2018年7月16日 (月)

キャスト

 イギリスにキャストというバンドがいた。自分はマイナーなバンドだと思っていたのだが、実はどうしてどうして、かなり有名なバンドのようなのだ。てっきり1枚か2枚ぐらいしかアルバムを発表していないだろうと思っていたのだが、実際は、6枚もスタジオ・アルバムを発表していた。勉強不足で申し訳ないと思っている。

 自分はそのうちの「マジック・アワー」を聞いたことがある。彼らにとっては3枚目のスタジオ・アルバムにあたり、1999年に発表された。全英アルバム・チャートでは6位まで上昇している。41862gx069l
 なぜ、このアルバムを持っているのかよくわからないのだが、おそらく雑誌か何かで知って、良さそうだったので購入したのだろう。そして1枚しか持っていないということは、次のアルバムを聞いてみようという気持ちになれなかったのだろう。

 このアルバムからは2枚のシングルが発表されていて、そのうちの1枚がアルバム冒頭に置かれていた"Beat Mama"だった。メジャー調の明るい曲でテンポもよく、思わずスキップをしたくなる曲だった。ここではアルバム・ヴァージョンと記載されていて、シングルとは少し趣が違うようだ。全英シングル・チャートでは9位まで上がっていたから、そこそこヒットしたのだろう。

 続く"Compared to You"も似たような感じの曲で、ボーカルのジョン・パワーの声がファルセットになったりならなかったりと、結構メロディーの浮き沈みが激しい曲だ。
 3曲目の"She Falls"はギター・のアルペジオで始まるややスローな曲で、ここでいったん落ち着かせて曲を聞かせようと意図しているのだろう。

 "Dreamer"は冒頭の"Beat Mama"のようにアップテンポの曲で、バックのリズミカルなキーボードと轟音ギターがうるさいくらい耳に残る。キャスト流ハード・ロックだろうか。
 そして2曲目のシングル・カットとなった曲が"Magic Hour"で、まるでウォール・オブ・サウンドのようにストリングスが全体を包んでいて、甘くコーティングされたチョコレートのようだった。

 確かにこの曲はメロディアスでドリーミングな曲調だった。タイトル通りの“魔法の時間”を味わえるかのようだ。作曲者のジョン・パワーの趣味なのだろう。ただし、チャート的には28位どまりだったので、イギリス人にはこういう曲は不向きなのだろうか。

 "Company Man"もギターのカッティングが強調されていて、どちらかというと激しい曲調だった。あえて言えば、初期のオアシスやステレオフォニックスのようだ。そういえば、ジョン・パワーはザ・フーをフェイヴァリット・バンドに挙げていたので、ザ・フーのハードな面を受け継いでいるのかもしれない。Johnpower845x564
 7曲目の"Alien"という曲にも全面的にストリングスが使用されていて、バラード風味になっていた。4曲に1曲はストリングスが使用されているようだ。ただ、エレクトリック・ギターも最初と最後には目立っているから、ロック・バラードだろう。

 スローな曲の次は、ハードな曲が置かれるのが定番だろう。だから次の"Higher"はややハードな展開になっている。ただ、他のハードな曲との違いがあまり見られず、どれも似たように聞こえてくる。
 バラード曲の方は出来がいいので、こういうハードな曲を整理すれば、このアルバムはもっと引き締まったのではないだろうか。何となくもったいないような気がした。

 そんな声が聞こえたわけでもないだろうが、"Chasing the Day"はエレクトリック・ギターの弾き語りのようなミディアム・テンポの曲で、ギミックも少なく、聞いていてホッとしてきた。このアルバムの中の清涼剤のようだった。
 別にクレーマーではないのだが、こういう曲をアコースティック・ギターでやるともっと素朴な感じが出たのではないかと思ったりもした。中間部のソロだけエレクトリックでやって、後はアコースティックなら、メリハリがついて印象度も違ってきただろう。

 "The Feeling Remains"もギンギンのエレクトリックな曲だったから、次の曲はスローな曲だろうとアタリをつけたのだが、タイトルが"Burn the Light"というタイトルだったから、たぶんハードな曲だろうと思った。実際は、ハードな曲の中にストリングス・キーボードも使用されていた。ちょっとしたアクセントのつもりだったのだろうか。

 オリジナル・アルバムでは最後の曲になった"Hideaway"には壮大なストリングスが部分的に使用されていて、確かにアルバムの最後にはふさわしいような曲だった。だけど無理にエンディングを引っ張りすぎていて、くどい。6分42秒もいらないだろう。
 エレクトリックな曲はそれはそれでいいのだけれども、印象に残るサビやメロディが少ないのである。

 日本盤には2曲のボーナス・トラックがついていて、"Get on You"はポップ感に溢れた佳曲で、何となくチープ・トリックの曲のようだった。
 もう1曲の"All Bright"も軽めのポップ・ソングで、そんなにアレンジも凝っていなくて聞きやすい。こういう曲をもっと増やせば、このアルバムはもっと売れたのではないだろうか。

 なぜ自分がこのバンドの次のアルバムに興味を失ったかというと、やはりアレンジが凝り過ぎていたからだろう。もっと原曲の良さを生かしたアレンジに抑えていれば、もっと売れたと思うのである。
 だから似たようなアレンジになると、どれも同じように聞こえてきてしまい、全体が一本調子になってしまったのではないだろうか。結局、ハードなギターと分厚いストリングスしか耳に残らないのである。

 どうでもいいことだが、国内盤には最後にヒドゥン・トラックがあって、"All Bright"から約13分後に映画のサウンドトラックのようなストリングスだけのインストゥルメンタル曲が準備されていた。決して悪くない曲だと思うのだが、13分も無音が続くのだから、ほとんどの人は気づかないか、気づいても飛ばしてしまうのではないだろうか。ちなみにタイトルは"Solo Strings"というらしい。

 キャストは、1992年にザ・ラーズというバンドを脱退したベーシストのジョン・パワーという人によって結成されたバンドだった。
 彼は新しいバンドではおもにギターとボーカルに専念し、ほとんどすべての曲を手掛けてきた。

 バンド・メンバーは、主にリバプール出身で、ジョン自身もそうであった。最初は売れずに、オアシスやエルヴィス・コステロのオープニング・アクトを務めてきたが、1995年にはポリドールと契約して、シングルを発表することができた。

 時はあたかもブリット・ポップの真っ盛りで、彼らもその流行に乗ったかのように見られていた。だからデビュー・アルバム「オール・チェンジ」は全英アルバム・チャートの7位を、2年後の1997年のセカンド・アルバム「マザー・ネイチャー・コールズ」は3位まで上昇した。

 このサード・アルバムの「マジック・アワー」を発表したときには、ブリット・ポップの波はもう過ぎ去っていて、だからというわけでもないだろうが、このアルバムが彼らにとって最後のヒット・アルバムになってしまった。

 彼らはこのあともう1枚アルバムを発表したが、売れなかった。レゲエやブラック・ミュージック寄りのアルバムだったからだと言われている。
 それで2001年には一度解散したが、2010年には再結成して、活動を再開し、2012年と2017年にはそれぞれスタジオ・アルバムを発表している。Localheroescasttoplayatliverpoolsou
 キャスト自身は、むしろアルバムも売れていて知名度もあるバンドだったが、自分には1枚のアルバムを通してしか、お付き合いのないバンドだった。彼らのファンには申し訳ないが、残念ながら、それほど食指が動かなかったのである。

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2018年7月 2日 (月)

オクトパス

 西洋では、タコは悪魔の魚とか、漁船や人間を海に引きずり込む海の怪物みたいな扱いをされていて、決して食用にはされない。正確に言うと、イタリアやギリシャなどでは食べられているものの、もっと北の方では網にかかっても捨てられてしまうようだ。

 これは、タコが自分の足を食べるという話から、キリスト教では守銭奴のシンボルとして扱われていたり、毒素や催淫作用が含まれているといった俗信によるものらしいのだが、タコにとってはとんだ迷惑な話である。
 実際には、タコにはタウリンがたっぷりと含まれていて、疲労回復や中性脂肪の減少に効果があると、医学的に裏付けられているからだ。

 だから、西洋の人にとっては、タコの英語名であるオクトパスには、あまりいい印象を持っていないのではないだろうか。918
 1995年に、イギリスでオクトパスというバンドが結成され、翌年にアルバムを発表したものの大した結果を残すこともなく解散してしまったが、その原因もバンド名が悪かったのではないかと思っている。「オクトパス」ではなくて、「オクトーバー」とか「オクタビアヌス」、もしくは似たような生き物である「スクゥイッド」か「キャトルフィッシュ」にすれば、もっと売れたのではないかと思ったりもした。

 冗談はこれくらいにして、この「オクトパス」というバンドの唯一のアルバム「フロム aトゥ b」は、結構イケてるアルバムだと思っていたから、このバンドは売れるに違いないと思っていた。ところが、結果は散々でさっぱり売れなかった。なぜだろうか、よくわからない。

 このバンドは、基本的には4人組だった。基本的というのは、当初は4人だったようだが、アルバム制作にはトランペットやハーモニカ、キーボード奏者などが加わっていて、最大8人くらいまでにはなっていた。だから、アルバム・ジャケットの写真には、いろんな人が写っていた。

 彼らはイギリスのグラスゴー近くのランカシャー、ショッツという街で結成された。最初はみんな学校の友だち同士だった。のちにフランス人のドラマー、オリヴァー・グラセットという人が加入するのだが、この人は元テロリストだったという噂があった。

 また、ハーモニカ奏者のニック・レイノルズという人は、有名な列車強盗だったブルース・レイノルズの息子という話もあった。ちなみにブルースの列車強盗事件については、のちに映画になり、フィル・コリンズがその役を演じていた。

 そんなどうでもいいエピソードも伴いながら、彼らはバンドを結成して、当時のブラーも契約していたフーズ・レコードからデビューした。
 彼らのデビューには、ブラーのデーモン・アルバーンの後ろ盾もあったようで、彼らは間違いなくビッグになるとまで言って、応援していたようだ。

 彼らの音楽性は、一言で言うと、サイケデリック・ポップ・ミュージックである。ちょうど60年代後半のイギリスの音楽シーンに出てくるジュライやスティーヴ・ハウも在籍していたトゥモロウのような感じだ。それらの音楽をもっとポップ化したらこう成りましたよという感じの曲が目立つのである。

 メンバーの一人、ギター&ボーカルのマーク・シェアラーは、次のように述べていた。『オクトパスは取っ散らかったバンドなんだ。僕たちは世界一のバンドになろうとは思わないし、なれないのはわかっている。最も重要なのは、いい曲があるかってことなんだ』、『僕たちは、曲を狭いところに押し込めておこうとはしないつもりだ。一つの形のサウンドしか持っていないバンドが多すぎるし、彼らはそれしかできない。そういうのは好きじゃないし、うんざりしているんだよ』

