2017年7月31日 (月)

オーティス・レディング(2)

 暑い夏が続いていて、家の中でも熱中症になるというのも納得できる。こういうときには、もちろん涼しい場所で過ごすのもいいのだが、逆に、徹底的に暑さの中に身を置いて、汗を流すことで涼しさを体感するという手もあるようだ。

 そういう時に相応しい音楽は、時としてハード&ヘヴィ・ロックだろうし、あるいはソウル・ミュージックでもいいかもしれない。そして、ソウル・ミュージックの王道といえば、女性ならアレサ・フランクリンであり、男性ならオーティス・レディングあたりが、すぐに頭に浮かぶのである。39c24657fc7a480eee97bc93d8433c51mus
 今は天国にいる忌野清志郎とオーティスである。清志郎の“ガッ、ガッ、ガッ、ガッ、ガッ、ガッ、ガッ、ガッ”は、オーティスのスィンギング・スタイルをパクったのは有名な話だった。

 今自分は、オーティス・レディングの1967年のライヴ盤「ライヴ・イン・ヨーロッパ」を聞きながらこれを綴っているのだが、いつ聞いても、何度聞いても、素晴らしいし、よく構成が練られていると感心してしまう。

 当時のオーティス・レディングのヨーロッパのライヴは、彼単独のライヴではなくて、エディ・フロイドやサム&デイヴ、ブッカー・T&MG'sなどの著名なミュージシャンとのジョイント・ライヴだったようだ。

 だから、実際のステージでは、オーティスの持ち歌は5曲から6曲ぐらいだった。でも、このライヴ盤では10曲が収められていて、パリのオリンピア劇場やロンドンのアストリア劇場での音源を中心に編集されている。曲がタブらないように、それぞれの劇場での数回の公演の中からピックアップされたといわれている。61ib1v4iull__sl1425_
 当時の公演でいつも必ず歌われた曲があって、それはテンプテーションズの"My Girl"、サム・クックの"Shake"、1932年の古いラヴ・ソングだった"Try A Little Tenderness"の3曲である。しかも"Try A Little Tenderness"はいつも必ず最後の曲として歌われていた。

 このライヴ・アルバムでは、これら3曲が中心となるように絶妙に配置されているから、まるで彼一人の単独ライヴを聞いているような感じがしてしまう。

 特にバラード曲の配置がすばらしく、冒頭2曲のテンポのよい曲に続いて"I've Been Loving You Too Long"が、中盤で"These Arms of Mine"が聴衆をいったん落ち着かせて、ザ・ビートルズの"Day Tripper"で盛り上げて、"Try A Little Tenderness"で締めるところは、さすがである。実際のライヴでも盛り上がったことだろう。

 オーティス・レディングは、1941年の9月にジョージア州のドウソンで生まれた。父親は教会の牧師だった。やがて一家はメコンに移り、オーティスは教会の聖歌隊で歌うようになった。

 地元のグループだったジョニー・ジェンキンズ&ザ・パイントッパーズで歌っていた時に、オーディションを受けて合格し、レコーディングをする機会を得た。
 そこでレコーディングをした"These Arms of Mine"や"Pain in My Heart"がヒットして、徐々に彼の名前が知られるようになった。

 オーティスの曲を聞くなら、やはりライヴだろう。スタジオ盤もいいけれど、彼のダイナミックな歌い方や爆発的な歌唱力がいまいち発揮できていないような気がしてならない。718bhlioofl__sl1159_
 彼が日本でも有名になったきっかけになったのは、やはりモンタレー・ポップ・フェスティバルに出演したことが大きいのではないだろうか。

 1967年の6月17日、フェスの2日目の大トリがオーティスだった。2日目といっても、もう夜中を回っていて次の日になっていたのだが、眠りかけている観衆の前で、オーティスはサム・クックの"Shake"を歌った。文字通り、自分の音楽で眠りこけている人たちを起こそうとしたわけであるが、ここから彼の伝説が生まれていった。

 そして、アメリカをはじめヨーロッパでも、彼の人気はうなぎ上りに急上昇していったのだが、悲しいかな、現役時代はそんなに長くは続かなかった。

 1967年12月10日、ウィスコン州のマディソンのクラブで公演が予定されていたオーティスは、自家用双発機でクリーブランドを飛び立った。
 午後3時28分ごろ、マディソン近くのモノナ湖上空にさしかかったところ、突然エンジン・トラブルに見舞われ、墜落した。享年26歳だった。

 死の3日前に、オーティスは、メンフィスのスタジオで"The Dock of the Bay"をレコーディングした。そして、ギタリストのスティーヴ・クロッパーに残りはまた来週にしようといってスタジオを出た。スティーヴにとっては、それがオーティス・レディングの最後の姿になってしまった。

 彼の死後、約3ヶ月後にこのシングル曲は、3週間にわたってチャートでNo.1に輝いている。さらにグラミー賞では、ベストR&Bソング賞、ベストR&B男性ボーカル賞も受賞した。もちろんオーティス自身は、このことを知るすべもなかった。

 アルバム「ドック・オブ・ベイ」も1968年に発表されたが、1965年から67年にかけてのシングルやそのBサイドの曲を集めた編集盤だった。新作というよりは、彼の追悼記念という意味合いが大きいようなアルバムだったと思う。71eeucr3al__sl1440_
 だから、彼の意思が反映されていたかどうかは、よくわからない。もともと未完成だったシングル曲の"The Dock of the Bay"でさえも、彼の死後にスティーヴ・クロッパーが手を加えたのだから、アルバム自体もスティーヴの意思が反映されているのだろう。

 1980年には、オーティス・レディングの息子たちと従兄弟らが、レディングスというバンドを結成して、シングル"The Dock of the Bay"を発表した。この曲は、のちに55位まで上昇したが、これも追悼記念だったと思う。

 ちなみに、チャートでNo.1になった曲が、その子どもたちによって再びチャートで100位以内に入ったのは、この曲が初めてであり、今までのところ最後のようである。

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2017年5月 1日 (月)

ブルーノ・マーズの新作

 といっても、このアルバムは昨年発表されたもので、すでに4ヶ月以上もたつ。でも自分にとっては、まだ新作だし、アメリカのアルバム・チャートでは4月1日現在で第6位に、シングル・チャートでも"That's What I Like"が2位に付けている。

 アルバム・タイトルは「24K・マジック」というもので、“K”は“カラット”を意味するようだ。ということは“24カラット”なのだろう。いうまでもなく“24カラット”は、金の純度でいうと“純金”という意味になる。

 要するに、アルバム・タイトルは、「純金のような魔法」ということであり、“純金のような魔法で彩られた音楽”を意味している。それだけ自信があるのだろうし、本人も納得がいったアルバムだということだろう。

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 ブルーノ・マーズについては、一度このブログでも取り上げているのだが、21世紀の“キング・オブ・ポップス”とも呼ばれているミュージシャンでもあるので、この素晴らしいアルバムの発表を記念して、もう一度述べてみたい。

 ブルーノ・マーズは、現在31歳、今年の10月に32歳になるミュージシャンだ。ハワイ出身で、高校卒業後にロサンゼルスに出てきたあと、“ザ・スミージントンズ”というプロデューサー・チームを結成して、アルバム制作に携わるとともに、自身でも他の人のアルバムに客演して歌うようになった。

 2010年にはデビュー・アルバム「ドゥー・ワップ&フーリガンズ」を発表した。アルバム・タイトルにはロマンティック性とワイルド性の両義が含まれているという。
 このアルバムからは、"Just The Way You Are"と"Grenade"の2曲が全米シングル・チャートで1位を記録した。61lnju8w6ll__sl1085_

 その結果、2011年の第53回グラミー賞で6部門にノミネートされ、「最優秀ポップ・ボーカル賞」を受賞している。

 さらには、2011年の世界デジタル・シングル売り上げトップ10では、"Just The Way You Are"が1250万ダウンロード、"Grenade"が1020万ダウンロードで、これもまたそれぞれ1位と2位を記録した。

 まだまだ、彼の記録は続く。セカンド・アルバムの「アンオーソドックス・ジュークボックス」は2011年の終わりに発表されたが、ここからも"Locked Out Of Heaven"と"When I Was Your Man"の2曲が全米No.1に輝いている。

 このアルバムは全米で400万枚以上、全英で150万枚以上売り上げていて、当然のことながら両方のアルバム・チャートで1位を獲得した。
 その後、ブルーノ・マーズはワールド・ツアーを行い、足掛け2年にわたって計154公演を開催して、約160億円の売上げを記録した。

 とにかく、この人とアデルは、現代のポップ・ミュージック界を牽引しているようだ。2014年にはマーク・ロンソンとの共作曲"Uptown Funk"が全米14週連続1位を記録して、2015年の年間シングル・チャートでも首位になり、翌年に行われた第58回グラミー賞では、最優秀レコード賞と最優秀ポップ・デュオ/グループ・パフォーマンス賞の2部門で受賞してしまうのである。

