されず、のちにブライアン・メイの1992年のソロ・アルバム「バック・トゥ・ザ・ライト」で発表されている。「フレディ・マーキュリー追悼コンサート」で初めて公にされたもので、ブライアン・メイはピアノを弾きながら歌っていた。

 "You Don't Fool Me"は、何となくファンキーで、お洒落な感じを伴う曲で、クィーンらしくない。曲の枠組みはかつてのプロデューサーだったデヴィッド・リチャーズが手掛けていて、それにフレディがボーカルを入れ、バンドが演奏を加えている。ただ、このアルバムの中では躍動感があり、ハードではないものの、好印象を与えてくれる。この曲もフレディが亡くなる前の録音だと言われている。

 10曲目の"A Winter's Tale"は、フレディが病気の末期にスイスのモントルーに来て、自分のフラットで作曲したもの。彼の最後の自作曲だと言われている。そういう経緯があったからか、ジュネーヴ湖畔に彼の銅像が建てられたのだろう。この曲もまた、フレディ自身が死期を強く意識しながら書かれたものだろうが、哀しみや苦しみなどは全く感じさせず、むしろ彼の力強いボーカルに逆にこちらが励まされるようだ。まさに感動的なバラードで、クィーン・ファンでなくても、感慨はひとしおだろう。
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 11曲目は、冒頭の曲"It's a Beautiful Day"のハード・ロック・ヴァージョンだった。最後に"The Seven Seas of Rhye"のピアノが挿入されていた。アルバムのクレジットはこれで終わっているが、11曲目に続いて12曲目に"Yeah"という曲が収められているそうで、これは単にフレディが、"Yeah"と言っているもの。むしろ、11曲目の曲の最後にフレディが歌ったものと考えても問題はないようにも思えた。

 問題は13曲目で、22分32秒にわたって、アンビエント・ミュージックのようなサウンドが延々と続く。いわゆる隠しトラックだろう。約2か所くらいでちょっとした演奏っぽい雰囲気が伝わって来そうになったが、すぐに元の環境音楽に戻ってしまった。最後に一言が聞こえてきて終わるのだが、たぶんフレディの声だろうけれど、何と言っているのかわからなかった。ネットで検索してみると"FAB!"と言っていると書かれていたが、本当だろうか。でも、"FAB"って、“素晴らしい”という意味だけど、フレディは最後に自分の人生を振り返って、素晴らしい人生だったと思ったのだろうか。そりゃ自分の誕生パーティーに8000万円も一晩でお金をかけるのだから、素晴らしいに違いない。
 前述のジム・ハットンの手記によれば、そのパーティーの様子はすべてビデオ撮影されていたらしいのだが、あまりにもエグイので鑑賞に堪えられず、すべてお蔵入りになったという。関係者がこの世からいなくなれば、そのうちどこからか、ひょっこりと出てくるかもしれない。ただ一般公開は無理だろうけれど。
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 というわけで、遅ればせながら、映画「ボヘミアン・ラプソディ」の影響を受けて、クィーンの最後の三作品について綴ってみた。もちろんフレディ・マーキュリー自身も素晴らしい不出世のボーカリストだと思うが、最後まで輝かしいキャリアを築き上げることができたのも、他の3人のメンバーが彼の最後を看取るという決意で、彼を支えていったからではないだろうかと思っている。
 それはまた、彼がエイズという、当時では不治の病と言われた病気になってしまい、人生自体が限定的になってしまったからだろう。エイズという病に冒されたからこそ、最後の三部作は、輝かしい不滅の光を放つ作品群になったのである。

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2019年4月 8日 (月)

クィーンのラスト三部作(2)

 1980年代から90年代にかけて、先天性免疫不全症候群(通称;エイズ)という病気は、不治の病として恐れられていた。つまり、一旦、エイズウィルスを保持してしまうと、ほぼ間違いなく数か月から数年のうちに亡くなってしまうと信じられていた。
 もちろんそれは間違いではなくて、確かに当時では、発症すれば死を待つしかないのは事実だった。しかし、その対策が進んだ現在では、発症を遅らせたり、発症しても進行をくい止める方法が研究され、実際に感染後でも治療を開始すれば、余命は平均寿命に並ぶと言われている。それだけ臨床検査などで、新薬の開発が進んだせいだろう。

 それで、クィーンのフレディ・マーキュリーがもしそういう新薬を接することができていれば、今もなお現役で活躍していたかもしれない。もし生きていれば、今年で73歳になっていた。ミック・ジャガーが今年76歳だから、ほぼ同世代なのである。

 それで、今回は、クィーンの実質的なラスト・アルバムとなった1991年に発表された「イニュエンドゥ」について記すことにした。Innuendo
 前作のアルバム「ザ・ミラクル」が久しぶりに気合の入ったアルバムで、メンバー全員で制作されていて、セールス的にも好調だった。それで引き続きメンバーは、1989年の3月からロンドンやスイスのモントルーでレコーディングを始めたのである。
 当初は、1990年のクリスマス時期を狙って発表しようと計画されていたが、残念ながらフレディ・マーキュリーの病気の進行が早くて、その時期が遅れてしまったのである。

 当時のフレディ・マーキュリーについて、様々なメディアがエイズではないか、しかも末期症状だとか根拠のない噂話(実際は本当の話だったのだが)を書き立てていた。もちろん、彼自身はそれらを認めることはなく完全否定を続けていたのだが、1990年2月のブリット・アワードの授賞式で4人全員がそろった時のフレディのやつれた姿は、誰がどう見ても間違いなく何かの病気にかかっていると思われた。

 それで、1991年の2月に発表されたアルバム「イニュエンドゥ」は、初期のクィーン・サウンドが甦ったような原点回帰されたアルバムとして好意的に迎えられた。ただ、“イニュエンドゥ”とは、“暗示”や“ほのめかし”という意味だそうで、今となって考えればフレディの病のことについて仄めかしていたのだろう。

 冒頭のアルバム・タイトル曲の"Innuendo"は、ブライアンとロジャーとジョンの3人のジャム・セッションから生まれた曲で、2階で聞いていたフェレディは慌てて降りてきて、この曲にメロディと中間部の歌詞を付け加えたという。
 また、歌詞はロジャー・テイラーが引き継いで書き加え、シンセサイザーによるオーケストラは共同プロデューサーのデヴィッド・リチャーズが、途中のフラメンコ・ギターはイエスのギタリストであるスティーヴ・ハウが担当していた。彼はスタジオに遊びに来た時に、演奏してくれと頼まれたようだ。できればもう少し長く演奏してほしかった。イギリスでは、この曲が1991年の1月にシングルカットされて、見事に初登場1位を記録している。

 続く"I'm Going Slightly Mad"は、フレディの書いたミディアム・テンポの曲で、スイスのモントルーで作られたもの。この曲のプロモーション・ビデオは黒白のフィルムで、フレディもぼさぼさの髪に白い手袋をして出演していたが、かなりの厚化粧だった。メンバーのロジャー・テイラーもこの時のフレディの姿を見て、かなり深刻な病気だなと思ったと後に告白していた。

 "Headlong"はテンポのよいハード・ロック風の曲で、ブライアンのギターが目立っている。もちろんブライアンが書いた曲だが、彼は自分のソロ・アルバム用に録音していたのだが、フレディがこの曲を聞いて、クィーンのアルバムに入れることを強く主張したので収められたもの。ブライアンの書いた曲はギターが目立っているのでわかりやすい。

 続く"I Can't Live With You"もまたブライアンのソロ・アルバム「バック・トゥ・ザ・ライト」用にレコーディングされたものだが、クィーンの他のメンバーが気に入ってしまい、このアルバムに収録された。いかにもクィーンと言われそうなコーラスと後半のギター・ソロが、彼らの全盛期を彷彿させる。

 "Don't Try So Hard"はフレディの作ったバラード曲で、ファルセットで始まり、高い音域までカバーしている。もちろんエコー処理などの音響的なテクニックなどを使用しているのだろうが、初期の彼らのアルバムを聞いているような感じがしてきて、まさに“原点回帰”という言葉がふさわしい曲に仕上げられている、

 勇ましいタイトルをつけられた"Ride the Wild Wind"は、サーフィン用の曲ではなくて、カーレースのことをイメージされて作られたもので、バンドの中で車といえばこの人、ロジャー・テイラーが作った曲。デモ・テープではロジャーが歌っていたが、本番ではフレディが歌い、ロジャーはバック・コーラスに回っている。また、「オペラ座の夜」の中の"I'm in Love with My Car"の続編とも言われていて、いかにもロックン・ローラーであるロジャーらしい作品になっている。Qooonlineshop_pfmyhbevh0_1
 "All God's People"は、フレディが自分のソロ・アルバム「バルセロナ」用に作った"Africa by Night"という曲が原曲で、このアルバムの中で唯一、個人名義のクレジットになっている。つまり、他の曲はすべてクィーン名義なのに、この曲だけは”フレディ・マーキュリーとマイク・モーラン”名義になっていた。本来ならフレディとモンセラート・カバリエが歌うはずだったのだが、結局、選から漏れてしまったようだ。
 自分のアルバム用の曲だったので、ボーカルがかなり多重録音されていて、オペラチックな印象を受ける。それでもクィーン風のロックにアレンジされているところが素晴らしいし、アルバムに統一感をもたらしていると思う。4分21秒のオペラだろう。

