2017年8月 7日 (月)

エド・シーラン

 現代の吟遊詩人といってもおかしくないと思っている。エド・シーランのことだ。自分は、もちろん彼のデビューした2011年から彼の名前は知っていたのだが、まさか、ここまでビッグな存在になるとは思ってもみなかった。Edsheeran2017leadpressshot_lo_res
 というのも、雑誌などでは彼の楽曲よりもその経歴の方が注目を集めていて、確かにラジオから流れてきた曲はよかったと思ったのだが、また新人が登場してきたなあという程度の認識しかなかったのである。

 何しろ、当時の彼のキャッチ・コピーは、“住所不定、職業シンガー・ソングライター”というものだった。如何にも何だか怪しい感じがすると思うのだが、そう思ったのは私一人だったのかもしれない。

 以前にも書いたけれども、イギリスの音楽界の新陳代謝は異様に早くて、人口は日本の半分くらいしかないのに、次から次へとニュー・カマーが現れてきて、しかもそのうちの何人かは世界的にもビッグな存在になってしまう。ジェイムス・ブラントにジェイムス・モリソン、エイミー・ワインハウスにアデル、サム・スミス、そしてエド・シーランなどなどである。

 エド・シーランは、ウエスト・ヨークシャーのハリファックスというところで、1991年の2月に生まれている。人口8万人くらいの街だから、そんなに都会ではなさそうだ。
 ただ、エド以外にも有名ミュージシャンが誕生していて、元ユーライア・ヒープのボーカリストのジョン・ロートンや元トンプソン・ツインズの中心人物だったトム・ベイリーなどもいた。

 エドの父親はアイルランド人で、母親はイギリス人だった。幼い頃から両親、特に父親が流す音楽に影響を受けるようになり、4歳頃から教会の聖歌隊で歌うようになった。
 父親はボブ・ディランやヴァン・モリソン、ザ・ビートルズを聞き、エドはエミネムやグリーン・デイ、リンキン・パークなどを好んで聞いていたようだ。

 5歳からはピアノを習い始め、学校ではチェロやバイオリンも手にするようになった。やはり生まれつきの才能のようなものが輝いていたのだろう。

 11歳になると、テレビで見たエリック・クラプトンの影響で、ギターを手にするようになり、アイルランドのシンガー・ソングライターのダミアン・ライスのライヴを見て、自分もシンガー・ソングライターになろうと決心したという。
 
 何と影響を受けやすい人だと思うかもしれないけれど、これでその後の人生が決まったのだから、これはもう天啓みたいなものだったのだろう。

 ここからがエドのすごいところで、自分で曲作りを始め、14歳になるとループ・ペダルを買ってきて、アコースティック・ギターを弾きながら歌を歌い、デモ・テープを制作するようになった。

 16歳になると、とにかく1年365日音楽をやりたいと思い、ついには学校までも退学してしまう。そして、家を出て、時に友人の家に泊まりながら、時に路上生活者のような暮らしを送りながら、ストリート・ミュージシャンとして活動を始めるようになったのである。

 よくまあ、家の人が許したなあと思うのだが、それだけ彼には才能があると周りの人が認めていたのだろうし、まだ若いから失敗しても構わないと考えていたのかもしれない。

 いずれにしても、彼はアコースティック・ギターとループ・ペダルを持ってロンドンに出かけて、ストリートやパブのような居酒屋で歌うようになった。
 2009年には、年間312回のソロ・パフォーマンスを行い、ミニ・アルバム「ユー・ニード・ミー」も発表した。このあたりから徐々に彼の運命が好転していく。

 やがて彼のライヴは噂になり、人々に好意的に受けとめられるようになって、マネージャーも付くようになった。
 これは、もちろん彼の楽曲自体がもつ魅力もあったのだろうが、同時に、彼の明るくてポジティヴな性格も幸いしたに違いないだろう。

 翌2010年には、ミニ・アルバム「ルース・チェインジ」がイギリスのiTunesで1位になり、メジャー・レーベルのアトランティック・レーベルと晴れて契約することができた。

 そして、2011年にはメジャー・デビュー・アルバム「+」が発表される。この中からシングル・カットされた"The A Team"が大ヒットして、一躍彼は世界中に名前が知られるようになった。この曲は、チャートでは首位には立たなかったものの、グラミー賞の「ソング・オブ・ザ・イヤー」やブリット・アワードにノミネートされるくらい有名になった。41wad6qwa0l

 このアルバムを聞いての最初の印象は、21世紀のシンガー・ソングライター像を確立したなあということだった。

 今までのシンガー・ソングライターというと、ギター1本の弾き語りというイメージが自分の中にはあった。ところが、このアルバムでは、確かに基本はフォーク・ギターなのだけれども、ロックっぽい曲もあるし、ラップ調の曲も含まれていた。エミネムから影響を受けたのは間違いないようだ。

 要するに、エドの持つ音楽性が幅広いのである。ただ、アルバムの中盤になるとおとなしめの曲が続いていて、少し退屈さも感じてしまった。この辺はアレンジの問題だろうか。
 国内盤にはボーナス・トラックを入れて17曲が収められていた。そのうち、エドひとりで手掛けた曲は、"The A Team"、"Small Bump"、"Little Bird"、"Sunburn"の4曲だけで、あとはジェイク・ゴスリングなどの音楽パートナーと一緒に作っている。

 幅広いジャンルの音楽を含む新時代のシンガー・ソングライターによるアルバムだったが、基本的にはまだまだフォーク・ソングという雰囲気が色濃く残っていて、その辺はさすがに大英帝国の伝統を感じさせてくれた。

 このデビュー・アルバムは、イギリス国内では予約だけでゴールド・ディスクを獲得し、発売1週目で10万枚を超し、最終的に200万枚以上売れている。また、全世界では400万とも500万とも言われていて、よくわからない。それほど売れているのである。

 続くセカンド・アルバム「×」は、2014年に発表された。フォーク・ミュージックのシンガー・ソングライターというイメージから徐々に脱皮していく様子が、このアルバムから伺われた。81x21cxzizl__sl1425_
 何しろプロデューサーのひとりに、リック・ルービンを迎えているのだ。リック・ルービンといえば、ビースティ・ボーイズやRUN.D.M.C.の他に、メタリカやレッド・ホット・チリ・ペッパーズなども手掛けている大物プロデューサーだ。それにエミネムのアルバムも手掛けていたので、エドにとっては憧れのプロデューサーだったのだろう。

 それにリックだけでなく、"Happy"を歌ってヒットさせたファレル・ウィリアムスも曲作りやプロデュースに参加していたので、ヒップホップの要素も前作よりは強くなっている。
 だからというわけでもないだろうが、全体的に前作よりも黒っぽい気がした。ソウル色というよりは、やはりヒップホップやラップ色がところどころに浮かんできている感じだった。

 このアルバムでも共作が目立つ。自作曲は冒頭の2曲"One"と"I'm A Mess"、エミネム調の"The Man"、ポップな"Shirtsleeves"、映画「竜に奪われた王国」の主題歌である"I See Fire"の5曲で、残りの12曲は他のミュージシャン等とのコラボレーションだった。確かにこれなら売れるのは間違いないだろう。

 しかも前作からの約3年間で、120曲以上の曲を作りその中から厳選したものを、さらに友人たちと磨きをかけていったのである。
 そして没になった曲は、友人のテイラー・スウィフトやジャスティン・ビーバーに提供したのだが、それらの曲もまたヒットしたのだから、エドの才能は計り知れない。

 当然ながら、このアルバムも売れた。全米や全英でチャートのNo.1になったの当然のことで、iTunesでは全世界95か国で1位になり、全世界で1400万枚以上も売れている。
 デビュー・アルバムと合わせると、2300万枚以上と言われているし、フォーブス誌によると、2016年の1年だけでエドは約3300万ドルの収入があったそうである。

 2017年にサード・アルバム「÷」が発表されたが、これはもう21世紀の今の段階では、ほぼ完璧なポップ・アルバムだと思っている。81mvp7ip8l__sl1425_
 プロデューサーには、前作にも参加していたベニー・ブランコがいた。彼はマルーン5やケイティ・ペリーのアルバムなども手掛けていて、今どういうアルバムが売れるのかよくわきまえているミュージシャンでもあった。

 エドは最初から、とんでもなくポップなアルバムにしようと決意して臨んでいて、少なくとも3回は最初からアルバムを作り直したという。その間、数百もの楽曲が用意され、そのほとんどが没になっていった。まさにプロ・ミュージシャンとしての意地とプライドをかけたアルバム制作だったようだ。

 また、イギリスのバンド、スノウ・パトロールのメンバーでエドの友人のジョニー・マクダイドも曲作りに関わっていた。彼は、前作でも7曲をエドと共作していた。
 逆に、自作曲はバラードの"Perfect"と"Supermarket Flowers"の2曲だけにとどまっている。21世紀のシンガー・ソングライターは、ひとりで部屋に閉じこもるのではなくて、他の人と積極的にコラボレーションするという特徴があるようだ。

 だから、普通のフォーク調の曲だけではなく、ラップからソウル風のバラード、スペイン語まで駆使したダンス・ミュージックにアイリッシュ音楽まで、彼の守備範囲は限りなく広がっている。無いのはハード・ロックとプログレぐらいだろう。

 もともと才能のある人が、同じように才能のある人たちと一緒にアルバムを作ったらこうなりましたよという典型的な見本が、このアルバムだ。
 すでに、全世界14か国以上のアルバム・チャートで1位になっている。文明国でなっていないのは、ギリシャとメキシコと日本ぐらいなものだった。

 何しろアルバムを出すたびに、過去のアルバムもチャートに顔を出すのである。「÷」が発表された後にも、デビュー・アルバムの「+」とセカンド・アルバムの「×」が、イギリスのアルバム・チャートのトップ10に登場していた。恐るべし、エド・シーラン。今年の洋楽のシーンの顔は、彼を除いては他にいないだろう。

 面白いことに、アルバムの中では、新時代に相応しい楽曲や制作方法をとってきたエドだが、ライヴにおいては、昔も今もストリート・ミュージシャンのように、ギター1本で勝負している。

 たとえば、2015年の7月にはイギリスのウェンブリー・スタジアムにおいて3日連続で公演を行い、3日間ともソールド・アウトにしている。その時の観客動員数は3日間で計約24万人だった。