 そんな彼が満を持して発表したのが、4年ぶりの新作アルバム「24K・マジック」だった。1年半にわたりスタジオに閉じこもって曲を書き続けていて、全9曲すべてを50回以上書き直したと、本人はインタビューで応えている。516ally2bvl_2
 このアルバムの基本的なコンセプトは、ゴージャス感である。それまで彼は、ラフな姿でレコーディングを行っていたが、このアルバムではアルバム・ジャケットの写真のように、ヴェルサーチのシャツを着て、ゴールドのネックレスをつけて行っている。上記にもあるように、ここからアルバム・タイトルが浮かんだようだ。

 同時に、ブルーノ・マーズは、このアルバムから幸福感やラグジュアリー感のような高貴な気分を感じてほしいと述べているが、実際、今までの2枚のアルバムよりは、かなり濃密でファンキーな傾向が強くなっている。

 イントロのトーキング・モジュレイターの使用からまさにマイケル・ジャクソン張りの叫び声を含むファンク・チューンの"24K Magic"、途中のキーボード・サウンドがこれもまた90年代のソウル/ファンク・ソングを想起させる"Chunky"、チョッパー・ベースとギターのカッティングがジェイムス・ブラウンの曲に似ている"Perm"など、冒頭からファンク臭プンプンである。

 4曲目の"That's What I Like"はシングル・カットされて、全米2位を記録した。ポップでありながらファンキーな雰囲気を携えていて、確かに売れそうな曲だ。

 次のバラード"Versace On The Floor"は前作までの傾向を持ったポップなメロディが印象的な佳曲だ。マイケル・ジャクソンがもし生きていたら、この曲を歌わせてくれというかもしれないし、少なくともブルーノ・マーズとの共演を望むだろう。

 アルバムも後半になると、少しはファンク色が薄れてきて、"Straight Up And Down"はミディアム・スローのバラードで、一部シャイの1993年の曲"Baby I'm Yours"がサンプリングされていた。
 7曲目の"Calling All My Lovelies"もミディアム系の静かな曲に仕上げられていて、女優のハル・ベリーも電話の声で友情出演している。

 次の"Finesse"は、何となく日本人の久保田利伸の曲のような、ファンキーでノリのよいナンバーだった。
 そして最後の"Too Good To Say Goodbye"は、かつての"Talking To The Moon"や"It Will Rain"のような美しいバラードで、最後を飾るにはもってこいのお涙頂戴ソングである。

 この曲のクレジットには、あの90年代に一世風靡したメロディ・メイカーのベイビーフェイスもクレジットされていて、まさに鉄板のソングライティング・チームの曲というべきものだろう。

 どの曲も印象的で、ブルーノが50回以上書き直した軌跡が見て取れるものになっている。

 ただ、唯一残念なのは、収録時間が合計で33分28秒しかないことだ。わずか9曲しか収められていないので仕方がないといえば仕方がないのだが、せめてもう2~3曲入れてほしかった。彼のファンならみんなそう思うんじゃないかなあ。

 とにかく、このアルバムはR&Bやファンキー路線を重視したアルバム作りになっている。デビュー作や2枚目のアルバムは、ソウル色の強いシンガー・ソングライターのアルバムといった感じだったが、ここにきてさらに一段とソウル/ファンク色を強めたようだ。

 今までのメロディアスな曲調からリズムを強調した作りになっていて、歌って踊れて、みんなが楽しめる要素を取り入れている。ここでもアルバム・タイトルのようなラグジュアリー感が、反映されているように思える。

 これが80年代~90年代ならブラック・コンテンポラリーと呼ばれるのだろうが、今の時代では、そういう言い方はあまりしなくなった。これも時代の移り変わりというものだろう。
 ただ、時代は変遷しても、聞いてハッピーになるような美しい楽曲を望む気持ちは、いつでも変わらない。

 ブルーノ・マーズの天才的なソング・ライティングは、時代の流れを敏感に受け止めながらも、我々一般大衆のポピュラーな音楽感覚からは離れてはいない。これが続く限り、彼の作る楽曲は、夜空の星のようにますます輝いていくだろう。 

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2016年8月15日 (月)

21世紀のプリンス(3)

 2007年に「プラネット・アース」が発表されたあと、日本のプリンス・ファンは、2014年の「アート・オフィシャル・エイジ」までの7年間、日本での公式アルバムについては待たされることになった。

 だから、日本ではプリンスの動向がよく伝わらずに、様々な憶測が流されていたが、実際は、様々なフェスティバルに参加したり、意欲的にアルバムを発表したりしていたのである。

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 特に、2009年には再び3枚組のアルバムを発表し、話題になった。「ロータスフロー」と名付けられたこのセットは、3枚のうち2枚はプリンスの作品、残り1枚はプリンスが見出した新人女性シンガー、ブリア・ヴァレンティのアルバムだった。
 このアルバムは、3枚組にもかかわらずビルボードのアルバム・チャートでは初登場2位を記録している。

 また、2010年にはイギリスのデイリー・ミラーやベルギーの新聞、ドイツ版の雑誌「ローリング・ストーン」の付録として、無料でCD「20テン」を発表した。タイトルは西暦に因んだもので、内容はプリンス流のファンクやロック・ミュージックだった。
 そして2010年以降では、様々なツアーやフェスティバルに参加したり、未発表曲の再録音などをiTunesを通して発表したりしている。

 だから、日本では彼の動向がなかなか伝わらずにやきもきさせられたのだが、実際はワーカホリック・ミュージシャンの一人のプリンスのことだから、自宅にいるときは曲を書き、録音し、外に出ればライヴ活動に励んでいたのである。

 ただ、インターネット上の違法行為(いわゆる海賊盤の横行)には憤っていて、著作権が保護されない限り、新たなアルバムは発表しないと宣言していた。
 
 そんなプリンスが、2014年には何と喧嘩別れしていたワーナー・ブラザーズと契約を結んだことで、多くのファンや関係者を驚かせた。やはり自分の作品を世界中の人に知ってもらうためには、メジャーなレコード会社との関係は必要不可欠だと感じたのだろうか。

 そして発表されたアルバムが、サード・アイ・ガール名義の「プレクトラム・エレクトラム」と、自身のアルバム「アート・オフィシャル・エイジ」だった。61mcp6qm4l
 自分は貧乏なので、「アート・オフィシャル・エイジ」の輸入盤しか購入できなかったのだが、「プラネット・アース」よりはファンク/ソウル色が強くて、プリンス本来の持つ粘っこさや力強さがよく発揮されていると思った。

 特に印象的だったのは、"Art Official Age"、"Breakdown"、"This Could Be Us"などであろうか。"Art Official Age"ではイントロの緊張感が聞く側に伝わってきて、ワクワクさせてくれるし、バラードの"Breakdown"、"This Could Be Us"などは聞くたびにウットリさせてくれる。何度も言うが、この人の書くバラード曲はどの曲もすばらしいと思う。何か秘訣でもあるのだろうか。

 また、後半の"Way Back Home"、"Funknroll"、"Time"の展開も見事である。バラードからノリのよいリズム曲、そして最後を締めるエンディング曲という配列もよく練られていると思った。

 ただ、個人的には物足りなさも覚えた。天才プリンスにしては、平均点よりもやや上程度の作品だったのではないだろうか。曲によって出来の差が見られるし、80年代の作品よりはやや劣っているような気がしてならなかった。

 これくらいの曲ならプリンスにしてみれば、それほど苦も無く出来上がるだろう。ファンとしては、せめて「ザ・ゴールド・エクスペリエンス」や「ミュージコロジー」、「プラネット・アース」並みの作品を期待していたのだが、何かが足りなかったようだ。
 それでもチャート的には、全米5位、全英8位と健闘した。日本では久々の国内盤だったせいか、よく売れていたようだ。

 翌年には、「ヒット&ラン・フェーズ・ワン」と「ヒット&ラン・フェーズ・ツー」の2枚のアルバムを立て続けに発表した。この2枚は、いずれも2013年あたりから書き溜めていたものやそれ以前の未発表曲、既発の曲の再録などを収めたものだが、さすがプリンス、それなりの統一感がきちんと表れていた。61evg3d6zsl__sl1181_
 前者の「フェーズ・ワン」の方はどちらかといえば、ファンク/ソウル色が強くて、「フェーズ・ツー」の方は、ロック/ポップ色が強い。
 「フェーズ・ワン」では、「アート・オフィシャル・エイジ」にも収められていた"This Could B Us"やプリンス流エレクトリック・ダンス・ミュージックともいえる"Fallinlove2nite"やブルーズ・ファンク・ミュージックの"Hardrocklover"などが印象的だった。

 また後半になるにつれて、ダンス・ミュージックの要素も濃くなり、まさにプリンスの本領発揮といった感があった。

 一方で「フェーズ・ツー」では、ポップでおとなしめな曲"Baltimore"から始まる。この曲は2015年の4月にボルチモアで警官から拷問を受け死亡した黒人青年フレディ・グレイのことを歌ったもので、メロディは明るいものの内容はダークだった。