 8曲目の"These Are the Days of Our Lives"は、ロジャー・テイラーの作品で、全体的にシンプルで落ち着いた曲調になっている。その中でブライアン・メイのギターが、飛翔するかのように鳴り響いているのが印象的だった。また、この曲のプロモーション・ビデオもまた黒白のフィルムで、フレディ・マーキュリーの生前最後の姿が映されていて、最後に彼の唇が"I still love you"と動いていた(曲の中では歌っている)。ファンに対する最後のメッセージだったのだろう。

 "Delilah"は、フレディが買っていた11匹の猫の中の最も愛した雌猫の名前で、もちろんフレディが書いた曲だった。ブライアンがトーク・ボックスというエフェクターを用いて猫の声のような音を出している。ただ、ロジャーは後にこの曲は好きではないとインタビューで告白していた。

 ハード・ロック好きならこの曲は気に入るだろう。"The Hitman"は、フレディが基本的なリフを書き、ジョンが肉付けをして、ブライアンがキーを代えてレコーディングしたもの。この曲を聞いて、フレディが不治の病に冒されているなどとは思いもしないだろう。それだけインパクトの強い曲でもある。

 "Bijou"はフレディとブライアンの2人だけで作った曲で、アイデアはフレディからもらい、フレディが歌ったあとをブライアンのギターがその音を拾っていくという作業から生まれたもので、ギターが歌詞の部分を、ボーカルがサビの部分を担当していた。
 また、イエスの1974年のアルバム「リレイヤー」の中の通称"Soon"という部分に関連付けられることが多いようだ。ブライアンは後に、ジェフ・ベックの1989年のアルバム「ギター・ショップ」に収録されていた"Where Were You"に影響を受けた曲だと述べていた。最後の曲になった次の"The Show Must Go On"の序章のようにも思える。

 そして"The Show Must Go On"である。曲の基本は、ブライアンとロジャー、ジョンで作られていて、曲のテーマと歌詞はフレディが手掛けている。ただ、最初の節の部分は、ブライアンも手伝っているようだ。曲調はクィーンの1989年の曲"I Want It All"に似ているが、ブライアンはバロック期のドイツ人作曲家であるヨハン・パッヘルベルのカノンにインスピレーションを受けたと語っていた。いずれにしても、このアルバムの白眉であり、フレディ自身が希望と諦観を同居させながらも、自分自身の死に対峙して歌っているところが、涙無くして聞くことはできないだろう。199e675ddf22914cd7de7330e5eebaff
 自分がこのアルバムを聞いたときは、まだフレディは生きていて、曲の中の力強いボーカルを聞いたときは、数か月後に彼が亡くなるとは思ってもみなかった。実際は、アルバム発表後の約半年後には亡くなっていたから、レコーディングやプロモーション・ビデオ制作時にはかなり衰弱していたようだ。そんなことはこれっぽっちも知らなかったから、このアルバムを聞いても、もう少しシングル向けの曲が欲しかったなとか、珍しくゲスト・ミュージシャンがいるなとか、そんな感想しか持てなかった。

 しかも、ここ極東の日本にいては彼の詳細な様子はわからず、1991年の11月23日にフレディがエイズに冒されているという報道があり、翌24日に45歳で亡くなったということを知ったのは、25日だった。自分にとってはあまりにも早すぎる彼の死であった。

 だからこのアルバムは、クィーン版“アビー・ロード”ともいうべきものであり、迫り来る死を自覚したフレディが最後の気力を振り絞って制作したものであり、文字通り彼の遺作なのである。

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2019年4月 1日 (月)

クィーンのラスト三部作(1)

 遅ればせながらクィーンである。昨年末のクィーン再評価現象は、本当に影響力があったようで、ついにはその再評価のきっかけとなった映画「ボヘミアン・ラプソディ」が、アカデミー賞の主演男優賞ほか4部門で受賞までしてしまった。当時を知る者としては、誠に感慨深いものがあった。71gio3nhzfl__sy355_
 ただあくまでも個人的な感想だが、自分は一度見れば十分というか、70年代から80年代にかけてロックの黄金期に、やりたい放題し放題、自分の才能のほとばしるままに彗星のように生きていったフレディ・マーキュリーのストーリーには、心情的にはあまり共感できないでいる。それは自己責任だから仕方ないよなあと、単純に思ってしまったからだ。

 ある人が言っていたけど、あのフレディの生き方が映画になるのなら、ジャニス・ジョプリンやジミ・ヘンドリックス、ジム・モリソンやジョン・レノン、あっ、ジム・モリソンの映画はあったなあ、つまりそんなロック史における夭折した天才ミュージシャンの伝記映画を作ろうと思えば、他にもいくらでも題材はあるだろう。何もフレディ・マーキュリーにだけ焦点化しなくてもいいのではないのかと言っていたが、まあそれも一理あるだろう。ただこの人はクィーン嫌いの人だったので、半分やっかみみたいのもあったのかもしれない。

 確かにほぼ同時期に、エリック・クラプトン自身がナレーターも担当した彼の伝記映画も上映されていたが、こちらはクィーンの映画ほどは話題にはならなかったようだ。320
 自分的にはこちらの映画の方がショッキングで、ドラッグでラりって演奏するシーンや鼻から吸引する姿も映し出されていたから、これはR指定してもいいのではないのかと思ったりもした。さらに、90年代に入ってからもアルコール中毒症だったことを告白していて、結局、60年代の終わりから、ドラッグかアルコールか、あるいは恋愛か、ずっと何かに依存症だったということになる。クラプトンの映画は、そういう驚きが満載の映画だった。

 それはともかく本題に戻すと、クィーンがというか、フレディ・マーキュリーが自身がエイズという病気のキャリアだというのが分かった1985年か86年だったわけで、それ以降にクィーンのメンバー4人で制作したアルバムが1989年の「ザ・ミラクル」だった。タイトルがいかにもフレディの病気のことを想起させてくれるが、これはアルバムの中にある曲名から取られたものだった。71x9rn0y47l__sl1078_
 思えば、1986年の「マジック・ツアー」終了後に、フレディは“最低2年はバンドを離れる”と公言していたし、その言葉通りに2年後の88年頃から、約1年をかけてこのアルバムのレコーディングが開始されて行った。
 ただ、この2年の間に何もしなかったというわけではなくて、フレディはスペインのオペラ歌手モンセラート・カバリエとデュエット・アルバムを発表したし、他のメンバーでは、ドラマーのロジャー・テイラーは自身のバンド、ザ・クロスを結成してアルバムの発表とそれに伴うライヴ活動を行っていた。ブライアン・メイやジョン・ディーコンも他のバンドのプロデュースやアルバムに参加していた。だから、誰もがクィーンは健在だと思っていたのだ。

 それでこの89年のアルバム「ザ・ミラクル」では、曲のクレジットがすべて“クィーン”名義になっていた。それまでは各曲ごとに実際に手掛けたメンバーの名前が記載されていたが、もう一度バンド結成の原点に戻って、全員でアルバムを手掛けることになるのだから、権利関係も公平にしようとしたのだろう。

 この辺の経緯は、映画「ボヘミアン・ラプソディ」にも描かれていたから、見た人は分かると思う。フレディと他の3人の確執を解消するために、3人がフレディに認めさせた形になっていたけど、作曲クレジットによる金銭問題は、制作意欲の減退につながり、やがてはバンド解散という危険を含んでいたのだろう。

 今回のブログ用に久しぶりに引っ張り出して聞いたけど、このアルバムなかなか良い。1曲目の"Party"からノリノリなのである。だいたいクィーンのアルバムは、1曲目が特徴的でユニークなものが多い。"Procession"、"Brighton Rock"、"Death on Two Legs"、"We Will Rock You"、"Mustapha"、"Radio Ga Ga"など個性的で独創的だ。
 ただ、アルバムのジャケット写真が気に入らなかった。特に、裏ジャケットのメンバー4人の目だけの写真が不気味で、同様のアイデアの写真はレインボーのアルバムにもあったけれど、ちょっと個人的には抵抗感があった。だから、何となくリピートして聞くのを、ためらっていたのかもしれない。

 このアルバムでも"Party"から"Khashoggi's Ship"へはメドレー形式で続いていて、このアルバムがロックン・ロール・アルバムであるということを定義付けている。"Party"はフレディとブライアン、ジョン・ディーコンの3人がジャム・セッションをしながら形作っていったもので、曲の冒頭部分だけブライアンが歌っている。

 "Khashoggi's Ship"は、フレディのアイデアに他の3人が曲を膨らませていったもので、まさに4人の共同制作曲だ。曲のモチーフは、サウジアラビアの大富豪で武器商人の所有している世界最大規模のヨットのことを意味していて、ある意味、皮肉を込めた反戦歌なのだろう。

 アルバム・タイトル曲の"The Miracle"もフレディ特有のミディアム・テンポ調から後半はギター・ソロとベース音がフィーチャーされていて、彼らの意欲というかやる気が伝わってくるのである。ただ転調が多い曲で、誰が聞いてもフレディが作った曲というのがすぐわかるというもの。実際は、フレディとジョン・ディーコンの共作曲だった。

