2020年3月 2日 (月)

ルイス・キャパルディ

 この手の音楽って、欧米人は大好きなんだなあ、そんなことを考えながら初めて彼のアルバムを聞いてみた。"彼"というのは、スコットランド出身のシンガー・ソングライターであるルイス・キャパルディという人だ。個人的な感想としては、"第二のアデル"か、もしくは"第二のサム・スミス"だろうか。71bliz2w1ll__ac_sl1500_

 欧米人は、特に、アメリカ人は、こういう音楽を聞いてゴスペルを想起するんじゃないかな、曲の雰囲気やたたずまいは、これはもう立派な教会音楽でしょう、足りないのは"コール&レスポンス"だけのような気がする。
 一方、イギリス人はこの手の音楽を心のどこかで待ちわびているような気がする。国民性といっていいのかわからないけれど、どっかで内省的というか、自己を見つめる視点というか、マイナーな調べに乗って生活を振り返るような、そんな気分にさせられるし、そういうひと時を望んでいるのかもしれない。

 だってイギリスは島国だし、外から攻められる危険性は少ないわけで、そうなると自分たちの人生や生活にどうしても目が行くわけでしょ、だから、仕事が終わるとパブに行っては音楽を聴きながらバカ騒ぎ?をすることもあるわけで、たまに騒いで、でもいつもというわけではなく、やはり時々、自分の人生を見つめ直すんじゃないかな。

 それにイギリスは階級社会だし、労働者階級の人は、本人が意識してそこから抜け出そうとしない限り、死ぬまで労働者階級に留まるわけで、そうなったら騒いで憂さを晴らすか、諦観というか、「明日は明日の風が吹くさ」というあきらめにも似た感情がどこかに渦巻いているような気がする。普段は表に出さないけれど、ある時フッとそういう気持ちが表に出て、こういう音楽を聴きたくなるのかも。自分はイギリス人じゃないけれども、自分がそういう社会で暮らしているのであれば、そう思ってしまうだろう。

 そんなことはどうでもいいんだけど、ちょっと気になったので、この手の音楽の流れを見てみると、次のような感じになると思う。
アデル       ・・・2006年デビュー、当時18歳、売れ始めたのは2008年、20歳の時
エド・シーラン   ・・・2004年デビュー、当時13歳、売れ始めたのは2011年、20歳の時
サム・スミス    ・・・2007年デビュー、当時15歳でも売れ始めたのは2012年、20歳の時
ルイス・キャパルディ・・・2017年デビュー、当時21歳あっという間に人気に火がついてしまった

 こうやってみると、上の3人は、みんな若い時から歌っていたり、演奏していたりと、それなりに下積みがあるというか、頑張っていたんだなあということがわかるけど、ルイス・キャパルディの場合は、いきなり売れてしまったという感が強いんだ、これってやっぱりネットの影響のせいだろうね。
 彼の場合は、自宅で録音していた曲をYouTubeなどでアップしていたところを見つけられて、レコード契約がないのに2017年3月にシングルを発表していて、その後デジタル配信になり、続けて違うシングルを発表して世界的に売れてしまったみたい。今はもう誰でもミュージシャンになれる時代になってしまった。Images_20200201224801

 となると心配になるのが、いわゆる"一発屋"というレッテルが貼られることなんだけれども、たぶんもう少し売れるんじゃなかな、そんな気がする、根拠はないけれど。たとえば、ジェイムズ・ブラントなんかは2005年に"You're Beautiful"が世界中でヒットしたけど、その後はメジャーな扱いはされなくなったよね、でも、コンスタントにアルバムは発表しているし、"You're Beautiful"のようなキャッチーな曲はないけど、シングルやアルバムはチャートの上位に顔を出している。きっと根強いファンがいるんだろうと思うけど、ルイス・キャパルディもそんな感じがするんだ。

 彼はシンガー・ソングライターの扱いなんだけど、1970年代のシンガー・ソングライターというのは、本当に自作自演で、ひとりで曲を書いて、歌って、演奏して、場合によってはアルバムのプロデュースもしたりと、文字通りの"自作自演歌手"だった。でも、今のシンガー・ソングライターというのは、アデルやエド・シーランの場合を見ればわかるように、バックに強力なサポート体制があるんだよ。

 ルイス・キャパルディの場合もニック・アトキンソンやエド・ホロウェイ、エミリー・サンデーを手がけたEMSというプロデューサー集団がバックアップしていた。これはもうほぼ完璧な支援体制じゃないだろうか。それだけ才能に恵まれているというか、可能性を秘めていると見込まれたわけだから、ルイスも大変だと思う。

 だから、そのサポート体制が維持されている限りは、ルイス・キャパルディは売れ続けるし、それなりに人気も保っていけると思う。基本はルイス・キャパルディの場合も自分で曲を書いているんだけど、やっぱり曲はアレンジされるんじゃないかな。それがどの程度なのかはわからないけれど、今はいいけど、サポート・チームが口をはさみ過ぎると、彼も嫌になるだろうし、ミュージシャンとしてのプライドもあるだろうし、素直にアドバイスを受け入れられなくなる時が来るかもしれない、そういうときに、どうなるんだろう。

 ミュージシャンとしてのプライドが肥大化してしまえば、傲慢になる場合もあるだろうし、そうなったらサポート体制もなくなるかもしれない。それに、今の音楽業界って厳しいから、セールスが下降してしまうと、すぐにほかの売れそうな新人ミュージシャンやバンドを探してくるだろう。音楽の質よりも話題性が先行しているからね。そうなったら厳しくなるだろうなあ。 Imagessdhavpah

 それにイギリスって流行に敏感というか、流行のサイクルが早いから、そんな中で人気を保っていくのは大変だと思う。パンク・ロックなんかあっという間に終わってしまったし、ヒットを飛ばして売れたバンドもやがては解散してしまう。90年代のブリット・ポップ時代のブラーやオアシスがいい例だよね。

 逆にいえば、そんな中で生き残ってきたミュージシャンやバンドは世界的に有名になっていくのだろう、U2やレディオヘッド、コールドプレイなんかはそうだよね。共通点は、楽曲の良さと微妙に変化球を入れるところだろう。同じ傾向の音楽をやれば、たちまち飽きられると思っているから、音楽的方向性をアルバムごとに替えていくんだろうね。ストーンズなんかは基本はロックで、アメリカ南部のブルーズなんかをルーツに持っているけど、ロック一辺倒じゃなくて、ブルーズっぽい曲やソウルフルな曲、ディスコ調の曲まで取り入れるんだから、それだけの懐の深さが必要だと思う。
 ルイス・キャパルディの場合も、そういうキャパシティの広さを発揮してほしいね。"キャパルディ"じゃなくて"キャパシティ"に変えればいいかも、冗談だけど。

 彼の場合は、もちろん曲がいいというのは当然としても、声が印象的というか、けっこう野太いんだよね。見かけは若いし、清潔感があって、そんな感じには見えないんだけれど、声は綺麗じゃない、特に、声を張り上げて歌うときは少しザラツキ感があるんだ。でもそれがまた印象的で、心に染み入ってしまうんだよね。こればっかりは才能というよりは、持って生まれた天賦の才のようなものなんだろうね。この声がある限りは、彼は売れると思う。

 それに、体型がまた面白くて、見かけと歌のギャップがあっていいんだと思う。デビュー時のアデルのようだね。あそこまで体型は太くないけど、スマートでダンディというわけじゃなくて、もっさりとしてちょい太というところがいいのかもしれない。これが痩せたら逆に人気が無くなるかも。
 それにSNSで発信されるメッセージもユニークで面白いと評判がいいようだし、PVもちょっと変わっているし、そのギャップがいいんだろうね、いろんな意味で。今は注目されているから、彼の一挙手一投足が話題になるんだけど、やっぱりシンガーなのだから歌で勝負してもらいたいし、いい曲を、みんなの記憶に残るような曲を末永く歌ってほしいと思う。Lewisgettyimages1126250775720x480

 彼はスコットランドのグラスゴー出身で、9歳の時にギターを買ってもらい、11歳から曲を書き始め、パブなどで歌い始めたらしい。17歳から本格的に音楽活動を始めたようで、やはり自分のキャリアを自覚して、それに賭けたのだろう。それはやはり作曲能力と自分の声の素晴らしさに気づいたからに違いない。11歳の時に書いた曲が"The Show Must Go On"というタイトルだったというから、その時点で彼の人生は約束されたものになったに違いない。

 最後に、具体的な数字を示して、彼の今までの音楽的成果を確認したいと思う。2017年に発表したデビューEP「ブルーム」は、全世界で1億2000万回以上もストリーミング再生された。そして2018年に出されたシングル"Someone You Loved"は、全英シングル・チャート7週連続首位に輝き、全米でも1位になっているし、世界19カ国でプラチナ・シングル・ディスクに認定された。

 この曲を含むデビュー・アルバム「ディヴァインリー・アンインスパイアード・トゥ・ア・ヘリッシュ・エクステント」は、2019年5月に発表されて、すぐさま初登場全英1位になり、通算6週間1位を獲得した。しかし、いったん首位から陥落したものの、今年になっても人気は衰えず、先月、再び首位に返り咲いている。617ghz67oql__ac_sl1168_
 日本では約半年遅れでこのアルバムが発表されたが、セールス的にはどうなんだろう。イギリスでは、デビュー・アルバムを発表する前からアリーナクラスのツアーが企画され、チケットは約1秒で完売したという。願わくば、商業主義に毒されずに、その豊かな才能を最大限発揮しながら、納得の行くまで自分の音楽的キャリアを追求していってほしいものである。