 なんかえらい鼻高々というか、高慢な気がするが、実際に彼らの曲を聞くと、確かに新人バンドとしては、出来過ぎのようなポップ・アルバムに仕上げられていた。彼らも自信を持って発表したのだろう。

 1996年に発表されたアルバム「フロム a トゥ b」には、15曲(日本盤には17曲)収められていて、どこをきってもポップ風味満載だった。6114ugoczl
 1曲目の"Your Smile"はセカンド・シングルに選ばれた曲で、全英シングル・チャート42位まで上昇した。ホーンとストリングス・キーボードのアレンジが、ザ・ビートルズ中期の音楽性を有している。

 基本的に彼らの楽曲はアレンジが素晴らしく、音の装飾については優れていると思う。また、ドラムスがバタバタしていて、何となくリンゴ・スターのドラミングを思い出してしまった。
 2曲目の"Everyday Kiss"もトランペットがぐるぐる回っていて、「リボルバー」や「マジカル・ミステリー・ツアー」の中の曲を連想してしまった。

 エンジンがかかってくるのは3曲目の"If You Want to Give Me More"あたりからだろう。アップテンポのこの曲はノリがいいし、シングル向きでもある。
 ギターのアルペジオが美しい"Kong for A Day"はバラード・タイプでもあるが、途中からサイケデリックな音響空間に導かれ、トリップ感覚も味わうことができる。あえてこういう曲形式をとったのだろう。

 サイケデリックといえば、6曲目と10曲目にはタイトルが付けられていなくて、無題である。6曲目はピアノやキーボードが中心になっていて、それにハーモニカやトランペットが並奏していくスローなインストゥルメンタルだった。
 10曲目は22秒しかない間奏扱いの曲で、楽曲というよりは、サウンド・コラージュとして曲と曲をつなぐブリッジ的な役目を果たしているようだ。

 7曲目の"Jealousy"も管楽器が大きくフィーチャーされていて、ミディアム・テンポの印象的な曲だった。この曲は、このアルバムからの4枚目のシングルに選ばれていて、チャートの59位まで上がっている。

 彼らの最初のシングルは"Magazine"という曲で、このアルバムの中盤8曲目に配置されている。これは疾走感あふれる佳曲で、まさに若さに任せてブッ飛ばしていますというような曲だった。これは売れただろうと思ったのだが、実際は90位と低迷した曲になった。これが売れなかったところが、彼らの不運を象徴していたようだった。

 アルバム・タイトル曲の"From a to b"は、幻想的な雰囲気を持った静かな曲で、ギターのアルペジオと広がりのあるキーボード・サウンド、ハンド・クラッピング、鈴の音などが神秘的で荘厳なたたずまいを表現していた。

 ついでに3枚目のシングルに選ばれたのが、11曲目の"Saved"であり、これまたゆったりとしたミディアム・テンポの曲だった。チャート的には40位とまあまあ健闘していた。
 個人的には、この曲よりももっとテンポの速い"Theme from Joy Pop"の方が、パンキッシュで好きだし、ザ・ビートルズの"She said, She Said"をスロー・バラードにしたような"Night Song"の方が、売れるのではないかと思ったりもした。

 そして、"In This World"は、それほど凝っていないストレートなポップ・ソングで、途中でファルセットで歌われるところなんかは、ボーカルのマークの上手さがよく表れていると思った。やはり、バンド活動後にすぐにレコード・デビューできたのだから、それなりに音楽的能力が高かったのだろう。デビュー時の彼は、ジュリアン・コープの再来とまで言われていたからだ。

 最後に、このアルバムには、ザ・ビートルズの「サージャント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」のように、秘密のメッセージが隠されているという。そのメッセージは、アメリカの作家サリンジャーの作品から引用されていたようだが、そのことに気がついた人は誰もいなかったようだ。まさに本当の“シークレット・メッセージ”になってしまったのである。

 結局、このアルバムが売れなかったのは、あまりにもバラエティに富み過ぎていて、ファンとしては全体像がつかみにくかったからではないだろうか。
 確かにブリット・ポップの時代だったから、レコード会社はこの手の音楽も売れると思ったのだろうが、残念ながら、そうはならなかった。

 ブリット・ポップの時代と言っても、何でも売れるというわけではなかったようだ。このアルバムの場合は、躍動感のある曲がもう2,3曲あれば、もっとバランスの取れた良いアルバムになったし、アレンジを簡素化してメロディの美しさで勝負をすれば、もっと売れたと思うのだがどうだろうか。

 ただ、個人的には結構気に入っていて、今でもたまに聞くことはある。おそらくあと20年もすれば、20世紀末の隠れた名盤として、再評価されるのではないかと期待しているのである。

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2018年3月19日 (月)

マルーン5の新作

 今月は、テンプルズやサム・スミスなど、ファルセット(裏声)を上手に使って熱唱するシンガーの特集のような気がする。特に意識してそうしているわけではないのだが、何となくそうなってしまった。

 ファルセットといえば、元ロキシー・ミュージックのブライアン・フェリーやもう亡くなって久しいけれど、元ユーライア・ヒープのデヴィッド・バイロンなどが記憶に残っている。1970年代の当時では、ハード・ロック・バンドのボーカリストには高い声を出すことが求められていて、例えばロバート・プラントやイアン・ギランなどは、その最たるものだった。

 それをファルセットによる高音で歌ってしまうと、ちょっと邪道じゃないのというような風潮が漂っていた感じがしたものだ。ファルセットならある程度の高い声は出せるからである。
 可哀そうなデヴィッド・バイロン、上手なボーカリストだったのに、正当な評価を得られないままと言い切ってしまっていいのか躊躇するが、少なくとももう少し有名になってもよかったのではないかと、ずっと思っているのである。

 まあそれはともかく、今回もファルセットの上手なシンガーのいるバンドの最新アルバムを紹介することにした。アメリカのバンドであるマルーン5の「レッド・ピル・ブルース」で、昨年の11月に発表された。81wm40a9dl__sl1500_
 マルーン5といえば、2001年のデビュー以来、世界中で2500万枚以上のアルバムと9000万枚以上のシングルを売り上げているモンスター・バンドだ。名前の由来はメンバー間で秘密にされていて、口外されていない。
 ただ“5”については5人メンバーだからという理由が濃厚なのだが、いつの間にか彼らは7人編成のバンドになってしまったので、そうなると“マルーン7”と改名しないといけなくなるだろう。77294
 いずれにしてもマルーン5は、相変わらず素晴らしいアルバムを発表してくれた。前作の「Ⅴ」から約3年がたっての発表だが、R&Bやソウル・ミュージックをベースにしたポップ・ソングの数々は、流行をきちんと押さえながらもキャッチーでポップな楽曲で占められている。

 このアルバムのタイトルについて、リーダーのアダム・レヴィーンは次のように述べている。『タイトルは映画の「マトリックス」に出てくる赤い錠剤から取ったんだよ。映画の中でレッド・ピルが象徴していた「知識、自由、苦痛を伴う真実」とともに、ポップ・カルチャーが持つ楽しさも反映させているんだ』

 しかし、このアルバムが象徴しているものは、楽しさだけではなくて、今のアメリカ社会の怒りや悲しみも込められているようだ。再びアダムのコメントに耳を傾けてみよう。

 『僕たちはみんな辛い日々を送っていると思う。良いとは言えないようなことがたくさん起きている。ものすごく醜いことが、ものすごい毒が、ものすごい人種差別が、ものすごい悲しみが、ものすごい怒りが、少なくとも僕らの国には間違いなく渦巻いている。
 だからこそ、その中でどうやってそれに向き合い、生きていくのか、それなりの方法を見つけなくてはいけない。このタイトルにしたのもそういう理由だったんだ』

 とにかく、時代に自覚的なミュージシャンたちは、今の時代が恵まれているとは思っていないようだ。上のアダムのコメントにもあるように、アメリカ人のみならずヨーロッパのミュージシャンたちも先行き不透明で混沌とした時代状況に警鐘を鳴らしていて、そういうメッセージを含んだ曲や、ダークでヘヴィな音を鳴らしている気がしてならない。

 もちろんマルーン5の場合もまた、そのような時代にいる自分達の存在理由を自分たちのサウンドや楽曲で詳らかにしようと取り組んでいる。

 彼らは、音楽の力を信じている。音楽には人の気持ちを癒す力があると考えている。アダム自身も音楽があることによって、人生がより良いものになっていると述べていた。

 自分たちの作品が必ずしもそうとは言えないと謙遜はしているものの、音楽には抗えない力とパワーがあると考えていて、そしてそれを証明するかのように、このアルバムの中でも悲しい曲は悲しいままに、ハッピーな曲は周囲を巻き込むかのように、曲を通してエネルギーを発散しているのである。

 もう一つの特徴としては、最近のヒット・アルバムは、個人やバンドの力というよりは、プロジェクト・チームのように集団でアルバムを作り上げていくパターンが多い。昔はせいぜいプロデューサーやエンジニアの意見を取り上げて、あとはバンドのメンバーで決定するくらいだったのが、今では優秀なメンバーで構成されるプロダクションが楽曲を提供したり、アルバムの方向性を決定づけたりする場合が多い。

 例えば、イギリスのアデルやサム・スミス、エド・シーランなどのアルバムも同様で、ミュージシャンは曲作りには参加するものの、すべて自分の力でマネージメントはしていない。

 マルーン5のこのアルバムも同様に、ベニー・フランコやジェイソン・エヴィガン、ジョン・ライアンなど大物有名プロデューサーが関わっている。(彼らはマドンナやワン・ダイレクションなどを手掛けたようだが、残念ながらそのほとんどの人をよく知らない。悲しいかな、時代に追いつけない自分がいる)

 また、曲作りにもジャスティン・ビーバーの曲を作ったジャスティン・トランターやジュリア・マイケルズが参加しているし、さらにはミュージシャンとして、第60回グラミー賞で5部門を受賞したラッパーのケンドリック・ラマーや、急成長中の今をときめく女性R&Bシンガーのシザ、2012年のデビュー以後、瞬く間に全米を代表するラッパーになったフューチャーなど、今の最も旬なミュージシャンを起用しているところも、このアルバムの特徴だろう。