 アリーナの収容人数は最大で9万人である。それらの人の前で、ギター1本とループ・ペダルだけで歌い切ったエドは、確かに本物のシンガー・ソングライターに違いない。
 また、今年の5月1日から3日までロンドンのO2アリーナで公演を行ったが、こちらも3日間連続でソールド・アウトになっている。この時は、約6万人のファンが集まったということだった。Vipirelandimage149579620x434
 アルバム・タイトルの「+」は、自分のよいところが出せるようにという意味で、つけたタイトルだった。次の「×」は、前作以上の結果が出せるようにとつけたタイトルだった。そしてその目標は達成できている。さて、「÷」とはどういう意味なのだろうか。

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2017年7月 3日 (月)

ジョン・デンバー

 さて、7月になった。7月の第1回目は、ジョン・デンバーである。特に意味はないのだが、今の日本ではもうその名前も忘れ去られているような気がしたので、彼の素晴らしさを再確認する意味でも少し記してみようと思った。

 ジョン・デンバーも、よく考えたら、いやよく考えなくても、1970年代のシンガー・ソングライターの一人だった。20161117091425583
 当時のシンガー・ソングライターは、どちらかというと時代の空気を反映したようなダークでブルーな曲を書いて歌う人が多かった。つまり、60年代に起きたベトナム戦争に対する反抗(学生運動)やヒッピー・ムーヴメントに対する失望感が反映していたのではないだろうか。

 その結果、無力感や厭世観が若者の間に流行っていき、日本では“シラケ世代”などと呼ばれていたし、諸外国でもドラッグに手を染めたり、社会からドロップアウトしていった人もいたように思う。

 だから1970年代の中頃にもなると、シンガー・ソングライターは、“怒れる若者の代弁者”ではなくて、日常の風景を切り取ることで、若者に“安息感”や“空虚感”を提示しようとしたのではないかと思っている。ジェイムズ・テイラーやジャニス・イアン、キャロル・キングなどのアルバムが売れたのも、先鋭的なメッセージがもう必要とされなくなった、そんな時代だったからではないだろうか。

 でも、ジョン・デンバーのイメージは、ちょっと違うような気がする。彼の曲を聞くと、明るくて希望のある、もしくは楽天的な気分にさせられるからだ。
 彼自身も、当時の雑誌などで『世界がなんで素晴らしいとこなのか、僕が歌うから聞いてくれ。なぜ肯定的なのかというと、すべてがいつも新鮮だからさ』と発言していた。

 彼の本名は、ヘンリー・ジョン・デューチエンドルフ・ジュニアといった。名前からわかるように、祖先はドイツ系の移民だった。彼の“デンバー”という名前は、のちに自分の好きなアメリカの都市の名前を選んだことによる。

 ジョンは、1943年の大晦日に、ニューメキシコ州のロズウェルで生まれた。父親が空軍のパイロットだったため、幼い頃から引っ越しを繰り返していたようだ。
 祖母がギターを買ってくれたため、子どもの頃から練習を始め、高校時代にはロック・バンドで演奏していた。

 テキサス工科大学では建築学を専攻していたが、学校に行くよりはクラブやバーなどで演奏することの方が多くなり、最終的には退学している。
 彼は、フォーク・グループのチャド・ミッチェル・トリオに参加して3年間ほど活動した後、1966年にアルバムを自主制作した。

 そのアルバムの中に、のちにピーター、ポール&マリーが歌って1969年の12月に全米No.1に輝いた"Leaving on A Jet Plane"が含まれていた。ピーター、ポール&マリーにとっては最初で最後の首位になった曲だった。
 ただ、この曲のオリジナル・タイトルは"Babe, I Hate to Go"というもので、ピーター、ポール&マリーのプロデューサーだったミルト・オクンがタイトルを変更している。

 この曲のヒットのおかげで、彼は1969年にデビュー・アルバムを当時のRCAレコードから発表することができた。
 1971年8月には、シングル"Take Me Home, Country Roads"が全米2位のヒットを記録し、翌年には"Rocky Mountain High"がビルボードのシングル・チャートの9位に顔を出し、この後徐々にヒットを出すようになった。

 1973年の3月には、"Sunshine on My Shoulders"がついにチャートで1位を記録した。この曲は、それまでの陽気で幸福感の満ちたメジャー調の曲ではなくて、マイナーな雰囲気を持つものだった。その理由を彼は、次のように述べている。

 『落ち込んでいたから、ブルーな感じの歌を書きたいと思っていたんだ。僕の歌の楽天性を嫌がる人は多いけれども、レコードを聞いてもらえれば、苦しみも歌っているということが分かると思うよ』

 さらに翌年の1974年7月には、"Annie's Song"が2週間連続でチャートの首位に輝いている。
 この曲は、大学時代の恋人で1967年に結婚したアン・マーテルについて書いた曲で、スキー・リフトに乗りながら約10分程度でできたという。アメリカの雑誌「ピープル」は、この曲を評して、ジョン・デンバーが書いた最も素晴らしいラブ・ソングであると述べていた。

 この時、ジョンはスイスにいた。実は、ジョンとアンの間に溝ができていて深刻な状況だったらしい。
 ジョンは一人で家を出て、スイスに旅行に出かけた。6日間の旅行だったが、アンにとっては3ヶ月くらいに感じられたようで、結局、アンから涙まじりの長距離電話がかかってきて、ジョンはアメリカに戻ったのである。

 ただ運命は皮肉なもので、彼らの結婚生活は1983年に終わりを迎えた。16年間という期間だったが、ジョンにとっては最も幸福な期間だったと述べている。確かに、この間に彼の人気はピークを迎えていたのは、間違いないことだった。41e24n6ab5l_2

 ジョンには彼が歌った曲の中では、4枚の全米No.1がある。3枚目は1975年6月に1週間だけ首位に立った"Thank God I'm A Country Boy"で、元々は1974年に録音された曲だった。
 曲を書いたのはジョンではなく、彼のバンドのギタリストだったジョン・マーティン・ソマーズだった。

 1975年は、彼のやることなすことがすべてうまくいった年だった。彼が出演したテレビ番組「アン・イヴニング・ウィズ・ジョン・デンバー」がエミー賞の最優秀音楽バラエティ番組賞を受賞したし、カントリー・ミュージック協会の年間エンターティナー賞も獲得している。

 また、彼の関心は自然に向けられ、自然との調和や環境保護にも関心を抱くようになった。そのために財団を創設し、環境保護や飢餓対策のための運動を積極的に推進し、援助するようになった。

 また、飛行機操縦のライセンスを獲得し、自家用機を使って講演活動などにも積極的に関わるようになった。この時期の彼の活動は、音楽のみならず人道支援活動など、幅広く行われていたのである。

 そしてまた、この年には、もう1枚シングル曲が全米No.1を獲得している。これも1週間だけ9月に首位になった"I'm Sorry/Calypso"という曲で、両面ヒットを記録していた。

 "I'm Sorry"が首位に立った後、アメリカのラジ局は"Calypso"を積極的にオンエアしていた。この曲は、フランスの海洋科学者であるジャック・クストーの功績を讃えて、彼が使用した調査船カリプソ号にちなんで作られた曲で、"I'm Sorry"がヒット中に、この曲もまたシングルのサイドAとして認定された。

 『僕は、人がみんな人生のうちでいつかは静かなところに行って、山のふもとの湖のそばに腰かけて、嵐が行ったり来たりするのを聞くことができたらなあと思う。そこには美しい音楽があって、ただそれに耳を傾ければいいんだ』いかにもナチュラリストらしい言葉だと思う。これが高じれば、プログレの世界になるのだが、その一歩手前で留まっているところが、ジョンらしい。

 この後、コンスタントにアルバムやシングルを発表するも、大ヒットにはつながらなかった。一つは、彼の興味・関心が映画やテレビの世界に移り、映画に出演したり、グラミー賞授賞式やテレビ番組の出演やMCを担当するようになったことも影響があっただろう。

 また先ほどにも述べたように、16年間の結婚生活にピリオドを打ったということも、ジョンに何らかの影響を与えたに違いないだろう。

 それでも80年代にはサラエボでの冬季オリンピックのテーマ曲を歌ったり、ニューヨークで写真の個展を開催したりと、多彩な活動を展開しているし、ユニセフ基金のスポークスマンも務めている。

 残念なことに、1997年の10月12日に、自身が操縦していたセスナ機が墜落して、彼は帰らぬ人となった。享年53歳だった。
 カントリー&ウェスタンの影響を受けながらも、フォーク・ソングを中心とした彼の音楽は、新しい形としてのシンガー・ソングライター像を示したと思っている。83w8387839381e83f839383o815ba
 それはポップ・ミュージックの範疇として語られる音楽かもしれないが、それだけ多くの人を引き付ける魅力が、彼の作った曲に備わっていたということだろう。彼の早すぎる死が悔やまれてならないのである。

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2017年6月26日 (月)

ジム・クロウチ

 さて、6月の最後はジム・クロウチについて語ることにしよう。彼については、このブログが開設されて間もない頃に、「たまにはポップ・ソングをpart2」という短い拙文の中で綴っていたのだが、十分な紹介ができずに終わってしまっていた。
 それではジムに対しても失礼だと思ったし、彼の歌の素晴らしさをもっと世の中の人に知ってもらいたかったので、きちんと取り上げることにした次第である。10731499jimcroce1450838062
 ジムは、アメリカのシンガー・ソングライターだった。「だった」ということは、文字通りで、すでに彼はこの世にいないということを意味している。

 1973年9月20日、ノースウエスト・ルイジアナ大学での公演を終えたジム一行は、約112キロ離れたテキサス州シャーマンへ向かうために、ナッチトチェス飛行場でチャーター機に乗り込んだ。オースティン大学での公演が控えていたからだった。

 飛行機は離陸後まもなく、飛行場内に1本しかないぺカンの木に接触し、ジムを含む乗員全員が即死した。享年30歳だった。墜落事故の原因は諸説あるが、パイロットの冠動脈疾患のせいで意識を失ったという説が有力である。パイロットは57歳のベテランだった。0165ce232bd1c6fd2403e8be4fd5976d_2
 ジム・クロウチは1943年の1月に、フィラデルフィアで生まれた。両親はイタリア系の移民で、彼の本名はジェイムズ・ジョセフ・クロウチといった。
 子どもの頃から音楽が好きで、最初はアコーディオンを弾いていたらしい。5歳ころのお話である。

 大学生になると、フォーク・ソングに興味を持ちようになり、スパイアーズというグループを結成して、人前で歌うようになった。また、おもちゃ屋でアルバイトをしてアコースティック・ギターを購入していた。
 その時に、トミー・ウェストと友人になった。彼はのちにテリー・キャッシュマンという人とプロデューサー・チームを結成し、ジムを前面的にバックアップするようになる。

 大学を卒業してからは定職にも就かず、時間があれば音楽活動をするようになった。地元のヤミのラジオ局の広告取りの仕事をしたり、建設現場での肉体労働のような作業をしながら、自分のオリジナル音楽を追及していった。