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2020年2月24日 (月)

ギルバート・オサリバン

 突然、ギルバート・オサリバンについてコメントをしたくなった。なぜだかわからないけれど、急にアルバムを引っ張り出してきて、聞いている。よく考えたら、このブログも始めてから13年になった。バンドやミュージシャンについても、1200以上は項目として存在している。その中でも、ギルバート・オサリバンについて直接言及した項目はなかった。あれだけ有名なミュージシャンにもかかわらず、触れていないのはいったいどうしたことだろうか。Images_20200131234201

 今の新しい人にはよくわからないだろうけれど、1970年代初頭のギルバート・オサリバンといえば、ポール・マッカートニーやジョン・レノンくらい有名だった(と思う)。少なくとも、同じイギリス系のエルトン・ジョンと並び称されるくらいヒット曲を出していた。これは間違いないだろう。今でも時々、日本のTVコマーシャルやバラエティ番組などでも彼の曲は使用されている。きっと、50歳代の番組プロデューサーなどは子どもの頃によく聞いていたのだろう。だから、大人になってある程度自分の権限が及ぶ範囲では、彼の曲を使用したりするのだろう。

 自分が初めてCDを購入したのは1986年頃で、その時のアルバム・タイトル名は「アローン・アゲイン」だった。もちろんギルバート・オサリバンのシングル曲の名称であり、このCDは彼のベスト・アルバムだった。だからギルバート・オサリバンには思い入れが深いのである。
 また、このベスト・アルバムのキャッチコピーには、こう書かれていた。「時代を越えた鮮烈な輝きが、今、また音楽シーンに新たな光明を投げかける '60年代、'70年代の若者には懐かしさを!'80年代の若者には、新鮮な衝撃を

 このアルバムには、ライナーノーツが付いていて、その中で来生たかお氏は、「オサリヴァン無くして、今の僕は存在しなかっただろう」とまで言い切っていた。来生氏は、ギルバート・オサリバンの影響でピアノを弾くことを決心し、音楽的姿勢や詩、そして格好まで傾倒してしまい、銀座で服も似せて作ったようだ。銀座で服を作るというところがセレブだが、それほどギルバート・オサリバンにのめり込んでいたのだろう。

 さらに杉真理氏は、「彼がいなかったら'70年代は何と味気ないものだっただろう。"Alone Again"こそ、一番心を動かされた曲だ」と述べていた。日本のポップ職人もこう言っているのだから、如何に当時のギルバート・オサリバンの人気や実力がすごかったかがわかると思う。そして極めつけは湯川れい子嬢で、「'72年'73年は名曲の生まれた年ですが、その中でも"Alone Again"のインパクトは群を抜いている」と書いていた。音楽評論家で詩人でもある湯川れい子嬢もこのように述べているのだから、これはもう折り紙付きというものだった。

 また、ギルバート・オサリバンの声も特徴的だった。グレッグ・レイクのような深みはなく、ジョン・アンダーソンのように甲高くもない。そして、エンゲルベルト・フンパーディンクのような渋みもないのだが、ややキーが高くて、どこか甘くてマイルド、バラードでもテンポの速い曲でも、一度聞いたら忘れられない、あっギルバート・オサリバンの声だとすぐにわかるのだ。だから子どもの頃はラジオから彼の曲が流れてくれば、すぐにわかったものだった。

 自分が買った彼のベスト・アルバムには14曲が収められていた。曲はおもにデビューから1977年頃までの彼の代表曲を集めているようだ。1曲目はご存じ"Alone Again"で、続いてアップテンポの"Get Down"、ちょっとジャージーな雰囲気を漂わせている"Ooh Baby"と続き、4曲目が"Nothing Rhymed"だった。この"Nothing Rhymed"という曲は1970年の10月に発表されていて、ギルバート・オサリバンの英国での最初のシングルだった。チャート的には英国では8位、オランダでは1位を記録している。また、この曲が収録された彼のデビュー・アルバム「ヒムセルフ」は、全英アルバム・チャートで5位になり、86週にわたってチャートインするなど、記録的なヒット作品になった。ここから彼の栄光の歴史が始まったのである。 61t0t73j2l__ac_

 ちなみに大ヒットした"Alone Again"は1972年の作品で、全英、全米ともに1位を記録し、アメリカではグラミー賞にもノミネートされていた。彼の代表曲の一つで、内容的には両親の死や婚約者にふられた孤独感などが含まれている。ただ、これは彼の自伝的なものではなく、確かに彼の父親は彼が11歳の時に亡くなっているのだが、母親はまだ健在だったし、この曲を書いた時はまだ21歳で、婚約者にもふられてはいなかった。21歳の若者がこれほど老成した曲を書いたのだから大したものである。

 同じ1972年の作品が"Ooh Wakka Do Wakka Day"で、このシングルは全英8位まで上昇している。当時のアルバムには未収録曲だったが、21世紀になってからセカンド・アルバムのリマスター盤「バック・トゥ・フロント」に収められた。このアルバムには"Clair"という曲も収められていて、シングル・チャートでは全英で1位、全米では2位を記録している。曲の最後に子どもの笑い声が入っていて、てっきりこれはギルバート・オサリバンの子どもの声だろう、スティーヴィー・ワンダーの曲のアイデアをパクったのだろうと思っていたら、この曲の方が早くてスティーヴィー・ワンダーの方が後からだった。だからといって、スティーヴィー・ワンダーがパクったとは言えないだろうけれど。 51bavfqra5l__ac_
 そんなことはどうでもいいのだが、この"クレア"という人は、ギルバート・オサリバンのプロデューサーだったゴードン・ミルズという人の3歳の娘のことを歌っているもので、当時のギルバート・オサリバンとゴードン・ミルズは、家族ぐるみの付き合いをしていたということがこれでわかると思う。

 また、ベスト盤にある"Who Was It?"は、この「バック・トゥ・フロント」にある"With You Who Was It?”のことだろう。曲の時間的にもほぼ同じなので、同名曲だと思われる。シングル・カットはされていないので、チャート・アクションの記録はない。

 "Ooh Baby"と"Get Down"、"A Friend of Mine"は、1973年に発表された彼の3枚目のアルバム「アイム・ア・ライター、ノット・ア・ファイター」に収められていて、のちの2012年のリマスター盤には"Why Oh Why Oh Why"も収録された。
 この中で一番印象が強いのは、"Get Down"で、名バラード曲だった"Alone Again"だけでなく、こういうアップテンポでロック的な曲(全然ロック調ではないのだけれど、当時はそんな印象だったのだ)も作って歌うことができるんだと驚いた記憶がある。つまり彼は、"一発屋"ではなかったということだ。当時はそんな言葉は知らなかったけれど、彼の才能というか曲のバラエティの豊かさに感動していた。

 "Get Down"はもともとは、ギルバート・オサリバンのピアノの練習曲で、イントロの部分しかなかったのを彼が曲としてまとめたものであり、ガールフレンドの犬の調教用としての言葉(「おすわり」)について歌っている。内容的にはそんなシリアスなものではないのだが、自分にとっては何か重要なことのように思えて、英語の辞書で意味を調べたのだが、よくわからなかった思い出がある。ちなみにチャート的には、全英1位、全米7位を記録している。 81wlc68hrbl__ac_sl1200_

 1974年に発表されたアルバム「ア・ストレンジャー・イン・マイ・オウン・バックヤード」には甘いストリングス付きのバラード曲"If You Ever"が収められていて、この2012年のリマスター盤には"Happiness is Me And You"がボーナス・トラックになって入っていた。この後者の曲にもストリングスが付随していたから、この頃のギルバート・オサリバンはほぼイージーリスニング化していたようだ。
 アルバムのエンジニアには、ポール・サイモンやビリー・ジョエルなどを手掛けたフィル・ラモーンの名前がクレジットされていたから、ひょっとしたらそんなことも関係していたのかもしれない。アルバム・チャート的には全英19位、全米62位だった。前年に発表されていたシングル"Ooh Baby"が全英18位、全米25位だったから、このあたりから徐々にチャート・アクションのキレが鈍くなってきたようだ。

 また、この年のクリスマス用シングルとして、文字通りの"Christmas Song"という曲も発表されている。全英12位、アイルランドでは5位、全米ではチャートインしなかった。欧米ではクリスマス・シーズンにクリスマス・ソングを発表するシンガーやバンドは、世間から一流と認められているという暗黙の了解があるようで、そういう意味では、ギルバート・オサリバンもまた一流ミュージシャンとして認知されていたのだろう。 51vrg4pysyl__ac_

 翌1975年には"I Don't Love You But I Think I Like You"という曲が発表されている。この曲は、彼にとっては珍しくブラスも使用されており、ギターにもディストーションがかかっているほど、かなりハードな楽曲だった。チャート的には全英14位、アイルランドでは7位と何とか健闘している。また、"Miss My love Today"は、マイナー調のちょっとダークな雰囲気の曲。そのせいか英国でも米国でも、そして母国アイルランドでもチャートインを逃している。1977年のアルバム「サウスポー」に収録されていて、この曲を含むアルバム全体をギルバート・オサリバン自身がプロデュースしていた。51zpfdovdil__ac_

 実は、上にもあったように、ゴードン・ミルズはトム・ジョーンズなども手がげるほどの有能なプロデューサーであり、ギルバート・オサリバンもゴードン・ミルズの娘を題材に曲を書くなど、当初は良好な関係を築いていたのだが、徐々に悪化していった。金銭関係が原因とか、ギルバート・オサリバンの独立問題のせいだとかいわれているが、詳細は不明だった。ただ確かなことは、ギルバート・オサリバンも人間不信に陥ってしまい、本来の音楽活動に専念できずに音楽活動から遠のいていったという事実だ。それが1970年代後半からで、チャート・アクションもそれを証明しているみたいだった。