 このアルバムには捨て曲などはなく、どの曲も生き生きと輝いている。相変わらず起伏の激しいマルーン5節で歌われており、アダムのファルセットも効果的に使用されている。

 その中でも、やはりシザをフィーチャーした"What Lovers Do"やセカンド・シングルになった"Wait"、それにケンドリック・ラマーによるエド・シーランの雰囲気に似た"Don't Wanna Know"、フューチャーのライムが印象的な"Cold"などは聞き逃せないだろう。

 そして一番の問題作は、このアルバムのボーナス・トラックを除いての最後の曲になる"Closure"に違いない。何しろこの曲、11分28秒もあるのだ。
 普通、これくらいのタイムなら2、3曲分にして収録曲を増やすのだが、ここではあえて1曲でまとめている。519jlxgdhal
 しかもこの曲のボーカル部分は、最初の3分5秒くらいで終わるので、残りの8分あまりは演奏のみなのだ。
 そしてこのインストゥルメンタル・パートでは、ジャズっぽいギターと断続的なキーボードやサックスが淡々と流れて行く。まるで、スティーリー・ダンの曲のようだった。

 この辺が今までの5人組のアルバムの曲とは違う点で、ひょっとしたらマルーン5はR&Bやソウル・ミュージックをベースにしながらも、ジャズ的な雰囲気も持ち合わせたインストゥルメンタルのバンドとしても成長していくのかもしれない。そういう意味では、新たな旅立ちを予想させるアルバムでもあった。

 彼らは、今でもデビュー・アルバムの「ソングス・アバウト・ジェーン」を超えるアルバムを作るのを目標にしていて、このアルバムはそれを超えている自信があると言っていた。ポップ・ソングとヒップ・ホップを最初に結び付けて成功させたバンドという点にこだわっているのだ。如何にもマルーン5らしい話である。

 とにかくトータルな意味で、今を代表する素晴らしいポップ・アルバムである。上記にもあるように、プロダクション・チームの力に負うところが多いようだが、アダムの美しいファルセットは、このアルバムの全編を覆っている。
 神が人類に与えた最高の楽器は、声だとよく言われるけれど、このアルバムを聞きながら、まったく同感だと思っている。

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2018年3月12日 (月)

サム・スミスの新作

 昨年、サム・スミスの新作が発表されたが、これがもう現代のポップ・ミュージックの最高峰の部類に入る作品だった。

 サム・スミスについては、以前このブログでも取り上げたけれど、自分でも何と書いたか忘れてしまったので、もう一度確認すると、彼は1992年にイギリスのロンドンで生まれている。今年の5月で26歳になるので、まだ25歳の若者だ。Samsmith20180504as1200x600
 子どもの頃からアレサ・フランクリンやホイットニー・ヒューストンなどの女性R&Bシンガーに憧れて、自分も将来は歌を歌いたいとはっきりとした目標を持っていたようだ。
 義務制の学校を卒業した後は、音楽や演劇などの学校に入学し、専門的に音楽を学びながらジャズ・ボーカルの先生からプライベート・レッスンを受けながら実力を身に着けていった。
 その後、ジャズ・クラブなどで歌っていたところをアデルのマネージャーから声を掛けられ、本格的なプロ活動に従事していった。

 2012年に、ダンス曲を得意としていたディスクロージャーという兄弟デュオによるシングル曲"Latch"にボーカリストとしてフィーチャーされたことから名前が広く知られて行き、2013年のノーティー・ボーイのシングル曲"LaLaLa featuring Sam Smith"が全英No.1を獲得して以来、全英のみならず世界中で話題になってしまう。

 2014年には待望のデビュー・アルバム「イン・ザ・ロンリー・アウア」が発売されると、全英、全米をはじめ、世界中の多くの国でNo.1もしくはトップ・テンに入る結果になり、翌年の第57回グラミー賞では、6部門にノミネートされ、その中で最優秀新人賞、年間最優秀レコード賞、年間最優秀楽曲賞、最優秀ポップ・ボーカル・アルバム賞の4部門で受賞した。まさに男性版アデルである。(ちなみにアデルのデビュー・アルバムは2部門で受賞している)

 さらにアデルの後を追うように、映画「007」シリーズの第24作目「007スペクター」に新曲の"Writings on the Wall"を提供し、これまた全英No.1になっていて、まさに今を代表するR&Bシンガーとしての名声を確立している。(ちなみにアデルは第23作目の「スカイフォール」の主題歌を提供し、自らも歌っている)

 まさに飛ぶ鳥を落とす勢いのサム・スミスだが、デビューしてしばらくすると、ストレスのせいか少しふっくらとしてしまった。写真を見ればわかると思うけれど、全体的に丸みを帯びていて、顎のあたりが二重顎になっているのが分かると思う。このあたりはアデルとは対照的で、彼女は徐々にスレンダーになっていった。(ただし、妊娠後は体重が増え出産後はまた減少してしまった)In_1503_readaloudsamsmithphoto1_l

 2016年にはしばらく長い休みを取って、公の前から姿を消してしまった。ただ休みを取りながらも曲作りには取り組んでいたようで、時々その様子がSNSなどでアップされていたと言われている。

 またその間に、ダイエットに心がけており、グルテンフリーや野菜中心の食べ物の摂取に努めたという。だから、このセカンド・アルバムのジャケット写真のように、少し精悍な風貌に変容したのだろう。51x47twabl
 肝心の音の方はどうかというと、セカンド・アルバム「ザ・スリル・オブ・イット・オール」の方はデビュー・アルバムに比べて、やや落ち着いてしっとりとした雰囲気に満ちているようだ。
 デビュー・アルバム「イン・ザ・ロンリー・アウア」はテンポのよい曲もあれば、バラード曲もありといったバラエティに富んでいたが、セカンド・アルバムはちょっと違うのである。

 1stシングルになった"Too Good at Goodbyes"は失恋を歌ったバラード曲で、アルバムの冒頭に置かれている。
 実は2016年からのオフの期間に、彼は失恋を経験していて、その体験がこの曲に反映されているようだ。

 彼はインタビューの中で、この曲は相手のことを歌ったものではなくて自分の気持ちを歌っていると述べている。また、この曲は彼にとってのセラピーみたいなもので、この曲を作り、歌うことで、つらい過去を乗り越えることができるとも述べていた。

 この時の失恋の痛手から立ち直るために時間が少しかかったようで、本当はアルバム自体も2016年の終わりまでには発表する予定だったのが、約1年遅れたようなのである。よほど痛手だったのだろう。

 2曲目の"Say it First"もミディアム・テンポの落ち着いた曲で、彼の特徴であるファルセットが美しい余韻を残してくれるのだ。確かに今の欧米のシンガーの中で、声だけで人を感動させてくれる男性は、彼とアーロン・ネヴィルぐらいしかいないのではないだろうか。

 続く"One Last Song"もややロッカ・バラード調だ。ただ、彼の歌声は力強くて、ある種の決意表明をしているかのように聞こえてくる。
 "Midnight Train"もまた静かなサム流ゴスペル・ミュージックだ。これもまた失恋の曲で、心の整理がつかないまま、夜行列車に乗り恋人のもとを去っていく気持ちが歌われている。

 5曲目の"Burning"を聞いたときに驚いたのは、ピアノの雰囲気や曲調が鬼束ちひろの曲の雰囲気に似ている点だった。最初はアカペラの独唱で歌われ、途中で男声の多重コーラスとともに盛り上がっていくのだが、最初に聞いたときはまさに鬼束だと思った。

 次の"Him"は、もっとシンプルに始まり、途中で男女混成のコーラスが加わるが、バックの演奏はピアノとパーカッションくらいなもので、余計な装飾がない分、彼の美声がひきたっている。

 "Baby, You Make Me Crazy"はホーンやコーラスが施されていて、1stアルバムの中の曲の雰囲気に似ている。このアルバムのかではゴージャスな印象を受ける。この曲のテーマは恋愛なので、内容に合わせて明るくアレンジしたのだろう。

 8曲目の"No Peace"にはイエバという女性シンガーがフィーチャーされていて、ふたりでデュエットしている。
 イエバという人は、“ポスト・アデル”といわれているイギリス人シンガーで、エド・シーランのツアーのオープニング・アクトに起用されたことから有名になった。今後は日本でも人気が出るかもしれない。

 "Palace"という曲もまた静かな曲で、最初から彼のファルセットも全開しており、本当に夢心地になるというか、うっとりとさせてくれるバラード曲である。こんな曲を耳元で歌われたら、女性であろうが男声であろうが、一発でノックアウトされるだろう。

 "Pray"という曲もそのタイトル通りに“祈り”に満ちた曲だ。恋愛に対する“祈り”というよりも世界を覆う危機的状況や混沌として見通しのできない現状を変革するための“祈り”なのだろう。
 この曲でのサムのボーカリゼーションは見事で、低音から高音まで非常に技巧的に使いこなしている。このあたりがデビュー・アルバムより進化、成長したところだろう。

 日本国内盤では、ボーナス・トラックとしてあと6曲追加されているが、貧乏な自分は輸入盤しか聞いていないので、詳細は省略することにした。興味のある方は聞いてみるといいだろう。ひょっとしたら新しいサム・スミスの姿を発見することができるかもしれない。

 とにかく、成長したサム・スミスの姿を実感できるアルバムになっている。ただ残念なのは、全体的におとなしめのせいか、セールス的にはデビュー・アルバムを上回ることはできないでいる。

 デビュー・アルバムの方は全世界で1200万枚以上売れたのだから、この数字を超えることは厳しいだろう。全英のアルバム・チャートでは3位だったし、全米のビルボード・アルバム・チャートでは153位で終わってしまった。
 ただし、アルバム発表直後の週間チャートでは全英、全米を含む世界10か国以上で首位になっている。

 ただそういうセールスの結果について語ることは、あまり意味がない。このアルバムを通じて、サム・スミスの音楽的な愛情や成長を感じ、味わうことの方が大切だろう。

 このアルバム「ザ・スリル・オブ・イット・オール」は十分その資格があるし、彼の音楽的キャリアを深める充実した楽曲で占められているのだ。現時点では今の時代を反映した最高峰のR&Bアルバムなのである。

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2017年8月 7日 (月)

エド・シーラン

 現代の吟遊詩人といってもおかしくないと思っている。エド・シーランのことだ。自分は、もちろん彼のデビューした2011年から彼の名前は知っていたのだが、まさか、ここまでビッグな存在になるとは思ってもみなかった。Edsheeran2017leadpressshot_lo_res
 というのも、雑誌などでは彼の楽曲よりもその経歴の方が注目を集めていて、確かにラジオから流れてきた曲はよかったと思ったのだが、また新人が登場してきたなあという程度の認識しかなかったのである。

 何しろ、当時の彼のキャッチ・コピーは、“住所不定、職業シンガー・ソングライター”というものだった。如何にも何だか怪しい感じがすると思うのだが、そう思ったのは私一人だったのかもしれない。