 このアルバムは気力十分で作られているせいか、ハードで硬質なイメージを伴っている。言ってみれば、“ギター・オリエンティッド・アルバム”なのである。それがよく表れているのが、"I Want It All"であり、"Breakthru"だろう。
 また"The Invisible Man"は、リズムが独特というか、クィーン流ファンク・ミュージックを表していて、ちょうど82年のアルバム「ホット・スぺイス」の曲を進化させた感じだ。Miracle2compressor
 7曲目の"Rain Must Fall"は、ジョン・ディーコンが曲を書き、フレディが歌詞をつけたもので、ラテン・パーカッションの部分はロジャー・テイラーが書き加えたもの。“クィーン流カリプソ”あるいは“ラテン・ミュージック”ともいうべきか。でも、ギター・ソロが加わったラテン・ミュージックはあまり聞いたことがない。さすがクィーンである。

 "Scandal"は、ブライアン・メイがイギリスのプレスについて書いたもので、当時の彼の離婚というデリケートな問題やフレディのエイズ疑惑について盛んに書き立てていたので、それについて一言述べている。要するに表面的に面白おかしく記事にするんじゃなくて、もっと本質的な部分を見ろよと言いたいのだろう。この曲のシンセ・ベースは、このアルバムの共同プロデューサーだったデヴィッド・リチャーズが演奏している。

 "My Baby Does Me"もフレディとジョン・ディーコンの共作で、これも“クィーン流ブラック・ミュージック”だろう。この時期のこの手の楽曲は、80年代初期よりも洗練されていて、なかなかいい雰囲気を醸し出している。

 そしてアルバム最後の曲、"Was It All Worth It"は、ファンの間でも特に人気の高い曲で、人によってはこのアルバムの中のベスト・ソングだと推す人もいるようだ。デビューして間もない70年代初期のハード・エッジなエネルギーに満ちていて、確かにこのアルバムの方向性を示している。基本はフレディが作っていて、ベース・ラインはジョン・ディーコンが、ギター・パートはブライアン・メイが手を加えている。L_0203902
 とにかく、このアルバムは気合が入っている。曲のクレジットをバンド名にしたのもうなずける話だった。とにかく、当時は表ざたにはなっていなかったけれど、フレディ自身の病への自覚が、このアルバムを統一感のあるものに仕上げたのかもしれない。
 ただ、他のメンバーはフレディの病気については薄々気がついていたのかもしれないが、それについて言及するのは避けていたようだ。

 この「ザ・ミラクル」は、そういうメンバー間の緊張感も伝わってくるような素晴らしいロックン・ロール・アルバムだった。(To be continued...)

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2018年12月24日 (月)

エジプト・ステーション

 今日はクリスマス・イヴということだった。バブルの頃は、日本中が何かに浮かれていたような感じで、高級宝飾品が飛ぶように売れ、一流ホテルは一年以上前からブッキングされて満室状態という様子だった。最近のクリスマス・イヴは、みんなどういうふうに過ごしているのだろうか。

 自分が若かった時、クリスマス・イヴの夜に街に繰り出すと、飲み屋はどこもガラガラ状態で何故か異様にチヤホヤされたことがあった。店員さんは頻繁に話しかけてくるし、おしぼりやお水を持ってくるなどの接客が半端ではなかった。他にお客がいないのだから仕方がないことなのだが、独身の人たちは恋人や友人と過ごすだろうし、家庭を持っている人はこの日ばかりは家族で過ごしたのだろう。そんな思い出がクリスマス・イヴの日にはある。

 それで神聖なそんな日に相応しいアルバムを紹介しようと思う。イギリス人の貴族であるサー・ポール・マッカートニーが今年の9月に発表したアルバム「エジプト・ステーション」である。アルバム・ジャケットは、ピラミッドの壁画のような横6面体の変則ジャケットだった。これはポール自身が1988年に制作したペインティングであり、絵の中に象形文字も書かれているという。81xh4mfzl__sl1000__2
 何しろ5年ぶりのニュー・アルバムということで事前の期待も高かった。しかも10月31日からは「フレッシュ・アップ・ジャパン・ツアー」という来日公演も予定されていたから、これはもう話題殺到だった。
 このアルバムは全16曲(国内盤はボーナス・トラック付きの18曲)が収められていて、約57分(国内盤は約64分)の間、ポールの楽曲に合わせてトリップ出来るということが謳われていた。

 どういうことかというと、今作はポールというか、ザ・ビートルズが得意としていたコンセプト・アルバムで、“エジプト・ステーション”という架空の駅を舞台に、人々が自由に往来するというテーマだったからだ。ポールは“1時間のヘッドフォンの旅”という譬えをしていたけれど、その通りだと思った。Main_2
 このアルバムについて、ポールは次のように述べていた。「最近のスターであるビヨンセやテイラー・スウィフトなどのアルバムはヒット・シングルの寄せ集めに過ぎない。ピンク・フロイドやザ・ビートルズのような流れがそこにはないんだ。それにテイラー・スウィフトみたいなミュージシャンには勝ち目がないし。何しろ足で負けているからね。
 自分は何が得意かというと、コンセプト・アルバムなんだ。全体を通して流れがあり、どこかに連れて行くようなアルバムだよ。新作はそんなアルバムだし、ジャケットにもエジプトの象形文字が含まれているからね」

 「このアルバムは駅のざわめきから始まる。駅の中に入ると、聖歌隊の歌声が聞こえてくる。ざわめいた駅が神聖な場所へと姿を変えるんだ。トリップだよ。そして、最後も駅に戻ってくる。それがコンセプトだよ。好きな曲だけ飛ばして聞きたい人はそうしてもいいし、全曲を聞きたい人は最後まで聞いてほしいな」

 というわけで、御年76歳にもかかわらず、音楽に捧げるこの情熱や創作欲には、ただただ頭が下がるばかりである。
 普通なら引退してもおかしくない年齢だし、実際、昔は名を馳せた有名ミュージシャンやバンドも引退状態で、最新アルバムは過去のアルバムのリマスター盤か、せいぜい最新ライヴ盤を出す程度だ。やっていることはどちらも過去のヒット曲というだけで、確かにファンなら喜ぶだろうが、そこには進歩も成長も見られない。

 ところが、ポール・マッカートニーは違う。2013年には「アウト・ゼア・ツアー」で11年振りに来日を果たしたかと思うと、2015年、2017年と立て続けに来日してツアーを行っている。そして今年もそうだった。その間に新作をレコーディングしていたのだから、この人の精神構造というか、創作意欲はいったいどこから湧いてくるのだろうか。まさに“メロディー・メイカー”であり、“ジーニアス”という名称がふさわしいミュージシャンである。

 今の彼には“元ザ・ビートルズ”という肩書は不要だろうし、名誉やお金のために音楽を創造しているわけではないだろう。お金など使いきれないほどあるだろうし、何もしなくても著作権などでかなりの額が入ってくるだろう。
 そんな人がそれなりに苦労しながら(たぶん)、曲を書き、演奏してレコーディングを行い、アルバムにまとめるのだから、これはもう黙って耳を傾けるしかないだろうということで、早速聞いてみたのだった。

 第一印象は、ポールの特徴がよく表れているということだった。つまり起伏のあるメロディー展開を基本としながらも、木管楽器や金管楽器、シタールなどの様々な楽器を使って、ロックからバラード、ダンス・ミュージック、サイケデリック風味の曲などが混然一体となりながらも、トータル・アルバムとしてリスナーに迫ってくるのである。

 今までのポールの音楽の集大成という見方もできるし、総合力を結集したともいえるだろう。個人的には1978年のアルバム「ロンドン・タウン」のような雰囲気があったし、それに1982年の「タッグ・オブ・ウォー」のようなコンセプトと曲の流れを加えたようなそんな感じがした。712tldatj4l__sl1094_
 プロデューサーは、アデルやベック、フー・ファイターズ等のアルバムを手掛けていたグレッグ・カースティンという人で、元々音楽大学を卒業したジャズ・ピアニスト出身の作曲家兼スタジオ・ミュージシャンだった人だ。
 ただ1曲"Fuh You"という曲についてはライアン・テダーという人が担当していて、これはスケジュールの都合上でそうなったようだ。

 普通のミュージシャンなら、プロデューサーが戻ってくるまで待つとか、自分でできるところまで進めておくとか、そういう方法をとると思うのだが、ポールはどうしても待てなくて、急遽探してきてようだった。ミューズの神が下りている間に、何とかやり遂げたかったのだろう。天才型ミュージシャンはやはり普通の人とは違うのである。

 このライアンという人も凄腕のプロデューサーで、エド・シーランやアデル、ビヨンセなどとも共演している。そういう人に声をかけて、すぐに担当させることができるというのも凡人には程遠い行いだろう。

 ライアンは、ポールに電話で何をしたいのかと聞いたらしい。するとポールは、「ヒット曲だ」と答えると、ライアンはすかさず「それなら僕に任せて。世界はヒット曲が大好きだから」と言った。確かにヒットする要素はある曲だった。
 それでも時にはポールは、曲の上に即興で歌詞をつける作業に怒りを露わにして、「僕には意味のある曲を書いてきたというキャリアがあるのに、いま行っていることには意味があるのか」と憤ったという。この辺はジェネレーション・ギャップの表れかもしれない。

 ライアンとは3曲ほど一緒にレコーディングしたそうだが、そのうち1曲がアルバムに収録された。残りの曲はいずれ世に発表されるに違いない。そんな未発表曲を集めれば、すぐに3枚組の、いやそれ以上のボックス・セットくらいはなるだろうなあ。