 ギルバート・オサリバンはアイルランドで生まれたが、7歳の時にイギリスに引っ越して生活を始めた。大学生の時に、"リックス・ブルーズ"というバンドに所属してドラムスを担当していた。このバンドのリーダーは、のちにスーパートランプで活躍したリック・デイヴィスであり、バンド名もそこから来ている。リックはギルバート・オサリバンに、ドラムの演奏方法やピアノの弾き方などを教えたそうだ。何となく結びつかないのだが、才能のある人同士は、お互いに磁石のようにひかれあうのだろう。

 彼の世界的な名声は70年代の後半に終焉していったが、一時遠ざかっていたものの、音楽的活動はその後再開していて、2018年には「ギルバート・オサリバン」というオリジナル・アルバムを発表している。彼にとっては19枚目のスタジオ・アルバムにあたるもので、英国のアルバム・チャートでは20位を記録した。これは、ベスト盤を除いては約40年ぶりにチャートインしたアルバムになった。A119jrcsk1l__ac_sl1500_

 現在73歳のギルバート・オサリバンである。プロデューサーとの確執がなければ、もっと多くのヒット曲を生み、もっと多くの人気を獲得して、今でもなおライヴ活動にいそしんでいたかもしれないほどのミュージシャンだった。ちょっと残念なところはあるけれど、それでも70年代の彼のヒット曲は、いまだに色褪せない。そして年がたてばたつほど、その輝きはより一層光を増すように思えてならないのだ。

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2020年2月17日 (月)

ザ・ミスティーズ

 昨年の秋に発表された新作を紹介する。これが今どき珍しい超弩級ポップ・ソング・アルバムだからだ。ザ・ミスティーズという名前なのだがバンドではなく、ヨハン・ステントープというスウェーデン人がやっているプロジェクト名だった。プロジェクトといっても、メンバーが流動的とかバンド名にこだわっているとかいうのではなくて、彼一人で作詞、作曲、アレンジ、プロデュースにミキシング、もちろんすべての楽器も手掛けていて、要するにワンマン・プロジェクトなのである。S_img_5553

 それなら別にバンド名っぽくするのではなくて、個人名で発表すればいいのにと思うのだが、彼曰く、バンド名が欲しかったのはその手の音楽だと思ったから、ということらしい。さらに、まだ使われていない名前を見つけるのは難しくて、ポップな響きのする名前を考えていたら"ザ・ミスティーズ"になったという。

 彼は、80年代から活動をしているマルチ・ミュージシャンで、1983年にプラズマというバンドのキーボード・プレイヤーとしてプロ・デビューしている。バンドは1984年に解散したが、翌年にはタイム・ギャラリーというバンドを結成してアルバムも発表した。タイム・ギャラリーは、大物プロデューサーのキース・オルセンの目にとまって、アトランティック・レコードと契約もしていた。順調に活動も進んでいくと思えたのだが、残念なことにセールス的に振るわず、1992年に2枚目のアルバムを発表したあと解散している。 61szdgjydml

 そのあとヨハンは、スタジオ・ミュージシャンとして活動していくのだが、高校時代の同級生だったパール・デヴィッドソンという人と一緒にトランポリンズというユニットを結成して活動を始めた。ユニットは4人組のバンドへと発展して3枚のスタジオ・アルバムを発表していて、折からのスウェディッシュ・ポップ・ブームの波にものり、日本でも注目を集め、来日公演も果たしている。
 トランポリンズ自体は、3枚のアルバムを残して1999年に解散してしまうのだが、母国スウェーデンではもちろんのこと、日本やヨーロッパではセールス的にも好調で知名度的は高かった。

 その中心人物だったヨハン・ステントープの好きなバンドやミュージシャンは、デヴィッド・ボウイやクィーン、10ccにスーパートランプ、ザ・クラッシュなどの70年代から活躍しているバンドやミュージシャンであり、さらにはエルヴィス・コステロ、クラウディッド・ハウス、ドッジー、XTCなどの80年代、90年代のバンドなどにも及んでいて、まさにポップ・ミュージックの博覧会のような感じだ。また、どちらかというと英国中心であり、どこかひねくれたポップ・ミュージックを志向しているようである。

 ヨハンはまた、スクイーズやジェリーフィッシュもフェイヴァリットに挙げているのだが、やはりザ・ビートルズが始まりのようで、中でもジョージ・ハリソンの曲には思い入れが深いという。"Here Comes The Sun"や"Something"はレノン&マッカートニーの曲にも匹敵すると言っていて、そんなことはいまさら言わなくても誰でもわかることだろうとツッコみたくもなる。ただ敢えてジョージ・ハリソンの曲が好きというところに、ヨハン・ステントープの個性というか原点があるような気がする。

 原点といえば、ヨハンが音楽にのめりこむきっかけになったのは、ディープ・パープルの「イン・ロック」を聞いてからで、何故かイアン・ペイスに憧れて11歳でドラムを始めたらしい。普通はリッチー・ブラックモアに憧れてギターを始めるんじゃないかな、もしくはイアン・ギランのようにシャウトしたいとか。それがイアン・ペイスなのだから、やはりヨハンはちょっと違っている。

 そこから始まり、曲作りをするようになってドラムからキーボードに転身した。また、父親からはクラシック、8歳上の兄からはアリス・クーパーからシカゴ、キャンド・ヒートなどのアメリカン・ロック、ピンク・フロイドにジェネシスやイエスのプログレ系、ブラック・サバスやユーライア・ヒープ、シン・リジィなどのハード・ロック系、キャット・スティーヴンス、ニール・ヤング、レオ・セイヤーなどのシンガー・ソングライター系など、幅広いジャンルのレコードを聞いていてその影響を受けている。これらの音楽をひとくくりにすることはあまり意味はないかもしれないが、基本的には70年代の音楽が中心で、メロディーがはっきりとしているバンドの曲が多いようだ。だから最終的に、ポップ・ミュージックを志向するようになったのだろう。

 そんなヨハンの、いや間違えたザ・ミスティーズのアルバム「ドリフトウッド」は、当初40曲余りが準備され、それらを絞り込んで25曲くらいレコーディングをしている。そして最終的に残ったのは12曲だった(国内盤ではボーナス・トラック付きで15曲)。
 タイトル名の「ドリフトウッド」とは流木のことで、彼が住んでいる近くにビーチがあって、時々散歩をするという。散歩をしながら曲のアイデアやメロディーが浮かんできて、それを集めてこのアルバムを作ったようだ。それが浜辺に打ち上げられた流木を集めるような感じだというので、タイトル名になったらしい。61bkk0xsa4l__ac_

 1曲目の"Good Things"から弾けるようなメロディを聞くことができる。この曲では、ヨハンはフリートウッド・マックを意識しているようだが、80年代のフリートウッド・マックよりもポップである。"Your Heart is Bigger Than That"はアメリカのパワー・ポップのバンドの曲のようだ。ウィーザーとかファウンテン・オブ・ウェインとかのややスローな曲を思い出させてくれた。

 "Calling Out!"は80年代のニュー・ウェイヴのサウンドを意識したようなのだが、聞いていてあまりそんなことは感じられなかった。基本的にはどの曲もそうだけど、シンセサイザーなどの電子音楽機器は目立っていないし、性急なビートの曲もない。この曲もテンポは軽快で、聞かせるパワー・ポップの曲になっている。ヨハンは1時間くらいで仕上げて、曲のアイデアが新鮮なうちにレコーディングを行ったという。

 "That in Not What Friends are For"は2分58秒と短い曲だけれど、かなり時間がかかって作られたようで、苦労したらしい。途中で何回か転調しているし、シンプルながらもピアノやギターの短いフレーズも挿入されていて、シンプルな曲のようで複雑な構成なのが分かる。職人技のようなポップ・ソングだ。

 "Face the Sun"もミディアム・テンポのポップ・ソングで、メインのボーカルに対するコーラスの被せ方やメロディが印象的だ。この曲も時間をかけてじっくりと熟成させた感がある。よくできた曲だと思う。"I Fall Back into Your Arms"は冒頭の"Good Things"のように軽快な曲で、サビの部分のメロディがいい。声がファルセットになるところなんかは最高だと思う。ヨハンの知り合いの変な作曲家についてのお話らしい。本人は自分自身のことではないと言っているけれど、でもおそらくは少し自分のことも入っているに違いない。

 "How it Ends"は2分程度で曲名やアイデアが浮かんだ曲で、ヨハンが蚤の市で購入した1936年製のアコースティック・ギターで作曲したもの。この曲もミディアム・テンポの曲で、曲自体は良いものの、同じようなテンポの曲が並ぶと平凡な印象になってしまいがちなので、この辺でバラード系の曲が欲しかった。このアルバムのマイナス点を探すと、同じような傾向の曲が並べられているという点だろう。だから途中で聞き慣れてしまうのだが、1曲1曲の水準はものすごく高いので、高水準のポップ・ソングが並んでいますよという感じだ。だから逆に言えば、非常にもったいないのである。

 8曲目の"Blue Sky Thinking"は、アルバムのレコーディングの終わりの方で出来た曲。この曲もテンポは前の曲と同様なのだが、曲のフックというか曲名のリフレインが耳に残った。そして、やっときましたバラード系が、"Everything We were"なんだけど、このアルバムの中でも数少ないバラード曲で、途中のウーリッツアー社製のエレクトリック・ピアノのソロなんかは曲にピッタリハマッていた。また突然終わるエンディングも効果的だと思った。