 ある時、アルバイト中に大型ハンマーで自分の左手を打ち付けてしまった。幸いにして指は切らずに済んだものの、傷ついた指を使わないで済むような変則的なギター奏法を考えなければならなかったようだ。

 1966年に、イングリットという女性と結婚したジムは当面の生活費を稼ぐために、友人のトミーのアドバイスを受け入れ、ニューヨークに引っ越ししてキャピトル・レコードと契約し、妻と一緒にデュオ・アルバム「アプローチング・ディ」を制作し発表したが、残念ながら注目を集めることはなかった。

 失望したジム夫婦は、ペンシルヴァニアに戻って様々な仕事に従事しながら、次の機会をうかがっていた。
 ジムは、トラックの運転手をしながら曲を書き続け、6曲分をカセットテープに吹き込んで、ニューヨークに住むトミーに送ったのである。

 曲を聞いたトミーとテリーは、その内容にいたく感動し、ジムにニューヨークに来てレコーディングをするように勧めた。1972年のことだった。その年の7月にデビュー・アルバム「ジムに手を出すな」が発表され、2枚のシングル・ヒットを生み出した。

 アルバム・タイトルと同名の"You Don't Mess Around With Jim"はシングル・チャートの8位に、続く"Operator"は17位まで上昇した。
 そのせいか、このデビュー・アルバムはゴールド・ディスクを獲得し、アルバム・チャートで首位を獲得している。

 気をよくしたジムは、続くセカンド・アルバム「ライフ・アンド・タイムズ」を翌年の7月に発表した。このアルバムからの2枚目のシングル曲"Bad, Bad Leroy Brown"は、7月21日から2週間連続でシングル・チャートの首位に輝いた。そして、このアルバムもまたチャートの1位に輝き、ゴールド・ディスクを獲得している。

 ジムは、この曲のモチーフを、彼がニュージャージーで電話の配線工をしていた時に知り合った友人から頂戴している。

 ジムの話によると、“彼は1週間ばかり働いた後、疲れた、もううんざりだと言って、仕事場から逃げ出してしまった。その後、給料を取りに戻ったところを、無断欠勤したという理由で逮捕されてしまった。彼のしゃべる話を聞いたときに、いつか彼のことを歌にしようと思った”ということだった。

 1973年の9月12日には、彼の3枚目のアルバム「アイ・ガッタ・ネイム」のレコーディングが完成した。このアルバムのタイトル曲は、映画「ラスト・アメリカン・ヒーロー」の主題歌に使用された。
 また、このアルバムはこの年の12月に発表され、全米アルバム・チャートでは2位を記録している。ちなみにこのアルバムの邦題には、「美しすぎる遺作」という副題が付けられていた。

 同時に、この日の夜、当時のABCテレビでドキュメンタリー番組が放映された。内容は、癌で亡くなった若い女性の半生を描いたものだったが、このテレビ番組のテーマ・ソングにジム・クロウチの"Time in A Bottle"が選ばれたのである。

 放映後、全米にあるABCテレビの各放送局に、この主題歌は誰が歌っているのか、どこで手に入れることができるのか等々の問い合わせが殺到した。この曲は、まだ世に出回っていなかったのである。そして、この日から8日後に彼は亡くなったのだ。

 彼の死後、3枚目のアルバムが発表され、そこからシングル曲"I Got A Name"がチャートで10位になったとき、"Time in A Bottle"がシングル・カットされ、12月29日から2週間、シングル・チャートの首位に立っている。
 つまり、彼の死後に発表された曲が1位を記録したわけで、当然のことながら、彼はこの記録を知ることはなかった。

 また、"I Got A Name"はジムの作品ではなく、ロバータ・フラックが歌ったことで有名になった"Killing Me Softly With His Song"を手掛けたチャールズ・フォックスとノーマン・ギムベルによるもので、息子の成功を夢見ながら亡くなっていったジムの父親のことを示唆しているようで、ジム自身が気に入って自分のアルバムの中に取り入れたという。

 ジムの父親のことを歌っているようで、実際は、ジム自身にも当てはまるような曲になってしまった。若い時に苦労を重ね、まさにこれからという時にジムは亡くなったわけで、運命の皮肉さを感ぜざるを得ない。

 言い忘れていたが、"Time in A Bottle"はジムのデビュー・アルバムに収められていた曲で、ジムもまさかシングル・カットされるとは思ってもみなかっただろう。

 この曲のリード・アコースティック・ギターは、モーリー・ミューライゼンという人が演奏していて、彼はジムの重要なパートナーだった。この曲以外にも"Operator"や"I'll Have To Say I Love You in A Song"などでも彼の演奏を聞くことができる。そしてまた、モーリーもまたジムと同じ飛行機に同乗していたため、帰らぬ人になってしまったのである。
「交換手さんよ
ちょっと手伝ってくれないか
わかるだろ
電話帳が古くて文字が薄いんだ
彼女はロスに住んでいる
俺の元親友だったレイと一緒にね
彼女が言うには知り合いだけど
時々嫌いになるっていう奴なんだ

だから奴らがうまくいくとは
思えない
でも、そのことは忘れてくれ
もしわかったら番号を教えてくれよ
電話してみるから
ただ元気だと言うだけさ
俺は何とか順調だ
そんな自分の言葉に
勇気づけられることを
願っているけど
だけど本当じゃなかった
そんなふうには思えないんだ

交換手さんよ
助けてくれよ
あんたが教えてくれた
番号が見えないんだ
目の中に
何か引っかかっていてね
俺を救ってくれるはずの
彼女との愛について考えると
いつもこうなるんだ

交換手さんよ
今までのことは忘れてくれ
誰もそこにはいないさ
ただ俺はあんたと
話したかっただけさ
時間をとってくれてありがとう
ほんとにあんたは親切だな
電話料金はあんたのもんさ」
(“Operator” 訳;プロフェッサー・ケイ)

 電話交換手に昔の恋人の電話番号を教えてもらうように頼んでおきながら、番号が分かっても電話を掛けるのを躊躇して、結局やめてしまうという男の心情を素直に表現していて、同じような経験をしたことがある人はきっと泣けてくるのではないかと思ってしまう。

 しかも、ジムの声自体も哀愁味があって、曲のイメージと見事に重なってしまうのである。この"Operator"や"Time in A Bottle"、"Photographs & Memories"などのスローやミディアム調の曲だけではない。
 "Rapid Roy"や"Workin' at the Carwash Blues"などのテンポのよい曲でも、どこかユーモラスで諧謔さが漂っていて、一度聞くと忘れられない。41uy2vr4jbl
 それは彼の温かな人間性から来るのであろう。決して裕福ではなかった移民の家庭で育ち、父親は息子の成功を見ることもなく亡くなってしまう。

 彼自身も様々な職業を経験し、ある意味、報われない人生を歩んでいる人たちとの交友を通して学んだことが、彼の人生観や人物観察の基となり、それが歌詞や曲調に反映しているようだ。

 何度も言うけれど、30歳という若さで、まさにこれから本格的にスポットライトが当たろうとする時期だった。象徴的なアルバム・タイトルや亡くなった後でのNo.1ヒットなど、ひょっとしたら彼の命運は最初から決定事項だったのかと思わせるような人生だった。

 彼の曲を聞くと、思わずそんなことを考えてしまうのである。

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2017年6月19日 (月)

ロイ・オービソン

 拙稿の「ドン・マクリーン」のところで、彼がロイ・オービソンの1961年のヒット曲"Crying"を歌ってヒットさせた、と記していたが、その元歌を歌ったロイ・オービソンのことについては、まだ触れていなかったので、ここで改めて記そうと思った。Imgd9f3d9b7zikezj
 ロイ・オービソンには、全米No.1になった曲が2曲ある。1曲目は1961年6月に1週間だけ首位になった"Running Scared"で、もう1曲は、1964年の9月に3週間首位に輝いた"Oh, Pretty Woman"だ。

 前者の"Running Scared"は、ロイが作詞家のジョー・メルソンと1952年に作った曲で、わずか5分くらいで書き上げたものだった。
 ボレロ調のスローなバラードのこの曲は2分余りと、短い曲だったが、まったりするような雰囲気が漂っている。たぶん、ロイの歌い方が醸し出すものだろう。

 本当はエルヴィス・プレスリーに歌ってもらいたくて作ったらしく、ロイはわざわざエルヴィス・プレスリーのメンフィスの自宅までもって行ったのだが、朝早すぎてまだ寝ていたらしく、結局、具体的な話はできなかったらしい。
 仕方ないので、エヴァリー・ブラザーズのフィル・エヴァリーに曲を聞かせて、気に入れば歌ってほしいと言うつもりだったのだが、話だけで終わってしまったということだった。

 "Oh, Pretty Woman"の方は、1982年にはアメリカのロック・バンド、ヴァン・ヘイレンがリバイバル・ヒットさせているし、1990年の同名映画の主題歌でも使われたので、多くの方が知っているのではないだろうか。

 この曲は、アメリカだけでなくイギリスでもシングル・チャートの首位になっている。また、米英のみならず、ドイツやオランダ、カナダなどの国々でもヒットを記録し、全世界で400万枚以上のベスト・セラー曲になった。

 ロイ・オービソンは、1936年4月23日にテキサス州のヴァーノンにあるウインクというところで生まれた。本名は、ロイ・ケルトン・オービソンといった。父親は油田で働いていて、母親は看護師だった。

 6歳の頃に、父親のアドバイスに従ってギターとハーモニカを習うようになり、8歳の時には地元カーミットのKVWCラジオ局の番組でギターを演奏するようになった。さらには、テレビ番組にも出演するようになり、だんだんと有名になっていった。

 高校生の頃には、“ウインク・ウェスターナー”というバンドを結成したし、大学に入学してからは“ティーン・キングス”というグループを組んで、主にカントリー&ウェスタンを中心にクラブやパーティーで演奏するようになった。
 ちょうど映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の中で、パーティーでギターを演奏するシーンがあったが、あんな感じだったのだろう。ただし、映画の中ではまだ誕生していないロックン・ロールだったが…

 ロイは、ノース・テキサス大学に通っていたが、お友達の中にはあのパット・ブーンもいて、彼の成功に刺激を受けて、ロイも本格的にミュージシャンになろうと思ったそうである。
 それで、バディ・ホリーのマネージャー兼プロデューサーだったノーマン・ペティに認められて、彼のスタジオで何曲かレコーディングを行った。

 1955年に、その中の曲がシングルとして発表されたがヒットしなかった。そのとき、テレビ番組で共演したジョニー・キャッシュから自分が所属していたメンフィスのサン・レコードを勧められたロイは、社長のサム・フィリップスに会いに行ったのである。