 以前にも書いたけれども、イギリスの音楽界の新陳代謝は異様に早くて、人口は日本の半分くらいしかないのに、次から次へとニュー・カマーが現れてきて、しかもそのうちの何人かは世界的にもビッグな存在になってしまう。ジェイムス・ブラントにジェイムズ・モリソン、エイミー・ワインハウスにアデル、サム・スミス、そしてエド・シーランなどなどである。

 エド・シーランは、ウエスト・ヨークシャーのハリファックスというところで、1991年の2月に生まれている。人口8万人くらいの街だから、そんなに都会ではなさそうだ。
 ただ、エド以外にも有名ミュージシャンが誕生していて、元ユーライア・ヒープのボーカリストのジョン・ロートンや元トンプソン・ツインズの中心人物だったトム・ベイリーなどもいた。

 エドの父親はアイルランド人で、母親はイギリス人だった。幼い頃から両親、特に父親が流す音楽に影響を受けるようになり、4歳頃から教会の聖歌隊で歌うようになった。
 父親はボブ・ディランやヴァン・モリソン、ザ・ビートルズを聞き、エドはエミネムやグリーン・デイ、リンキン・パークなどを好んで聞いていたようだ。

 5歳からはピアノを習い始め、学校ではチェロやバイオリンも手にするようになった。やはり生まれつきの才能のようなものが輝いていたのだろう。

 11歳になると、テレビで見たエリック・クラプトンの影響で、ギターを手にするようになり、アイルランドのシンガー・ソングライターのダミアン・ライスのライヴを見て、自分もシンガー・ソングライターになろうと決心したという。
 
 何と影響を受けやすい人だと思うかもしれないけれど、これでその後の人生が決まったのだから、これはもう天啓みたいなものだったのだろう。

 ここからがエドのすごいところで、自分で曲作りを始め、14歳になるとループ・ペダルを買ってきて、アコースティック・ギターを弾きながら歌を歌い、デモ・テープを制作するようになった。

 16歳になると、とにかく1年365日音楽をやりたいと思い、ついには学校までも退学してしまう。そして、家を出て、時に友人の家に泊まりながら、時に路上生活者のような暮らしを送りながら、ストリート・ミュージシャンとして活動を始めるようになったのである。

 よくまあ、家の人が許したなあと思うのだが、それだけ彼には才能があると周りの人が認めていたのだろうし、まだ若いから失敗しても構わないと考えていたのかもしれない。

 いずれにしても、彼はアコースティック・ギターとループ・ペダルを持ってロンドンに出かけて、ストリートやパブのような居酒屋で歌うようになった。
 2009年には、年間312回のソロ・パフォーマンスを行い、ミニ・アルバム「ユー・ニード・ミー」も発表した。このあたりから徐々に彼の運命が好転していく。

 やがて彼のライヴは噂になり、人々に好意的に受けとめられるようになって、マネージャーも付くようになった。
 これは、もちろん彼の楽曲自体がもつ魅力もあったのだろうが、同時に、彼の明るくてポジティヴな性格も幸いしたに違いないだろう。

 翌2010年には、ミニ・アルバム「ルース・チェインジ」がイギリスのiTunesで1位になり、メジャー・レーベルのアトランティック・レーベルと晴れて契約することができた。

 そして、2011年にはメジャー・デビュー・アルバム「+」が発表される。この中からシングル・カットされた"The A Team"が大ヒットして、一躍彼は世界中に名前が知られるようになった。この曲は、チャートでは首位には立たなかったものの、グラミー賞の「ソング・オブ・ザ・イヤー」やブリット・アワードにノミネートされるくらい有名になった。41wad6qwa0l

 このアルバムを聞いての最初の印象は、21世紀のシンガー・ソングライター像を確立したなあということだった。

 今までのシンガー・ソングライターというと、ギター1本の弾き語りというイメージが自分の中にはあった。ところが、このアルバムでは、確かに基本はフォーク・ギターなのだけれども、ロックっぽい曲もあるし、ラップ調の曲も含まれていた。エミネムから影響を受けたのは間違いないようだ。

 要するに、エドの持つ音楽性が幅広いのである。ただ、アルバムの中盤になるとおとなしめの曲が続いていて、少し退屈さも感じてしまった。この辺はアレンジの問題だろうか。
 国内盤にはボーナス・トラックを入れて17曲が収められていた。そのうち、エドひとりで手掛けた曲は、"The A Team"、"Small Bump"、"Little Bird"、"Sunburn"の4曲だけで、あとはジェイク・ゴスリングなどの音楽パートナーと一緒に作っている。

 幅広いジャンルの音楽を含む新時代のシンガー・ソングライターによるアルバムだったが、基本的にはまだまだフォーク・ソングという雰囲気が色濃く残っていて、その辺はさすがに大英帝国の伝統を感じさせてくれた。

 このデビュー・アルバムは、イギリス国内では予約だけでゴールド・ディスクを獲得し、発売1週目で10万枚を超し、最終的に200万枚以上売れている。また、全世界では400万とも500万とも言われていて、よくわからない。それほど売れているのである。

 続くセカンド・アルバム「×」は、2014年に発表された。フォーク・ミュージックのシンガー・ソングライターというイメージから徐々に脱皮していく様子が、このアルバムから伺われた。81x21cxzizl__sl1425_
 何しろプロデューサーのひとりに、リック・ルービンを迎えているのだ。リック・ルービンといえば、ビースティ・ボーイズやRUN.D.M.C.の他に、メタリカやレッド・ホット・チリ・ペッパーズなども手掛けている大物プロデューサーだ。それにエミネムのアルバムも手掛けていたので、エドにとっては憧れのプロデューサーだったのだろう。

 それにリックだけでなく、"Happy"を歌ってヒットさせたファレル・ウィリアムスも曲作りやプロデュースに参加していたので、ヒップホップの要素も前作よりは強くなっている。
 だからというわけでもないだろうが、全体的に前作よりも黒っぽい気がした。ソウル色というよりは、やはりヒップホップやラップ色がところどころに浮かんできている感じだった。

 このアルバムでも共作が目立つ。自作曲は冒頭の2曲"One"と"I'm A Mess"、エミネム調の"The Man"、ポップな"Shirtsleeves"、映画「竜に奪われた王国」の主題歌である"I See Fire"の5曲で、残りの12曲は他のミュージシャン等とのコラボレーションだった。確かにこれなら売れるのは間違いないだろう。

 しかも前作からの約3年間で、120曲以上の曲を作りその中から厳選したものを、さらに友人たちと磨きをかけていったのである。
 そして没になった曲は、友人のテイラー・スウィフトやジャスティン・ビーバーに提供したのだが、それらの曲もまたヒットしたのだから、エドの才能は計り知れない。

 当然ながら、このアルバムも売れた。全米や全英でチャートのNo.1になったの当然のことで、iTunesでは全世界95か国で1位になり、全世界で1400万枚以上も売れている。
 デビュー・アルバムと合わせると、2300万枚以上と言われているし、フォーブス誌によると、2016年の1年だけでエドは約3300万ドルの収入があったそうである。

 2017年にサード・アルバム「÷」が発表されたが、これはもう21世紀の今の段階では、ほぼ完璧なポップ・アルバムだと思っている。81mvp7ip8l__sl1425_
 プロデューサーには、前作にも参加していたベニー・ブランコがいた。彼はマルーン5やケイティ・ペリーのアルバムなども手掛けていて、今どういうアルバムが売れるのかよくわきまえているミュージシャンでもあった。

 エドは最初から、とんでもなくポップなアルバムにしようと決意して臨んでいて、少なくとも3回は最初からアルバムを作り直したという。その間、数百もの楽曲が用意され、そのほとんどが没になっていった。まさにプロ・ミュージシャンとしての意地とプライドをかけたアルバム制作だったようだ。

 また、イギリスのバンド、スノウ・パトロールのメンバーでエドの友人のジョニー・マクダイドも曲作りに関わっていた。彼は、前作でも7曲をエドと共作していた。
 逆に、自作曲はバラードの"Perfect"と"Supermarket Flowers"の2曲だけにとどまっている。21世紀のシンガー・ソングライターは、ひとりで部屋に閉じこもるのではなくて、他の人と積極的にコラボレーションするという特徴があるようだ。

 だから、普通のフォーク調の曲だけではなく、ラップからソウル風のバラード、スペイン語まで駆使したダンス・ミュージックにアイリッシュ音楽まで、彼の守備範囲は限りなく広がっている。無いのはハード・ロックとプログレぐらいだろう。

 もともと才能のある人が、同じように才能のある人たちと一緒にアルバムを作ったらこうなりましたよという典型的な見本が、このアルバムだ。
 すでに、全世界14か国以上のアルバム・チャートで1位になっている。文明国でなっていないのは、ギリシャとメキシコと日本ぐらいなものだった。

 何しろアルバムを出すたびに、過去のアルバムもチャートに顔を出すのである。「÷」が発表された後にも、デビュー・アルバムの「+」とセカンド・アルバムの「×」が、イギリスのアルバム・チャートのトップ10に登場していた。恐るべし、エド・シーラン。今年の洋楽のシーンの顔は、彼を除いては他にいないだろう。

 面白いことに、アルバムの中では、新時代に相応しい楽曲や制作方法をとってきたエドだが、ライヴにおいては、昔も今もストリート・ミュージシャンのように、ギター1本で勝負している。

 たとえば、2015年の7月にはイギリスのウェンブリー・スタジアムにおいて3日連続で公演を行い、3日間ともソールド・アウトにしている。その時の観客動員数は3日間で計約24万人だった。

 アリーナの収容人数は最大で9万人である。それらの人の前で、ギター1本とループ・ペダルだけで歌い切ったエドは、確かに本物のシンガー・ソングライターに違いない。
 また、今年の5月1日から3日までロンドンのO2アリーナで公演を行ったが、こちらも3日間連続でソールド・アウトになっている。この時は、約6万人のファンが集まったということだった。Vipirelandimage149579620x434
 アルバム・タイトルの「+」は、自分のよいところが出せるようにという意味で、つけたタイトルだった。次の「×」は、前作以上の結果が出せるようにとつけたタイトルだった。そしてその目標は達成できている。さて、「÷」とはどういう意味なのだろうか。

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2017年7月 3日 (月)

ジョン・デンバー

 さて、7月になった。7月の第1回目は、ジョン・デンバーである。特に意味はないのだが、今の日本ではもうその名前も忘れ去られているような気がしたので、彼の素晴らしさを再確認する意味でも少し記してみようと思った。