 一転してノリノリの"Over And Over Again"が始まる。こういうアルバム構成はいいと思う。アルバムの前半は同傾向の曲が目立つが、後半ではバラエティに富んでいて、リスナーを飽きさせない工夫がある。ほかの曲もそうだけど、この曲は特にシングル・カットしても売れるんじゃないかなと思わせる。
 
続く"Halfway into A Storm"では犬の鳴き声のSEが入り、ミディアム・テンポのアコースティック・ギターからボーカルが導かれる。ヨハンは楽器が近くになくて、頭の中で書いた曲だと言っていた。途中で転調も入り珍しくシンセサイザーやオルガンのソロも聞くことができる。これもみんな頭の中で構想したのだろうか。やはり彼は、常人とは違う才能を有しているようだ。

 "I'm A Winner"もメロディアスな曲で、人生での成功を夢想している人物のことを歌っていて、ヨハンは自分のことだとはっきりと述べていた。それはともかく、この曲にも転調があってそれが効果的だ。曲の最後がフェイド・アウトしていたので、出来ればきっちりと終らせてほしかった、一応この曲がラスト・ソングになるわけだから。

 13曲目からは国内盤におけるボーナス・トラックになっていて、"If Push Comes to Shove"はイギリスのポップ・ロック・バンドのスクイーズに対する敬愛の気持ちを込めて作られたもの。アップテンポで、何となくそんな感じに聞こえてくるから不思議だ。グレン・ティルブルックとクリス・ディフォードが聞いたらきっと喜ぶだろうな。

 "Where were You?"はミディアム・テンポの曲で、中間の部分はヨハンがイギリスのバンドのプリファブ・スプラウトを意識して書いたらしい。短いながらもアカペラのパートもあって、それなりに楽しんで作った様子が伝わってくる。ただ、どこがプリファブ・スプラウトだったのかはよくわからなかった。

 最後の曲は、"The Last of The Mohicans"というもので、彼が子どもの頃に見た映画や読んだ本をもとにして作った曲。曲自体はずいぶん前に作られていて、未完成のままに放っておかれていたのを、今回、曲としてまとめたもの。リズムが少し重くて、このアルバムの全体の印象とは少しかけ離れている。だからボーナス・トラックにしたのだろう。メロディ自体は優しいものなのでポップ・ソングの範疇に入るだろうが、何となくザ・ビートルズの「リボルバー」時期のアウトテイクといった感じか。少し軽めのアウトテイクだろう。71tost3c7l__ac_sl1161_

 ヨハンは10年以上もプロデューサーやソングライティングなどの裏方の仕事をしてきて、このたび久しぶりにアルバムを発表した。このアルバムが売れれば、これからはミュージシャンとして表現活動に打ち込むかもしれない。彼は、今回アルバムを発表するにあたって、インタビューでこのように述べていた。『2019年の最先端の曲も、20年前から30年前の最先端の曲も、人の心を動かす構造は同じだと思う。もちろん、時代とともに音楽スタイルは変化しているけれど、いつの時代でも変わらない何かが確実にあって、その本質の部分に触れる音楽こそが、音楽好きのリスナーの心をつかむことができるんだ』ヨハンにはもう少し頑張ってもらって、これからもアルバムを発表してほしいと願っている。

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2020年2月10日 (月)

クラウディッド・ハウス

 クラウディッド・ハウスは、オーストラリアのバンドだ。3人組で、いわゆるギターにベース、ドラムスと最もオーソドックスなバンド構成だった。中心人物は、ギター&ボーカルのニール・フィンという人で、ほとんどの曲が彼によって作られていた。
 ただし、オーストラリアのバンドといっても、ニール・フィンはニュージーランド人で、それ以前に在籍していたバンドのスプリット・エンズが解散したので、お隣のオーストラリアに移ったというわけだった。1_n4nemgw56myjwlre75smq

 自分はスプリット・エンズのアルバムはもっていないけれども、当時のラジオやMTVのビデオで視聴したことがあって、ポップで耳になじみやすい楽曲をやっていた覚えがある。そのメンバーだったニール・フィンが結成したバンドだったから、これまたスプリット・エンズのような音楽をやるのだろうと期待していたら、その通りになったので驚いた記憶がいまだに残っている。

 当時というのは、1980年代の初めの頃で、スプリット・エンズが1984年に解散したから、それ以降のお話だ。ちなみにニール・フィンには兄がいて、彼がスプリット・エンズを始めたようなもので、弟のニールが後から加入している。兄の名前はティム・フィンといって、ニールより6歳年上だった。

 それはともかくとして、彼ら兄弟は子どものころから音楽に親しんでいたようで、話によると、母親が自分の家で友人を招いてパーティーを開いた時にはいつもピアノを弾いて盛り上げていたらしい。そして、子どもに向かって歌を歌うように言ったり、楽器を使って演奏するように仕向けさせたようだ。また、アイリッシュ・ミュージックからマオリ人の音楽まで、幅広く聞かせて音楽的な環境を整えて言ったという。別にミュージシャンにするつもりはなかったようなのだが、とにかく音楽好きの家系だったのだろう。

 ニールやティムの人気は日本ではあまり感じられないのだが、オーストラリアやニュージーランドでは絶大なる人気を誇っており、地元のARIA賞では何回も受賞しているし、オーストラリアのホール・オブ・フェイムの殿堂入りも果たしている。それに兄弟で"フィン・ブラザーズ"
という名前でアルバムも発表していた。
 また、スプリット・エンズやクラウディッド・ハウスにおけるレコード・セールスやアドバタイズメントにより、オーストラリアやニュージーランドの国威高揚に貢献したとして、大英帝国勲章も受賞している。だからこのフィン兄弟は、日本では考えられない程の知名人なのである。P01bqfxw

 それで、ニールがオーストラリアにわたって結成したクラウディッド・ハウスだが、ドラムス担当のポール・へスターは、スプリット・エンズに在籍していた最後のドラマーだった。ニールが連れてきたのだろう。ただ彼は、スプリット・エンズやクラウディッド・ハウスで大成功を収めたものの、バンドが解散してからは精神的に参ってしまったようで、46歳の若さで自殺してしまった。まだ5歳と10歳の娘がいたというのに、残念なことである。

 バンドは、1986年にデビュー・アルバム「クラウディッド・ハウス」を発表した。全11曲ながらも38分という短さだったが、内容的にはどの曲も瑞々しい勢いとフレッシュな若さが詰め込まれていて、今聞いても全く違和感はないほどだ。
 1曲目の"Mean to Me"は、ニュージーランドに昔あった街のことを歌っていて、このアルバムからの第1弾シングルだった。アコースティック・ギターから始まり、途中からブラスも加わって陽気な曲調になっていく。このあたりはプロデューサーのミッチェル・フルームのアドバイスに違いない。61myz00lvl__ac_

 続く"World Where You Live"は、このアルバムからの第2弾シングルだった。この曲もミディアム・テンポながらも転調が多くて、キーボードの装飾というか効果音が目立つ。最初の曲よりもいくぶんロック調で、ハードな感じがした。
 "Now We're Getting Somewhere"では、ジム・ケルトナーが太鼓をたたいているし、ベース・ギターもニコラス・セイモアではなくて、ジェリー・シェフというミュージシャンが担当していた。これもプロデューサーのミッチェル・フルームの示唆だろうか。曲自体もアメリカ南部の影響を受けていて、オルガンやアコースティック・ギターが目立っている。何となくザ・バンドの音楽をよりポップにしたような感じだ。このアルバムからの3枚目のシングルになった。

 4曲目の"Don't Dream It's Over"のおかげで、このアルバムは世界中で売れたと言ってもいいだろう。このアルバムからの4枚目のシングルになったこの曲は、まるで夢に誘うかのような魔法みたいなバラードで、米国のビルボードのシングル・チャートでは2位まで上昇した(1位はアレサ・フランクリンとジョージマイケルのデュエット曲だった)。途中のキーボードのソロとギターの調べが印象的でもある。また、カナダやニュージーランドではチャートの首位を獲得したが、なぜかオーストラリアでは8位止まりだった。

 "Love You 'till The Day I Die"は叫び声から始まるエキセントリックな曲で、ちょっと実験しているよなという感じがした。リズム面が強調されていて、キーボードの(当時流行ったフェアライトか?)装飾音が目立っている。
 続く"Something So Strong"は、5番目にシングル・カットされた曲で、これまた大ヒットとなった。ニール・フィンとプロデューサーのミッチェル・フルームとの共作で、実に軽快で明るく、快い気持ちにさせられる曲だ。ニュージーランドではチャートの3位になり、米国のビルボードでは7位まで上がった。ちなみにオーストラリアでは18位だった。

 "Hole in the River"はニールと元スプリット・エンズのキーボード奏者だったエディ・レイナーとの共作曲で、ミディアム・テンポながらもニールの力強いボーカルを聞くことができる。途中でブラスやキーボード・ストリングスが入ったりするが、基本はロック調の曲だ。エンディングはブラスとキーボードの融合で幕を閉じていく。
 "Can't Carry On"も同様な曲だが、こちらの方が曲の構成がすっきりしているし、メロディアスだ。クレジットを見ると、この曲だけプロデュースが先ほどのエディ・レイナーになっていた。一世を風靡したスプリット・エンズの曲を思い出させてくれた。