 プリンスは争いを止め、平和に過ごそうと呼び掛けているが、現実にはつい最近も黒人が一方的に白人警官から射殺されるという痛ましい事件が起こったばかりだ。このままいけば、第二の南北戦争が起きるのではないだろうか。

 「フェーズ・ツー」では、"Rocknroll Loveaffair"、"2Y.2D."、"Look at Me, Look at U"とわかりやすくポップな曲が続く。61supj6uudl__sl1200_
 5曲目の"Stare"あたりから黒っぽくなっていくのだが、"Xtraloveable"は1982年に当時プリンス・ファミリーの一員だったヴァニティー6のために用意されたもので、当時は使用されずにお蔵入りになっていた。今回はそれを再録したものである。

 "Groovy Potential"、"Screwdriver"は2013年の作品。後者の"Screwdriver"なんかはシングル・ヒットが狙えそうな曲。ちょうど"Around the World in A Day"の頃の曲に似ていて、軽い感じが逆に猥雑な感じを与えてくれる。

 このアルバムでも"When She Comes"、"Revelation"などのバラードが素晴らしいが、前者は2011年頃に、後者は2014年に発表されたものだった。
 「フェーズ・ワン」も「フェーズ・ツー」も古くは80年代から、新しいところでは2015年当時の新曲まで収められているが、「フェーズ・ワン」はファンク色が、「フェーズ・ツー」ではポップな色合いが濃い。そんな統一感があったので、だから聞いていて違和感は無かった。

 この「ヒット&ラン」シリーズは、もとはインターネットの定額スクリーミング・サービスで配信されていたのだが、特に「フェーズ・ツー」の方は、地元ミネアポリスでのライヴ会場とそのミネアポリスのダウンタウンにあるCDショップ「The Electric」でのみCDとして販売されるようになった。13ドル99セントだったらしい。

 これは地元愛に溢れるプリンスが、地元の店を支援しようとして考えたプランだったが、逆に世界中のファンが海賊版に悩まされるという事態が起きたため、結局、CD化されたという事情があった。

 ただ、もしプリンスがこの「ヒット&ラン・フェーズ・ツー」が最後のアルバムになると知っていたら、果たしてこのようなアルバムになったかどうか。もしかしたら、というか全曲オリジナルで固めるのではないだろうか。

 プリンスと同じく、今年亡くなったデヴィッド・ボウイの場合は、これが最後のアルバムになることを知っていて制作したものだった。
 しかし、プリンスの場合は全くこれとは逆で、最後になるとは夢にも思っていなかったはずだ。

 ただ、この「ヒット&ラン」シリーズを通して、今までの未発表曲や再録音をまとめようとは思っていただろう。その上で、さらに新しい局面へと進んで行ったに違いない。
 例えば、「ヒット&ラン」シリーズの発表を通して過去の自分の作品と向き合いながら、新作も発表していっただろう。

 また、プリンスは「パープル・レイン」や「バットマン」のように、映画のサウンドトラックと相性が良かったから、サントラ盤も発表していたかもしれない。ただ残念ながら、我々はもうそこには行き着くことは無いのだ。

 ジミ・ヘンドリックスの場合は、エディ・クレイマーという優秀なエンジニアと一緒に仕事をしていたから、ジミの死後も、エディがジミの真意を探り、彼の意図を鑑みて、彼の意思が反映されたアルバムを、次々とニュー・アルバムとして発表することができた。

 プリンスも未発表曲が数百曲と残されているらしいが、残念ながら彼は演奏からアレンジ、プロデュースをひとりで行っていたから、どんなに優秀なプロデューサーが担当したとしても、彼の意思が正確に反映されたアルバムを発表することはできないだろう。

 もちろん、彼の未発表曲のアルバムが今後も発売されるだろうが、それらが発表されたことをプリンスが聞いたら、果たして完璧主義者の彼はどう思うだろうか。

 享年57歳だった。自分のソウル・ミュージックのCDラックには、プリンスのアルバムがこれからも収められるように、アニタ・ベイカーやホイットニー・ヒューストンのアルバムを売ってしまったのだが、意味がなかったようだ。

 自分は、これからもプリンスのアルバムを何回も何回も聞き続けるだろう。ただ、それはこれからの彼のアルバムではなくて、今まで発表されたものになるだろう。それらのアルバムには、彼の“ソウル”が込められているからで、そうすることが彼の意思を尊重し、彼の魂に耳を傾けることになると思うからである。

 本当に不出世の偉大なミュージシャンだった。ソウル・ミュージックとロック・ミュージックとポップ・ミュージックの境界を軽々と飛び越えてしまったミュージシャンだった。今まで突っ走ってきたのだから、これからはゆっくり休んでほしいと願っている。

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2016年8月 8日 (月)

21世紀のプリンス(2)

 21世紀になっても、プリンスの旺盛な創作力は続いていた。2004年に「ミュージコロジー」を発表した後も、同年にウェブサイトを通して通信販売できる「ザ・チョコレート・インヴェイジョン」と「ザ・スローターハウス」という2枚のアルバムを発表している。
 しかもこの3枚のアルバムは、アメリカ本国では同日(3月29日)に一斉に発売していて、いかに彼の創造性が高かったかが分かると思う。

 これは彼がファンとの交流を大事にしていて、レコード会社を通さずに直接ファンに届くようにしていたからで、この頃のプリンスは、商業的な利益よりも自分の芸術性の発露を求めていたようだった。

 それで2004年に3枚のアルバムを発表したプリンスは、2006年に31枚目のスタジオ・アルバムである「3121」を発表した。418xolt02l

 このアルバム・タイトルが何を表しているのか、はっきりしていない。いくつかの説があって、
①当時ロサンゼルスに借りていたマンションの番地を表している説
②旧約聖書の章と節を意味しているという説
③既発のアルバム枚数と発売日(3月21日)を表している説

 などが主に唱えられているが、どうもはっきりしないようだ。いずれにしてもアルバム・タイトルだけで充分世間からの注目を集めることができた。おそらくプリンス本人は、レコード会社の協力を得ずとも世間の注目を集められるぞと思っただろうし、まさにわが意を得たりという心境だったのではないだろうか。

 このアルバムもまた原点回帰というか、ソウル/ファンク路線に立ち還ったような雰囲気に満ちている。一方で、前作の「ミュージコロジー」のようなメロディアスでバリバリの売れ線狙いの曲は、めっきり減少していた。

 とはいえ、彼の書くバラード曲の素晴らしさは相変わらずで、"Te Amo Corazon"などは渋くて、個人的には大好きである。また、"Satisfied"も70年代のソウル・ミュージックぽくてなかなか良いと思った。

 ジミ・ヘンドリックスばりにギターがフィーチャーされているのは"Fury"という曲で、このアルバムからの3枚目のシングルになった曲だ。メロディ自体も比較的ポップで聞きやすい。この曲はプリンスひとりで制作したワンマン録音である。

 アルバムの後半になるにつれて、比較的メロディアスな曲が目立つが、女性ボーカリストのテイマーと共演した"Beautiful, Loved and Blessed"も美しいメロディを持つスローなR&B曲だし、プリンス自身が演奏するピアノが印象的な"The Dance"もまた5分以上もあるドラマティックな曲だ。こういう曲を聞くと、プリンスが自分の本来のあるべき場所に帰ってきたような感じがした。

 このアルバムは発売と同時にアルバム・チャートのNo.1を記録したが、これは彼のキャリアの中で初めてのことだった。また、No.1を記録したアルバムは、1989年の「バットマン」のサウンドトラック盤以来のことだった。

 だから何度も言うけれども、プリンスの才能は決して枯渇していたわけではなく、むしろより一層高みを目指して成長し続けていたのである。

 それを証明するかのように、翌年の2007年に「プラネット・アース」を発表した。前作はソウル/ファンク色が強かったが、このアルバムでは幾分ロックの部分が強調されていて、よりパワフルな音楽を聞くことができる。81zbu3v1bl__sl1500_
 1曲目の"Planet Earth"は静かなピアノの調べに乗ってプリンスのボーカルが始まり、徐々にリズムが刻まれていき、3分過ぎからは壮大なアンサンブルにつながっていく。エンディングにプリンスのギター・ソロが爆発しているが、なかなかの力作だと思う。

 次の"Guitar"はタイトル通りの曲で、前作ではあまり目立っていなかったギターが強調されていて、カッコいい。

 このアルバムは全体的に高揚感に満ちていて、聞いていて気持ちがよくなってくる。3曲目のバラード曲"Somewhere Here on Earth"もプリンス流の抒情性がよく表現されていて、思わず聞き惚れてしまった。

 これも何度も言うけれど、プリンスの作るバラード曲はどれも本当に優れていて、素晴らしいと思っている。この曲ではプリンスの弾くピアノとゲスト・ミュージシャンのトランペットがいい味を出している。