 ジョン・デンバーも、よく考えたら、いやよく考えなくても、1970年代のシンガー・ソングライターの一人だった。20161117091425583
 当時のシンガー・ソングライターは、どちらかというと時代の空気を反映したようなダークでブルーな曲を書いて歌う人が多かった。つまり、60年代に起きたベトナム戦争に対する反抗(学生運動)やヒッピー・ムーヴメントに対する失望感が反映していたのではないだろうか。

 その結果、無力感や厭世観が若者の間に流行っていき、日本では“シラケ世代”などと呼ばれていたし、諸外国でもドラッグに手を染めたり、社会からドロップアウトしていった人もいたように思う。

 だから1970年代の中頃にもなると、シンガー・ソングライターは、“怒れる若者の代弁者”ではなくて、日常の風景を切り取ることで、若者に“安息感”や“空虚感”を提示しようとしたのではないかと思っている。ジェイムズ・テイラーやジャニス・イアン、キャロル・キングなどのアルバムが売れたのも、先鋭的なメッセージがもう必要とされなくなった、そんな時代だったからではないだろうか。

 でも、ジョン・デンバーのイメージは、ちょっと違うような気がする。彼の曲を聞くと、明るくて希望のある、もしくは楽天的な気分にさせられるからだ。
 彼自身も、当時の雑誌などで『世界がなんで素晴らしいとこなのか、僕が歌うから聞いてくれ。なぜ肯定的なのかというと、すべてがいつも新鮮だからさ』と発言していた。

 彼の本名は、ヘンリー・ジョン・デューチエンドルフ・ジュニアといった。名前からわかるように、祖先はドイツ系の移民だった。彼の“デンバー”という名前は、のちに自分の好きなアメリカの都市の名前を選んだことによる。

 ジョンは、1943年の大晦日に、ニューメキシコ州のロズウェルで生まれた。父親が空軍のパイロットだったため、幼い頃から引っ越しを繰り返していたようだ。
 祖母がギターを買ってくれたため、子どもの頃から練習を始め、高校時代にはロック・バンドで演奏していた。

 テキサス工科大学では建築学を専攻していたが、学校に行くよりはクラブやバーなどで演奏することの方が多くなり、最終的には退学している。
 彼は、フォーク・グループのチャド・ミッチェル・トリオに参加して3年間ほど活動した後、1966年にアルバムを自主制作した。

 そのアルバムの中に、のちにピーター、ポール&マリーが歌って1969年の12月に全米No.1に輝いた"Leaving on A Jet Plane"が含まれていた。ピーター、ポール&マリーにとっては最初で最後の首位になった曲だった。
 ただ、この曲のオリジナル・タイトルは"Babe, I Hate to Go"というもので、ピーター、ポール&マリーのプロデューサーだったミルト・オクンがタイトルを変更している。

 この曲のヒットのおかげで、彼は1969年にデビュー・アルバムを当時のRCAレコードから発表することができた。
 1971年8月には、シングル"Take Me Home, Country Roads"が全米2位のヒットを記録し、翌年には"Rocky Mountain High"がビルボードのシングル・チャートの9位に顔を出し、この後徐々にヒットを出すようになった。

 1973年の3月には、"Sunshine on My Shoulders"がついにチャートで1位を記録した。この曲は、それまでの陽気で幸福感の満ちたメジャー調の曲ではなくて、マイナーな雰囲気を持つものだった。その理由を彼は、次のように述べている。

 『落ち込んでいたから、ブルーな感じの歌を書きたいと思っていたんだ。僕の歌の楽天性を嫌がる人は多いけれども、レコードを聞いてもらえれば、苦しみも歌っているということが分かると思うよ』

 さらに翌年の1974年7月には、"Annie's Song"が2週間連続でチャートの首位に輝いている。
 この曲は、大学時代の恋人で1967年に結婚したアン・マーテルについて書いた曲で、スキー・リフトに乗りながら約10分程度でできたという。アメリカの雑誌「ピープル」は、この曲を評して、ジョン・デンバーが書いた最も素晴らしいラブ・ソングであると述べていた。

 この時、ジョンはスイスにいた。実は、ジョンとアンの間に溝ができていて深刻な状況だったらしい。
 ジョンは一人で家を出て、スイスに旅行に出かけた。6日間の旅行だったが、アンにとっては3ヶ月くらいに感じられたようで、結局、アンから涙まじりの長距離電話がかかってきて、ジョンはアメリカに戻ったのである。

 ただ運命は皮肉なもので、彼らの結婚生活は1983年に終わりを迎えた。16年間という期間だったが、ジョンにとっては最も幸福な期間だったと述べている。確かに、この間に彼の人気はピークを迎えていたのは、間違いないことだった。41e24n6ab5l_2

 ジョンには彼が歌った曲の中では、4枚の全米No.1がある。3枚目は1975年6月に1週間だけ首位に立った"Thank God I'm A Country Boy"で、元々は1974年に録音された曲だった。
 曲を書いたのはジョンではなく、彼のバンドのギタリストだったジョン・マーティン・ソマーズだった。

 1975年は、彼のやることなすことがすべてうまくいった年だった。彼が出演したテレビ番組「アン・イヴニング・ウィズ・ジョン・デンバー」がエミー賞の最優秀音楽バラエティ番組賞を受賞したし、カントリー・ミュージック協会の年間エンターティナー賞も獲得している。

 また、彼の関心は自然に向けられ、自然との調和や環境保護にも関心を抱くようになった。そのために財団を創設し、環境保護や飢餓対策のための運動を積極的に推進し、援助するようになった。

 また、飛行機操縦のライセンスを獲得し、自家用機を使って講演活動などにも積極的に関わるようになった。この時期の彼の活動は、音楽のみならず人道支援活動など、幅広く行われていたのである。

 そしてまた、この年には、もう1枚シングル曲が全米No.1を獲得している。これも1週間だけ9月に首位になった"I'm Sorry/Calypso"という曲で、両面ヒットを記録していた。

 "I'm Sorry"が首位に立った後、アメリカのラジ局は"Calypso"を積極的にオンエアしていた。この曲は、フランスの海洋科学者であるジャック・クストーの功績を讃えて、彼が使用した調査船カリプソ号にちなんで作られた曲で、"I'm Sorry"がヒット中に、この曲もまたシングルのサイドAとして認定された。

 『僕は、人がみんな人生のうちでいつかは静かなところに行って、山のふもとの湖のそばに腰かけて、嵐が行ったり来たりするのを聞くことができたらなあと思う。そこには美しい音楽があって、ただそれに耳を傾ければいいんだ』いかにもナチュラリストらしい言葉だと思う。これが高じれば、プログレの世界になるのだが、その一歩手前で留まっているところが、ジョンらしい。

 この後、コンスタントにアルバムやシングルを発表するも、大ヒットにはつながらなかった。一つは、彼の興味・関心が映画やテレビの世界に移り、映画に出演したり、グラミー賞授賞式やテレビ番組の出演やMCを担当するようになったことも影響があっただろう。

 また先ほどにも述べたように、16年間の結婚生活にピリオドを打ったということも、ジョンに何らかの影響を与えたに違いないだろう。

 それでも80年代にはサラエボでの冬季オリンピックのテーマ曲を歌ったり、ニューヨークで写真の個展を開催したりと、多彩な活動を展開しているし、ユニセフ基金のスポークスマンも務めている。

 残念なことに、1997年の10月12日に、自身が操縦していたセスナ機が墜落して、彼は帰らぬ人となった。享年53歳だった。
 カントリー&ウェスタンの影響を受けながらも、フォーク・ソングを中心とした彼の音楽は、新しい形としてのシンガー・ソングライター像を示したと思っている。83w8387839381e83f839383o815ba
 それはポップ・ミュージックの範疇として語られる音楽かもしれないが、それだけ多くの人を引き付ける魅力が、彼の作った曲に備わっていたということだろう。彼の早すぎる死が悔やまれてならないのである。

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2017年6月26日 (月)

ジム・クロウチ

 さて、6月の最後はジム・クロウチについて語ることにしよう。彼については、このブログが開設されて間もない頃に、「たまにはポップ・ソングをpart2」という短い拙文の中で綴っていたのだが、十分な紹介ができずに終わってしまっていた。
 それではジムに対しても失礼だと思ったし、彼の歌の素晴らしさをもっと世の中の人に知ってもらいたかったので、きちんと取り上げることにした次第である。10731499jimcroce1450838062
 ジムは、アメリカのシンガー・ソングライターだった。「だった」ということは、文字通りで、すでに彼はこの世にいないということを意味している。

 1973年9月20日、ノースウエスト・ルイジアナ大学での公演を終えたジム一行は、約112キロ離れたテキサス州シャーマンへ向かうために、ナッチトチェス飛行場でチャーター機に乗り込んだ。オースティン大学での公演が控えていたからだった。

 飛行機は離陸後まもなく、飛行場内に1本しかないぺカンの木に接触し、ジムを含む乗員全員が即死した。享年30歳だった。墜落事故の原因は諸説あるが、パイロットの冠動脈疾患のせいで意識を失ったという説が有力である。パイロットは57歳のベテランだった。0165ce232bd1c6fd2403e8be4fd5976d_2
 ジム・クロウチは1943年の1月に、フィラデルフィアで生まれた。両親はイタリア系の移民で、彼の本名はジェイムズ・ジョセフ・クロウチといった。
 子どもの頃から音楽が好きで、最初はアコーディオンを弾いていたらしい。5歳ころのお話である。

 大学生になると、フォーク・ソングに興味を持ちようになり、スパイアーズというグループを結成して、人前で歌うようになった。また、おもちゃ屋でアルバイトをしてアコースティック・ギターを購入していた。
 その時に、トミー・ウェストと友人になった。彼はのちにテリー・キャッシュマンという人とプロデューサー・チームを結成し、ジムを前面的にバックアップするようになる。

 大学を卒業してからは定職にも就かず、時間があれば音楽活動をするようになった。地元のヤミのラジオ局の広告取りの仕事をしたり、建設現場での肉体労働のような作業をしながら、自分のオリジナル音楽を追及していった。

 ある時、アルバイト中に大型ハンマーで自分の左手を打ち付けてしまった。幸いにして指は切らずに済んだものの、傷ついた指を使わないで済むような変則的なギター奏法を考えなければならなかったようだ。

 1966年に、イングリットという女性と結婚したジムは当面の生活費を稼ぐために、友人のトミーのアドバイスを受け入れ、ニューヨークに引っ越ししてキャピトル・レコードと契約し、妻と一緒にデュオ・アルバム「アプローチング・ディ」を制作し発表したが、残念ながら注目を集めることはなかった。