 "I Walk Away"はそのスプリット・エンズの曲で、1984年の彼らのラスト・アルバム「シー・ヤー・ラウンド」に収められていたもの。この曲でもニールの力強いボーカルを聞くことができるのだが、スプリット・エンズというバンドから離れて、ソロとして活動していくという決意が込められていたからだろう。ロック調だが聞きやすい。メロディが優れているからなのか。ちなみに、発売当初はアルバムに収録されていなくて、のちになって収められた。71e4i8lhpl__ac_sl1313_
 "Tombstone"はアコースティック・ギターのコード・ストロークから入るが、もちろんフォーク調ではなくて、これまたポップン・ロールといった感じの曲だ。シングル・カットはされなかったけれど、されてもおかしくない曲だろう。

 最後の曲"That's What I Call Love"はドラムス担当のポール・へスタートの共作曲。ポールの影響からか、リズムが強調されていて、この時代特有の跳ねるようなベース音や打ち込みのようなドラム・サウンドが目立っている。途中でセリフが入ったり、キーボードのサウンド・エフェクトが強調されたりと、やや実験的な作風だ。でも今となっては懐かしいし、当時を知らない人にとっては、逆に新鮮に映るのではないだろうか。

 クラウディッド・ハウスは、このあと3枚のアルバムを発表し1996年に解散したが、そのあと再結成をして2枚のアルバムを出している。現在も解散はしていないようで、新しいメンバーでライヴなどを行っているようだ。もちろん中心はニール・フィンだが、なぜか彼は2018年のフリートウッド・マックのツアーに、リンジー・バッキンガムの代わりにギタリスト兼ボーカリストとして参加していた。もちろんフリートウッド・マックには加入しないのだろうが、白羽の矢が当たったということは、それだけ人気と実力を兼ね備えているということだろう。

 自分にとっては、決して過去のバンドとは思えないクラウディッド・ハウスである。できれば、それ以前のスプリット・エンズのアルバムからじっくりと聞き直したいと考えているのである。

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2019年9月16日 (月)

マドンナの新作

 今年の8月でめでたく61歳になったマドンナの新作である。タイトルは「マダムX」というもので、とても年齢を感じさせない内容に仕上げられていると書きたいところだが、今までのダンス系ミュージックとは違って、おとなしめの曲が多く、少し路線を変えている。この辺は好き嫌いの別れるところであろう。そういう意味では問題作でもある。ただ、アルバムに含まれているメッセージ性は、相変わらずアグレッシヴで強烈なパワーを秘めている。コンセプトは次のようなものだ。
「マダムXは秘密諜報員
世界中を旅してまわり
自己を変えていく
自由のために闘い
暗闇の場所に明かりをもたらす
彼女はチャチャのインストラクター
教授であり
元首であり
主婦であり
騎手であり
囚人であり
学生であり
教師であり
尼僧であり
キャバレー歌手であり
聖人であり
娼婦である」

 過激で先鋭的、だれも思いつかないことを思いつき、それを実行する。とても61歳とは思えないマドンナの、衝撃的で強烈なメッセージを含んだセクシーなアルバムである。今回の「上半期の印象に残ったアルバム」は、マドンナの14枚目のスタジオ・アルバム「マダムX」の登場だ。81ehe06jy1l__sl1500_

 アルバム・ブックレットによると、マドンナは生活の拠点を今はポルトガルのリスボンに置いているという。養子にしている次男がプロ・サッカー選手の育成のための施設に入ったためだそうだ。年間数十億円も稼ぐマドンナだから、どこでも暮らすことは可能だろう。だからこのアルバムは、ポルトガルのリスボンやイギリスのロンドン、アメリカのニューヨークとロサンジェルスなどでレコーディングが行われた。さすが天下のマドンナ、時間も距離も超越したような仕事ぶりである。

 それで、リスボンで生活しているせいか、ポルトガル語を始め、デビュー初期からも使用されていたスペイン語、英語などで歌っているし、曲によっては他のミュージシャンとコラボレーションをしながら曲作りやパフォーマンスを行っている。このあたりも世界を股に掛けた活動である。マドンナの辞書には不可能という文字は見当たらないような感じがする。

 一聴した感じでは、前作までのダンス・ミュージック中心の作風が影を潜めたようで、ある意味、年齢に相応しく落ち着いた楽曲が目立っているように思えた。ただ、曲はバラエティ豊かで様々な音楽的要素を含んでいるし、歌詞のメッセージ性は今という時代を反映したものになっていて、とてもその辺のミュージシャンと比較にならないほど扇情的だ。
 こういう意識感覚は、彼女の生来的なものだろう。彼女の持つ功名心や反骨心、闘争心などは年齢を重ねて言っても消えることはない。むしろ高まってきているようだ。そこがマドンナのマドンナたる所以だろうし、それを失ったらマドンナではなくなるだろう。まさにマドンナのアイディンティティが十二分に発揮されたアルバムだともいえるのだ。

 アルバムは"Medellin"という曲で始まるが、これがまた何と”チャチャ”というダンスとレゲトンというヒップホップに影響を受けたプエルトリコ産の音楽を融合したものになっていて、時代の流れに鋭敏なマドンナの嗅覚の鋭さを感じさせてくれた。タイトルは、コロンビアの第2の都市の名前を意味していて、そこで出会ったマドンナと地元の青年との恋愛という設定のもと、掛け合いで歌っている。

 地元の青年というのは、マルーマというコロンビアを代表するミュージシャンで、PVでも登場している。25歳の男性と当時59歳の女性との恋愛は、一般常識ではありえないように思えるが、そこはマドンナ、不可能はないのであろう。Maluma ちなみにメデジンはかつては麻薬王が仕切っていた都市で、治安が悪く日本人旅行者も殺害されたところだが、実際は親日家が多く、街全体でイメージ回復を図っており、2013年には「世界で最も革新的な都市コンテスト」の1位に選ばれたこともあるところだ。

 "Dark Ballet"というのはバレー音楽ではないのだが、内容がフランスの救国の英雄ジャンヌ・ダルクのことについて述べていて、確かにバレーを意識したような中盤でのブレイクや語りが挿入されている。そういう意味では、絵画的でもあり映像的でもあるのでイメージを浮かべやすい曲になっている。
 続く"God Control"は、タイトルでは"God"になっているが、PVを見ると、明らかに"Gun Control"(銃規制)のことについて歌っている。今のアメリカの現状に警鐘を鳴らしているというか、明確に反暴力、反現政権を前面に打ち出していて、マドンナらしい楽曲だ。このアルバムの中ではリズミカルでダンサンブルなものになっている。

 4曲目の"Future"ではジョージア州出身のクエイヴォというラッパーの人と共演していて、全体的にはレゲエのリズムである。ミディアム・テンポで流れて行き、ラップの部分も高速マシンガンではなく、丁寧に歌われている。このあたりが前作や前々作とは違う点だろう。B320452ec5924db690b5f3082857d435  次の"Batuka"は力強いドラムのビートから始まり、人生における問題や葛藤、宗教的な信念などが語られるが、タイトルのバトゥーカというのはアフリカの打楽器のことで、曲の導入の部分も含めて、全編にわたりこのバトゥーカが使用されている。アフリカン・ビートとでも言えばいいのだろうか。

 さらにまた問題作ともいえる"Killers Who Are Partying"では、一転してバラードっぽくなるものの、歌詞の方はセンセーショナルでもある。
「男性同性愛者が焼かれるなら
私は男性同性愛者になろう
アフリカが撃たれるなら
私はアフリカになろう
貧しいものが侮辱されるのなら
私は貧しいものになろう
子どもが搾取されるのならば
私は子どもになろう
私は自分が何者か知っている
そして自分が何ものでないかも知っている」

 こういう出だしで淡々と歌われて行く。中にイスラムが嫌われるのならイスラムになろうと言っているし、それと敵対するイスラエルに対しても庇護する姿勢を示している。まさに博愛主義者というか世界市民的な平和主義者の面も打ち出している。さすがマドンナ、このアルバムのテーマに相応しく、聖者もしくは修道女の部分を明示しているのだろう。

 "Crave"もまたバラード系の曲で、アコースティック・ギターで導かれ、途中から手拍子とスウェイ・リーというLA生まれでミシシッピー育ちのラッパーとのデュエットに繋がっていく。このスウェイ・リーという人は、レイ・シュリマーという兄弟ラッパーの弟の方で、来日経験もあるミュージシャンだ。この曲はメロディアスで美しい恋愛の曲で、マドンナのピュアな感情が切々と歌われている。このアルバムからの第2弾シングルとして発表された曲でもある。Swaelee
 一転して"Crazy"では恋愛の終わりが歌われていて、あなたは私をクレイジーと思っているのでしょうけど、もうあなたに心を乱されないわという決別の歌になっている。この曲もまたスローなバラード系で、確かに恋愛についての曲なのでおとなしめになるのかもしれないが、何となく今までのマドンナらしくないと思ってしまった。

 次の"Come Alive"では、少しビートが強調されているが、曲全体としての躍動感はない。むしろ言葉の響きが面白くて、同じ言葉を重ねて歌うところの方がリズミカルで印象的だった。むしろそちらの方に焦点があてられた曲なのだろう。この曲も4分くらいしかない短い曲だった。

 後半も他のミュージシャンとのコラボが続く。"Faz Gostoso"ではブラジル出身のアニッタという人と一緒に歌っていて、さすがブラジルだけあってブラジリアン・ミュージック全開、久々にノリのよい曲にこちらもうれしくなってしまった。このアニッタという人は若干26歳で、歌も歌うし曲も書き、踊って映画にも出演するという才女らしい。マドンナは、かつての自分の姿を彼女の中に見出したのかもしれない。Pdpj6int38kq6ktq