 また、"Future Baby Mama"も同様なバラードで、ファルセットで歌うプリンスはまさに性別も年齢も超越した存在のように感じられた。

 ゲストといえば、このアルバムにはシーラ・Eやかつての盟友ウェンディ&リサも参加している。だからというわけではないだろうが、メジャー調の明るい曲が目立っていて、だからアルバム全体を異様な高揚感が包んでいるのだろう。

 "The One U Wanna C"や"All the Midnights in the World"などを通して、音楽をやることの楽しさや喜びが伝わってくるし、シングル・カットされたディスコ調の"Chelsea Rodgers"などはホーン・アレンジが秀逸で、クラブでかかれば朝まで踊れそうな曲だった。

 興味深いのはラストの曲"Resolution"で、“解決”という意味のこの曲は反戦、平和の歌になっていることだ。今までのプリンスの曲の中で、これほどまでシンプルで直接的な平和を希求する曲は、覚えがなかった。

 曲自体もアコースティック・ギターのイントロで始まる超ポップな曲で、あまりひねりがない。その分だけストレートにリスナーに届くのだが、そういう効果を狙っていたのだろう。

 個人的には、久しぶりに明るくて肯定感あふれるアルバムを聞いたような気がした。「ザ・ゴールド・エクスペリエンス」以来の捨て曲なしのアルバムだと思った。
 全10曲45分と時間的に短いのが気に入らないのだが、それを除けば久しぶりに大衆受けしそうなアルバムだったと思う。

 実際、このアルバムはチャートで3位まで上昇して、ゴールド・ディスクを獲得しているし、隣国カナダでは1位を記録している。
 もう少し売れても良かったと思うのだが、CDを買って聞く時代から好きな時に好きな場所でダウンロードして聞く時代になったせいだろう。ゴールドディスクに認定されただけでも大したものだと思う。時代はもう80年代ではないのだから。

 このアルバムを発表した時、プリンスは49歳だった。40歳代の最後をこの絶対的高揚感に溢れたアルバムを発表することで締めくくったのだが、まさかこの9年後にこの世から去っていくとは、本人も思いもつかなかっただろう。Artistprince01
創造性あふれる天才児だったからこそ、神は早く召されたのだろうか。

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2016年8月 1日 (月)

21世紀のプリンス(1)

 最近はプリンスばかり聞いていて、新譜を購入してもほとんど聞く時間がない。自分でも勿体ないとは思うが、とりあえず後回しにしている。
 別にこのブログを書くためでもないのだが、何かと誤解されることの多かったミュージシャンだったから、その誤解を解きたかった。それで「1999」から発表順に聞いていて、やっと21世紀のアルバムに到達した。

 人の偉大さというのは、同時代に生きているものにとっては、理解するのが難しいのかもしれない。自分の仕事や趣味、生き方と全くかけ離れているのなら、ある程度評価できるかもしれないが、自分自身の何かと重なり合うところがあれば、どうしても自分と比べてしまい、真っ当な評価ができなくなってしまう。

 プリンスもデビュー当時は、“黒いミック・ジャガー”、“JB(ジェイムズ・ブラウン)とスライ&ザ・ファミリ・ーストーンのいいとこ取り”などと言われて、正当な評価を与えられていなかった。

 ストーンズのオープニング・アクトで全米を回った際は、観客から物を投げられ、ブーイングを浴び、30分程度で楽屋に引っこんでシクシク泣いていたという。感性豊かな彼のことだから、よほど悲しく、また悔しかったに違いない。

 彼が世界的に正当な評価を得るようになったのは、2枚組アルバム「1999」がヒットした時からだろう。ということは1982年の終わり頃からということになる。親会社のワーナーも、2枚組アルバムの制作の許可をよく出したなあと思っている。
 このアルバムが売れなかったら、間違いなくその後のプリンスなかっただろうし、プリンスも自信があったから、敢えて2枚組にして発表したのだろう。

 それで今回は21世紀に入ってからのプリンスである。彼が2001年に発表したアルバムが「レインボウ・チルドレン」だった。71zxamipotl__sl1395_
 このアルバムは、音楽的にはプリンスが最もジャズに接近した産物と言われているが、個人的にはプリンスの“プログレッシヴ・ロック”アルバムだと思っているし、もう少し正確に言えば“プログレッシヴ・ファンク・ロック”だと思っている。

 また歌詞的には、神や宗教(キリスト教)に対する独自の解釈と概念が散りばめられていて、非常に哲学的・宗教的なものだった。
 それに、このアルバムからは元の名前のプリンスに戻っていて、ある意味、心機一転して音楽活動に専念しようとする彼の姿勢もうかがえた。
 
 この時期、彼が宗教に啓発を受けていたのも、やはり子どもの死や最初の妻との離婚などのプライベートな出来事が重なっていたからだろう。また、2001年9月11日のニューヨークにおける同時多発テロを受けての影響もあったかもしれない。

 だから聞いていくうちに、何となく息苦しくなってしまった。1曲目の"Rainbow Children"は10分3秒もあるし、"Family Name"、"The Everlasting Now"なども8分以上もあった。

 自分がこのアルバムを“プログレッシヴ・ロック”アルバムと思ったのも、曲の長さや曲間がないという理由だけではなく、全体を貫くトーンや雰囲気が、極めてコンセプチャルでソリッドだったからだ。

 だからといって、音楽的に質が劣るかというと決してそんなことはない。そこはプリンス、ファンキーな"The Work pt.1"や、ブラスが炸裂しゴージャス感満載の"Everywhere"、彼のギター・ソロが聞けるインストゥルメンタルの"The Sensual Everafter"など、聞きどころもまた多いのである。

 実は自分は結構このアルバムを気に入っていて、時々引っ張り出しては聞いていたが、やはりそうさせる魅力をこのアルバムは秘めていると思う。特にプログレが好きな人なら、このアルバムから先に聞いた方が、プリンスの才能の豊かさが理解できるだろう。そんな人がいるかどうかはわからないけれども…

 アルバム最後の曲は"Last December"というバラードで、これまた優れた楽曲だった。以前にも書いたが、彼の書くバラードは一級品で、特にスローな出だしから徐々に盛り上がっていく"Purple Rain"のような曲を書かせれば、彼に右に出る人はいなかっただろう。
 この"Last December"もまたそんな感じで、時に中間部の彼のギター・ソロが印象的でもあった。

 この後、彼はインターネットを利用しての音楽活動(アルバム発表)に取り組んでいる。これは90年代の後半から彼が取り組んでいるもので、ひょっとしたら、ネットを利用しての音楽の可能性を、最初に提示してくれたビッグ・ネームのミュージシャンは、プリンスだったかもしれない。
 
 2004年になって、プリンスはグラミー賞でパフォーマンスを行ったり、ロックの殿堂入りを果たしたりして、プリンス再評価の機運が高まっていった。そんな中で発表されたのが28枚目のスタジオ・アルバム「ミュージコロジー」だった。51cahwdyggl

 このアルバムでは、久しぶりにポップでファンキーなプリンスの音楽を味わうことができた。当時は、“原点回帰”などと言われていたが、前作が異色だったためで、プリンス本来の姿が発揮されたという意味として受け取っていいだろう。

 最初の2曲はプリンスらしいファンキーなナンバーで、3曲目の"A Million Days"あたりから王道プリンス節を聞くことができる。
 このアルバムのキラー・チューンは、この"A Million Days"と6曲目の"Cinnamon Girl"だろう。

 前者はミディアム・テンポのポップな曲で、後者はそれに輪をかけてよりポップだった。特にセカンド・ヴァースからのフレーズは口ずさめるほどメロディアスで、一度聞けばすぐに覚えることができた。

 また、"Call My Name"は優れたバラードだし、"On The Couch"は珍しくプリンス流のスロー・ブルーズだった。ファルセットで歌うプリンスは1986年の"Kiss"を髣髴させるものだった。
 ラストの"Reflection"はタイトル通りの内省的で落ち着いた曲調になっていて、プリンスも40代後半になったせいか、年相応に落ち着いた印象を与えてくれた。

 とにかく、このアルバムは売れた。アメリカでは200万枚以上のダブル・プラチナ・アルバムに認定されたし、イギリスやドイツでもチャートの5位以内に入ることができた。

 そして、このアルバムに伴うツアーでは、2004年における全米年間最高観客動員数と最高収益を記録し、翌年の第47回グラミー賞ではベストR&Bボーカル・パフォーマンスとベスト・トラディショナル・R&B・ボーカル・パフォーマンスの2部門を獲得している。

 こうしてプリンスは、21世紀になってから元の名前に戻し、そして再び何回目かの黄金期を迎えていったのである。恐るべし、プリンス。

 今になって思えば、やはり彼は天才だった。日本では80年代のような人気はなかったけれど、その音楽性は常に時代と対峙していて、80年代と同等かそれ以上のものを備えていたのであった。