 失望したジム夫婦は、ペンシルヴァニアに戻って様々な仕事に従事しながら、次の機会をうかがっていた。
 ジムは、トラックの運転手をしながら曲を書き続け、6曲分をカセットテープに吹き込んで、ニューヨークに住むトミーに送ったのである。

 曲を聞いたトミーとテリーは、その内容にいたく感動し、ジムにニューヨークに来てレコーディングをするように勧めた。1972年のことだった。その年の7月にデビュー・アルバム「ジムに手を出すな」が発表され、2枚のシングル・ヒットを生み出した。

 アルバム・タイトルと同名の"You Don't Mess Around With Jim"はシングル・チャートの8位に、続く"Operator"は17位まで上昇した。
 そのせいか、このデビュー・アルバムはゴールド・ディスクを獲得し、アルバム・チャートで首位を獲得している。

 気をよくしたジムは、続くセカンド・アルバム「ライフ・アンド・タイムズ」を翌年の7月に発表した。このアルバムからの2枚目のシングル曲"Bad, Bad Leroy Brown"は、7月21日から2週間連続でシングル・チャートの首位に輝いた。そして、このアルバムもまたチャートの1位に輝き、ゴールド・ディスクを獲得している。

 ジムは、この曲のモチーフを、彼がニュージャージーで電話の配線工をしていた時に知り合った友人から頂戴している。

 ジムの話によると、“彼は1週間ばかり働いた後、疲れた、もううんざりだと言って、仕事場から逃げ出してしまった。その後、給料を取りに戻ったところを、無断欠勤したという理由で逮捕されてしまった。彼のしゃべる話を聞いたときに、いつか彼のことを歌にしようと思った”ということだった。

 1973年の9月12日には、彼の3枚目のアルバム「アイ・ガッタ・ネイム」のレコーディングが完成した。このアルバムのタイトル曲は、映画「ラスト・アメリカン・ヒーロー」の主題歌に使用された。
 また、このアルバムはこの年の12月に発表され、全米アルバム・チャートでは2位を記録している。ちなみにこのアルバムの邦題には、「美しすぎる遺作」という副題が付けられていた。

 同時に、この日の夜、当時のABCテレビでドキュメンタリー番組が放映された。内容は、癌で亡くなった若い女性の半生を描いたものだったが、このテレビ番組のテーマ・ソングにジム・クロウチの"Time in A Bottle"が選ばれたのである。

 放映後、全米にあるABCテレビの各放送局に、この主題歌は誰が歌っているのか、どこで手に入れることができるのか等々の問い合わせが殺到した。この曲は、まだ世に出回っていなかったのである。そして、この日から8日後に彼は亡くなったのだ。

 彼の死後、3枚目のアルバムが発表され、そこからシングル曲"I Got A Name"がチャートで10位になったとき、"Time in A Bottle"がシングル・カットされ、12月29日から2週間、シングル・チャートの首位に立っている。
 つまり、彼の死後に発表された曲が1位を記録したわけで、当然のことながら、彼はこの記録を知ることはなかった。

 また、"I Got A Name"はジムの作品ではなく、ロバータ・フラックが歌ったことで有名になった"Killing Me Softly With His Song"を手掛けたチャールズ・フォックスとノーマン・ギムベルによるもので、息子の成功を夢見ながら亡くなっていったジムの父親のことを示唆しているようで、ジム自身が気に入って自分のアルバムの中に取り入れたという。

 ジムの父親のことを歌っているようで、実際は、ジム自身にも当てはまるような曲になってしまった。若い時に苦労を重ね、まさにこれからという時にジムは亡くなったわけで、運命の皮肉さを感ぜざるを得ない。

 言い忘れていたが、"Time in A Bottle"はジムのデビュー・アルバムに収められていた曲で、ジムもまさかシングル・カットされるとは思ってもみなかっただろう。

 この曲のリード・アコースティック・ギターは、モーリー・ミューライゼンという人が演奏していて、彼はジムの重要なパートナーだった。この曲以外にも"Operator"や"I'll Have To Say I Love You in A Song"などでも彼の演奏を聞くことができる。そしてまた、モーリーもまたジムと同じ飛行機に同乗していたため、帰らぬ人になってしまったのである。
「交換手さんよ
ちょっと手伝ってくれないか
わかるだろ
電話帳が古くて文字が薄いんだ
彼女はロスに住んでいる
俺の元親友だったレイと一緒にね
彼女が言うには知り合いだけど
時々嫌いになるっていう奴なんだ

だから奴らがうまくいくとは
思えない
でも、そのことは忘れてくれ
もしわかったら番号を教えてくれよ
電話してみるから
ただ元気だと言うだけさ
俺は何とか順調だ
そんな自分の言葉に
勇気づけられることを
願っているけど
だけど本当じゃなかった
そんなふうには思えないんだ

交換手さんよ
助けてくれよ
あんたが教えてくれた
番号が見えないんだ
目の中に
何か引っかかっていてね
俺を救ってくれるはずの
彼女との愛について考えると
いつもこうなるんだ

交換手さんよ
今までのことは忘れてくれ
誰もそこにはいないさ
ただ俺はあんたと
話したかっただけさ
時間をとってくれてありがとう
ほんとにあんたは親切だな
電話料金はあんたのもんさ」
(“Operator” 訳;プロフェッサー・ケイ)

 電話交換手に昔の恋人の電話番号を教えてもらうように頼んでおきながら、番号が分かっても電話を掛けるのを躊躇して、結局やめてしまうという男の心情を素直に表現していて、同じような経験をしたことがある人はきっと泣けてくるのではないかと思ってしまう。

 しかも、ジムの声自体も哀愁味があって、曲のイメージと見事に重なってしまうのである。この"Operator"や"Time in A Bottle"、"Photographs & Memories"などのスローやミディアム調の曲だけではない。
 "Rapid Roy"や"Workin' at the Carwash Blues"などのテンポのよい曲でも、どこかユーモラスで諧謔さが漂っていて、一度聞くと忘れられない。41uy2vr4jbl
 それは彼の温かな人間性から来るのであろう。決して裕福ではなかった移民の家庭で育ち、父親は息子の成功を見ることもなく亡くなってしまう。

 彼自身も様々な職業を経験し、ある意味、報われない人生を歩んでいる人たちとの交友を通して学んだことが、彼の人生観や人物観察の基となり、それが歌詞や曲調に反映しているようだ。

 何度も言うけれど、30歳という若さで、まさにこれから本格的にスポットライトが当たろうとする時期だった。象徴的なアルバム・タイトルや亡くなった後でのNo.1ヒットなど、ひょっとしたら彼の命運は最初から決定事項だったのかと思わせるような人生だった。

 彼の曲を聞くと、思わずそんなことを考えてしまうのである。

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2017年6月19日 (月)

ロイ・オービソン

 拙稿の「ドン・マクリーン」のところで、彼がロイ・オービソンの1961年のヒット曲"Crying"を歌ってヒットさせた、と記していたが、その元歌を歌ったロイ・オービソンのことについては、まだ触れていなかったので、ここで改めて記そうと思った。Imgd9f3d9b7zikezj
 ロイ・オービソンには、全米No.1になった曲が2曲ある。1曲目は1961年6月に1週間だけ首位になった"Running Scared"で、もう1曲は、1964年の9月に3週間首位に輝いた"Oh, Pretty Woman"だ。

 前者の"Running Scared"は、ロイが作詞家のジョー・メルソンと1952年に作った曲で、わずか5分くらいで書き上げたものだった。
 ボレロ調のスローなバラードのこの曲は2分余りと、短い曲だったが、まったりするような雰囲気が漂っている。たぶん、ロイの歌い方が醸し出すものだろう。

 本当はエルヴィス・プレスリーに歌ってもらいたくて作ったらしく、ロイはわざわざエルヴィス・プレスリーのメンフィスの自宅までもって行ったのだが、朝早すぎてまだ寝ていたらしく、結局、具体的な話はできなかったらしい。
 仕方ないので、エヴァリー・ブラザーズのフィル・エヴァリーに曲を聞かせて、気に入れば歌ってほしいと言うつもりだったのだが、話だけで終わってしまったということだった。

 "Oh, Pretty Woman"の方は、1982年にはアメリカのロック・バンド、ヴァン・ヘイレンがリバイバル・ヒットさせているし、1990年の同名映画の主題歌でも使われたので、多くの方が知っているのではないだろうか。

 この曲は、アメリカだけでなくイギリスでもシングル・チャートの首位になっている。また、米英のみならず、ドイツやオランダ、カナダなどの国々でもヒットを記録し、全世界で400万枚以上のベスト・セラー曲になった。

 ロイ・オービソンは、1936年4月23日にテキサス州のヴァーノンにあるウインクというところで生まれた。本名は、ロイ・ケルトン・オービソンといった。父親は油田で働いていて、母親は看護師だった。

 6歳の頃に、父親のアドバイスに従ってギターとハーモニカを習うようになり、8歳の時には地元カーミットのKVWCラジオ局の番組でギターを演奏するようになった。さらには、テレビ番組にも出演するようになり、だんだんと有名になっていった。

 高校生の頃には、“ウインク・ウェスターナー”というバンドを結成したし、大学に入学してからは“ティーン・キングス”というグループを組んで、主にカントリー&ウェスタンを中心にクラブやパーティーで演奏するようになった。
 ちょうど映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の中で、パーティーでギターを演奏するシーンがあったが、あんな感じだったのだろう。ただし、映画の中ではまだ誕生していないロックン・ロールだったが…

 ロイは、ノース・テキサス大学に通っていたが、お友達の中にはあのパット・ブーンもいて、彼の成功に刺激を受けて、ロイも本格的にミュージシャンになろうと思ったそうである。
 それで、バディ・ホリーのマネージャー兼プロデューサーだったノーマン・ペティに認められて、彼のスタジオで何曲かレコーディングを行った。

 1955年に、その中の曲がシングルとして発表されたがヒットしなかった。そのとき、テレビ番組で共演したジョニー・キャッシュから自分が所属していたメンフィスのサン・レコードを勧められたロイは、社長のサム・フィリップスに会いに行ったのである。

 サン・レコードといえば、あのエルヴィス・プレスリーやカール・パーキンス、ジェリー・リー・ルイス等々の有名ミュージシャンが在籍していた会社であり、サム・フィリップスは、かつてエルヴィスのマネージャーでもあった。

 そのサム社長は、ロイの歌い方や声に興味を持ち、契約を交わした。そして1955年にシングル化されていた"Ooby Dooby"、"Go Go Go"を再発したのだが、これはチャートの59位まで上昇した。