 サン・レコードといえば、あのエルヴィス・プレスリーやカール・パーキンス、ジェリー・リー・ルイス等々の有名ミュージシャンが在籍していた会社であり、サム・フィリップスは、かつてエルヴィスのマネージャーでもあった。

 そのサム社長は、ロイの歌い方や声に興味を持ち、契約を交わした。そして1955年にシングル化されていた"Ooby Dooby"、"Go Go Go"を再発したのだが、これはチャートの59位まで上昇した。

 気をよくしたサム社長は、ちょうどエルヴィスがRCAレコードに引き抜かれたこともあって、ロイをエルヴィスの後継者にしようとした。ただ、サム社長はロックン・ローラーとしてロイを育てたかったようだが、ロイ自身はバラードを歌いたかったようだった。

 そういう方向性の違いもあったせいか、3枚のシングルを発表するも、いずれも不発に終わり、失意のロイはエルヴィスの後を追うように、RCAレコードに自身も移籍したのである。

 残念ながら、1955年から59年までのロイ・オービソンについては、むしろヒットに恵まれない不遇な期間だったようだ。

 彼の運が好転するのは、59年にモニュメント・レコードに移籍したころからだった。1960年に"Uptown"がチャートの72位に入ると、続いて"Only the Lonely"がチャートの2位になり、イギリスでは首位になった。ここから彼の快進撃が始まるのである。

 彼の全盛期は、このモニュメント・レコード時代ではないだろうか。20枚のシングルがリリースされ、そのうち両面ヒットを含む21曲が全米シングル・チャートに入り、9曲がトップ・テンに、上記のように2曲が首位に立ったのである。

 これはイギリスでも言えることで、あのザ・ビートルズやザ・ローリング・ストーンズ等が大活躍していた60年代に、ロイは30曲をチャートに登場させ、そのうち10曲がトップ・テンに入って、3曲が首位に輝いている。(イギリスでの首位の曲は、"Only the Lonely"、"It's Over"、"Oh, Pretty Woman"の3曲だった)

 なぜかイギリスでは人気の高いロイ・オービソンだった。1963年にはザ・ビートルズと一緒にライヴ公演を行っているし、70年代に入っても1975年には合計55回にわたる全英ツアーを敢行していた。

 彼の最後の所属レコード会社は、イギリスのヴァージン・レコードだったし、イギリス人の間では、海の向こうの伝説的なミュージシャンというような認識があるのだろう。51s6tkjdqkl
 1965年に、ロイはレコード会社をMGMというところに移る。契約金は1年間で100万ドル、契約期間は20年間というもので、まさに超VIPの待遇だった。
 ところが、人生はロイにとっては、そう上手くはいかなかった。7年間の在籍で、15枚のシングルを発表したが、ヒットしたのはその約半分の7曲、一番成功したシングル曲は、1965年の"Ride Away"で、25位止まりだったのである。

 さらに不幸は続く。仕事面だけでなく、私生活では、1966年に奥方のクローディット・チェスター・オービソンがオートバイ事故で亡くなった。享年26歳だった。
 また、2年後にはテネシーにあった自宅が火事で全焼し、ロイ・ジュニアとトニーの2人の息子を失っている。

 1969年にはバーバラという人と再婚をしたが、アメリカで再び音楽活動を始めたのは、1977年になってからだった。それだけ時間がかかったのも、心の整理がつかなかったからだろう。

 MGMの次には、マーキュリー・レコード、アサイラム・レコードと転々と移籍を繰り返していったが、1979年になって映画「ローディ」に出演し、そのサウンドトラックに入っていたエミルー・ハリスとのデュエット曲"That Lovin' You Feelin' Again"(邦題は“胸ときめいて”)が久々にヒットして、翌年のグラミー賞のカントリー・デュオ/グループ部門で最優秀賞を獲得した。

 アメリカ国民はやっと彼の存在を思い出したようで、80年代に入ってからはドン・マクリーンやヴァン・ヘイレンが彼の曲をリバイバル・ヒットさせているし、映画の主題歌にも使用されていった。

 彼の歌は、いろんな人がカバーしているようで、上記の曲以外にも"Dream Baby"を1971年にグレン・キャンベルが、"Love Hurts"を1975年から76年にかけてイギリス人のジム・キャパルディやナザレスが、"Blue Bayou"を1977年にリンダ・ロンシュタットがヒットさせている。

 ロイ・オービソンといえば、どうしても“バラード・シンガー”としてのイメージが強くて、ベスト盤を聞いていた時も、ハワイアンを聞いている気分になったりもしたのだが、エルヴィスがカバーした"Mean Woman Blues"などは、ロックン・ロールしててなかなか良かった。
 イギリスでは、クリフ・リチャードやザ・スペンサー・デイヴィス・グループも歌っていたけれど、アレンジを加えれば、ハード・ロックとしても成立するようなそんな曲だった。

 1988年には、ジョージ・ハリソンやジェフ・リン等とともに、トラヴェリング・ウィルベリーズを結成して一躍有名になったが、アルバムがまだチャート・インしているときの12月6日に心筋梗塞で亡くなった。享年52歳だった。Travelingwilburys4ff972d27b17b
 最後に、ロイ・オービソンといえば、サングラスがトレードマークだが、元々はメガネだったのを度付きのサングラスに替えたからだと言われている。これはメガネを飛行機内に忘れたためで、次の日にイギリスでのビートルズとの公演に向かわなければならなかったからメガネを買う時間的余裕がなかったという理由だった。
 ちょっとした偶然は、人生に大きな影響を与えることがあるということを意味しているのかもしれない。

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2017年6月 5日 (月)

ドン・マクリーン

 さて、6月がやってきた。早いもので、今年も半分が過ぎ去ろうとしている。それに、今月の途中から梅雨も始まってしまう。約1か月間も続くのだが、それが終われば本格的な夏になる。こうやって月日は過ぎて行くのだろう。

 それで先月は女性シンガーを紹介してきたので、今月は男性シンガーやミュージシャンを紹介しようと思っている。1回目の今回は、あの有名な"American Pie"を歌ったアメリカ人のシンガー・ソングライターのドン・マクリーンだ。D135532995252011
 ドン・マクリーンは、1945年の10月にニューヨークの郊外で生まれた。幼い頃に喘息を患ったせいか、彼は外でスポーツをすることができなかったようだ。
 そのため家の中で読書や音楽に時間を費やすことが多くなり、徐々に当時流行り始めたロックン・ロールに夢中になっていった。

 当時の彼にとってのアイドルは、フランク・シナトラやリトル・リチャード、エルヴィス・プレスリー、そしてバディ・ホリーだった。
 そんな彼がプロのミュージシャンを目指すようになったのは、父親を病気で亡くした15歳の頃だった。

 彼は高校を卒業して、一時大学に入学したものの、退学してしまった。理由は、音楽的キャリアを追及するためである。ただ、父親からは、大学を卒業してほしいとしきりに言われていたため、退学にあたっては、やや後悔の念もあったらしい。

 だから、23歳の時に夜間大学で学び直して、経営学の単位を取得した。また、将来のミュージシャンとしての活動や生活に役立つかもしれないと考えて、コロンビア大学の大学院でも学んでいる。

 その間には、ピート・シーガーなどのミュージシャン仲間と一緒になって、彼はニューヨークのハドソン川沿いのクラブやコーヒー・ハウスを回って演奏活動を続けていった。のちにこの活動は、“クリアウォーター運動”と呼ばれるようになった。

 1週間に5日、1日に2回ライヴ活動を行っていて、ドン・マクリーンは、“ハドソン・リバー・トルバドール”(ハドソン川の吟遊詩人) として知られるようになったのである。

 彼のデビュー・アルバム「タペストリー」は、1970年に発表されたが、なかなかレコード契約を結ぶことができずにいて、34のレーベルから72回にわたって断られていた。
 ただ、アルバムのチャート・アクションを見ると、アメリカでは111位と悪かったものの、イギリスでは16位と健闘していた。71puj862lrl__sl1050_
 このアルバムからのヒット曲はなかったものの、"Castle in the Air"や"And I Love You So"などは、多くのミュージシャンからカバーされるほどの佳曲だった。
 特に、バラード曲である"And I Love You So"は、1973年にペリー・コモによって歌われて、見事にアダルト・コンテンポラリー・チャートで首位を獲得した。

 1971年には、続いてセカンド・アルバム「アメリカン・パイ」を発表した。もちろんこのアルバムには、歴史的な大ヒットを記録した"American Pie"が含まれている。この曲については、彼は次のように述べていた。

「バディ・ホリーは、僕にとって子どもの頃から崇拝してやまない最初で最後のミュージシャンでした。僕の友だちの多くは、エルヴィス・プレスリーが好きでしたが、自分にとってはやはりバディ・ホリーが何といっても一番でした。何しろ僕に直接話しかけてくれた人でしたから。
 彼は、彼の作り出す音楽以上に何か深い、僕にとってはシンボルともいえる存在でした。彼のキャリア、彼のグループ、彼の作り出すリード・ボーカルとバックの3人の絶妙なコンビネーション、これらはすべて60年代の音楽そのものを示し、また、僕の若さそのものを示すものでした」

 だから彼は、バディが1959年2月3日に飛行機事故で亡くなったとは信じられなかったし、信じたくないという気持ちが強かったのである。

 この曲が歴史的な名曲になったのも、万人の胸を打ったからだろう。単なるひとりのミュージシャンの死は、多くの人にとってシンパシーを持って迎えられたのである。

 それは、当時の時代の空気を吸い、状況を知っていた人にはもちろんのこと、何も知らない人にとっても、歌詞の中の空虚感や心の痛みなどを自分の生きざまに投影して感じることができたからだ。

 だから、いみじくもトルストイが「アンナ・カレーニナ」の中で、“不幸な家庭は、その家庭ごとにその様相が異なっている”と記していたように、この曲を聞いたそれぞれの人が、自分の中にある心の痛みや喪失感と照らし合わせながら、この曲を理解し、味わうことができたのではないだろうか。

 また、当時の時代の空気を反映していたことも当てはまるだろう。ケネディ大統領が暗殺され、ベトナム戦争は明らかにアメリカの敗北だった。“フラワー・ムーヴメント”と呼ばれたヒッピー文化は、若者にドラッグと退廃をもたらす結果に終わってしまった。
 人類は月に足跡を残したものの、当時の米ソの覇権争いの結果にしかすぎず、それによって人類の福祉の向上が図られたとは言えなかった。

 そういう状況の中で、“音楽が亡くなった日”というフレーズは、人によっては“友人が亡くなった日”や“青春が終わった日”、“夢が潰えた日”などに置き換えられていったのである。