 "Bitch I'm Loca"では、冒頭の曲"Medellin"にも登場したマルーマが再び参加して歌っている。リズムはレゲエだが、それにマドンナの歌とマルーマのラップが絶妙に絡みついてくる。ただこの曲もミディアム調なので、ラップもそんなに早くはない。聞かせる曲として作ったのだろう。逆に、次の"I Don't Search I Find"の方がテンポが良い。ただ全体的にアンビエントなムードが漂っていて、摩訶不思議なダンス・ミュージックになっている。ブライアン・イーノ+ディスコ・ミュージックといった感じだろう。

 そして、アルバムでは最後の曲になる"I Rise"では、マドンナの決意表明が歌われている。曲の冒頭では、フロリダ州のダグラス高校で起きた銃乱射事件の生存者のスピーチの一部が引用されていて、そこから”私は立ち上がる 私は上を目指す 私たちは一緒ならできるはず”と力強いビートに乗ってマドンナは訴えてくるのであった。3分44秒しかない短い曲ながらも、そこには強いパワーが秘められている。このアルバムから第3弾シングルになった曲だった。71hplmyqlql__sl1162_

 4年振りのスタジオ・アルバムであり、還暦を迎えたマドンナではあるが、いささかの衰えはそこにはない。今回のアルバムでもソングライターとしてすべての曲に関わり、プロデューサーとしてもフランス人のミルウェイズやアメリカ人のマイク・ディーンらと協力しながら全曲に参加していた。Madonnna  ただ気がかりなのは、中盤にスローなバラード系が多く配置されていて、アルバム全体としては、今までのノリノリダンス系からしっとりとした聞かせるものになっている点だろうか。ひょっとしたら年齢が年齢だけに、キレッキレのマドンナのダンスも見られなくなるのかもという不安はある。それは今回だけの方針なのか、それとも今後こういう路線を歩んでいくのか注視していきたい。いずれにしてもマドンナ、そのメッセージ性については、どれだけ年齢を重ねていっても、括目させられるのであった。

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2019年8月26日 (月)

ザ・ドラムス

 さて、8月も最後の週になってきた。今年の夏も暑かったし、残暑もまた続いている。本当に日本は、亜熱帯気候に属しているのではないかと思われるほどだ。地球温暖化なのかどうかはわからないけれど、間違いなくこの傾向は続いていくのだろう。
 そんな暑さの中で、今年上半期に気になったアルバムを何枚かピックアップしてみたいと考えている。題して、”2019年上半期私の中での話題のアルバム”シリーズだ。そのまんまのタイトルになってしまった。相変わらず芸のない試みである。

 それで第1弾の今回は、アメリカのバンドのザ・ドラムスが登場する。自分はこのバンドのデビュー・アルバムを持っていたと思うのだが、探してみても見つからない。ひょっとしたら売っ払ってしまったのかもしれない。ということは、自分にとってはそんなに良いアルバムではなかったということだろうか。
 確かシングル・ヒットした"Let's Go Surfing"はポップでメロディアスで、どことなく60年代風な要素を携えていたと思っていたのだが、それ以外の曲がピンとこなかったかもしれない。でも、それ以降は、頭の片隅にこのバンドのことは覚えていたようで、今回もラジオでニュー・アルバムのことを知って、聞いてみた次第である。23373

 自分にとってこのバンドは、基本的にはギターとキーボード中心のインディ・ロック・バンドだと思っていたのだが、この最新アルバム「ブルータリズム」を聞くと、そんな感じではなくて、キーボード中心のエレクトロニクス・ポップに変身してしまったような気がした。しかも浮遊感が溢れており、メロディックでキュートな感じがしたのだ。
 こういう音楽は1980年代から存在していた。例えばこんな感じである。
80年代・・・ストロベリー・スウィッチブレイド
90年代・・・ジュエル
00年代・・・ザ・ポスタル・サーヴィス
10年代・・・アウル・シティ

 それぞれどれもドリーミングでファンタスティック、高揚感あふれるエレクトロニクス・ポップで彩られており、この手の音楽が好きな人にとっては、もう離したくないほどだろう。特に、季節的には夏の暑い時期にはぴったりで、四畳半のアパートで孤独な生活をしていても、あるいはプライベート・ビーチでカクテルを片手に優雅な時間を過ごしていても、気分はもうサマー・バケーションといった感じになっていくのである。

 それで、ザ・ドラムスのことに話を戻すと、このバンド、元は4人組でデビューした。2008年頃のお話である。バンドの中心メンバーは、ボーカル&キーボードのジョナサン(ジョニー)・ピアースとギター担当のジェイコブ・グラハムで、ふたりはニューヨーク出身で、幼い頃に教会主催のサマー・キャンプで知り合い、友だちになった。長じて、ジョナサンはエレクランドというバンドを、ジェイコブの方はホース・シューズというバンドで活動していたが、お互い音楽が好きという点で一致し、2008年にブルックリンでザ・ドラムスを結成したのである。

 当初は2人組だったが、あるライヴで会場に来ていたふたりの若者に声をかけ、バンドにいれたそうだ。真偽のほどはよくわからないのだが、もし本当とすれば、奇跡的な出来事のような気がする。
 そして、またこれも嘘のような話なのだが、ライヴ会場に来ていた音楽ライターの目に留まり、好意的な記事が紹介され、すぐにイギリスのインディ・レーベルからシングルが発表され、あれよあれよという間に、シングルがヒットしてアルバム・デビューまでしてしまったようなのだ。

 しかもザ・ドラムスは、2010年度のブライテスト・ホープに選出され、このデビュー・アルバム「ザ・ドラムス」自体も当然のことながら世界中で売れたのである。51bhsgpwnwl
 ところが、ここでギター&ベース担当だったメンバーが脱退してしまう。何となくもったいないような話だが、ある意味、急ごしらえのバンドだったせいか、メンバー間のコミュニケーションがうまく取れなかったのではないだろうか。

 その後、2011年にセカンド・アルバム「ポルタメント」、2014年には「エンサイクロペディア」を発表するものの、アルバムが世に出る前に今度はドラマーが脱退してしまった。 結局、幼馴染だったジョナサンとジェイコブのふたりだけになってしまったのだ。オリジナル・メンバーといえばいいのかもしれないが、2017年のアルバム「アビスマル・ソーツ」のジャケット写真には何とジョナサンしか写っていないではないか。そう、この約1年前に幼馴染だったジェイコブはバンドを離れていたというのである。20140908thedrums_l_full

 ここからは個人的なゲスの感繰りになるのだが、ジョナサンは2013年頃に男性と結婚した。つまりゲイ・カップルである。この結婚生活がバンドに悪影響を与えたような気もしないわけではない。自身の生活優先になってしまって音楽活動に支障をきたしたジョナサンにジェイコブが嫌気をさしたとか、あるいはジョナサンとジェイコブと三角関係になってしまったとか、いろんなことを想像してしまうのだが、ここまで成功していたバンド活動から身を引くというのは、やはりそれなりの理由があったのだろう。

 いずれにしても、ザ・ドラムスはジョナサンのソロ活動のユニット名になってしまった。そして発表されたアルバムが「ブルータリズム」だったのである。
 この”ブルータリズム”というのは、1950年代に流行した建築様式のことだ。獣のようなどう猛さと野蛮さを備えているというで、コンクリートむき出しの様式や装飾や塗装のない無味乾燥とした冷酷さを感じさせるようなものだった。ある意味、都会的といっていいのかもしれない。

 実は、ジョナサン自身はパートナーとの結婚生活を解消していて、それが原因で鬱状態に陥ってしまっていた。そして定期的に医師のもとに通いセラピーを受けていたのだが、その時の憂鬱な気分をタイトルに反映させているという。飾りを排除したむき出しのコンクリート建築と自分自身の心象風景を重ねているのであろう。実際に彼自身もこう述べていた。
 『僕は自分に向き合う必要があった。過去を見つめ、長い間先延ばしにしていた問題に取り組まなければならなかったんだ』

 セラピーを続けながら、自暴自棄に陥りそうな自分を励ましつつ、ニューヨークとカリフォルニアのスタジオを行き来しながら、このアルバムの制作を続けていった。しかし、そういう状況だったにもかかわらず、アルバム自体はポップで浮遊感に溢れており、先ほども述べたように、この手の音楽が好きな人ならマスト・アイテムになるような音楽で占められている。71xowgkjwol__sl1400_

 結果的には、メディカルな対応と音楽制作がジョナサンの精神状態に良い効果をもたらしたようで、アルバムを制作しながら徐々に回復していって、人に対してよりオープンに接することができるようになったと述べている。まさに音楽療法だろう。『悲しみやメランコリーと向き合うことは、それらを否定することではなくて、あるがままの自分を受け入れることなんだ。決して力任せに征服することではないと悟ったんだよ』

 なるほど、だからこのアルバムには、キラキラと岸辺で輝く日差しや、地面に溶けて消えてゆく淡雪のようなピュアネスなどが、どの曲においても感じられるのだろう。そういう感触がジョナサンの作る楽曲には備わっているのである。

 例えば、シングル・カットされた"Body Chemistry"には、今まで偽っていた自分をさらけ出すような性急なビート感覚が溢れているし、一方では"626 Bedford Avenue"のようなメランコリックでファンタジックな美しさが表現された曲も含まれている。
 他にもアルバム・タイトルにもなった"Brutalism"では、無慈悲な冷酷主義に対してたった一つのキスでも有効なんだと謳われているし、波打ち際で囁かれるように歌われる"I Wanna Go Back"は、自分のあるべき場所に回帰しようとするバラードでもある。