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2016年7月24日 (日)

90年代のプリンス(2)

 プリンス追悼企画第2弾の今回は、90年代後半の代表的なアルバムを紹介しようと思った。

 前回も書いたように、この時期のプリンスは、所属レコード会社のワーナー・ブラザーズともめていた。畢生の名盤だった「ザ・ゴールド・エクスペリエンス」も確かに売れたが、もっと会社がプッシュしていればさらに売れただろうし、「パープル・レイン」や「アラウンド・ザ・ワールド・イン・ア・ディ」と並び称されるほど評価が上がっただろう。

 それでプリンスは、ワーナーとは縁を切るのだが、契約を果たすために1996年に「カオス・アンド・ディスオーダー」を発表した。契約上仕方なく発表したアルバムのせいか、プリンス自身がアルバムのプロモーションを拒否している。51mvz9sfb4l
 しかも内容も、とりあえず作りました的な印象が強く、11曲収められてはいたが、時間的には39分13秒しかなかった。
 ある意味、プリンス流のハード・ロックみたいで、楽曲を通してワーナーにはこれ以上儲けさせてやらないぞというようなプリンスの怒りや復讐が伝わってきそうだった。

 ただ、個人的には全体を通して疾走感があり、1曲目の"Chaos and Disorder"などはジミ・ヘン張りのギターが超カッコよくて、実は気に入っているアルバムなのであった。
 もし、この中からヒット・シングルが生まれていれば、もっと評価も変わっただろうが、先に述べたように、プリンス自身がプロモーションを拒否していたので、結局、商業的には売れなかったのである。

 そして、ワーナーとの関係が終わったプリンスは、満を持して3枚組のアルバムを「イマンシペイション」をEMI(日本では東芝EMI)から発表した。

 このアルバムもまた、天才プリンスを証明するアルバムになったと思っている。3枚組全36曲、1枚ごとのアルバムがちょうど60分の計180分という緻密な計算のもとに作られたアルバムだった。

 1枚目はモータウンやマイケル・ジャクソン風な曲も収められていて、ポップな傾向が強いものだった。冒頭の"Jam of the Year"などはプリンス流のファンキーなR&Bだし、"Get Yo Groove On"はキャッチーでポップな曲に仕上げられている。
 また、プリンス自身がひょっとしたら今まで書かれた中で一番美しいメロディかもしれないとコメントしている"Betcha By Golly Wow !"は、まるでスタイリスティックスのバラード曲のようだ。

 さらにJB風味の効いた"We Gets Up"もあるし、3枚組ではなくバラ売りした方が、購入しやすいし、そっちの方が売れたと思うのだがどうだろうか。

 2枚目はバラードを重視した作りになっていて、そのせいか恋愛に関する歌が多いようだ。1曲目の"Sex in the Summer"から"One Kiss at a Time"、"Soul Sanctuary"と美しい曲が続く。特に"Soul Sanctuary"と"Curious Child"、"The Holy River"は聞くべき曲だと思っている。

 昔からこの人の書くバラードは定評があって、自分のアルバムの中ではもちろんのこと、他の人にあげた、例えばシンニード・オコナーが歌った"Nothing Compares to U"など、素晴らしいバラードは数えきれないほどだ。

 このアルバムでも、1枚目の"I Can't Make U Love Me"、ピアノの弾き語り"Let's Have a Baby"、自分の結婚式の時に披露した"Friend, Lover, Sister, Mother/Wife"など、惜しげもなく収録されている。7118xxeaiml__sl1000_
 3枚目はファンク色、オルタナティヴの濃い傾向の曲で占められていて、プリンス本来の持ち味、時代を切り裂くような、いい意味での実験性や先端性が発揮されている。"New World"、"The Human Body"などがそれを証明していると思う。

 また珍しいことに、マイケル・ジャクソンもジャクソン5時代にカバーした曲"La,La,La Means I Love You"も収められている。もとはデルフォニックスというボーカル・グループが1968年に発表した曲で、プリンスは割と原曲に忠実に歌っていて、この曲だけディスク3の中では浮いているようだ。

 さらには"My Computer"というタイトルとは不釣り合いのようなミディアム・テンポのメロディアスな曲もあるし、"One of Us"などは、レッチリの曲の雰囲気によく似ている。シングル・カットされてもおかしくない曲だと思う。

 よく考えたら、このアルバムは発表されてもう20年もたつのだが、いまだに色あせていない。今のクラブでかけられてもおかしくないような、EDMのような曲もあるし、ストリングスが使用された曲もある。さすが天才プリンス、時代を超越した音作りは流石というものだ。

 おそらく「カオス・アンド・ディスオーダー」も「イマンシペイション」もほぼ同時期に作られたものだろうが、全く音楽的傾向が違う。特にこの「イマンシペイション」の方は、“解放”というアルバム・タイトルが表しているように、やっと自分の思い通りのアルバムが作れるという安心感がそうさせたのだろう。

 しかもアルバム・ジャケットも手錠が外されたかのように、両拳を天に突き上げていた。よほど嬉しかったのだろう。
 実は、プライベートではこの時プリンスは結婚していたのである。プリンス37歳の時、15歳年下のバック・ボーカル兼ダンサーをしていたマイテ・ガルシアと、1996年のバレンタインデーの日に挙式したのだった。

 ただ、10月に生まれた男の子は、遺伝子による先天的な病気で、約1週間後に亡くなってしまった。
 さらには、たびたび流産してしまい、子どもが作れなかったようだ。結局、彼らは1999年に離婚してしまった。いささかゴシップ的になるけれど、マイテの浮気も一因だったと言われているがどうだろうか。相手はモトリー・クルーのトミー・リーとも噂されていたが、もちろんあくまでも噂である。

 だからかどうか分からないが、次のスタジオ・アルバムまで約3年かかった。プリンスの20世紀最後のアルバムは、1999年に発表された「レイヴ・アン2・ザ・ジョイ・ファンタスティック」だった。4136qsbvm4l
 このアルバムは80年代に回帰したようなサウンドになっていて、曲調も割とポップでラジオ向きでもあった。
 また、チャック・Dやグウェン・ステファニー、シェリル・クロウ、アーニー・ディフランコなどの著名なミュージシャンが参加したことでも有名になった。

 アルバム・チャートでは18位と、以前のプリンスのアルバムに比べれば低調だったが、それでもゴールド・ディスクは獲得している。
 低調だった理由は不明だが、このアルバムのためのツアーを企画しなかったからだと言われている。その代りに、テレビ番組などでは、このアルバムからの曲を披露していたという。

 1曲目の"Rave Un2 The Joy Fantastic"は、1988年時の「ラヴセクシー」の時に作られていた曲を録り直したもの。
 2曲目の"Undisputed"にはチャック・Dのラップがフィーチャーされている。"The Greatest Romance Ever Sold"のボーカルは、すべてプリンスによる多重録音である。いいバラードだが、どこか暗い雰囲気が漂っている。

 3年ぶりのアルバムだったせいか、ラップからポップな曲まで幅広い楽曲で編集されていて、例えば"Tangerine"はアコースティックなバラードで、プリンスにとっては異色な感じがした。

 ただこの曲からはポップでメロディアスな曲が目白押しで、"So Far, So Pleased"はノー・ダウトの女性シンガー、グウェン・ステファニーがデュエットしていて、時間も3分24秒とラジオ向きだった。シングル・カットすれば売れたと思うのだが、なぜかシングル化される前に、キャンセルされたようだ。

 "The Sun, The Moon And The Stars"もストリングス付きの耳に馴染みやすいバラードだし、"Everyday is Winding Road"はこのアルバムにも参加していたシェリル・クロウの持ち歌だった曲。
 "Man'O'War"も美しいバラードで、やはりプリンスの書くバラードは絶妙であるということを再認識させられるような曲だ。こういう曲を聞けば、プリンスの才能が80年代と比べていささかも衰えていないのが分かるだろう。

 シェリル・クロウとの曲"Baby Knows"は、ギターが目立っていて、ファンキーなロックになっているが、一転して"I Love You But I Don't Trust U Anymore"は離婚の痛手を歌っていて、これまた非常に美しくかつ儚いバラードだ。離婚経験がある人なら、涙なくしては聞けないような曲だろう。

 残りの曲"Silly Game"、"Strange But True"、"Wherever U Go, Whatever U Do"もプリンスらしい印象的な曲で、中でも3分少々の"Silly Game"と"Wherever U Go, Whatever U Do"はよく出来ていると思った。
 さすがプリンス、やろうと思えば、たとえ家庭に不幸が起こったとしても、これくらいのアルバムは難なく作れるのである。

 ただ、このアルバムは3年間のリハビリから戻ってきたような感じがしていて、全体的にはポップではあるものの、「ザ・ゴールド・エクスペリエンス」や「イマンシペイション」のような明快さや高揚感は不足していた。だからチャートでは、18位という結果になったのかもしれない。