 このシングル"American Pie"は、8分27秒と長かったため、当時のEPレコードではA面とB面の両面に分けて入れることになった。
 それに、曲自体のインパクトや、何やら訳ありというか、多義的で意味深な歌詞などが話題を呼び、ラジオなどでは途中でカットされることもなく、すべて通しでオンエアされるようになっていった。

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 この曲は、1971年の11月にシングル・チャートに顔を出すと、翌年の1月から2月にかけて4週間首位に輝いている。ドン・マクリーンにとっては、おそらく最初で最後の全米シングル・チャートの首位に輝いた曲になるだろう。

 ドン・マクリーンといえば、どうしても"American Pie"のイメージが強いのだが、このアルバムでも最初にこの曲が置かれていて、アルバム全体の方向性を示している。ただし、もちろんこの曲だけではなくて、他にも佳曲が含まれている。

 アルバム3曲目の"Vincent"は、オランダの画家、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホのことを歌っていて、歌詞の中にゴッホが弟のテオにあてた手紙の一部が引用されていた。
 この曲もバラードで、切々と歌うドン・マクリーンの姿勢が不遇の画家との姿とダブって見えて、えも言われぬ印象を与えてくれる。

 もともとドンの声は、深みがあり落ち着いていて優しさを感じさせる。だから、アップテンポの曲では力強く、静かなバラードではしっとりした情感を与えることができる。
 "American Pie"では“静~動~静”という転換が見事であり、"Vincent"では奥行きのあるボーカルを楽しむことができるのである。

 このアルバムは、イギリスのアルバム・チャートでは3位、アメリカやカナダでは1位を獲得した。いまだに語り継がれていることを考えれば、やはり歴史を創ったアルバムといってもいいだろう。

 ドン・マクリーンは、これ以降も次々とアルバムやシングルを発表していて、1981年にはロイ・オービソンが1961年にヒットさせた"Crying"をカバーして、チャートの5位に送り込んでいる。
 この曲はジェイ&アメリカンズというグループが1966年にリバイバル・ヒットさせているが、ドン・マクリーンの美しい声がこのバラード曲にもピッタリとあてはまっているようだ。

 そういえば、1971年にロバータ・フラックが"Killing Me Softly with His Song"を歌ってヒットさせたけれども、元歌を書いたロリー・リーバーマンという女性シンガー・ソングライターは、ドン・マクリーンのライヴを見てこの詞を書いている。そう思わせるほどのステージングだったのだろう。

 そういう彼の魅力を味わいたいのなら、やはりベスト盤が一番だろう。いろんなベスト盤が出ているけれど、どれもほぼ同じような構成だと思う。71jkbefxvhl__sl1050_
 ただ中には2枚組ベスト盤も出ているし、"American Pie"の再録ヴァージョンを収めたものもある。やはり芸歴が長いと、手を変え品を変え様々なアルバムが発表されるのだろう。

 もちろん、今でも現役ミュージシャンのドン・マクリーンである。アメリカ国内や海外のフェスにも頻繁に参加しているし、アルバムも制作している。
 残念なのは、昨年、家庭内DVのせいで離婚した元奥さんから訴えられたことだろう。軽微な罪状だったせいか、大きな話題にはならなかったようだが、ひょっとしたら奥さんに向かって"Bye Bye Miss American Pie"と歌ったのかもしれない。

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2017年5月29日 (月)

ティファニー

 デビー・ギブソンのことを調べていたら、彼女とティファニーはライバル同士だったという記述が見つかった。
 確かに、同時期に、しかもほぼ同じ年齢で活動していたから、ライバルだったかどうかは別にして、お互いに意識していたことは間違いないだろう。

 個人的には、ライバル云々というのは、周りの人たちがプロパガンダに使用した感じがする。お互いそれで名前が(曲も)売れていったのだから、双方に利点があったような気がしてならない。

 それで、今回はそのティファニーのことについてである。ティファニーといえば、「ティファニーで朝食を」とか、宝飾品のティファニーのことを思い出してしまう。
 だからというわけではないが、“ティファニー”という名前は、てっきり芸名だと思っていた。でもよくよく調べたら、本名ということが分かってビックリした。Hqdefault
 彼女の本名は、ティファニー・ダーウィッシュ(もしくはダーウィッシ)という。1971年10月2日生まれなので、今年で46歳になる。まだまだ若い部類に入るだろう。

 彼女は2歳の時に、従姉のダーラからヘレン・レディの"Delta Dawn"を教えてもらったと回想している。
 本当かどうかは不明だが、本人がそういうのだから間違いないだろう。それで5歳の時には、母親に将来は歌手になると言ったと言われている。

 それから、人前で初めて歌ったのは9歳の時だったらしい。故郷であるカリフォルニアのノーウォークのバーベキュー・パーティで、地元のバンドのカントリー・ホウダウナーズと共演した。ちなみにこのバンドは、名前の通り、カントリー系のバンドだった。

 その後もこのバンドとともに活動をつづけたようだが、その時はまだ12歳だった。12歳の少女が恋愛の歌、それも浮気や駆け落ちなどのドロドロした恋心を歌っていた。

 彼女の歌唱力や歌の技法には優れたものがあったが、如何せんまだ12歳、歌詞の内容とかけ離れたものがあり、説得力も欠けていたことから、彼女はカントリー・ソングをあきらめ、ポップスの世界に足を踏み入れたのである。

 ともかく、彼女は歌手になるために、スタジを借りてデモ・テープを録音していた。その時、スタジオの所有者で、しかもちょうどその隣の部屋でスモーキー・ロビンソンのレコーディングを手伝っていたプロデューサーのジョージ・トビンが、興味本位でティファニーの録音を見学したところ、あまりの歌のうまさにビックリしたらしいのだ。

 トビンは、すぐに彼女のことを気に入ったのだが、まだ12歳でもあり、しばらく様子を見ることにした。もちろん連絡は取り合っていて、それから約1年後に本格的にレコーディングを始めた。

 その時48曲をレコーディングしたのだが、そのうちの1曲、1967年に全米4位まで上昇したトミー・ジェイムズとションデルズの"I Think We're Alone Now"はトビーの大好きな曲でもあった。

 ただ、ティファニーは自分が生まれる前の曲で、聞いたこともなかったので、最初は歌うのに消極的だったようだ。アルバムから最初にシングル・カットされたのが、アルバムの中の別の曲だった"Danny"であることからも、それはわかると思う。

 ところが、ユタ州のラジオ局のプロデューサーがこの曲をオンエアしたところ、大きな反響があったため、レコード会社のMCAにシングル・カットを勧めたのである。

 こうした予期しなかった幸運が重なって、"I Think We're Alone Now"はシングル・カットされた。世の中何が僥倖につながるかわからない。幸運は、時として、予期しない方向から歩いてくるようだ。

 この曲は、1987年の11月に2週間だけ全米シングル・チャートで首位を獲得した。その時、彼女は全米のショッピング・モールをツアー中で、カラオケのテープで歌っているときに知ったという。

 この曲を含む彼女のデビュー・アルバム「ティファニー」は、1987年の9月に発表された。このアルバムからは5曲がシングル・カットされていて、そのうちチャートの首位になったのが2曲、ベスト10以内に1曲、50位以内に1曲がチャート・インしている。815ahxil7hl__sl1404_
 さらには、アルバム自体もカナダ、ニュージーランド、アメリカで1位を記録したし、イギリスでは5位、オーストラリアでは6位と、英語圏では記録的な大ヒットを残していて、まさにセンセーショナルなデビューとなったようである。

 もちろん彼女は歌うだけなので、ソング・ライティングには関わっていないのだが、その歌唱力や表現力は、とても15歳前後の女の子とは思えないものだった。自分なんかは、若返ったスティーヴィー・ニックスかグレイス・スリックかと思ったものだ。

 アルバムの4曲目に収められていた"Feelings of Forever"は、純愛もののバラード・ソングだが、曲に起伏があり、しかもそれを切々と歌っていて、聞いただけではとても中高生ぐらいの女の子が歌っているとは思えないのだ。この曲はシングル・チャートで50位を記録した。

 ザ・ビートルズのレノン&マッカートニー作品の"I Saw Her Standing There"は"I Saw Him Standing There"と一部変えられて歌われていて、原曲以上にノリノリの曲に仕上げられていた。ティファニーは、バラードだけでなく、こういうロックンロールの曲も歌いこなすことができた。この曲は、チャートでは7位まで上昇している。

 彼女の首位になったもう1曲は、アルバムの最後のバラード曲"Could've Been"である。邦題は“思い出に抱かれて”というものだった。
 この曲は、翌年の1988年の2月に2週間首位に立ったが、この時彼女はまだ17歳だったし、この曲をレコーディングしたときは、まだ13歳だった。

 この曲を作った人は、ロイス・ブレイッシュというシンガー・ソングライターだったが、彼女が失恋を経験した結果、この曲が生まれた。
 プロデューサーのトビンは、この曲の版権を買い取り、クリスタル・ゲイルやドリー・パートン、ナタリー・コールなどに歌ってもらうことを望んでテープを送ったが、誰も何も言ってこなかった。

 それで、ティファニーにレコーディングをしてもらったという経緯があったのだが、見事チャートの1位になったのだから、世の中、何がどうなるかわからないものである。
 確かに、彼女の人気の高さがチャートに影響を与えたことは間違いないだろうが、それでも連続して2曲をチャートの首位に送り込むには、それなりの実力があってからこそだろう。

 一説には、2曲連続してチャートの首位になった曲を歌った女性シンガーは、ブレンダ・リー以来2人目らしい。ただ17歳という若い年齢だったのは、ティファニーだけのようだ。81wlnrmbkyl__sl1500_
 ティファニーとデビー・ギブソンを比べてみると、ティファニーはアップテンポの曲でも、バラード曲でも、両方チャートの1位になったが、デビー・ギブソンの方はバラード曲だけしか1位にはなれなかった。
 しかし、デビー・ギブソンは、作曲能力やアレンジ、プロデュース能力を身に着けていて、音楽的素養という面ではデビー・ギブソンの方が優れていたようだ。

 あまり意味がないとは思うけれども、両名ともデビューして2~3年で人気が下降していった。デビー・ギブソンは、ミュージカルの方面に興味を示したからだが、ティファニーの方は、ゴシップや両親のマネージメントへの介入などが、イメージ・ダウンにつながったようだ。