 気をよくしたサム社長は、ちょうどエルヴィスがRCAレコードに引き抜かれたこともあって、ロイをエルヴィスの後継者にしようとした。ただ、サム社長はロックン・ローラーとしてロイを育てたかったようだが、ロイ自身はバラードを歌いたかったようだった。

 そういう方向性の違いもあったせいか、3枚のシングルを発表するも、いずれも不発に終わり、失意のロイはエルヴィスの後を追うように、RCAレコードに自身も移籍したのである。

 残念ながら、1955年から59年までのロイ・オービソンについては、むしろヒットに恵まれない不遇な期間だったようだ。

 彼の運が好転するのは、59年にモニュメント・レコードに移籍したころからだった。1960年に"Uptown"がチャートの72位に入ると、続いて"Only the Lonely"がチャートの2位になり、イギリスでは首位になった。ここから彼の快進撃が始まるのである。

 彼の全盛期は、このモニュメント・レコード時代ではないだろうか。20枚のシングルがリリースされ、そのうち両面ヒットを含む21曲が全米シングル・チャートに入り、9曲がトップ・テンに、上記のように2曲が首位に立ったのである。

 これはイギリスでも言えることで、あのザ・ビートルズやザ・ローリング・ストーンズ等が大活躍していた60年代に、ロイは30曲をチャートに登場させ、そのうち10曲がトップ・テンに入って、3曲が首位に輝いている。(イギリスでの首位の曲は、"Only the Lonely"、"It's Over"、"Oh, Pretty Woman"の3曲だった)

 なぜかイギリスでは人気の高いロイ・オービソンだった。1963年にはザ・ビートルズと一緒にライヴ公演を行っているし、70年代に入っても1975年には合計55回にわたる全英ツアーを敢行していた。

 彼の最後の所属レコード会社は、イギリスのヴァージン・レコードだったし、イギリス人の間では、海の向こうの伝説的なミュージシャンというような認識があるのだろう。51s6tkjdqkl
 1965年に、ロイはレコード会社をMGMというところに移る。契約金は1年間で100万ドル、契約期間は20年間というもので、まさに超VIPの待遇だった。
 ところが、人生はロイにとっては、そう上手くはいかなかった。7年間の在籍で、15枚のシングルを発表したが、ヒットしたのはその約半分の7曲、一番成功したシングル曲は、1965年の"Ride Away"で、25位止まりだったのである。

 さらに不幸は続く。仕事面だけでなく、私生活では、1966年に奥方のクローディット・チェスター・オービソンがオートバイ事故で亡くなった。享年26歳だった。
 また、2年後にはテネシーにあった自宅が火事で全焼し、ロイ・ジュニアとトニーの2人の息子を失っている。

 1969年にはバーバラという人と再婚をしたが、アメリカで再び音楽活動を始めたのは、1977年になってからだった。それだけ時間がかかったのも、心の整理がつかなかったからだろう。

 MGMの次には、マーキュリー・レコード、アサイラム・レコードと転々と移籍を繰り返していったが、1979年になって映画「ローディ」に出演し、そのサウンドトラックに入っていたエミルー・ハリスとのデュエット曲"That Lovin' You Feelin' Again"(邦題は“胸ときめいて”)が久々にヒットして、翌年のグラミー賞のカントリー・デュオ/グループ部門で最優秀賞を獲得した。

 アメリカ国民はやっと彼の存在を思い出したようで、80年代に入ってからはドン・マクリーンやヴァン・ヘイレンが彼の曲をリバイバル・ヒットさせているし、映画の主題歌にも使用されていった。

 彼の歌は、いろんな人がカバーしているようで、上記の曲以外にも"Dream Baby"を1971年にグレン・キャンベルが、"Love Hurts"を1975年から76年にかけてイギリス人のジム・キャパルディやナザレスが、"Blue Bayou"を1977年にリンダ・ロンシュタットがヒットさせている。

 ロイ・オービソンといえば、どうしても“バラード・シンガー”としてのイメージが強くて、ベスト盤を聞いていた時も、ハワイアンを聞いている気分になったりもしたのだが、エルヴィスがカバーした"Mean Woman Blues"などは、ロックン・ロールしててなかなか良かった。
 イギリスでは、クリフ・リチャードやザ・スペンサー・デイヴィス・グループも歌っていたけれど、アレンジを加えれば、ハード・ロックとしても成立するようなそんな曲だった。

 1988年には、ジョージ・ハリソンやジェフ・リン等とともに、トラヴェリング・ウィルベリーズを結成して一躍有名になったが、アルバムがまだチャート・インしているときの12月6日に心筋梗塞で亡くなった。享年52歳だった。Travelingwilburys4ff972d27b17b
 最後に、ロイ・オービソンといえば、サングラスがトレードマークだが、元々はメガネだったのを度付きのサングラスに替えたからだと言われている。これはメガネを飛行機内に忘れたためで、次の日にイギリスでのビートルズとの公演に向かわなければならなかったからメガネを買う時間的余裕がなかったという理由だった。
 ちょっとした偶然は、人生に大きな影響を与えることがあるということを意味しているのかもしれない。

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2017年6月 5日 (月)

ドン・マクリーン

 さて、6月がやってきた。早いもので、今年も半分が過ぎ去ろうとしている。それに、今月の途中から梅雨も始まってしまう。約1か月間も続くのだが、それが終われば本格的な夏になる。こうやって月日は過ぎて行くのだろう。

 それで先月は女性シンガーを紹介してきたので、今月は男性シンガーやミュージシャンを紹介しようと思っている。1回目の今回は、あの有名な"American Pie"を歌ったアメリカ人のシンガー・ソングライターのドン・マクリーンだ。D135532995252011
 ドン・マクリーンは、1945年の10月にニューヨークの郊外で生まれた。幼い頃に喘息を患ったせいか、彼は外でスポーツをすることができなかったようだ。
 そのため家の中で読書や音楽に時間を費やすことが多くなり、徐々に当時流行り始めたロックン・ロールに夢中になっていった。

 当時の彼にとってのアイドルは、フランク・シナトラやリトル・リチャード、エルヴィス・プレスリー、そしてバディ・ホリーだった。
 そんな彼がプロのミュージシャンを目指すようになったのは、父親を病気で亡くした15歳の頃だった。

 彼は高校を卒業して、一時大学に入学したものの、退学してしまった。理由は、音楽的キャリアを追及するためである。ただ、父親からは、大学を卒業してほしいとしきりに言われていたため、退学にあたっては、やや後悔の念もあったらしい。

 だから、23歳の時に夜間大学で学び直して、経営学の単位を取得した。また、将来のミュージシャンとしての活動や生活に役立つかもしれないと考えて、コロンビア大学の大学院でも学んでいる。

 その間には、ピート・シーガーなどのミュージシャン仲間と一緒になって、彼はニューヨークのハドソン川沿いのクラブやコーヒー・ハウスを回って演奏活動を続けていった。のちにこの活動は、“クリアウォーター運動”と呼ばれるようになった。

 1週間に5日、1日に2回ライヴ活動を行っていて、ドン・マクリーンは、“ハドソン・リバー・トルバドール”(ハドソン川の吟遊詩人) として知られるようになったのである。

 彼のデビュー・アルバム「タペストリー」は、1970年に発表されたが、なかなかレコード契約を結ぶことができずにいて、34のレーベルから72回にわたって断られていた。
 ただ、アルバムのチャート・アクションを見ると、アメリカでは111位と悪かったものの、イギリスでは16位と健闘していた。71puj862lrl__sl1050_
 このアルバムからのヒット曲はなかったものの、"Castle in the Air"や"And I Love You So"などは、多くのミュージシャンからカバーされるほどの佳曲だった。
 特に、バラード曲である"And I Love You So"は、1973年にペリー・コモによって歌われて、見事にアダルト・コンテンポラリー・チャートで首位を獲得した。

 1971年には、続いてセカンド・アルバム「アメリカン・パイ」を発表した。もちろんこのアルバムには、歴史的な大ヒットを記録した"American Pie"が含まれている。この曲については、彼は次のように述べていた。

「バディ・ホリーは、僕にとって子どもの頃から崇拝してやまない最初で最後のミュージシャンでした。僕の友だちの多くは、エルヴィス・プレスリーが好きでしたが、自分にとってはやはりバディ・ホリーが何といっても一番でした。何しろ僕に直接話しかけてくれた人でしたから。
 彼は、彼の作り出す音楽以上に何か深い、僕にとってはシンボルともいえる存在でした。彼のキャリア、彼のグループ、彼の作り出すリード・ボーカルとバックの3人の絶妙なコンビネーション、これらはすべて60年代の音楽そのものを示し、また、僕の若さそのものを示すものでした」

 だから彼は、バディが1959年2月3日に飛行機事故で亡くなったとは信じられなかったし、信じたくないという気持ちが強かったのである。

 この曲が歴史的な名曲になったのも、万人の胸を打ったからだろう。単なるひとりのミュージシャンの死は、多くの人にとってシンパシーを持って迎えられたのである。

 それは、当時の時代の空気を吸い、状況を知っていた人にはもちろんのこと、何も知らない人にとっても、歌詞の中の空虚感や心の痛みなどを自分の生きざまに投影して感じることができたからだ。

 だから、いみじくもトルストイが「アンナ・カレーニナ」の中で、“不幸な家庭は、その家庭ごとにその様相が異なっている”と記していたように、この曲を聞いたそれぞれの人が、自分の中にある心の痛みや喪失感と照らし合わせながら、この曲を理解し、味わうことができたのではないだろうか。

 また、当時の時代の空気を反映していたことも当てはまるだろう。ケネディ大統領が暗殺され、ベトナム戦争は明らかにアメリカの敗北だった。“フラワー・ムーヴメント”と呼ばれたヒッピー文化は、若者にドラッグと退廃をもたらす結果に終わってしまった。
 人類は月に足跡を残したものの、当時の米ソの覇権争いの結果にしかすぎず、それによって人類の福祉の向上が図られたとは言えなかった。

 そういう状況の中で、“音楽が亡くなった日”というフレーズは、人によっては“友人が亡くなった日”や“青春が終わった日”、“夢が潰えた日”などに置き換えられていったのである。

 このシングル"American Pie"は、8分27秒と長かったため、当時のEPレコードではA面とB面の両面に分けて入れることになった。
 それに、曲自体のインパクトや、何やら訳ありというか、多義的で意味深な歌詞などが話題を呼び、ラジオなどでは途中でカットされることもなく、すべて通しでオンエアされるようになっていった。

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 この曲は、1971年の11月にシングル・チャートに顔を出すと、翌年の1月から2月にかけて4週間首位に輝いている。ドン・マクリーンにとっては、おそらく最初で最後の全米シングル・チャートの首位に輝いた曲になるだろう。