 このアルバムの優れている点は他にもあって、基本はキーボード主体のエレクトロニクス・ポップなのだが、スタジオ・ミュージシャンなどを使って、ギター・サウンドも効果的に使用されているところだろうか。5曲目の"Loner"などは良い味付けをしているし、7曲目の"Kiss It Away"でも、まるでU2のエッジのようなエコーが活かされた空間的なサウンドを味わうことができる。
 そしてアコースティック・ギターのアルペジオで誘われるように歌い出す"Nervous"は歌詞的にはヘヴィーな内容ながらもメロディー的には本当にまどろむような感覚を表しているし、それをアップテンポにした"Blip of Joy"では、逆に疾走感がその儚さを追い求めているかのようで、決してマンネリズムに陥らないように巧みにアルバム自体も構成されている。とても心の病に陥った人が作ったようなアルバムとは思えなかった。

 『僕はポップが大好きなんだけど、今の状況は繊細さを失っているような気がするんだ。ちょっと時間をかけて落ち着いた状態を作り、自分が一体なにを試しているのか聞き取りたいんだ』とジョナサンは述べていたが、今の彼にとっては、心の余裕みたいなものも生じてきているのであろう。E29c161eda51960d108ee11a7ea35fcc

 ただ、まだ心理療法が続いてるのかどうかはわからないが、9曲35分というボリュームは少し物足りなさも感じた。しかし逆に考えれば、曲数を絞った分、ジョナサンの持つポップネスがより対象化され、抽出された美しさが表現されているのではないだろうか。夏に聞くアルバムがまた1枚増えたような気がしている。

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2019年7月 8日 (月)

ショーン・レノン(1)

 ジュリアン・レノンの次は、やはりこの人しかいないだろうということで、ジュリアンの異母兄弟であるショーン・レノンのことについて記すことにした。考えてみれば、彼ももう43歳、いいおじさんであるし、いつのまにか父親のジョン・レノンの年齢も越えてしまった。Seanonolennon
 彼は10月9日生まれで、これは父親と同じ日の誕生日だった。それが理由かどうかはわからないが、父親は彼を自分の分身と考え、溺愛していたようだ。このへんはジュリアン・レノンと違うところで、ジュリアンの方は父親からの愛情を受けることは少なかった。自分の愛する女性のオノ・ヨーコとの子どもだったのか、あるいはジョンの父性がようやく人並みにまでに成長したせいなのか、その理由はよくわからない。

 いずれにしてもショーンは、両親からの愛情を一身に受けて育った。彼には姉弟がいなかったから、それこそすくすくと育っていった、父親の悲劇的な事件までは。1980年の12月8日の時は、ショーンはまだ5歳だった。わずか5歳で彼は永遠に父親を失ったわけだが、考えてみれば、ジョン・レノンもジュリアン・レノンも、そしてショーンもまた実の父親とは早い時期から、生死の違いはあっても離ればなれになってしまった。それこそ、まるでレノン家に宿っている”業”の深さを表しているかのようだった。90573

 その後は、オノ・ヨーコが彼に音楽的素養を授けていった。子どものうちから母親のソロ・アルバムに参加させられ、長じてはプラスティック・オノ・バンドにも加わった。また、彼はギターやベース、ピアノにドラムスも演奏できるが、それらもまた子どものころから手を触れてきたからだった。1991年にはレニー・クラヴィッツとともに"All I Ever Wanted"という曲を書き、アルバム「ママ・セッド」に収録された。1996年には日本人女性2人組のチボ・マットのEP制作に呼ばれ、そのままベーシストとして彼女たちのツアーにも参加している。そうして1998年には、チボ・マットのメンバーである本田ユカのプロデュースのもと、最初のソロ・アルバム「イントゥ・ザ・サン」が発表された。

 最初から言ってしまうと、ショーン・レノンとジュリアン・レノンの音楽の違いがよく表れているアルバムだった。ジュリアン・レノンの音楽は父親譲りというか、あくまでもロックン・ロールというかロック・ミュージックというフォーマットにこだわっているような、あるいはそれを追及するような音楽観だったのに対して、ショーンの方は、特に音楽のジャンルにこだわらない幅の広さというか、いい意味での趣味的な音楽、自分のやりたい音楽を追及するようなそんな違いがあると感じたのである。

 それはショーンのフェイヴァリットな音楽にも表れている。彼の好きなバンドやミュージシャンは、もちろんザ・ビートルズを筆頭に、ジョンン・レノン、セルジオ・メンデス、ザ・ビーチ・ボーイズ、スティーヴィー・ワンダー、マイルス・デイヴィス、ザ・ビースティー・ボーイズ、チボ・マット、ボアダムズ(日本のバンド)等々、ロックからジャズ、ソウル、ヒップホップと実に幅広いのである。

 1998年の「イントゥ・ザ・サン」を聞いても、そのことがよく伝わってくるのだ。全体的にはややダークな感じで、既成のロック・ミュージックのみならず、それこそマイルス・デイヴィスのサックスから抽象音楽に変化していく"Photosynthesis"のような曲もあれば、十分ポップ・ミュージックとして機能する"Into the Sun"、"Queue"など、これまた一聴しただけでは本質がつかみにくいアルバムに仕上げられていた。51kex9qqyol
 だからこの「イントゥ・ザ・サン」というアルバムは、ジョン・レノンやジュリアンのアルバムを想像して聞くと、ちょっと違うよなあということになってしまう。ある意味、種種雑多な種類の音楽に触れることができる。"Part One of the Cowboy Trilogy"はまるで文字通りのフォーク・ソングだし、"Breeze"はまさにボサノバだった。"Home"はグランジ・ロックだったし、"One Night"はまるでギター一本で歌われる子守歌だった。

 あくまで個人的な感想だが、このアルバムを聞いて父親とはまるで似つかない音楽だったから、自分にとっては畑違いの音楽のように思われた。だから数回聞いて、ラック棚の中になおしてしまった。ちなみにこのアルバムは、全米アルバム・チャートでは153位だった。

 それから約8年後、この間にEPでの発表はあったものの、突然「フレンドリー・ファイアー」というセカンド・アルバムが発表されるというアナウンスがあった。どうしようかなと思ったが、前作から時間も流れていたし、雑誌のアルバム・レヴューも好意的に書かれていたから、しかも映像特典もあるというので、思い切って購入して聞いてみた。そしてその結果、このセカンド・アルバムは前作のアヴァンギャルドな雰囲気は消えていて、しっとりと落ち着いた雰囲気を備えている好アルバムだった。

 このアルバムは、フランスでは売れた。43週にわたってチャートに残り続け、シルヴァー・ディスクを獲得している。ちなみに全米アルバム・チャートでは152位止まりだった。やはりこのアルバムの持つ絵画的というか、耳を傾けるだけで目の前に情景が浮かび上がってくるような映画的な音楽観がフランス人の琴線に触れたのだろう。
 楽曲的にもしっかりと作られていて、特にストリングスのアレンジが素晴らしい。また、ギターにはポール・サイモンの息子のハーパー・サイモンが、ドラムスにはパール・ジャムにも在籍していたマット・チェンバレインが参加して脇を固めている。 51qwklcsanl__sl1013_

 8年間のブランクのうちに、彼は何百曲も手掛けていた。しかし、アルバムに収録した曲は当時の新しい曲を選んだそうだ。『僕は、現在の自分に一番興味がある。だから明らかにこのアルバムでは、僕の最新の姿が描かれている』とショーンは述べていた。
 またこの8年の間に、ニューヨークやロサンジェルスのミュージシャン、ヴィンセント・ギャロ、サーストン・ムーア、ジョン・ゾーン、ライアン・アダムス、ザ・ストロークスのアルバート・ハモンド・ジュニア、ウィーザーのブライアン・ベルなど数多くの人たちと交流して、その創造力を保ってきていた。

 このアルバムでは、彼の恋愛関係が描かれている。彼はこのように述べていた。『どれも元彼女との関係と、その関係の終焉、そして彼女と浮気していた僕の親友のことを書いている。ある意味、それはとても美しい題材だった』この彼女というのは、歌手で女優のビジュー・フィリップスという人で、彼女はママス&パパスのジョン・フィリップスの娘で、ウィルソン・フィリップスにいたチャイナ・フィリップスの異母妹にあたる人だ。このアルバムでもバッキング・ボーカルとして参加していた。
 彼女は、ショーンの元恋人で、同時にショーンの幼なじみだったマックス・リロイとも交際していた。いわゆる二股をかけていたわけだが、もちろんショーンにその事実が知られてしまい、関係は解消された。問題は友人同士だったショーンとリロイの方だが、2人の関係を解決する前に、リロイの方はバイク事故で亡くなってしまった。だからこのアルバムは、ショーンの心象風景を表現していると同時に、リロイへの追悼盤なのでもある。

 全10曲、時間的には37分余りということで長くはないのだが、1曲1曲が際立っていて、どの曲も印象的だった。まるで遊園地のメリーゴーランドのような"Dead Meat"は3拍子のワルツで、アルバムの冒頭にもってくるには勇気がいると思ったのだが、聞き続けていくうちに耽溺してしまうのだ。前作と比べて、8年間の成長を感じさせられる曲だった。

 "Wait for Me"はショーンのファルセットが美しく響く曲で、ファルセットだけ聞くと本当に父親の声に似ていると思う。この曲にはメロディアスな曲が多いのだが、3曲目の"Parachute"は印象的だ。この曲でのショーンの声は何か物憂げで、アンニュイな雰囲気を漂わせていた。アコースティック・ギターのアルペジオで始まる"Friendly Fire"は、寂しげなミディアム・バラードの曲。ショーンの哀しみが曲に表れているようだった。
 一転して"Spectacle"はやや明るい曲で、バックのストリングスが美しい。後半につれて楽器の数が増え、徐々に盛り上がっていくところがよくアレンジされている。ただ、全体的には同じような曲調の曲が目立っていて、単調さがあるのは否めないところだ。それをアレンジでカバーしているのだろう。そして、このアルバムの中で一番ビートルズテイストな曲が"Headlights"だろう。手拍子も使用されているし、どことなく明るい。もう少しテンポを早くすれば、もっと印象に残っただろうし、シングルとして売れたに違いない。