 ただ、それでも1988年に出されたセカンド・アルバム「フレンズ」は、アメリカではプラチナ・ディスクを獲得していて、ビルボードのアルバム・チャートでは17位になっている。
 シングルも5曲カットされていて、そのうち"All This Time"は6位、"Radio Romance"は35位を記録した。51z5scddxgl
 ティファニーは、今もコンスタントにスタジオ・アルバムを出していて、最近では2016年に「ア・ミリオン・マイルズ」というタイトルのアルバムを発表している。
 また、女優として映画やテレビにも出演していて、2011年にはデビー・ギブソンと昔の確執を皮肉ったようなコメディ映画で共演していた。

 まだまだ45歳のティファニーである。昔の歌唱力や表現力がまだ備わっているのであれば、十分現役として活動できるはずだ。単なる懐メロ歌手で終わることなく、さらにもう一花咲かせてほしいものである。

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2017年5月22日 (月)

3人のデビー(3)

 さて、3人目のデビーは、1980年代の後半から90年代前半にかけて活躍したアメリカ人の歌手のデビー・ギブソンである。当時を知っている人にとってみれば、懐かしいのではないだろうか。97a80ad97927a0c38a93d58926bce15b
 デビー・ギブソンは、1970年の8月に、ニューヨークのロング・アイランドに生まれた。幼い頃から音楽的な才能を発揮していたようで、5歳で曲を作って周囲のおとなを驚かしたそうである。
 また、絶対音感もあわせ持っていて、耳で聴いた音はすぐにピアノで弾いて、採譜するようになった。要するに、音楽的な才能をもって生まれたのだろう。

 初めて買ったレコードは、ビリー・ジョエルの「ニューヨーク52番街」だったようで、もう将来はビリー・ジョエルのようになりたいと決意していたらしい。当時のことを思い出して、彼女は次のように述べている。

 “アルバムを買ってから1年ぐらいして、ナッソー・コロシアムでビリーのコンサートを観たの。それ以来、自分のやりたいことが、完璧に把握できたのよ”

 13歳になって、彼女は音楽家でプロデューサーのタグ・ブライトバートの指導を受けて、ボーカルから作曲方法、アレンジ、プロデュース、エンジニアの仕方など、音楽に関する知識や技法を身につけるようになった。

 そして、16歳で"Only in My Dreams"を作詞作曲して、アレサ・フランクリンやオーティス・レディング、イエスやレッド・ゼッペリン等々、数多くの有名ミュージシャンやバンドを輩出した名門アトランティック・レコードと契約したのである。

 彼女が初めてシングルとして発表した"Only in My Dreams"は、全米シングル・チャートでは最高位4位を記録した。上々のデビューである。
 翌年の1987年に発表された彼女のデビュー・アルバムのタイトルは、「アウト・オブ・ザ・ブルー」というものであった。日本語では、“突然に”という意味だ。51npzqxpmql
 とにかく、このアルバムは売れに売れた記憶がある。"Only in My Dreams"の次のシングルは、"Shake Your Love"で、これもチャートでは4位まで上昇しているし、3枚目のシングル"Out of The Blue"は3位を記録した。

 そして4枚目のシングルの"Foolish Beat"が、ついに全米1位を記録したのである。この曲は、それまでのポップでダンサンブルな曲調とは違って、しっとりとしたバラードだった。
 
 80年代後半のアメリカでのヒット曲といえば、マドンナやマイケル・ジャクソンのような踊れる曲とか、映画音楽とのタイアップ曲、LAメタルのようなポップなハード・ロックだったような気がする。

 だから、デビー・ギブソンも“リトル・マドンナ”のような感じで、また類似品が出てきたなと思っていたのだが、こういうスローな曲も歌えるところが魅力的ともいえた。

 彼女の魅力はそれだけではない。自分で曲を書いて、歌って、プロデュースもするのだから、才能の部分ではマドンナを十分に凌駕していたといってもいいだろう。

 とにかく、このデビュー・アルバムからは5曲がシングル・カットされ、それらすべてがベスト30位内に入ったし、そのうち4曲がトップ5入り、アルバム自体もトリプル・プラチナ・ディスクに輝いている。

 今から考えれば、彼女は80年代のシンガー・ソングライターだったのだろう。70年代ではギター1本やピアノ1台で弾き語りしながら歌いこんでいくというパターンだったが、MTVが登場した80年代後半では、ビジュアル面だけでなく、ダンス・ビートが前面に出た曲風がもてはやされた。

 だから、デビー・ギブソンのプロモーションの仕方も、そういう大衆の趣向に沿うような、ポップでダンサンブルな方向性を取ったようだ。でも、この点が彼女の音楽的なキャリアの消耗につながったのではないかと思っている。

 彼女のセカンド・アルバム「エレクトリック・ユース」は、1989年に発表された。まだ彼女は19歳だった。このアルバムからのファースト・シングル曲"Lost in Your Eyes"は、2度目の全米No.1になった。この曲もスローなバラード曲だった。511qi2bjgwl
 アルバム・タイトルの"Electric Youth"は、2曲目のシングルとしてチャートの11位にまで上昇した。しかし、3枚目のシングルになった"No More Rhyme"もまたバラード曲だったが、こちらは17位どまりだった。
 ただ、アルバム自体は、全米1位を記録し、ダブル・プラチナ・ディスクに認定された。ここまでが彼女の全盛期だったようだ。

 3枚目のアルバムは、1990年にデビー自身やマドンナの元恋人のジェリービーンが共同でプロデュースした「エニシング・イズ・ポッシブル」だったが、アルバムのチャート的には41位で、ゴールド・ディスクにはなったものの、それまでの2枚のアルバムに比べれば、かなり厳しいものになった。アルバム・タイトル通りにはならなかったようだ。

 彼女は芸風を広げようとしたのか、徐々にR&Bやソウル・ミュージックの要素を取り入れていった。それは所属先のレコード会社が、アトランティック・レコードだったせいかもしれない。

 4枚目のアルバムは、1993年に発表された「ボディ、マインド、ソウル」だったが、チャート的には100位に入ることができず、104位だった。

 このアルバムには、あの有名なフィル・ラモーンやナラダ・マイケル・ウォルデンなどがプロデューサーとして関わっていたのだが、それでも売れなかった。そのせいかどうかはわからないが、この4枚目のアルバムをもってレコード会社を移籍している。

 結局、彼女がチャートを賑わせていた時期は、80年代の後半の数年間だけだった。彼女は自作自演の才能溢れるシンガーだったが、マドンナと違ったのは、周りの人をうまく使っていくプロデュース能力だったのではないだろうか。

 マドンナも曲を書いてはいたが、能力的にはデビー・ギブソンの方が上だろう。それでもマドンナの方が世界的にも有名になり、現在もなお活躍できているのも、自分自身を完全にコントロールできていることと、しかもそれを活かすことのできるプロダクション・チームを周りに配置することができたからではないだろうか。

 また、デビューしたときに未成年だったということも、原因だったのかもしれない。16歳だったので、母親も彼女の動向に方向性を出していたようだ。
 その点、マドンナはすでに大人の女性だったから、自分で考え、決断し、行動していた。自分自身についての自由裁量権を行使できた点においては、マドンナの方がラッキーだったのかもしれない。

 さらに、デビーは彼女自身の目標をポップ・ミュージックの範疇だけでなく、舞台までに広げていったということも人気の下降につながったのかもしれない。

 デビー・ギブソンは、子どもの頃から舞台にも興味があって、将来は演劇、特にミュージカルにも挑戦してみたいと思っていた。
 だから、ポップ・ミュージック界で成功した後は、ミュージカルにもその活動の場を広げていった。1992年には、ブロードウェイの「レ・ミゼラブル」に、93年にはイギリスのロンドンで「グリース」の舞台に立っている。

 その後は、レコード会社を移ってアルバムも発表するが、テレビのドラマや映画での出演も果たしていて、マルチな活動を行っている。637678167134e9f42f6bd90e1c2a9385
 そんな彼女の全盛期のベスト曲を集めたのが「グレイテスト・ヒッツ」である。全14曲で、ほとんどデビュー・アルバムとセカンド・アルバムから集められている。

 また、日本の山下達郎の曲に英詞をつけた"Without You"や、達郎がプロデュースしてコーラスも添えた"Eyes Of the Child"も国内盤にはボーナス・トラックとして収められていた。彼女の魅力を知るには手っ取り早い1枚だと思う。51c9cbnvmal
 彼女はまだ46歳だ。音楽的才能は枯れてはいないと思うので、できればメガヒットをもっと発表してほしいと思っている。
 そしてまた、成熟した大人の女性として、若い頃では表現できなかったことなども、シンガー・ソングライターとして活動領域を広げていってほしいと願っているのである。

 ちなみに、デビー・ギブソンは、現在では、デボラ・ギブソンと名乗って活動を続けているそうである。

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2017年5月15日 (月)

3人のデビー(2)

 「3人のデビー」というシリーズものだが、今回はその2回目、2人目のデビーを紹介しようと思う。1970年代後半のニュー・ウェイヴの流行に乗って登場したアメリカのバンド、ブロンディのボーカリストのデビー・ハリーである。

 ブロンディについては、以前のこのブログでも取り上げているし、70年代後半のアメリカを代表するバンドだったので、ご存知の人も多いだろう。ましてや1970年代から80年代にかけて洋楽を聞いていた人にとっては、懐かしさとともにその楽曲の一部がよみがえってくるはずだ。

 ただ少し気になったのは、“デビー・ハリー”という名前は通称で、本来は“デボラ・ハリー”と呼ばれていたことだ。
 だから今回のテーマに相応しいかどうかは、ちょっと微妙なのだが、一応、自分の狭い知識の中でデビーを3人紹介しようと思ったら、こうなってしまったのである。ちょっと無理があるかもしれないが、お許し願いたい。

 ただ、本国アメリカでも、下の写真のように“デビー・ハリー”と呼ぶこともあったようで、まるっきりゼロであったというわけではない。まあ愛称だから、“デビー”の方が言いやすいのだろう。

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 それで、“デビー・ハリー”である。前回の「ブロンディ」のところでは、主に1978年のアルバム「恋の平行線」を中心に、デボラ・ハリーとギタリストのクリス・スタインの恋愛関係をまとめてみたので、今回は彼らのベスト・アルバムを中心に、簡単に記してみたいと思う。

 1978年から1980年までの彼らは、まさに飛ぶ鳥を落とすほどの勢いだった。どれだけ鳥が落ちたのかはわからないが、とにかくシングルもアルバムも売れに売れたし、ヴィジュアル面でも露出が多かった。見た目もよくて、曲もよければ、これはもう売れるしかないだろう。

 80年代に入ってから、公私ともにパートナーのクリスが病気にかかっていることが判明した。「尋常性天疱瘡」という難病のようで、デビー・ハリーは彼の看病を優先することに決めて、1982年にバンドを解散させた。デビーが37歳の時だった。