 全16曲のうち、冒頭の曲と15曲目は短いインストゥルメンタル曲だ。曲というよりは環境音楽といってもいいかもしれない。
 2曲目の"I Don't Know"と3曲目の"Come On To Me"が両面シングルとして発表されたもので、"I Don't Know"がピアノ中心の穏やかな曲で、"Come On To Me"の方はエレクトリック・ギターやピアノ、ハーモニカ、ブラス・セクションなどが使用されたミディアム・テンポのややハードな曲だ。インタビューの中では、"I Don't Know"はポールがこのアルバムの中で一番好きな曲と答えていた。

 4曲目の"Happy With You"はアコースティック・ギターがメインの楽曲で、肩の力を抜いたようなリラックスした状態で歌っている。ここまでの曲の流れが「ロンドン・タウン」の最初の方の曲と似ていると感じたのだ。
 ただ残念なことに、声自体の衰えは否定できない。もし20歳代のポールが"Happy With You"を歌ったならば、"Mother Nature's Son"や"Blackbird"、"I Will"と比較されるほど話題になっただろう。

 それでも"Who Cares"ではしっかりとシャウトしているし、"Fuh You"でも高音部までしっかりと歌い上げている。76歳になってもここまでできるのだ。奇跡の76歳、自分もこうなりたいものである。
 12弦ギターの弾き語りというか、コード・カッティングをバックに歌っている"Confidante"を挟んで、平和を訴えた"People Want Peace"、ピアノ主体のバラード曲"Hand in Hand"と続いていくが、この辺は比較的おとなしめの曲が続いている。年相応というべきか、そういう意図があるのか、よくわからない。

 10曲目の"Dominoes"あたりから少しずつ様相が異なって来ていて、"Dominoes"は転調の多いミディアム・テンポの曲で、「バンド・オン・ザ・ラン」や「ヴィーナス・アンド・マーズ」の頃の佳曲を思い出させるし、ラテン音楽にインスパイヤされた"Back in Brazil"はポールのアイデアの豊富さを示している。

 "Do it Now"もまたピアノがメインのスローな曲で、後半にストリングスが用いられて壮大な風景が現出する。一旦終わったかと思ったら、また復活するところもかつての曲のアイデアを拝借しているようだ。冬景色の中の家の中で、暖炉の前でうたた寝をしているような気持ちにさせられる。3分17秒しか何のだが、5分くらいの長い曲に感じさせてくれた。

 "Caesar Rock"は“She's A Rock”との掛詞のようで、ポールの遊び心満載の楽曲に仕上げられている。全く意味不明の歌なのだが、その意味不明さが、逆に面白さに拍車をかけている。曲調も勢いがあって、なかなかインパクトがある。

 アルバムの中で一番問題作なのは、14曲目の"Despite Repeated Warnings"だろう。誰が聞いてもこの歌は、世界で一番有名な大統領のことを指しているということが分かるだろう。“Captain is Crazy”というところが痛快無比、拍手喝采である。
 楽曲の展開は、シングルの"Band on the Run"に似ていて、転調に次ぐ転調で、グイグイと引き込まれて行く。6分58秒の大作だが、まだまだこういう曲が書けるところが、並の老人ではないのである。

 オリジナルでは最後の曲、"Hunt You Down/Naked/C-Link"は、タイトル通りのいくつかの曲のイメージを合体させたもので、これもまた6分22秒と長い曲になっている。

 このアルバムの中では、一、二を争うほどのかなりハードな"Hunt You Down"からロッカ・バラードの"Naked"、ピンク・フロイド風のプログレッシヴ・ロック的な"C-Link"へと連なっていく。1973年の「レッド・ローズ・スピードウェイ」の中に"Loup"という曲があったが、あれを少しブルージィーにしたような感じだ。デヴィッド・ギルモアだったら喜んでギター・パートを担当しただろう。

 このアルバムは世界中で評価され、商業的にも成功している。本国イギリスでは最高位3位で終わったが、ドイツやスコットランドでは1位、ベルギー、オランダ、オーストリアなどのヨーロッパの国々でも2位などを記録しているし、アメリカのビルボードでは「タッグ・オブ・ウォー」以来、36年振りにNo.1に輝いている。Http___i_huffpost_com_gen_2890924_i
 今年の7月26日に、リバプールのキャバーン・クラブでシークレット・ギグを行ったポールだが、このアルバムの中から"Come On To Me"、"Confidante"、"Who Cares"、"Fuh You"の4曲が披露された。ポール・マッカートニー、まだまだその能力には翳りは見えないようだ。

*ポールのインタビューに関しては、雑誌「ロッキング・オン」の10月号と11月号を参考にしました。

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2018年12月10日 (月)

ライヴ・アット・リーズ

 “レコードの時はショボかったけど、CD化されてお買い得になったアルバム”シリーズの最終回である。前回はアメリカン・ロックを代表して、オールマン・ブラザーズ・バンドのライヴ・アルバムだったが、今回はブリティッシュ・ロックを代表して、ザ・フーのアルバムについて記したい。Thewho
 ザ・フーが初めて発表したライヴ・アルバムが「ライヴ・アット・リーズ」だった。これはザ・フーがイギリス北部にある地方都市の大学で行った公演をレコーディングしたものであり、最初からライヴ音源として発表することを意図して企画されたものだった。

 公演が行われたのは、1970年の2月14日である。ザ・フーは、前年の5月に歴史的名盤であるロック・オペラの2枚組スタジオ・アルバム「トミー」を発表していて、その後アルバムのプロモーションも兼ねてツアーで演奏して回り、アルバム全曲を披露することで彼らの人気はますます高まっていった。また、ツアーにはあのウッドストックでのライヴ演奏も含まれていて、彼らの人気はアメリカでも急上昇していった。

 このアルバムとツアーの成功で、彼らはそれまでのシングル・ヒット中心のロック・バンドから攻撃的で破壊的なステージングのみならず、文学的で哲学的なロック・バンドとして認められるようになったのだが、当時の彼らの最高のパフォーマンスを記録として残すと同時に、世の中に発表したのがこのリーズ大学でのライヴ演奏だったのである。

 この時の様子を、バンド・メンバーのピート・タウンゼントは、次のように語っていた。「このアルバムには、当時の俺たちの音には、並外れた流動性があるってことを証明しているんだ。恐ろしいほどのパワーが漲っていた。
 そして、ザ・フーにとって重要なことは役割が逆転していたってことだ。つまり、リード・ギターがベース兼ドラムスで、ベースとドラムがリード・ギターの役割を果たしていた。それでもベースとドラムは、リード・ギターに支えられてリズムをリードしていたっていうのかな。疑問に思うかもしれないけれど、この素晴らしいやり方がとてもうまく作用していた。8トラックでレコーディングしたわりには良く録れたと思うよ」Maxresdefault
 この「ライヴ・アット・リーズ」のプロデューサーも兼ねていたピートだから言える言葉だろう。このライヴ・アルバムに行きつくまでに、彼らはイギリスやアメリカで行ったライヴの模様をレコーディングしていたのだが、なかなか満足するものがなかったらしい。
 それで、彼らはリーズ大学で移動式のレコーディング・システムを持ってきて録音したのだが、万一、うまく行かなかったことを考慮して翌日もレコーディングを行った。これが世に名高い“ハル公演”である。

 結局、「ライヴ・アット・リーズ」は、1970年の5月に発表されたのだが、当然その時はレコード形式だったので、全6曲、約36分として収録された。
 それでもこのアルバムは、圧倒的な高評価を受けて、全英で3位、全米で4位を記録し、当時最高のライヴ・アルバムといわれていた。ちなみにその6曲とは、次のようなものだった。
サイドA
1.Young Man Blues
2.Substitute
3.Summertime Blues
4.Shakin' All Over
サイドB
1.My Generation
2.Magic Bus61dorxcsjjl__sl1184_
 今の時代からは信じられないのだが、たった6曲で“最高のライヴ・パフォーマンス”と呼ばれるくらいだから、どれだけ彼らのエネルギーというかパワーが凝縮されていたのだろうかと思ってしまう。それだけ彼らのライヴ・アルバムを待望する機運が高まっていたのだろうし、それだけでなく、実際にレコードを通して、凄まじい彼らのライヴ・アクトを経験することができたからだろう。

 そして、1995年に「“ライヴ・アット・リーズ”25周年記念アルバム」が発表され、それにはほぼ当日のセットリストに従って14曲が収められていた。41nlgxragml
1.Heaven And Hell
2.I Can't Explain
3.Fortune Teller
4.Tattoo
5.Young Man Blues
6.Substitute
7.Happy Jack
8.I'm A Boy
9.A Quick One, While He's Away
10.Amazing Journey/Sparks
11.Summertime Blues
12.Shakin' All Over
13.My Generation
14.Magic Bus

 御覧の通りに、オリジナル盤より8曲も増えている。これはやはり“レコードの時はショボかったけど、CD化されてお買い得になったアルバム”に認定されてもいいんじゃないかと思っている。71mdnkayiol__sl1194_
 ただここには、当時ツアーで演奏されていた「トミー」の楽曲は含まれていなかった。いや、正確に言うと、10曲目の"Amazing Journey/Sparks"は「トミー」に含まれていたので、それ以外の曲は収録されていなかったということになる。71l0lbkof2l__sl1257_
 それでもザ・フーのファンならば、「25周年記念エディション」でも十分満足できただろう。かくいう自分もこのCDは購入してしまった。
 ところが、それを凌駕する「“ライヴ・アット・リーズ”デラックス・エディション」が2001年に発表されたのだ。31周年記念だったのだろうか。51ue6cacudl
 このアルバムは2枚組になっていて、ディスク1が"Amazing Journey/Sparks"を除く全13曲、ディスク2は「トミー」全曲、全20曲が収められていた。
 オリジナルの「トミー」は2枚組、全24曲だったから、このライヴ・ヴァージョンでは4曲が削られていた。削られた4曲は次の曲たちだった。数字はオリジナル盤の曲順を意味している。
サイドB
2.Cousin Kevin
4.Underture
サイドC
8.Sensation
サイドD
4.Welcome