 プリンスは1982年に「1999」というアルバムを発表していて、世紀末には朝まで踊り明かすんだと歌っていたが、実際の1999年になったら、そういうダンサンブルでファンキーなアルバムを発表するつもりだったのではないだろうか。
 それが予想外の問題が生じて、明るいような暗いようなアルバムになったと勝手に解釈している。

 もし彼の結婚生活が上手くいっていれば、彼の構想通りのアルバムが発表されていたのではないだろうか。そういう意味では、天才児プリンスもとても人間らしいと思えてしまうのである。

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2016年7月17日 (日)

90年代のプリンス(1)

 今年は偉大なミュージシャンが亡くなっていて、ある意味、歴史の転換点のようにも感じている。そしてその中でも、いまだにデヴィッド・ボウイとプリンスの死については信じられないというか、なかなか気持ちの整理ができないでいる。

 それで90年代以降のプリンスのアルバムを聞いていたのだが、その中で1995年のアルバム「ゴールド・エクスペリエンス」の素晴らしさに改めて気がついてしまった。
 このアルバムは、プリンスにとっては17枚目のスタジオ・アルバムで、全米アルバム・チャートでは6位まで上昇し、ゴールド・ディスクを獲得している。51fcxjk28l
 久しぶりにこのアルバムを聞いたのだが、あらためてその素晴らしさを理解した次第である。というか、日本では(日本だけではないと思うけれど)、あまりにもこのアルバムに対する評価が低すぎるのではないだろうか。

 とにかく何かに吹っ切れたかのようにポップなのだ。もちろんそれだけではなく、20年以上前のアルバムなのに今聞いても全く遜色がないほど、猥雑で先進的で革新的でもある。

 何しろ冒頭の曲のタイトルが"Pussy Control"なのだ。PTAが聞いたら卒倒ものではないかと思うのだが、プリンスは自信を持ってラップしている。
 さらに"Endorphinmachine"では、タイトル通りの非常に高揚した明瞭なギター・サウンドを聞かせてくれる。ここまで肯定的なサウンドをプリンスが選んだという点が素晴らしいと思う。

 しかも、このアルバムはトータル・アルバムのようになっていて、ポップでキャッチーな曲の間に"NPG Operator"による短い語りが挿入されていて、それが一種のメッセージにもなっている。
 この語りは英語やスペイン語で話されていて、“Dawn”という場所(状態)に案内し、そこでのGoldなExperienceを味わってもらうように、リスナーを誘導しているのである。

 当時のプリンスは、というか生涯を通じて、アイデアにあふれていて、それを実現させることのできるミュージシャンだったから、このアルバムもこういう構成にして、しかも曲単体でみても、昔のアルバム「パープル・レイン」のように、どこを切ってもメロディアスで印象的なアルバム制作を行った。

 実際に、"Endorphinmachine"だけでなく、まさにポップ・ミュージックの王道のような"The Most Beautiful Girl in the World"や、プリンス殿下、一体どうしたのと問うくらい弾けたメロディーの"Dolphin"、ファンキーなリズムがカッコいい"Now"など、名曲のオンパレードなのである。

 ちなみに、"The Most Beautiful Girl in the World"は全米シングル・チャートで3位、全英では1位に輝いている。この曲は1位を独走してもおかしくないだろう。それほど仕上がりが素晴らしいのだ。

 また、レニー・クラヴィッツが参加した"Billy Jack Bitch"などは、R&Bとロックが見事に融合した佳曲で、リズムはR&B、ギター・ソロはハード・ロック、途中のキーボードがプリンス色溢れるミネアポリス・サウンドというものだった。後半のトロンボーンやサックス、トランペットも効果的である。

 そして、アルバムは美しいバラードの"I Hate U"を迎え、オペレイターの声を挟んだ後、"Gold"で閉めることになるのだが、この2曲もまた素晴らしい。
 前者は、シングル・チャートの12位まで上昇したバラードで、後半部分での短いながらもプリンスによるギター・ソロが非常にエモーショナルで、感動的だった。

 後者の"Gold"もこのアルバムの特長の高揚感や肯定感をよく表していて、この時期のプリンスの精神的な充実ぶりを反映しているかのようだ。アメリカではあまりヒットしなかったが、イギリスでは最高位10位にランクされている。どうもイギリス人は、アメリカ人よりも正確にプリンスを評価している気がしてならない。

 この当時のプリンスは、ワーナー・ブラザーズとうまくいっていなかった。ワーナー側はプリンスを“昔の人”、“時代遅れのヒット・メイカー”としてしか認識していなくて、それなりの待遇しか与えなかったようだ。

 だからこの前後では十分なプロモーションも行われず、プリンスもワーナー側に対して不信感を募らせていった。だから顔に"Slave"(奴隷)と書いてパフォーマンスを行ったり、プリンスという名前を使わずに、"The Artist Formerly Known As Prince"(以前はプリンスとして知られていたアーティスト)とアルバムに記載していたのである。Gty_prince_cf_160421_12x5_1600

 だから、もし80年代のようにレコード会社によるプロモーションがきちんと行われていたなら、このアルバムはもっと売れただろうし、もっと評判が上がったはずだ。ゴールド・ディスクでは終わらずに、ダブル・プラチナ・ディスクくらいはなっていただろう。それがとても悲しいのである。

 それにこの頃のプリンスも非常に活動的で、多作だった。このアルバムは1995年に発表されたものの、実はその前年には完成していて、「ブラック・アルバム」と同時並行して制作されていた。というか、できた曲をアルバムのイメージ合わせて振り分けていたようで、とにかくこの頃のプリンスは、何度目かの有り余る才能の絶頂期を迎えていたのである。

 また、1996年にはワーナー最後の作品となった「カオス・アンド・ディスオーダー」と3枚組の超大作「イマンシエイション」が発表されてもいた。だからプリンスは決して人気が下がったり、才能が枯渇していったわけではなく、80年代と変わらず、いやそれ以上にアグレッシヴに音楽活動に取り組んでいたのだ。

 プリンスについては、かつては“色モノ”という好奇な目で見られていたが、亡くなった時は某国公共放送でも追悼番組が企画されるほど、正当な評価も出されるようになった。
 しかし、それでも自分はまだまだ十分ではないと感じている。世間は亡くなった今となって、やっとその存在の大きさに気がついたのではないだろうか。

 このアルバムを聞きながら、自分はあらためてプリンスの偉大さを噛みしめているであった。

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2016年5月29日 (日)

ネヴィル・ブラザーズ

 動物行動学者の竹内久美子さんの話によると、先進国よりも発展途上国や紛争地域の方が子だくさんの家庭が多いということだ。
 つまりそういう地域では、飢饉や戦争、政情不安による治安の悪さ等で、いつ自分の家系(遺伝子)が絶えてしまうかわからないからで、だから子どもをたくさん作って、遺伝子の生き残る可能性を高めているそうだ。

 もちろん、これは無意識のうちに行われ、本能(遺伝子)のなせる業らしいのだが、日本でも同じような傾向が見られると思う。
 今でこそ少子高齢化などと言われているが、昭和の時代では普通に子だくさんの家庭があって、特に医療の発達していない田舎に行くほど、子どもがたくさんいたような気がする。

 それで今回も「家族で行う音楽ビジネス」“ソウル・ミュージック編”を行うのだが、やはりアフリカ系アメリカ人は、アングロ・サクソン系アメリカ人に比べて抑圧されてきた歴史があるせいか、1930年代や40年代では、子だくさんの家庭が多かったのではないだろうか。個人的な偏見かもしれないけれど…

 本題に入って、前回はアイズレー・ブラザーズだったので、今回も同じ“ブラザーズ”つながりで、ネヴィル・ブラザーズについて簡単に記したいと思う。ちなみにアイズレーの方は5人+1人だったけど、ネヴィル・ブラザーズの方は、4人兄弟である。Nevillebrothers

 彼らは、アメリカのルイジアナ州ニューオーリンズ出身だ。自分はまさに“ブラック・ミュージック”の聖地と思っていたのだが、実際は、一時、フランス領だったせいか、ヨーロッパ文化の影響もあって、ブラック・ミュージック一辺倒ではないらしい。だから、様々な音楽的要素がミックスされた国際色豊かな音楽性が見られるのだろう。

 彼らはそういう音楽的な環境から影響も受けたのだろうが、もちろんそれぞれが才能豊かなミュージシャンでもある。長兄のアートは18歳の頃からレコーディングやライヴ演奏を行っていたし、次男のアーロンも19歳の時には全米R&Bチャートに自作曲を送り込んでいる。

 三男チャールズはサックス・プレイヤーで、地元のクラブで演奏したり、ニューヨークでジョーイ・ディー&ザ・スターライツなどと共演をしている。

 その後、チャールズは、アート、アーロン、末弟シリルとともに、ネヴィル・サウンズというバンドを60年代半ばに結成するが、アーロンが1967年に"Tell It Like It Is"というシングルをヒットさせたためにソロ活動で忙しくなり、このバンドは1968年に解散してしまった。
 ちなみに"Tell It Like It Is"は、R&Bチャートでは5週間首位をキープしているし、全米シングル・チャートでは2位まで上昇している。