 だから、5枚目のスタジオ・アルバムの「オートアメリカン」と6枚目の「ザ・ハンター」には約2年間のブランクがあったのだが、それは私生活を優先させたいという理由もあったからだろう。

 それに自分のソロ・アルバムを1981年に発表している。「予感」という邦題がつけられていたアルバムだったが、シックのナイル・ロジャーズとバーナード・エドワーズをプロデューサーに迎え、ブロンディとは一線を画したオリジナリティを前面に出したアルバムだった。41qsv1br6el
 ただ、アルバムのチャート的にはアメリカでは25位、イギリスでは6位とそれまでのブロンディのチャート・アクションと比べれば、物足りないものだった。 

 また、アルバム・ジャケットのデザインを担当したのが、スイスのグラフィック・アーティストのH.R.ギーガーだった。

 H.R.ギーガーといえば、映画「エイリアン」のキャラクターや、E.L.&P.の「恐怖の頭脳改革」のアルバム・ジャケットを担当した人である。このアルバムのジャケット・デザインは当時でも物議をかもしたのだが、セールス的にうまくいかなかったのは、この辺にも原因があったのかもしれない。

 ヒット曲を集めた編集アルバム「軌跡~ザ・ベスト・オブ・ブロンディ」が発表されたのは、1981年のことだった。全14曲が収められていて、そのうちの4曲が全米No.1を記録している。

 最初のNo.1の曲は"Heart Of Glass"だった。この曲は、アルバム「恋の平行線」に収められていたもので、プロデューサーがマイク・チャップマンに代わっての初めてのアルバムだった。

 マイクは以前からブロンディに興味をもっていたようで、自分がプロデュースをしたらもっといい作品ができるのにと考えていたようだった。419ry73p0wl
 メンバーのクリスは、『この曲が大ヒットになるとは考えてもいなかった。アルバムに変化をつけるためにこの曲を用意しただけで、売ることを目的にしたのではなく、ただの歌の一つに過ぎないよ』と言っていたが、予想外の大ヒットだったのだろう。

 2度目のNo.1は、1980年に6週にわたって首位を続けた"Call Me"だった。ポール・シュレイダーの監督した映画「アメリカン・ジゴロ」のサントラの作曲者だったジョルジオ・モルダーは、最初はフリートウッド・マックのスティーヴィー・ニックスに歌わせようとしたのだが、彼女が拒否をしたため、デビーに話が回ってきたのである。

 歌詞を書いたのはデビーだった。自由に書いていいと言われていたので、2,3時間で書き上げてレコーディングに臨んだ。

 当時流行していたディスコ・ビートに乗ったこの曲は、ブロンディの音楽領域をさらに拡大することにつながったが、これはデビー自身も望んでいたことだった。
 さらに、この曲はこの年のビルボードの年末投票でも第1位に輝いていて、まさに彼らは、絶頂期を迎えていたのである。

 年を越えて1981年の1月には、彼らの"The Tide is High"(邦題:“夢見るNo.1”)が3番目の全米No.1になっている。
 もともとこの曲は、ジャマイカのバンド、パラゴンズが歌っていたもので、だから曲調もレゲエ風にアレンジされていたし、曲のクレジットにもクリスやデビーの名前はなかった。

 このあたりから彼らの曲風が、それまでのパンク・ロックやバラード、ディスコ風に加えてレゲエやラップ調のものまで広がっていった。
 それを証明するかのように、その年の3月には今度は"Rapture"が2週続けてNo.1になっている。

 この曲はクリスとデビーが作ったもので、ラップは当時のニューヨークのブルックリンやブロンクスで流行していた。その影響を受けて書かれたものだが、他のメンバーはこの曲を発表するのをかなり躊躇したと言われている。

 サックスにはあの有名なトム・スコットを招いていて、アメリカに登場した初めてのラップ曲に色どりを添えている。当時のラップには、まだアンダーグラウンドな雰囲気があったために華やかさを醸し出そうとしていたようだ。

 また、ライヴでは歌いやすいように歌詞を変えながら歌っていたと、デビーはインタビューに答えていた。初期のラップには試行錯誤が伴っていたのだ。

 このベスト・アルバムには以上のような曲に加えて、"Sunday Girl"や"Dreaming"も含まれていて、イギリスでは前者は1位を、後者は2位を記録している。Blondie_2e1472569033313
 それにベスト・アルバムだから幅広く選曲されていて、中には1976年のデビュー・アルバム「妖女ブロンディ」からや、翌年のセカンド・アルバム「囁きのブロンディ」からの曲も収められていた。

 デビュー・アルバムからは、"In the Flesh"と"Rip Her to Shreds"の2曲が選ばれていて、前者は50年代のロリポップ風のバラード曲で、後者はチープなキーボードが目立つパンク・ロック風の曲だった。両方ともチャート・アクションの記録はない。

 セカンド・アルバムからは、"Denis"、"Presence Dear"の2曲で、"Denis"はイギリスで2位になり、ゴールド・ディスクを獲得した。
 "Presence Dear"の方は、イギリスでは10位になったが、アメリカではチャートには上がってきていなかった。軽快でノリのよい曲だが、印象的なサビの部分がなくて、メロディラインにもう一工夫ほしいと思った。

 当時は、“マリリン・モンローの再来”のように言われていたので、単なる見掛け倒しかと思ったが、そこはアメリカのミュージック・ビジネス界をしぶとく這い上がってきた曲者だけに、やはりそれなりの才覚と野心と、それに伴う幸運を備えていたようだ。

 ブロンディは、1997年に再結成し、2年後の99年には全英シングル・チャートの1位になった"Maria"を含むアルバム「ノー・イグジット」を発表して、その健在ぶりを示している。
 また、21世紀に入ってからも着実にアルバムを発表しており、2006年にはロックの殿堂入りを果たした。

 今年の7月で72歳になるデビー・ハリーである。よく考えたらポール・マッカートニーやミック・ジャガーとそんなに変わらない年齢なのだ。違う意味で“妖女デビー・ハリー”になっているのかもしれない。

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2017年5月 8日 (月)

3人のデビー(1)

 春の陽気に誘われて、久しぶりにポップ・ミュージックのジャンルについて書こうと思った。それでお題は「3人のデビー」である。

 “デビー”というからには女性だけれど、だからといって、間違ってもデビ夫人なんかは登場しないはずだ。

 1人目のデビーは、デビー・ブーンである。あの有名なパット・ブーンの娘であり、20世紀の一発屋というランキングがあるなら、間違いなくベスト10の上位にランクされるであろう曲“恋するデビー”(原題は"You Light Up My Life")を歌ったシンガーである。336870c0d60cadde7e939c8a781c3e59c32
 それに、この邦題については今でも異論が続出していて、原題とのミスマッチ・ベスト10があるなら、間違いなく3本の指に入るであろうとも噂されている(と思う)。

 そんなデビーの曲ではあるが、その曲に入る前に、父親のパット・ブーンについて簡単に述べてみたい。今どきの人にとっては、パット・ブーンと言われても、きっとピンと来ないだろうから。

 パット・ブーンは、1950年代後半から60年代にかけて、3曲のビルボード全米No.1シングルを持っている歌手兼俳優である。当時の歌手は、エルヴィス・プレスリーなどがよい例だが、歌をレコードで発表するのと同時に、映画に出演して歌ってもいたのだ。もちろん、それなりの容姿が求められただろうが…

 パットは、フロリダで敬虔なクリスチャンの家庭で生まれた。本名は、チャールズ・ユージーン・ブーンといい、1934年6月1日生まれの現在82歳になる。
 アメリカの西部開拓時代にネイティヴ・アメリカンと激しく戦って、白人の領土を広げていったダニエル・ブーンは、彼の祖先と言われている。

 母親の手ほどきで、パットと弟のニックはコーラスをつけて歌うようになり、兄弟で学校や教会に出かけて行くようになった。
 18歳でレコード・デビューし、19歳で結婚。やがて4人の娘を持つ父親になるのだが、レコード・デビューしても、いったん引退して、その後再デビューしている。

 理由は、もともと彼は教師になるつもりだったからだ。歌やレコーディングは趣味で行っていて、多少ヒットが出ても、クリスチャンとしての信仰を続けながら、堅実な生活を選ぼうとしていた。

 当初は、オーティス・ウィリアムズ&チャームズ、ファッツ・ドミノやリトル・リチャードなどのR&Bをカバーしていたが、1957年の6月に"Love Letters in the Sand"が5週間No.1になると、一気にアメリカ中に名前が広がり、この曲は23週連続でチャートに残っていた。Patboone0
 もともとこの歌は、ビング・クロスビーなどが歌っていたのだが、当時の20世紀フォックスの映画「バーナディーン」に、パット自身が出演して歌っていた挿入曲だった。映画との相乗効果もあったのだろうか。

 また、同年の12月には"April Love"が2週続けてビルボードのシングル・チャートで首位になったが、それでもまだ教師になる道をあきらめなかったようで、学問との二足の草鞋を続け、翌年の6月に言語学と英語学の学位を取って、コロンビア大学を卒業している。

 その後はテレビや映画での活動が優先されたせいか、ヒット曲も少なくなったが、1961年にカントリー・ミュージックの"Moody River"をアレンジして歌ったところ、これが大ヒットして1週間だけ全米1位を記録している。

 全米でのヒットはここまでのようで、これ以降はレコード会社を転々としていき、ポピュラー・ミュージック界よりは、ゴスペル・ミュージックなどのクリスチャン系の音楽活動を続けていった。同時に、全米のテレビ番組のMCなどで活動を続けたのだった。

 4人の娘は“ブーンズ”として活動を始めたが、なかなかヒット曲には恵まれなかった。お姉さんたちが結婚をし、妹のローラが大学生活を送っているときに、プロデューサーからソロ活動を勧められ、同名映画の主題曲"You Light Up My Life"を発表した。

 この曲は、1977年の9月に71位でチャートに初登場すると、6週間後の10月15日に1位になり、その後も10週間チャートの首位に留まった。
 同時に、この曲のヒットのおかげで、アメリカン・ミュージック・アワードでの全米人気ベスト・ポップ・シングル賞やアカデミー賞でのベスト・オリジナル・ソング賞を受賞した。

 ただ、この曲のあとに続くヒット曲がなかったため、驚異の一発屋としてデビーは見られているが、実際にそうだったのだろうか。

 確かに、セカンド・シングルの"California"は50位止まりで、3枚目で最後のシングル曲にもなった"God Knows/Baby, I'm Yours"は33位と74位で終わっている。
 ところが、後者の曲は、アダルト・コンテンポラリー部門やカントリー・ミュージック部門ではチャート・アクションがよくて、その結果、彼女はカントリー・ミュージックの世界で活動を始めるようになったのである。