 アルバム「トミー」の楽曲は、実際にはディスク1の9曲目と10曲目に演奏されていた。だから「25周年記念エディション」では、その残滓として"Amazing Journey/Sparks"が残されていたのだろう。
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 また余談だが、このエディションでは、ディスク1における"Happy Jack"と"A Quick One, while He's Away"のボーカル部分をロジャー・ダルトリーが、"Heaven And Hell"のボーカルの一部をジョン・エントウィッスルが録音し直している。つまり25年後の声を入れたわけだが、全く違和感を覚えない。レコーディング技術が進歩したせいだろうか。

 ところが、である。これで終わったと思ったのだが、商魂たくましい、いやファンの心情に寄り添ったレコード会社は(なぜかポリドールが多いような気がするのだが)、2010年に今度は「40周年記念コレクターズ・エディション」を発表したのだ。

 これにはリーズ公演の次の日に行われた「ハル公演」(ハル・シティ・ホールにおける演奏)も含められており、ハル公演でのディスク1では"Magic Bus"が収録されていなかった。(ディスク2は全20曲で同じだった)
 また、「スーパー・デラックス・コレクターズ・エディション」というのも発表されていて、これには「リーズ公演」と「ハル公演」の合計4枚のCD、オリジナルLPに7インチ・シングル、豪華写真集などが備えられていて、お値段的には25000円以上もした。当然ながら、貧乏な自分は手を出していない。41skbdqml
 さらにさらに、2014年には音楽配信、いわゆるダウンロードして聞くことができるようになり、これは当時のセットリスト通りに全33曲を通して耳にすることができる。これも有料なのはいうまでもない。
 そして、2016年にはアナログのレコード盤でも入手することができるようになって全3枚組らしいが、自分はまだお目にかかっていない。

 次は紙ジャケ化とか、「50周年記念」とかになるのかもしれない。一体いつまで続くのかわからないが、“レコードの時はショボかったけど、CD化されてお買い得になったアルバム”については、「ライヴ・アット・リーズ25周年記念エディション」までで十分なように思うのだが、どうだろうか。

 というわけで、ミュージシャンたちも高齢化すると、なかなか新作を発表できないでいるが、その代わりに今まで表に出なかった曲などを含めた既発アルバムの再編集盤が発表されるのだろう。
 それにはスタジオ・アルバムよりも、当時の“熱狂”や“興奮”が詰まったライヴ・アルバムの方がふさわしいし、ファンもそれを望んでいるはずだ。

 まだまだ探せばこのテーマに相応しいアルバムは見つかるだろうが、きりがないのでこの辺で終わらせたい。みんなで、このアルバムやあのアルバムなどと、話題にしてみるのも面白いと思っている。

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2018年10月22日 (月)

デレク&ザ・ドミノス(2)

 デレク&ザ・ドミノスをブリティッシュ・ロックに分類するのはいかがなものかとは思うのだが、バンド・リーダーがエリック・クラプトンということなので、お許し願いたい。クラプトンがアメリカ人ミュージシャンと結成したバンドが、デレク&ザ・ドミノスだったし、やっている音楽もブルーズやサザン・ロックに影響を受けているものだから、本来はアメリカン・ロックの範疇に入るのだろう。

 それで、“レコードの時はショボかったけど、CD化されてお買い得になったアルバム”シリーズ第6弾は、エリック・クラプトンが在籍していたデレク&ザ・ドミノスのライヴ・アルバムについてである。

 クラプトンについては何回もこのブログで取り上げているので、今さら詳しく説明はしないし、デレク&ザ・ドミノスについても既出なので、詳細は省きたい。
 ただ、エリック・クラプトンという人の人生は、まるでジェット・コースターのように激しく上下していたし、特に1970年という年は、クラプトンにとっては分岐点だったのではないかと考えている。

 以前にも書いたのだけれども、クラプトンはブラインド・フェイス解散後、デラニー・ブラムレットらとアメリカ・ツアーを続けていた。同時に、ツアー・メンバーだったジム・ゴードンやカール・レイドル、ボビー・ウィットロックとともにバンド活動を始め、レコーディングを行った。そのアルバムが歴史的名盤と言われている「いとしのレイラ」である。

 さらにまた、初めてのソロ・アルバムを制作し、“ギタリストのクラプトン”から“ボーカリストのクラプトン”へと重心を移そうとしていた。
 これらはいずれも1970年を中心にクラプトンの周りで起きていた出来事であって、いかにこの年が充実していて、彼にとって重要だったかが分かると思う。

 それで、「いとしのレイラ」を発表したクラプトンを含むデレク&ザ・ドミノス一行は、ライヴ活動を行うのだが、1973年には「イン・コンサート」としてライヴ・アルバムが発表された。61kegn40jcl
 このアルバムは、ニューヨークのフィルモア・イーストにおける1970年10月23日と24日の2日間、それぞれ昼夜2公演から抜粋された計9曲(最後の曲をメドレーとしてカウントすれば計8曲)が収められていた。

 ただ、1973年にはすでにデレク&ザ・ドミノスは解散していたから、なぜこのアルバムが発表されたのか、アルバム契約枚数を消化するためか、あるいはヤク中から回復しようとしていたクラプトンの治療費を稼ぐためだったのか、よくわからない。
 いずれにしてもこのアルバムは、スタジオ・アルバム1枚、しかもそれがロックの歴史に残るような名盤を残して解散したバンドによる貴重なライヴ・アルバムだったから、待望のライヴ盤になったのだ。

 しかし、如何せん曲数が少ない。2枚組とはいえ8曲や9曲、約90分ではファンとしてはまだまだ満足できなかっただろう。おそらくまだ未発表曲があるだろうとファンは思っていただろうし、実際、その考えは正しかったのである。

 1994年に「ライヴ・アット・ザ・フィルモア」として、未発表曲を含む全13曲、約122分のフル・ヴァージョンが発表されたのだ。71ja5mlnqel__sl1284_
 このアルバムには、「イン・コンサート」の中の9曲中6曲が含まれていた。それらは次の曲であった。
"Got to Get Better in A Little While"
"Blues Power"
"Have You Ever Loved A Woman"
"Bottle of Red Wine"
"Roll It Over"
"Presence of The Lord"

 残りの曲で未発表曲、つまり「イン・コンサート」と違うテイクは次の通り。
"Why Does Love Got to Be So Sad?"
"Tell The Truth"
"Nobody Knows You When You're Down and Out"
"Little Wing"
"Let It Rain"

 残りの2曲は、1988年の4枚組CDボックス・セットの「エリック・クラプトン・アンソロジー~クロスロード」に収められていたフィルモアでの23日と24日のライヴ曲で、ディスク2の最後のアンコール曲"Crossroads"が23日の2回目公演、"Key to The Highway"が24日の2回目公演から収録されている。

 このシリーズは“レコードの時はショボかったけど、CD化されてお買い得になったアルバム”というものだが、「イン・コンサート」については決してショボいレコードとは思っていない。
 むしろ当時は、デレク&ザ・ドミノスが残した唯一のライヴ・アルバムということで、大変貴重なものだと個人的には崇め奉っていたくらいだった。

 ただ、約90分の収録時間が「ライヴ・アット・ザ・フィルモア」では約122分になっていたし、未発表曲もあったから、「イン・コンサート」の影が薄く感じられてしまった。

 この時のクラプトンは、まだまだ元気がよかったし、さあこれから自分のキャリアを築いていくぞという勢いがあった。だから私生活でも許されない恋に走り、それに悩みながらも求めて行こうとするエネルギーがまだあった。

 このライヴ・アルバムでも、シンガーとしてはまだまだだが、ギタリストとしてはまさに神がかっていると思えるほど弾きまくっていて、“ギタリスト・クラプトン、ここにあり”といった感じだった。71sevhmlvil__sl1050_
 ところが、翌1971年になると、バンド内の対立からデレク&ザ・ドミノスは解散し、フィルモア・ライヴから約1年後には盟友デュアン・オールマンが交通事故で亡くなり、私生活ではジョージ・ハリソンとの三角関係で悩むといった様々な問題が起きてしまい、クラプトンはアルコールとドラッグ依存症に陥ってしまうのである。

 このあと表舞台から身を隠すように消えていったのだが、「レインボー・コンサート」をきっかけに徐々に活動を開始していく。しかし、これ以降のクラプトンについては、別の機会に譲りたい。別の機会があればのお話だが…

 ただ、今年の11月7日にはクラプトンの新作が発表されるが、そのタイトルは「ハッピー・クリスマス」といい、クリスマスの企画ものアルバムである。71ji7dhlvxl__sl1500_
 クリスマスの定番ソングなどのいくつかは、ブルーズにアレンジされているそうだが、心身ともに幸せそうな彼の近況が伝わってきそうなアルバムだ。でも個人的には、生活に満足しているブルーズマンの音楽といったものは耳にしたくないのである。

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2018年10月15日 (月)

ジョー・コッカー(2)