 一方で長兄アートは、ネヴィル・サウンズのリズム・セクションとともにミーターズを結成して、同郷のアラン・トゥーサンとともにレコーディングやライヴ活動を行うようになった。その時に、Dr.ジョンやロバート・パーマーのバック・バンドとしても活動していたようだ。

 1975年にはシリルも加わって、ローリング・ストーンズの全米ツアーのオープニング・アクトを務めているし、翌年にはアーロンとチャールズも加入した。ここからミーターズをネヴィル・ブラザーズと名前を変えて活動を開始するようになったのである。

 ミーターズ名義では4枚の全米ヒット・アルバムを出していたが、1978年に発表したアルバム「ザ・ネヴィル・ブラザーズ」は、それらに比べれば評価も低く、商業的な成果には結びつかなかった。
 その後、ベット・ミドラーが彼らをA&Mレコードに推薦してバックアップを行ったが、これも成功に結びつくことはなかった。

 彼らが有名になったのは、1989年にアーロンとリンダ・ロンシュタットのデュエット曲"Don't Know Much"が全米2位の大ヒットになったことが切っ掛けになり、同年発表された「イエロー・ムーン」の大成功に結びついたときからだった。71xxislrcyl__sl1057_
 個人的には、"Don't Know Much"の大成功がなくてもこのアルバムは売れたと思うのだが、確かにタイミングが良かったのは間違いないだろう。運を味方につけるとは、こういうことを言うのだろうか。

 とにかく、このアルバムは名盤である。サム・クックやボブ・ディランのカバーを含む楽曲自体もよいが、アメリカの公民権運動がテーマになっているせいか、まるでトータル・アルバムのような気がしてならない。また、ブライアン・イーノのゲスト参加やダニエル・ラノアのプロデュースも、このアルバムの評価を高める結果につながったようだ。

 以前にもこのブログで紹介したが、このアルバムは全米アルバム・チャートで半年間以上もランクインしていて、彼らの代表作でもある。

 また、1996年に発表された彼らのベスト・アルバム「ネヴィル・ブラザーズ:ザ・ベスト」には、このアルバムから15曲中5曲、3分の一収められていて、やはり彼らにとってもこのアルバムは、マイルストーン的なものということがわかるだろう。41tbzaed1l

 90年代に入っても、彼らはほぼ2~3年おきにコンスタントにアルバムを発表している。自分はその中でも1992年に発表された「ファミリー・グルーヴ」が気に入っていて、スティーヴ・ミラー・バンドの"Fly Like An Eagle"のファンク的解釈や都会的でお洒落な"One More Day"など、聞きやすくてノリのよい曲が多い。ラップの部分はアーロンの息子ジェイソン・ネヴィルが担当しているようだ。

 また、アーロンのシルキー・ヴォイスが強調されている"I Can See It in Your Eyes"やヴゥードー教のような呪術的雰囲気が味わえる"It Takes More"、気分はまるでジェイムス・ブラウンになれる"Family Groove"など聞きどころ満載だと思っている。

 それでも彼らの現実を見る視点は相変わらず厳しく、"On the Other Side Of Paradise"では、南国風のカリプソのリズムに乗ってストリートの現実から逃れようとする人を表現しているし、"Let My People Go"では、麻薬に染まる子どもたちや争い合う大人たちを前にして、個人の尊厳や自由を訴えている。この辺はアフリカ系アメリカ人しか持ちえない視点ではないだろうか。61cv0ucq5l

 とにかく彼らの音楽はバランスが良い。100%ブラックにはならず、アーロンの声質を活かしたバラードもあるし、単純なラヴ・ソングもあれば、社会問題をテーマにして歌っているものもある。

 これらのバランスの良さは、取りも直さず4人の兄弟の関係性から来ているような気がしてならない。兄弟でしか出せない雰囲気や味わいというものが、アルバムの音楽性に表出していると思っている。Nevillebrothers2004047f17bc08a42485
 21世紀になってからは、長兄アートの体調が思わしくなくて、アルバムも1枚しか発表していない。思えば彼も78歳なので、体力的に厳しいのかもしれない。

 逆に、アーロンの方は75歳になるにもかかわらず、益々元気なようで、1991年のアルバム「ウォーム・ユア・ハート」から2013年の「マイ・トゥルー・ストーリー」まで、合計13枚のソロ・アルバムを出している。最近はオリジナル曲よりもカバー曲中心の内容になっていて、彼の声の美しさが強調できるような編集内容になっている。

 “血は水より濃い”という言葉があるが、やはり他人同士で作る音楽よりも何かが違うのだろう。“以心伝心”ではないけれど、言葉を交わさずとも、お互いに気持ちは理解できるのではないだろうか。

 逆に、一転してお互いに憎しみ合うことになれば、“骨肉相食む”という言葉があるが、それこそ他人以上に深く傷つけていくのだろう。たぶんネヴィル・ブラザーズには、そんなことは訪れないだろうけれど。

 ところで彼らも功成り名を遂げたので、自分たちの遺伝子をたくさん残さなくていいだろう。最近のアメリカでは、アフリカ系アメリカ人やアングロ・サクソン系アメリカ人については核家族化が進み、逆に、エスニック系の移民については今も多産家族が多いような気がするのだが、気のせいだろうか。

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2016年5月22日 (日)

アイズレー・ブラザーズ

 家族で営む音楽産業シリーズの“ソウル・ミュージック編”第2弾である。今回は、アイズレー・ブラザーズのことについて書こうと思う。

 自分は、アイズレー・ブラザーズといえば、かの有名なジミ・ヘンドリックスが所属していたバンドとしてしか認識していなかった。

 ジミがアイズレー・ブラザーズに所属していた期間は短くて、実際は1964年の2月から10月頃までだった。シングル・レコードの録音に参加したり、ライヴでも活動したのだが、毎晩同じ内容の演奏をするのに耐えかねて、脱退してしまった。
 確かに、ジミヘンのような才能にあふれたミュージシャンにとっては、他人のバック・バンドで満足できるような気持にはなれなかっただろう。

 それでちょっとだけ真面目にアイズレー・ブラザーズについて、勉強しようと思って、アルバムを購入した。それが「グレイテスト・ヒッツ」だった。71mkblrgiyl__sl1500_
 このアルバムは、彼らがエピック・レコードに移籍した1973年以降のベスト曲集ということになる。しかも「ヴォリューム1」ということだから、極めて限定的な選曲内容だった。

 だからこれ1枚で彼らの全貌を知ることは、どだい無理な話だ。もともと彼らは1950年代から活動していた兄弟バンドだった。

 1957年にオハイオ州シンシナティーで結成され、最初は、オーケリー、ルドルフ、ロナルドの3兄弟でスタートした。
 1959年には"Shout"という曲で全米47位にチャート・インし、1962年にはビートルズもカバーした"Twist & Shout"のヒットで世界的にも有名になった。当時この曲は、全米で17位まで上昇している。B0301101_23461846

 ちなみに、この曲は彼らのオリジナルではなく、バート・バーンズとフィル・メドレーという人が作っている。1961年にはフィル・スペクターの手で、トップ・ノーツというグループがリリースしていて、アイズレー・ブラザーズは彼らの曲をカバーしたことになる。

 1969年には"It's Your Thing"という曲で、グラミー賞のR&Bグループ賞を受賞すると、70年代以降は、ソウル・ミュージックの分野に留まらず、ロックやファンク、ディスコにゴスペル等を融合して、幅広い活動を行うようになった。この辺は、80年代のプリンスによく似ていているような気がしてならない。

 アイズレー・ブラザーズは、1973年にアルバム「3+3」を発表した。タイトルを見ればわかるように、オリジナルの3人にアーニー・アイズレー、マーヴィン・アイズレーの兄弟と従兄弟のクリス・ジャスパーの3人が加入して、彼らの黄金時代が訪れたようである。Img_1

 基本的に彼らは、自分たちで曲を書き、歌詞をつけ、アレンジをして、プロデュースまで行う。そして1964年には自分たちのレーベル会社T-NECKを設立して、68年以降はそこからアルバムを出すなど、すべてを自分たちの手でコントロールするようになった。ある意味、音楽に関しては、彼らは完璧主義者だった。

 ところが、そんな完璧主義者にも、いや完璧主義者だったからこそ、バンドの方向性に迷いが生じてしまったようだ。
 1984年になると、後でバンドに加入したアーニー、マーヴィン、クリスの3人が“アイズレー・ジャスパー・アイズレー”というグループを作り、アルバムまで出してしまったのである。

 翌年には、アイズレー・ブラザーズは、“アイズレー・ジャスパー・アイズレー”が「キャラバン・オブ・ラヴ」を、残りのオーケリー、ルドルフ、ロナルド3兄弟が「マスターピース」を発表して、ついにバンドは分裂してしまった。