 ドン・マクリーンといえば、どうしても"American Pie"のイメージが強いのだが、このアルバムでも最初にこの曲が置かれていて、アルバム全体の方向性を示している。ただし、もちろんこの曲だけではなくて、他にも佳曲が含まれている。

 アルバム3曲目の"Vincent"は、オランダの画家、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホのことを歌っていて、歌詞の中にゴッホが弟のテオにあてた手紙の一部が引用されていた。
 この曲もバラードで、切々と歌うドン・マクリーンの姿勢が不遇の画家との姿とダブって見えて、えも言われぬ印象を与えてくれる。

 もともとドンの声は、深みがあり落ち着いていて優しさを感じさせる。だから、アップテンポの曲では力強く、静かなバラードではしっとりした情感を与えることができる。
 "American Pie"では“静~動~静”という転換が見事であり、"Vincent"では奥行きのあるボーカルを楽しむことができるのである。

 このアルバムは、イギリスのアルバム・チャートでは3位、アメリカやカナダでは1位を獲得した。いまだに語り継がれていることを考えれば、やはり歴史を創ったアルバムといってもいいだろう。

 ドン・マクリーンは、これ以降も次々とアルバムやシングルを発表していて、1981年にはロイ・オービソンが1961年にヒットさせた"Crying"をカバーして、チャートの5位に送り込んでいる。
 この曲はジェイ&アメリカンズというグループが1966年にリバイバル・ヒットさせているが、ドン・マクリーンの美しい声がこのバラード曲にもピッタリとあてはまっているようだ。

 そういえば、1971年にロバータ・フラックが"Killing Me Softly with His Song"を歌ってヒットさせたけれども、元歌を書いたロリー・リーバーマンという女性シンガー・ソングライターは、ドン・マクリーンのライヴを見てこの詞を書いている。そう思わせるほどのステージングだったのだろう。

 そういう彼の魅力を味わいたいのなら、やはりベスト盤が一番だろう。いろんなベスト盤が出ているけれど、どれもほぼ同じような構成だと思う。71jkbefxvhl__sl1050_
 ただ中には2枚組ベスト盤も出ているし、"American Pie"の再録ヴァージョンを収めたものもある。やはり芸歴が長いと、手を変え品を変え様々なアルバムが発表されるのだろう。

 もちろん、今でも現役ミュージシャンのドン・マクリーンである。アメリカ国内や海外のフェスにも頻繁に参加しているし、アルバムも制作している。
 残念なのは、昨年、家庭内DVのせいで離婚した元奥さんから訴えられたことだろう。軽微な罪状だったせいか、大きな話題にはならなかったようだが、ひょっとしたら奥さんに向かって"Bye Bye Miss American Pie"と歌ったのかもしれない。

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2017年5月29日 (月)

ティファニー

 デビー・ギブソンのことを調べていたら、彼女とティファニーはライバル同士だったという記述が見つかった。
 確かに、同時期に、しかもほぼ同じ年齢で活動していたから、ライバルだったかどうかは別にして、お互いに意識していたことは間違いないだろう。

 個人的には、ライバル云々というのは、周りの人たちがプロパガンダに使用した感じがする。お互いそれで名前が(曲も)売れていったのだから、双方に利点があったような気がしてならない。

 それで、今回はそのティファニーのことについてである。ティファニーといえば、「ティファニーで朝食を」とか、宝飾品のティファニーのことを思い出してしまう。
 だからというわけではないが、“ティファニー”という名前は、てっきり芸名だと思っていた。でもよくよく調べたら、本名ということが分かってビックリした。Hqdefault
 彼女の本名は、ティファニー・ダーウィッシュ(もしくはダーウィッシ)という。1971年10月2日生まれなので、今年で46歳になる。まだまだ若い部類に入るだろう。

 彼女は2歳の時に、従姉のダーラからヘレン・レディの"Delta Dawn"を教えてもらったと回想している。
 本当かどうかは不明だが、本人がそういうのだから間違いないだろう。それで5歳の時には、母親に将来は歌手になると言ったと言われている。

 それから、人前で初めて歌ったのは9歳の時だったらしい。故郷であるカリフォルニアのノーウォークのバーベキュー・パーティで、地元のバンドのカントリー・ホウダウナーズと共演した。ちなみにこのバンドは、名前の通り、カントリー系のバンドだった。

 その後もこのバンドとともに活動をつづけたようだが、その時はまだ12歳だった。12歳の少女が恋愛の歌、それも浮気や駆け落ちなどのドロドロした恋心を歌っていた。

 彼女の歌唱力や歌の技法には優れたものがあったが、如何せんまだ12歳、歌詞の内容とかけ離れたものがあり、説得力も欠けていたことから、彼女はカントリー・ソングをあきらめ、ポップスの世界に足を踏み入れたのである。

 ともかく、彼女は歌手になるために、スタジを借りてデモ・テープを録音していた。その時、スタジオの所有者で、しかもちょうどその隣の部屋でスモーキー・ロビンソンのレコーディングを手伝っていたプロデューサーのジョージ・トビンが、興味本位でティファニーの録音を見学したところ、あまりの歌のうまさにビックリしたらしいのだ。

 トビンは、すぐに彼女のことを気に入ったのだが、まだ12歳でもあり、しばらく様子を見ることにした。もちろん連絡は取り合っていて、それから約1年後に本格的にレコーディングを始めた。

 その時48曲をレコーディングしたのだが、そのうちの1曲、1967年に全米4位まで上昇したトミー・ジェイムズとションデルズの"I Think We're Alone Now"はトビーの大好きな曲でもあった。

 ただ、ティファニーは自分が生まれる前の曲で、聞いたこともなかったので、最初は歌うのに消極的だったようだ。アルバムから最初にシングル・カットされたのが、アルバムの中の別の曲だった"Danny"であることからも、それはわかると思う。

 ところが、ユタ州のラジオ局のプロデューサーがこの曲をオンエアしたところ、大きな反響があったため、レコード会社のMCAにシングル・カットを勧めたのである。

 こうした予期しなかった幸運が重なって、"I Think We're Alone Now"はシングル・カットされた。世の中何が僥倖につながるかわからない。幸運は、時として、予期しない方向から歩いてくるようだ。

 この曲は、1987年の11月に2週間だけ全米シングル・チャートで首位を獲得した。その時、彼女は全米のショッピング・モールをツアー中で、カラオケのテープで歌っているときに知ったという。

 この曲を含む彼女のデビュー・アルバム「ティファニー」は、1987年の9月に発表された。このアルバムからは5曲がシングル・カットされていて、そのうちチャートの首位になったのが2曲、ベスト10以内に1曲、50位以内に1曲がチャート・インしている。815ahxil7hl__sl1404_
 さらには、アルバム自体もカナダ、ニュージーランド、アメリカで1位を記録したし、イギリスでは5位、オーストラリアでは6位と、英語圏では記録的な大ヒットを残していて、まさにセンセーショナルなデビューとなったようである。

 もちろん彼女は歌うだけなので、ソング・ライティングには関わっていないのだが、その歌唱力や表現力は、とても15歳前後の女の子とは思えないものだった。自分なんかは、若返ったスティーヴィー・ニックスかグレイス・スリックかと思ったものだ。

 アルバムの4曲目に収められていた"Feelings of Forever"は、純愛もののバラード・ソングだが、曲に起伏があり、しかもそれを切々と歌っていて、聞いただけではとても中高生ぐらいの女の子が歌っているとは思えないのだ。この曲はシングル・チャートで50位を記録した。

 ザ・ビートルズのレノン&マッカートニー作品の"I Saw Her Standing There"は"I Saw Him Standing There"と一部変えられて歌われていて、原曲以上にノリノリの曲に仕上げられていた。ティファニーは、バラードだけでなく、こういうロックンロールの曲も歌いこなすことができた。この曲は、チャートでは7位まで上昇している。

 彼女の首位になったもう1曲は、アルバムの最後のバラード曲"Could've Been"である。邦題は“思い出に抱かれて”というものだった。
 この曲は、翌年の1988年の2月に2週間首位に立ったが、この時彼女はまだ17歳だったし、この曲をレコーディングしたときは、まだ13歳だった。

 この曲を作った人は、ロイス・ブレイッシュというシンガー・ソングライターだったが、彼女が失恋を経験した結果、この曲が生まれた。
 プロデューサーのトビンは、この曲の版権を買い取り、クリスタル・ゲイルやドリー・パートン、ナタリー・コールなどに歌ってもらうことを望んでテープを送ったが、誰も何も言ってこなかった。

 それで、ティファニーにレコーディングをしてもらったという経緯があったのだが、見事チャートの1位になったのだから、世の中、何がどうなるかわからないものである。
 確かに、彼女の人気の高さがチャートに影響を与えたことは間違いないだろうが、それでも連続して2曲をチャートの首位に送り込むには、それなりの実力があってからこそだろう。

 一説には、2曲連続してチャートの首位になった曲を歌った女性シンガーは、ブレンダ・リー以来2人目らしい。ただ17歳という若い年齢だったのは、ティファニーだけのようだ。81wlnrmbkyl__sl1500_
 ティファニーとデビー・ギブソンを比べてみると、ティファニーはアップテンポの曲でも、バラード曲でも、両方チャートの1位になったが、デビー・ギブソンの方はバラード曲だけしか1位にはなれなかった。
 しかし、デビー・ギブソンは、作曲能力やアレンジ、プロデュース能力を身に着けていて、音楽的素養という面ではデビー・ギブソンの方が優れていたようだ。

 あまり意味がないとは思うけれども、両名ともデビューして2~3年で人気が下降していった。デビー・ギブソンは、ミュージカルの方面に興味を示したからだが、ティファニーの方は、ゴシップや両親のマネージメントへの介入などが、イメージ・ダウンにつながったようだ。

 ただ、それでも1988年に出されたセカンド・アルバム「フレンズ」は、アメリカではプラチナ・ディスクを獲得していて、ビルボードのアルバム・チャートでは17位になっている。
 シングルも5曲カットされていて、そのうち"All This Time"は6位、"Radio Romance"は35位を記録した。51z5scddxgl
 ティファニーは、今もコンスタントにスタジオ・アルバムを出していて、最近では2016年に「ア・ミリオン・マイルズ」というタイトルのアルバムを発表している。
 また、女優として映画やテレビにも出演していて、2011年にはデビー・ギブソンと昔の確執を皮肉ったようなコメディ映画で共演していた。

 まだまだ45歳のティファニーである。昔の歌唱力や表現力がまだ備わっているのであれば、十分現役として活動できるはずだ。単なる懐メロ歌手で終わることなく、さらにもう一花咲かせてほしいものである。

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