 “レコードの時はショボかったけど、CD化されてお買い得になったアルバム”のシリーズの第5弾である。
 このシリーズを続けてみると、やはり記憶媒体の容量が原因だというのがよくわかる。そしてそれは、ライヴ・レコーディングの時に顕著に表れるということだった。 

 要するに、レコードとCDの違いからくるのである。80年代初めまでは主流だったレコードだが、CDが登場したことで表舞台から消えてしまう結果になってしまった。やはり45分と80分では、昔のレコードなら1枚分くらいの違いはあるだろう。

 また、昔のスタジオ・アルバムがCD化された場合には、ボーナス・トラックをつけることで、レコードよりもお得感が増すし、ファンならば購買意欲も高まっていくだろう。そうすると、再発アルバムのリマスター盤なら、音質も向上しているし、未発表曲も聞けるとあって、ファンならば何度も聞いていたとしても、手に入れようとするに違いない。

 特にライヴ・アルバムとなると、その傾向はますます強まるのではないだろうか。音も向上していれば臨場感も違ってくるだろうし、しかも未発表曲が含まれているとなれば、実際のライヴを味わっている雰囲気に近づくだろう。

 だからというわけではないだろうが、このシリーズを始めてみてライヴ・アルバムにお買い得感が高まるものが多いということに改めて気がついてしまった。レコード発表当時は時間の関係で曲数も限られていたものの、CD化されて曲数も増えていれば、これはもう即買いになるだろう。

 さらに、スタジオ盤のボーナス・トラックとは違って、ライヴ・アルバムでは“その時その場所での記録”という意味合いもある。制限時間に合わせて曲数を削り、ベスト・トラックだけが選ばれたとしても、ファンからすれば、やはり完全な記録として、その時に演奏されたトラックを聞きたいと思うだろう。だからライヴ・アルバムのCD化には期待が高まるのではないかと考えている。

 前置きが長くなってしまったが、今回はジョー・コッカーの「マッド・ドッグス&イングリッシュメン」のことについて記したい。
 ジョー・コッカーについては昨年の“スワンプ・ロック特集”で紹介したので、それと重複がないように気をつけたいと思う。

 このアルバムを聞きながらジョー・コッカーの人気について考えてみたのだが、やはり彼が世界的に有名になったのは、映画「ウッドストック」における映像が強烈だったからではないだろうか。
 確かに、発作か何かで痙攣でも起こしたのではないだろうかと思わせるようなボーカル・スタイルには、忘れがたい印象を与えるパワーが備わっていた。まるで男性版ジャニス・ジョプリンだった。

 もちろん彼は、1968年秋に発表された"With A Little Help From My Friends"がイギリスでヒットしたおかげで有名になったのだが、このライヴ・アルバムでもそうだけれど、果たして彼にはオリジナルの曲、オリジナルでヒットした曲などがあるのだろうか。

 「マッド・ドッグス&イングリッシュメン」のレコードでは2枚組だったし、2010年に発表された再発CDも1枚もので全19曲だった。正確に言うと、曲の紹介なども曲数に含まれていたので、実際に歌われていた曲は14曲だった。
 そしてその14曲すべてが誰かのカバー曲か他の人の手によるものであった。つまり、ジョー・コッカー自身が作った曲はないのである。51nbrhz31l
 自身はソングラィティングをしなくても、他の人の曲を歌って十分食っていけるのである。それだけ元歌を自分流に解釈して、聴衆に訴えていく表現力が豊かなのだろう。
 自分はロック・シンガーについては詳しくないのだが、あのロッド・ステュワートやジャニス・ジョプリンでさえも自分で曲を作っていたから、カバー曲だけで売れるというのも、それはそれで才能のひとつなのかもしれない。

 ちなみに、ここに彼のベスト・アルバムがある。そのタイトルも「ザ・ベスト・オブ・ジョー・コッカー」というベタなものだが、12曲あってそのすべてが他の人の手による曲だった。曲の中にはジェフ・リンやエルトン・ジョン&バーニー・トーピン、ランディ・ニューマンなどの有名ミュージシャンの名前もあるのだが、ジョー・コッカーのオリジナル曲はなかった。ただ、ジョーに歌ってほしいという意味で贈られた曲はあるかもしれない。

 それで「マッド・ドッグス&イングリッシュメン」に話を戻すと、2005年にCD2枚組の「デラックス・エディション」が発表された。ディスク1には12曲、ディスク2には14曲が収められていて、そこには曲名の紹介は曲数には含まれてはいなかった。
 合計26曲になるが、ディスク2の最後の4曲はシングル用のスタジオ・セッションの曲だったから、ライヴだけの曲は22曲だった。Joecockermaddogsandenglishmen3cd
 だからライヴ曲は14曲から22曲に増えたわけで、しかも4曲のボーナス・トラックまで付属しているのだから、これはもう即買いのアルバムだと思っている。だから今回“レコードの時はショボかったけど、CD化されてお買い得になったアルバム”のシリーズの中に入れてみたのだ。

 スタジオ・セッションの曲も含む追加された12曲のうち、もちろんジョー・コッカーのオリジナル曲は含まれていない。また、追加された曲は以下の曲だった。
"The Weight"
"Something"
"Darling Be Home Soon"
"Let It Be"
"Further On Up The Road"
"Hummingbird"
"Dixie Lullaby"
"With A Little Help From My Friends"
 以上がライヴにおける曲だ。次の4曲はスタジオ・セッションの曲になる。"Warm Up Jam including Under My Thumb"、"The Letter"、"Space Captain"、"The Ballad Of Mad Dogs & Englishmen"

 それにしてもザ・ビートルズ関連の曲からザ・バンド、古いブルーズの曲などいろいろ歌っているのだが、どういう基準で選曲したのかが気になるところ。自分の歌いたい曲や適している曲を選んだのだろうか。

 また、曲数だけでなく曲順も違っていた。実際のライヴに近い曲順は、こちらのデラックス・エディションの方だろう。3曲が披露された"Blue Medley"で盛り上がって"With A Little Help From My Friends"で締めて、アンコールがボブ・ディランの"Girl From The North Country"だ。1148366882
 このライヴ・アルバムは、1970年の3月27日と28日の2日間、ニューヨークのフィルモア・イーストにおける昼夜2回の公演から収録されていて、2006年にはリミックスされたCD6枚組の「コンプリート・フィルモア・コンサート」が発表されている。すでに廃盤になっているので、もし中古店やネットで見かけたら、ファンならずともゲットした方がいいかもしれない。

 結局、ジョー・コッカーはブルーズ・シンガーだったと考えている。ブルーズ・シンガーなら古い曲の再解釈もできるし、新しい曲でもブルーズにアレンジすることもできるからだ。だから自分で曲を作らなくても済むのである。
 しかも、彼のしわがれた声は、アメリカ南部のブルーズやトラディショナルな曲に相応しいし、このライヴを聞けばわかるように、レオン・ラッセルを中心として当時大流行したスワンプ・ロックにもピッタリだ。

 それに、レオンの曲は当然のことだけど、ザ・ビートルズの"Let It Be"やザ・ローリング・ストーンズの"Honky Tonk Women"など、元々ゴスペルやブルーズの要素を備えた曲だからブルーズ・シンガーが歌ってもおかしくない。そういう意味でもジョー・コッカーは、自分に合う曲を選んでいたのだろう。

 前回のジョー・コッカーのところでも述べたけれど、1970年のこのツアーは全米39都市を巡回することになり、約2か月間も続いた。毎日ではないけれど、ほぼこのライヴ・アルバムと同じような曲を披露していたのだから、その疲労やストレスなどはかなりのものだったに違いない。Lindaontour2_2
 しかも途中からレオン・ラッセルとの確執も表面化してきたし、バンドとも対立してしまい、自分自身を見失うまでになってしまった。確かに当時のレオン・ラッセルとリタ・クーリッジは恋人同士だったし、周りのミュージシャンはレオン・ラッセルを慕っていたから、ジョーが孤立してしまったのも無理もないだろう。

 しかもこのデラックス・エディションの方を聞いていると、ライヴの最後はレオン・ラッセルのピアノが主導する"Girl From The North Country"で、ジョーとレオンのデュエットになっているし、スタジオ・セッションの曲も"The Ballad Of Mad Dogs & Englishmen"で終わる。この曲はストリングスも施された美しいバラードだが、レオン・ラッセルの独り舞台である。

 だから最後まで聞いていると、ジョー・コッカーのアルバムなのか、レオン・ラッセルのアルバムなのか、分からなくなってしまった。ジョー・コッカーは単なるメインのシンガーで、仕切っているのはレオン・ラッセルだ、しかも十分存在感を示しているとあっては、ジョーの立場もないだろう。ジョーが酒やドラッグに溺れてしまったのもむべなるかなという気がした。

 このあとのジョーのことについては、既述しているので省略したい。ただ、2007年にはそれまでの功績が評価されて、女王陛下より大英帝国勲章を受けている。Screenshot20141222at124251pm
 ジョー・コッカーは、2014年12月22日にアメリカのコロラド州クロフォードで肺癌のために亡くなった。享年70歳だった。生きている姿はもう見られなくなったけれども、あの素晴らしいパフォーマンスはロック・ファンの記憶の中に生き続けるに違いない。

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2018年10月 8日 (月)