 カントリー・ミュージックでの最初のシングルはうまくいかなかったものの、コニー・フランシスのカバー曲やそれを収めたアルバムは、チャートの上位にあがり、結果的にはその後のヒット曲や成功にも繋がるようになった。

 デビー・ブーンの70年代後半は、カントリー・ミュージック界での成功と考えていいかもしれない。そして80年代になると、今度は父親と同じようにクリスチャン・ミュージック界での活躍になっていったのである。
 しかもコンテンポラリー・クリスチャン・ミュージック部門ではグラミー賞まで獲得するという結果までついてきたのだから、彼女を一発屋といってしまっていいのかというと、決してそんなことはないだろうと思っている。

 だからアメリカの音楽業界の中では、決して一発屋とは言ってはいけないと思うのだ。1986年に発表された彼女のベスト・アルバム「ザ・ベスト・オブ・デビー・ブーン」には10曲が収められていて、大ヒット曲の"You Light Up My Life"は当然のこと、他にも興味深い曲を聞くことができる。51lxzm9rl
 アルバム冒頭は"You Light Up My Life"で始まり、続いてコニー・フランシスのカバーである"Everybody's Somebody's Fool"、3枚目の両面シングルとしてチャートの最高位33位と74位を記録した"Baby, I'm Yours"と"God Knows"と配置されている。

 コニー・フランシスのカバーはもう1曲あって、1960年に全米No.1を記録した"My Heart Has A Mind of Its Own"もカントリー調にアレンジされて収録されていた。ちなみに前述した"Everybody's Somebody's Fool"も1960年に全米No.1を記録したものをカントリー調にアレンジして歌っている。

 このアルバムは、カントリー・アルバムといっていいほどそういう傾向の曲が収められていて、中でも"Are You On the Road To Lovin' Me Again"は、1980年の5月に1週間だけカントリー・チャートでNo.1を記録したほどの曲でもある。当時のエミルー・ハリスやクリスタル・ゲイルを押さえての首位だから大したものだろう。

 このアルバムはカントリー調の曲と、"You Light Up My Life"のような静かなバラード・タイプの曲に分けられるようで、他のバラードでは、"When You're Loved"と"The Promise(I'll Never Say “Goodbye”)"の2曲があった。

 いずれも映画のサントラ曲のようだが、映画自体はどんなものなのかよくわからなかった。そういえば、"You Light Up My Life"も同名映画の主題歌だったのだが、映画自体がヒットしたかどうかは記憶にない。
 
 記憶にないということは、ここ日本ではそんなに話題にはならなかったのだろう。(追記;"When You're Loved"は1978年の映画"The Magic Of Lassie"の主題歌で、ジェームズ・ステュアートが主演した名犬ラッシーのことのようだ。日本で封切りになったのかどうかは、よくわからなかった)

 デビー・ブーンは一発屋ではないことが分かったと思う。むしろ美人で、歌も上手な才色兼備なシンガーのようだ。Debbybooneheightweightageaffairsbio
 活躍するフィールドがポピュラー・ミュージック界からカントリーへ、そしてクリスチャン・ミュージック界へと変遷していったことが、彼女の状況をわかりにくくしていったのだろう。

 ただ言えることは、決して親の七光りではなくて、実力でポピュラー・ミュージック界に名前を残したという点である。
 さすが実力社会のアメリカだ。今のアメリカは格差社会になってしまったと言われているが、"Land of Opputunity"の精神は、これからも守ってほしいと願っている。

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2016年10月 3日 (月)

エルトン・ジョンの新作

 今年は、70年代から21世紀の今に至るまで活躍してきているミュージシャンの新作が相次いで発売されている。エリック・クラプトンをはじめ、サンタナやジェフ・ベック、ジョン・アンダーソンなどのアルバムがそれにあたるが、今回紹介するのもその中の1枚である。

 エルトン・ジョンは、今年で69歳になる。4歳からピアノをはじめ、幼い頃から一度耳にした楽曲はどんな曲でも弾きこなせたといわれている。いわゆる神童のようで、ひょっとしたらモーツアルトの生まれ変わりなのかもしれない。

 また、1969年のデビュー以来、シングルとアルバムの売り上げは全世界で3億枚以上にのぼり、これはローリング・ストーンズやピンク・フロイドの2億枚を上回っている。ちなみにエルトン・ジョンよりも上回っているのは、ビートルズやエルヴィス・プレスリー、マイケル・ジャクソン、ABBAなどで、いずれも今は現役では活動していないミュージシャンやバンドばかりであった。

 さらには、長年の功績が認められて(外貨獲得の功績か?)、1998年には英国王室より“ナイト”の称号を与えられている。だから“サー・エルトン・ジョン”なのだ。130915_eltonjohnguar
 そんなエルトン・ジョンだが、神は音楽的才能を授けるとともに、身体的な特徴もまた授与したようで、以前にもこのブログで書いたが、口の悪い評論家やファンなどからは“チビ・デブ・ハゲ・ホモ”の四重苦と揶揄されていた。

 しかし、そんな悪口や非難をものともせず、彼は、多少の浮き沈みはあったものの、約半世紀にわたってミュージック・シーンの第一線で活躍してきた。だからこそ3億枚以上の売り上げを達成し、叙勲もされたわけである。

 それにエルトン・ジョンは、そんな自分の姿を客観的に見ているようで、雑誌のインタビューや共演した他のミュージシャンとの受け答えの中でもユーモアを交えながら自分のことについて述べている。

 自分は2013年に発表された2枚組アルバム「ザ・ダイヴィング・ボード」を購入したのだが、全体的にダークで沈鬱な雰囲気が漂っていて、中古CDショップに売ってしまった。バラード曲やテンポの遅い曲がほとんどで、聞いていて全く気分が晴れなかったのだ。

 その時に、もう彼は終わった、二度と新しいアルバムを購入することはないだろうと思ったのだ。

 ところが、今年、何の前触れもなく(あったと思うのだが、ほとんどメディアの話題にはのぼらなかったと思う)、彼のニュー・アルバムが発売された。それが32枚目のスタジオ・アルバムになる「ワンダフル・クレイジー・ナイト」だった。

 購入しようかどうしようか迷ったのだが、世間の評判は上々のようで、好意的な評価が多かった。だから二度とアルバムは購入しないと決めていた禁を破り、このアルバムを手にしたのである、ただし輸入盤としてだが。614banjl0sl
 このアルバム、もし70年代の彼の絶頂期に発売されていたら、間違いなくビルボード初登場第1位、他の国でも軒並みベストセラーになっていたに違いない。それほど内容が充実しているのである。

 前作はピアノがメインの曲が多くて、しっとりはしているものの躍動感に乏しく、途中で聞くのに飽きてしまったのだが、このアルバムは全く違う。まるで前作の反動が出たような感じで、ロックン・ロールやブギウギ調の曲で占められていたのだった。

 またメロディーも耳になじみやすく、覚えやすい曲が多い。自分なんかは、こういうエルトン・ジョンを待っていたのだが、ほかの人はどう思ったのだろうか、気になるところだ。

 冒頭の"Wonderful Crazy Night"からノリノリのエルトンの姿が浮かんでくる。続く"In The Name of You"もややミディアム・テンポながらもリフレインのところはしっかりとしたメロディ・ラインだし、3曲目のレイ・クーパーがタンバリンで参加した"Claw Hammer"も同様だ。

 今回はバックのエルトン・ジョン・バンドにドラマーのナイジェル・オルソン、ギタリストのデイヴィー・ジョンストンが久しぶりに参加している。2006年のアルバム「キャプテン&ザ・キッド」以来だという。
 また、長年の付き合いであるパーカッショニストのレイ・クーパーの参加も古くからのファンにはうれしいことだった。

 そんなこともあって、エルトンにとっては久しぶりに気合の入った演奏になったのだろう。そんな彼の波動が伝わってくるアルバムになっている。

 特に"Blue Wonderful"などは、哀愁を帯びた抒情性とセンチメンタルなメロディー・ラインが絶妙なバランスで融合していて、またまたエルトンのソングブックの中に名曲が増えた気がしてならない。

 ただ残念なことは、彼の声が往年の深みを帯びた声質を失っていることだった。1988年に彼は喉を手術している。これは長年のツアーで声を酷使していったことや、薬物やアルコールの過剰摂取が原因と言われていて、手術以後、年齢からくる変化と相まって、伸びのある高音や深みのある低音が出にくくなっているようだ。

 もしこの曲が往年の彼の声で歌われていたなら、"Your Song"や"Daniel"のように、間違いなく彼の代表曲になったに違いない。また、この曲の間奏のギターは、エルトンとの共同プロデューサーのT-ボーン・バーネットが弾いている。

 アコーディオンの音が哀愁味をかき立てる"I've Got 2 Wings"、このアルバムでは唯一のバラード曲"A Good Heart"、イントロのピアノのフレーズが印象的な"Looking Up"など、このアルバムには佳曲が多く、捨て曲が全くない。

 70年代のアルバム「カリブ」や「キャプテン・ファンタスティック」と比べても全く遜色はないと思うのだ。「黄昏のレンガ路」には少し及ばないけれど…

 アルバムの後半もノリノリのロックン・ロール曲の"Guilty Pleasure"、"Blue Wonderful"と肩を並べるほど素晴らしい出来の"Tambourine"と続き、最後は透明感のあるピアノの響きが美しさを演出している"The Open Chord"で締めくくられている。

 ここまでの41分少々が本編で、輸入盤にもボーナス・トラックとしてもう2曲ついていた。最初の曲は"Free and Easy"というミディアム調の曲で、エンディング近くのストリングスとハープシコードが何となくビートルズっぽいアレンジだった。

 もう1曲は"England and America"という3分51秒の疾走感のある曲で、まるで21世紀版の"Crocodile Rock"みたいな感じだった。まだまだ才能は枯れずといった良質のロックン・ロール曲でもある。

 前作の内容で彼の才能を見限っていたが、それは自分の大間違いだった。彼や彼のファンには申し訳ないと思う。

 このアルバムは、17日間で制作されたようだが、こういう素晴らしいアルバムが作れるのだから、エルトン・ジョンは、まだまだやればできるのである。Eltonjohn2
 最後に、このアルバムはイングリッド・シシーという南アフリカ出身の作家、ファッション・美術評論家に捧げられている。彼女もLGBTの人で、代理出産で生まれたエルトン・ジョンの息子の名付け親になった人だった。
 彼女は63歳という若さで、2015年の7月に乳癌で亡くなっている。"In the Name of You"という曲は、彼女のことを指すのかもしれない。

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