 その後、バック・ボーカルだったオーケリーが1986年に48歳の若さで病死すると、1989年にはルドルフが聖職につくために、バンドを脱退してしまった。(2004年に再結成のため一時復帰する)

 アイズレー・ブラザーズは、ロナルドのソロ・プロジェクト化してしまうのだが、幸いにも1991年にアーニーとマーヴィンが復帰して、何とか元のアイズレー・ブラザーズに戻っている。しかし、“禍福はあざなえる縄の如し”の言葉通り、今度はマーヴィンが糖尿病になり、壊死した足を切断してしまい活動を続けられなくなったのである。マーヴィンは、結局、2010年に糖尿病が原因で、56歳の若さで亡くなっている。

 そんなこんなで、今ではギター担当のアーニーとロナルドの2人で活動を続けている。ロナルドは、脱税で3年少々刑務所に収監されたが、2010年に出所している。
 ちなみに従兄弟のジャスパーの方はというと、ソロ活動を続けていて、2014年にはアルバムも発表している。

 「グレイテスト・ヒッツVol.1」に収められていた"Soul Lady"や"Live It Up"のギター・ソロは、アーニーが弾いているのだが、何となくジミ・ヘンドリックスの影響が感じられてならない。71xbne5ykrl__sl1050_
 彼らは、「ザ・ヒート・イズ・オン」というアルバムで1975年に全米No.1を獲得しているが、そのアルバムの中からバラードの"For The Love Of You(Part1&2)"と、ビートの効いたファンキーな"Fight The Power(Part1&2)"もこの「グレイテスト・ヒットVol.1」に収められている。

 日本では、アイズレー・ブラザーズよりもE,W&Fやプリンスの方が人気も知名度も高いのだが、E,W&Fやプリンスが登場する下地を築いたのは、取りも直さずアイズレー・ブラザーズのおかげだろうと思っている。

 しかも彼らは全米No.1のシングルやアルバム、グラミー賞までも獲得していて、実力も実績も備えた兄弟バンドだったのである。

 あらためて彼らの凄さや素晴らしさを、思い知らされた気がした。彼らは1950年代から2000年代までの6つの西暦10年代(decade)連続で、アメリカのビルボード・シングル・チャートHOT100にチャート・インした史上初のバンドに認定されているそうだ。彼らは、21世紀にいたる現在まで活動を続けている偉大なソウル/ファンク・バンドなのだった。

 アイズレー・ブラザーズは、単にジミ・ヘンドリックスが若いころに所属したバンドというわけではなかった。やはり、50年代から現在までサヴァイヴァルしてきた理由が存在しているわけで、それはスティーヴィー・ワンダーやその他のソウル・ミュージシャンの実績に優るとも劣らないのだ。今回はそれを知らなかった自分の不明さを、嘆くしかないのである。

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2016年5月15日 (日)

ジャクソン5

 今月は、ファミリーに着目して、話題を選んでみた。ファミリーというからには、親子や兄弟など、血縁関係で成り立っているグループのことだ。前々回のアンディ・ギブも兄弟グループのビー・ジーズとつながりがあった。

 それで今回は、アフリカ系アメリカ人グループのジャクソン5の登場である。あのマイケル・ジャクソンも子どもの頃に所属していたファミリー・グループだった。

 1960年代のアメリカのチャートでは、ビートルズやストーンズなどの外国のバンドの曲とアメリカ国内のバンドやミュージシャンの曲で占められていた。そのうち国内のヒット曲は、主にアングロ・サクソン系のポップ/ロックとアフリカ系アメリカ人による音楽とに分かれていて、後者は主にモータウンというレコード会社から発表されていた。

 60年代のモータウン・レコードには、スモーキー・ロビンソンやマーヴィン・ゲイ、ダイアナ・ロス&シュープリームスなどのドル箱スターがいて、次々とヒット曲を出していた。

 そして70年代の幕開けは、彼らに代って5人の兄弟によって行われたのである。ジャクソン5は、インディアナ州のゲイリーという場所で結成された。父親のジョー・ジャクソンは、プロのミュージシャンを夢見て、兄弟2人と“ファルコンズ”というR&Bバンドを組んで活動していたこともあった。

 彼と妻のキャサリンの間には9人の子どもがいて、次男のティト(トリアーノ)の提案で、家族でグループを作ろうということになった。彼はギターが得意だったようだ。
 最初は3人の兄弟、シグムンド(ジャッキー)、ジャーメイン、ティトでトリオを組んで始められ、その後、マーロンとマイケルが参加して5人組になった。ちなみに末っ子のランディはのちにジャーメインに代ってジャクソン5に加入している。32_jacksonfive
 話は少し脱線するけれども、残りの3人の子どものモーリーン、ラトーヤ、ジャネットの女の子もソロ・デビューしているので、結局、ジャクソン家の9人の子ども全員が音楽ビジネスに携わったことになる。

 彼らが初めて人前でライヴを行った時のギャラは、わずか8ドルだった。その時のマイケルは5歳だったが、ステージ上には客からの投げ銭が投じられ、合計100ドル以上にもなったという。

 やがて彼らは父親のフォルクスワーゲンに乗って、近くの町でライヴを行うようになった。当時はビジネス上の契約も緩やかだったようで、有名なミュージシャンが地方に来たときには、お願いして許可を受ければ、その前座としてステージに立てることができた。
 だからジャクソン5もテンプテーションズやミラクルズ、グラディス・ナイト&ザ・ピップスのオープニング・アクトを務めている。

 彼らのデビュー・シングルは、1969年に発表された"I Want You Back"で、翌年の1月31日にNo.1になった。Japan180
 もともとこの曲のタイトルは"I Wanna Be Free"というもので、ダイアナ・ロスに歌ってもらおうとしたのだが、モータウンの創業者、ベリー・ゴーディ・Jrが契約したばかりの子ども5人組に歌わせようと決めた。こうしてジャクソン5がメジャーになっていったのである。

 彼らの次のヒット曲"ABC"は、1970年の3月に2週間だけ全米No.1になった。ただ、この曲の前のNo.1の曲は、ビートルズの"Let It Be"だった。
 また、3文字から成るタイトル曲というのは、全米No.1の中でも最も短い曲名として認定されている。他にはマイケル・ジャクソンの"Ben" 、エドウィン・スターの"War"、フランキー・アヴァロンの"Why"などがあるようだ。

 彼らの中で、やはりマイケル・ジャクソンは飛び抜けていたようで、メイン・ボーカリストとしての表現力や変声期前の歌唱力など、やはり天才としての片鱗をのぞかせてくれている。個人的にはマイケル・ジャクソンはあまり好きではないのだけれど、ジャクソン5の曲を聞けば、誰でも彼の才能は間違いなく本物であることに気がつくだろう。

 その後彼らは、1970年の6月に"The Love You Save"を、同年10月には"I'll Be There"をそれぞれシングル・チャートのNo.1に押し上げている。
 デビュー・シングルから4曲続けてNo.1ヒット曲を出したのは、今のところこのジャクソン5だけのようだ。

 "I'll Be There"はバラード曲で、当初、モータウン・レコードの重役たちは、彼らにバラードを歌わせるのに反対していた。プロデューサーのハル・デイヴィスは、インストゥルメンタルだけのものをベリー・ゴーディ・Jrに聴かせたところ、すぐに気に入った彼は、その場で歌詞を書き上げたという。Jpic20140320175057

 結果的に"I'll Be There"は、5週間No.1を続け、ジャクソン5のみならず、モータウン・レコードとしても最も売れたシングルになったのである。

 その後は、ロック激動期の時代になり、また、マイケルも変声期を迎えて声質も変わっていった(高音の伸びはあまり変わらないが、その美しさはやはりジャクソン5時代にはかなわないようだ)。

 1975年には、彼らはモータウンからエピック・レコードに移籍したが、ベリー・ゴーディ・Jrの孫娘と結婚したジャーメイン・ジャクソンだけが1984年までモータウンに留まっている。

 彼らのベスト盤には上記の曲以外にも、全米No.2を記録した"Mama's Pearl"や、スモーキー・ロビンソンのペンによる曲で、とても小学生の子どもが歌っているとは思えないほど情感豊かなバラード曲"Who's Lovin' You"、ノリのよい"Goin' Back to Indiana"など聞きどころは多い。一度は耳を傾けても損はないと思う。41d9pf1ya9l
 いずれにしても、ボーイズ・グループの元祖ともいうべき5人組だった。またこの中から“キング・オブ・ポップ”といわれた天才ボーカリストが生まれたことも特筆すべきだろう。

 マイケル・ジャクソンの人生やジャクソン家のスキャンダルなど、音楽と関係ないところで話題になることもあるのだが、やはりここは天真爛漫なマイケルの歌声や、彼らの音楽を純粋に味わってみてはいかがだろうか。

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