ライヴ・アット・ザ・ハリウッド・ボウル

 いま自分の前に1枚のレコードがある。1977年に発売されたもので、タイトルは「ザ・ビートルズ・スーパー・ライヴ!」と名付けられていた。これは日本でのタイトルらしく、正式なタイトルは“The Beatles at The Hollywood Bowl”というものだった。The_beatleslive_at_the_hollywood_bo
 これは、ザ・ビートルズが1964年の8月23日と翌65年の8月30日に、ロサンゼルスのハリウッド・ボウルで行ったライヴ演奏を収めたもので、全13曲、時間にして33分余りだった。
 当初は、レコードとして発表する予定はなかった。当時の彼らのライヴ映像を見ればわかると思うけれども、観客が興奮してしまい、声援というか奇声があまりにも激しすぎて、音を拾える状態ではなかったからだ。

 ザ・ビートルズのメンバー自身も、当時はモニター自体がなかったし、たとえあったとしてもモニターからの音も聞こえなかっただろうと述べている。しかも当時の貧弱な録音機材では十分な音質も保証されなかったことは間違いないだろう。だからステージの上で彼らの音が合っていること自体、奇跡のような出来事だった。

 しかし、これは奇跡でもなんでもないと考えている。彼らはドイツのハンブルグやイギリスのリバプールでライヴ・バンドとして日夜、経験を積んでいたし、ザ・ビートルズとして正式にデビューしてからも世界中を回っては演奏していたからだ。当時の彼らにしてみれば、モニターから流れる自分たちの演奏を耳にしなくても、普通に歌や演奏を行って、当たり前に音もあっていたのだろう。

 当時のレコードの解説に、このアルバムをプロデュースしたジョージ・マーティンが記したコメントが載せられていた。それによると、最初からライヴ・アルバムのことを頭に入れて、録音されていたらしい。 しかしそれでも10年以上もお蔵入りになっていた。当時集まった1万7千人以上のファンの声で聞き取れなかったからだ。

 それをジョージ・マーティンと当時の録音技師のジェフ・エメリックが、3トラックをマルチトラックに移し替え、リミックスやイコライジングを施して、ついに鑑賞に堪えうる歴史的なライヴ・アルバムにまで仕上げたのである。
 ジョージ・マーティンによれば、この作業に取り掛からせる思いに至ったのは、ザ・ビートルズの演奏から伝わってくる熱狂的な雰囲気と荒削りなエネルギーをみんなに伝え、後世にまで残そうとする情熱からだった。

 だから、声と楽器はすべて当時のオリジナルのままだったし、オーヴァーダビングなどは一切加えられていないのだ。楽曲は、2回分の公演の中からベスト・トラックを選んだそうである。Yhst73969762682587_2180_44116662
 当時の記録では、2回の公演での楽曲数は、2回とも12曲だった。このライヴ・レコードでは13曲だったから、実際のライヴよりは1曲分多いことになる。
 また、2回の公演で実際には演奏されたが、録音状態の問題で収録を見合わされたのは、次の曲群だった。
"You Can't Do That"
"If I Fell"
"I Want to Hold Your Hand"
(以上1964年8月23日分)

"I Feel Fine"
"Everybody's Trying to Be My Baby"
"Baby's in Black"
"I Wanna Be Your Man"
"I'm Down"
(以上1965年8月30日分)

 ザ・ビートルズの公式アルバムはすべてCD化されていたが、なぜかこのライヴ・アルバムの公式CD盤は発売されていなかった。

 2016年に、アカデミー受賞監督のロン・ハワードによる、彼らの初期のキャリアを追った、バンド公認の長編ドキュメンタリー映画『ザ・ビートルズ: Eight Days A Week - The Touring Years』が公開されたが、これに合わせて発表されたのが、「ライヴ・アット・ザ・ハリウッド・ボウル」だった。61qvarhmq3l

 それでこのアルバムには、1977年のアルバムの曲数+ボーナス・トラックとして4曲が加えられていた。
 結局、このCD化されてもなお収録されなかった曲は、"If I Fell"、"I Feel Fine"、"I'm Down"の3曲だけになった。ただ、ブートレッグなどでは完全収録盤なども出回っているようなので、その気になれば聞くことができるようだ。

 また、CDのプロデュースは、ジョージ・マーティンの息子であるジャイルズ・マーティンが担当している。彼が言うには、1977年の父親がプロデュースしたレコードをリミックスした際に、曲順も印象の強さと音の鮮明さをもとに自分で新しく考えて決めようとしたが、結局、それは父親が考えたのと同じ曲順になったという。息子も父親と同じ才能を引き継いでいるのだろう。61jmko7dqdl

 それでCDは、全17曲で時間にして約44分にヴォリューム・アップしている。これはやはり即買いだろう。“レコードの時はショボかったけど、CD化されてお買い得になったアルバム”のシリーズの第4弾は、ザ・ビートルズの「ライヴ・アット・ザ・ハリウッド・ボウル」だった。

 それにこのアルバムは、純粋にザ・ビートルズの音楽を楽しむだけでなく、歴史的な記念品として味わう側面もあるのではないかと思っている。

 ちなみに、ハリウッド・ボウルとは、アメリカのカリフォルニア州ハリウッド・ヒルズに位置する半円形の野外公会堂のことで、1922年から使用されている。主にクラシックのオーケストラや人気歌手、エンターティナーなどの公演が催されている。Hb_shell_2010_03_hi
客席数は17,376席だそうである。

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2018年10月 1日 (月)

レインボー・コンサート

 レッド・ゼッペリン、ディープ・パープルとくれば、次はブラック・サバスかクリームか、ということになるのかもしれない。それで今回はエリック・クラプトンのライヴ・アルバム、「レインボー・コンサート」の登場だ。

 “レコードの時は貧弱だったけど、CD化されてお買い得になったアルバム”のシリーズ第3弾は、1973年1月13日に行われたライブ盤である。
 最初のアルバムは同年の9月に発表されたが、全6曲の34分48秒しかなかった。自分も80年代に再発されたレコードを購入して聞いたものだが、非常に物足りずに、これでいいのかクラプトンと愚痴ったものだった。516hcje3pl

 6曲しか収録しなかったというよりも、収録できなかったといった方が正確だろう。何しろこの時のクラプトンは、ヘロインの後遺症が続いていたし、引きこもりからやっと出てきた状態だった。だからギター演奏もキレがなく、ボーカルも伸びがなかった。

 ご存知のように、エリック・クラプトンは60年代半ばから、ヤードバーズ、ジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズ、クリーム、ブラインド・フェイス、デラニー&ボニー・アンド・フレンズ、デレク&ザ・ドミノスと、その都度輝かしい名声と素晴らしい業績を残してきた。

 そのクラプトンが1971年の途中から引きこもりを見せるようになったのだ。デレク&ザ・ドミノスの解散、親友であるデュアン・オールマンの事故死、ジョージ・ハリソンとその妻パティとの三角関係、そんな人間関係の複雑さや煩わしさと音楽的キャリアの行き詰まりなど諸々のことが原因で引きこもってしまった。

 単に引きこもるだけならともかく、コカインやヘロインというドラッグに手を出してしまい、ほとんど廃人になりかけていた。この時クラプトン28歳だった。
 当時のクラプトンは、アリスという女性と同棲をしていた。このアリスという人は上流階級出身で、父親はワシントンにあるイギリス大使館の元アメリカ大使も務めたサーの付く貴族だった。
 このハーレック卿という人は音楽に理解がある人で、ロック・ミュージックにも造詣が深く、エリック・クラプトンのことももちろん知っていた。

 世の中何が災いになり、逆に何が幸いするかわからないものである。エリック・クラプトンにとって幸いだったのは、ガールフレンドの父親がたまたま音楽に理解があり、そして娘とその恋人がドラッグ中毒だったから何とか助けてあげたいと思ったことだろう。

 もう一人クラプトンのことを心配していた人がいた。ザ・フーのピート・タウンゼントである。彼もまた古くからクラプトンと親交があり、クラプトンもまたピートのことを信頼していた。この引きこもり状態の時に、唯一連絡を取り合えることのできたミュージシャンがピート・タウンゼントだった。

 このハーレック卿とピート・タウンゼントのおかげで、このコンサートが企画され、メンバーが集められ、ロン・ウッドの家でリハーサルを行い、1月13日にコンサートが開かれた。ただ、引きこもり状態は約2年ほど続いたので、たった数回のリハーサルでは完全に復活することは無理があったようだ。81ihimf54zl__sl1084_

 この1月13日には18:30スタートの第1部と、20:30スタートの第2部の2回の公演だったが、やはり1回目の時のクラプトンの状態はあまり芳しいとは言えず、むしろまだリハーサル状態に近いものだったようだ。だからアルバムには2回目の演奏のものを多く収録していた。

 ちなみに、レコードで(もちろん初期のCDでも)聞くことのできる6曲は次の曲だった。
1.Badge
2.Roll It Over
3.Little Wing
4.After Midnight
5.Presence of The Lord
6.Pearly Queen
 この6曲のうち、1回目のライヴで演奏された曲は"After Midnight"だけだった。また、エリック・クラプトンのボーカルは4曲だけで、"Presence of The Lord"、"Pearly Queen"の2曲ではオリジナルと同様に、スティーヴ・ウィンウッドが務めていた。

 6曲という収録数と4曲のクラプトンのボーカルを聞いて、これでクラプトンが戻ってきたと安堵したファンは少なかっただろう。むしろ、逆に、これからクラプトンは大丈夫だろうかと不安に思った人の方が多かったのではないだろうか。

 自分も不安に思ったし、このアルバムを購入してむしろ損をした気分になっていた。ところが1995年に、当日のステージのほぼ完全盤が発表されたのだ。71np5pp0wl__sl1242_
 これはオリジナルの6曲に8曲も追加収録をされていて、さらに当日のライヴのほぼ演奏順に配置されていた。これはもう自分にとっては、欣喜雀躍、狂喜乱舞、完全跳躍?、とにかくオリジナルの倍以上の73分49秒も聞くことができたのである。この時に追加された曲は、次の8曲だった。
1.Layla
2.Blues Power
3.Bottle of Red Wine
4.Bell Bottom Blues
5.Tell the Truth
6.Key to the Highway
7.Let It Rain
8.Crossroads
 
 このリストを見れば、むしろこちらの8曲の方が華があり、演奏も期待できそうな気がする。ちなみに、この8曲の中で第1部で演奏された曲は"Bell Bottom Blues"だけであり、逆に、第2部でしか演奏されなかった曲は、オリジナルの6曲分も含めて、ブルーズの名曲である"Key to the Highway"だけだった。

 また、実際のライヴでは"Nobody Knows You When You're Down And Out"も演奏されたそうだが、こちらもスティーヴ・ウィンウッドがボーカルを務めているためか、収録されていない。確かに、クラプトンのためのコンサートなのだから、スティーヴばかりがそんなに目立っちゃいけないよね。

 世の中には、この時の2回分のライヴの完全盤がブートレッグとして出回っているようだが、それだけこの時の演奏を聴きたいという熱心なファンが多くいるのだろう。需要は未だ尽きないようだ。

 余談だが、この時のメンバーはクラプトンの他には、ギターにロン・ウッドとピート・タウンゼント、ベース・ギターにリック・グレッチ、キーボードはスティーヴ・ウィンウッド、ドラムスにはジム・キャパルディとジミー・カーシュタイン、パーカッションにリーバップというミュージシャンたちだった。A0054043_16135454
 また、当日の聴衆の中にはジョージ・ハリソンにジミー・ペイジ、エルトン・ジョン、ジョー・コッカーなどの有名人もいたと伝えられている。

 エリック・クラプトンはこのコンサートをきっかけに自信を取り戻し、ドラッグ中毒の治療を開始して、約1年後には「461オーシャン・ブールヴァード」という名盤を携えて見事完全復活を遂げるようになるのだが、ある意味、彼の人生の転機となった記念碑的ライヴ・アルバムといってもいいのではないだろうか。

 おそらく今は、この8曲を追加した計14曲の「レインボー・コンサート」のCDしか出回っていないと思うのだが、私のような昔からのファンからすれば、よくぞこのアルバムを出してくれたと当時のポリドール・レコードに感謝しているに違いない。

 最後に、この日のクラプトンは、第1部で“ブラッキー”という愛称の黒のフェンダー・ストラトキャスターを、第2部では赤のレスポールを演奏したという。この時の写真を見れば、第1部か第2部かの違いが分かるはずである。Hqdefault

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2018年9月24日 (月)

ライヴ・イン・ジャパン

 「ライヴ・イン・ジャパン」というタイトルのライヴ・アルバムは、たくさんあると思う。古くはザ・ベンチャーズやピーター、ポール&マリー、新しいところではフィル・マンザネラやアルカトラスなどがある。
 フィル・マンザネラやアルカトラスがなぜ新しいのかと不思議に思う人もいるかもしれないが、マンザネラは今年の2月に、アルカトラスの1984年の来日記念実況録音完全盤が4日後の9月28日に発売されるからだ。

 そんな数ある「ライヴ・イン・ジャパン」というタイトルのアルバムの中で、やはりこのアルバムが唯一無二というか、“ジャパン”という名前を世界に知らしめたのではないだろうか。そう、このブログの愛好者ならすぐに頭に思い浮かぶだろう(愛好者という人はほとんどいないと思うけれど)、ディープ・パープルの「ライヴ・イン・ジャパン」である。61pvrhc762l
 レコードとしては、1972年の12月に発表された。実際の録音は、その年の8月15日から17日の3日間、場所は東京の日本武道館と大阪の厚生年金会館(当時)で行われた。

 これは有名な話だが、このライヴ盤を制作するにあたって、いくつかの条件がバンド側から提出された。
 ①日本でのみ発売すること、ただし、発売するかしないかはバンド側が決める
 ②録音はバンド側が行い、機材は日本のものを使用する
 ③ミックスダウンはバンド側が行う

 なんか幕末に結んだ不平等条約のような感じがするが、要するに、バンドのマネージメント側としては、そんなに期待してはいなかったのだろう。2枚組のアルバムは値段が高額になるので、売れることはそんなに期待していなかったに違いない。
 バンド側としても契約上のアルバム消化につながるし、それなりのお小遣いも稼げると思っていたのだろう。Deep_purple_live_in_japan_1972c
 それに、基本的にバンド側は自分たちの熱狂的なライヴが、レコードでは再現されないだろうと思っていたようだ。ところが、ストーンズやザ・フーのライヴ盤が好評を得てからは少しは考えも変わってきたらしい。また、海賊盤対策という思惑もあったとのこと。彼らは、それまで公演の模様をライヴ盤として発表していなかったからだ。

 そんなバンド側の思惑に反して、このアルバムは日本では評判が良かったし、予想に反して、かなり売れた。バンド側も録音状態や内容に満足していたので、日本だけでなく母国イギリスやヨーロッパでも発売しようと決めて、やはり12月にイギリスで、翌1973年の4月にはアメリカでも手に入れることができるようになった。
 ただし、アルバム・タイトル名は「メイド・イン・ジャパン」に変更され、アルバム・ジャケットも日本盤とは異なっていた。71sxpky9fkl__sl1300__2
 チャート的には、オーストリアやドイツ、カナダでは1位、アメリカでは6位、イギリスでは16位を記録し、日本では30万枚以上、アメリカでは200万枚以上売れている。2枚組のライヴ・アルバムでは異例の売上げだった。

 そして、80年代の終わりにCD化されたときは、もちろんレコードと同じ7曲しか収められていなかった。CDは針も飛ばないし、多少汚れても音は変わらないし、傷もつきにくい。しかも途中で盤をひっくり返す必要もなかったから、1枚1875円で販売されても文句はなかっただけでなく、むしろあの名盤が手軽に聞くことができるようになってうれしかったことを覚えている。

 ところが、である。このアルバムもゼッペリンの「永遠の詩」と同じように、その後、完全盤が発表された。しかも手を変え品を変え、追加の完全盤が、紙ジャケット化も含めて、次々と発表されて行った。これは「永遠の詩」以上の編集の仕方だ。

 残念ながら、自分はそんなに詳しくはないのでよくわからないのだが、少なくとも1993年には3日間の公演の3枚組完全盤が、98年には25周年の2枚組リマスター盤が、そして、2014年には更なるデラックス・エディションまで発表されている。

 ただし、1993年の3枚組の完全盤といっても、1日目の大阪でのライヴでは演奏された"Smoke on the Water"はディスク1には収められていないし、その日のアンコール曲だった"Speed King"はディスク3にまわされていた。
 また、2日目の大阪のアンコール曲"Black Night"と"Lucille"は収録されていない。3日目の東京の分も同じように、当日演奏された"The Mule"とアンコールの"Black Night"はディスク3ではカットされているし、収録されていた"Speed King"は上にもあるように、初日の大阪公演のものだった。

 演奏順は実際の本番と同じ順番だったものの、やはりこの3枚組は、完全盤とはいっても8割くらいは完全なものであって、まだまだ不完全だったのだ。Kq23wfr4zy7auzx7i2rcsb
 ということで、2014年のデラックス・エディションは、それを補っている。ただ補ってはいるものの、3日分の本編と3日分のアンコール曲を分けていて、本編だけで3枚のCD、アンコール曲だけで1枚のCDに収めていた。たぶん収録時間の関係だろう。
 同時に、当時のドキュメンタリーDVDやプロモーション用のシングルCDも含まれていて、豪華6枚組ボックス・セット仕様だった。

 また、2014年のバージョンには廉価盤の2枚組CDも発表されていて、これはリミックスされた通常の7曲と、3日分のアンコール曲が収められた2枚組だった。演奏順については、6枚組は当時と同じだったが、2枚組の方は"Child in Time"と"Smoke on the Water"が入れ替わっていて、前者が2曲目、後者が3曲目に配置されていた(実際の演奏は"Smoke on the Water"から"Child in Time"の演奏順だった)。

 自分が持っているのは、1998年の25周年記念のリマスター盤2枚組である。これは残念ながら曲順は通常盤と同じものの、アンコールが3曲入っていて、つまり3日間で演奏された曲だけはアンコールを含めて1曲ずつ聞くことができるものだった。
 ちなみに、アンコールの"Black Night"と"Speed King"は最終日の東京バージョンで、最後の曲の"Lucille"は16日の大阪バージョンだった。51kzbh8cl
 自分のようなパープル・ファンなら、この2枚組がちょうど合っているような気がした。しかも輸入盤だったし、お値段も手ごろだった。

 というわけで、ゼップのライヴ盤は、確かに今年リマスター盤が出たものの、ディープ・パープルのような編集方針は取っていない。ジミー・ペイジはケチだとか、セコイとか言われているが、あくどい金儲けをしているのは、実はパープルの方なのかもしれない。

 そういえば来月彼らは来日するが、これが最後のライヴともいわれているから、そのライヴも録音してアルバムを発表するかもしれない。そのときは、できれば最初から完全盤を出してほしいものである。

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