 面白いのは、マーク・ボランの曲がカバーされている点だろう。"Would I Be the One"という曲なのだが、言われないとわからない。確かにサビの部分は70年代の雰囲気がプンプンしているのだが、ショーンのオリジナルと言われても納得してしまう。もともとこの曲は、マーク・ボランやT・レックスのアルバムには収録されていないマイナーな曲だったが、ショーンのアレンジやハーパー・サイモンのギターで再び蘇ってきたようだった。とにかくこのアルバムは、ショーンのボーカル・アルバムだった。最後の10曲目の"Falling Out of Love"もそうだった。ゆったりとしたマイルドなメロディーとそれを印象づけるストリングスとともに、ショーンのボーカルもまた甘美に響き渡るのである。まるで映画のエンドロールのBGMのようだった。61di1hymaal__sl1155_

 その後のショーンは、2009年には映画音楽のスコアを書いているが、それ以降、オリジナル・アルバムを発表していない。しかし、音楽活動を停止しているかというとむしろ逆で、他のミュージシャンと盛んにコラボをしているようだ。最近では、クレイプール・レノン・デリリウムという名義でプログレッシヴ・ロックのアルバムを発表している。そのプログレ・アルバムについては、今年の冬のプログレ祭りで記していこうと思っている。

 とにかく、ショーンにも豊かな才能が備わっているようだが、彼は遊歩人というか遊牧民というか、自分の興味・関心に従って音楽活動を続けているようだ。そこには父親に対する”トラウマ”もなければ、音楽に対する気負いもない。年齢も年齢だし、ある意味、自由気ままに音楽活動を行っているようにも見える。Browlineeyeglasses これは父親レノンの影響というよりは、母親であるオノ・ヨーコの影響ではないだろうか。音楽家というより芸術家としての才能を発揮しているのが、ショーン・レノンのような気がするのである。

 

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2019年7月 1日 (月)

ジュリアン・レノン

 ジョンやポールのことを書いているうちに、ふとジョンの最初の子どもジュリアン・レノンはどうしているだろうか気になってしまった。それで今回はそのジュリアン・レノンについて記してみたい。彼も父親が父親だから、さぞかし子どものころから注目を浴びていたに違いない、いい意味でも悪い意味でも。

 ジュリアン・レノンといえば、ザ・ビートルズの楽曲にも、直接的間接的に問わず、たびたび登場していた。一番有名なのは、ポールの作曲した"Hey Jude"だろう。ほんとは"Jude"ではなくてジュリアンを意味する"Jules"だったのだが、歌いにくいということで"Jude"になった。これは1968年、つまりジュリアンが5歳の時に両親(ジョン・レノンとシンシア・レノン)が離婚したからで、ジュリアンを励ますつもりで作ったと言われている。また、「ホワイト・アルバム」の最後の曲に"Good Night"という曲があって、これはリンゴ・スターがボーカルを取っていたのだが、この曲はジュリアンへの子守歌ということで作られたものだった。まだ、ある。1967年の"Lucy in the Sky with Diamonds"のイメージは、ジュリアンの保育園の友だちだったルーシー・オドネルが描いた絵から得られたものだった。ジュリアンがいなければ、この曲はかなり違ったものになったに違いない。

 彼は”期待されない”子どもだった。ジョンがシンシアと結婚したのも、いわゆる”できちゃった婚”だったからであり、最初から望まれてこの世に生を受けたわけではなかった。また、ジョン自身も気持ちが向けばジュリアンにも愛情をもって接していたが、公演旅行や映画の撮影、ニュー・アルバムのレコーディングと、忙しくなるにつれて、また世界中で名声が高まるにつれて、家庭を顧みなくなってしまった。63johnjulianlennon_01_1

 これはある意味、ジョン自身の宿命みたいなものだったかもしれない。ジョン自身もまた望まれてこの世に生まれてきたわけではなかった。ジョンが生まれた時、父親は船乗りで航海中だったし、母親のジュリアは他の男と同棲中だった。結局、ミミおばさん夫婦に育てられるのだが、18歳の時、ジョンは、自分の目の前で実の母親ジュリアが車にはねられて亡くなるところを目撃している。ジョンは実の両親からの愛情を十分に受けることもなく大人になっていったのだ。

 ある意味、親子2世代に渡っての”業”みたいなものを感じさせる話なのだが、ジョン・レノンはジュリアンの育て方も分からぬまま、今でいう育児放棄のような感じでシンシア任せだったし、ジュリアン自身も父親に馴染めず、むしろその存在に怯えるようだったと告白している。ジョンよりもポールの方が優しく接してくれていたようだった。だからジュリアンに対して曲を作ったり、一緒に遊んだりしていたのだろう。 V7aeni7s

 そんな彼も、長ずるにしたがって父親と親交を深め、ジョンの1974年のアルバム「心の壁、愛の橋」では最後の曲"Ya Ya"においてオモチャのドラムを叩いていた。まだジュリアンが10歳か11歳の頃だろう。父親のジョンはジュリアンに、ギブソン社のレス・ポールを与えたというから、それから音楽(もちろんロック・ミュージック)に対して具体的な感情を持ち始め、音楽活動を意識したに違いない。そして18歳になると、母親のシンシアから買ってもらったピアノを独学でマスターして、アマチュアバンドを結成して活動を始めていった。
 しかし、ジュリアンにとって更なる悲劇は、1980年ジュリアンが17歳の時に実の父親が亡くなったことだった。しかも今度は、世界中がその射殺という悲劇を同時に味わい、悲しみに包まれるという事態を伴っていた。ジョンは自分の目の前で母親の死を目撃したが、息子のジュリアンは世界中のメディアを通して父親の死を知ることになった。

 ジュリアンがレコード・デビューしたのは1984年、21歳の時だった。サイモンとガーファンクルやビリー・ジョエルのプロデューサーとしても有名だったフィル・ラモーンが担当したアルバム「ヴァロッテ」は世界中で評判になり、全米ビルボードのアルバム・チャートでは17位、全英アルバム・チャートでは19位と健闘し、アメリカではプラチナ・ディスクを獲得している。41kkeskl
 また、シングル"Valotte"と"Too Late for Goodbyes"は、全米シングル・チャートでそれぞれ9位と5位と、トップテン・ヒットになった。もちろんジョン・レノンの息子という話題性もあっただろうし、聞こえてくる声自体も父親とそっくりだったということもあっただろう。

 ただ、音楽的なレベルは決して悪くはなく、むしろ標準以上だろう。もしジョン・レノンの息子という事実が伏せられていたとしても、ヒットしただろう。ただ、プラチナ・ディスクまでなったかどうかは保証できないが…
 最初のシングルの"Valotte"は、このアルバムでギターを担当していたジャスティン・クレイトンとカールトン・モラレスとの共作だったが、"Too Late for Goodbyes"はジュリアン単独で書いた曲だったし、ノリのよい"Say You're Wrong"やマイケル・ブレッカーのサックスがフィーチャーされたバラード曲"Lonely"なども、ジュリアンひとりの手によるものだった。

 全体的には、21歳の若者の手によるデビュー・アルバムにしては老成されている感じがした。80年代特有の打ち込みシンセも使用されていたが、自分のやりたい音楽性とその時代性を反映させた音楽とが絶妙にマッチしていて、そういうところもヒットした要因の1つだっただろう。おそらくは、プロデューサーのフィル・ラモーンの方針だと思われるが、あのジョン・レノンの息子ということで、失敗はさせられないという覚悟や万全を期してデビューさせるようなこともあったのではないかと邪推している。そして結果的に見れば、ジュリアン・レノンを支えるプロダクション・チームの成功だった。

 このアルバムの成功の後、2年後にはセカンド・アルバム「ザ・シークレット・ヴァリュー・オブ・デイドリーミング」を発表しこれまたそこそこ売れたのだが、1989年の「ミスター・ジョーダン」以降、特にアメリカではチャートに上がることはなくなった。アメリカ人は、ジュリアン・レノンの姿にジョン・レノンの幻影を見ることが無くなったのだろう。あるいは、ディスコ調や映画音楽とタイアップした曲、キャッチーで売れ線狙いの曲とは真反対の、自分の求める音楽を追及していたジュリアンの楽曲は時流に添えなかったのだろう。

 90年代に入ってからのジュリアンは、しばらく音楽業界から遠ざかっていた。やはり偉大な父親と比較されたり、彼の名前を利用して儲けようとしたりする経験を味わったようだ。例えば、1991年のアルバム「ヘルプ・ユアセルフ」では、ジョージ・ハリソンが"Saltwater"という曲にギターで参加していた。それがきっかけとなって、突然、”ザ・ビートルズ再結成”という話が持ち上がった。ジョージとリンゴとポールにジュリアン・レノンが加わるわけだ。しかも当時はザ・ビートルズ・アンソロジーが編集されていたから、ザ・ビートルズ再評価に乗っかるような真実味のある話だった。
 結局、それは噂話に終わってしまったのだが、やはりそんなこともジュリアン・レノンにとっては自分が利用されたように思えたのだろう。音楽よりも趣味の料理やヨット・セイリング、彫刻、写真などに取組んでいた。

 自分が好きな彼のアルバムは、1998年の5枚目のスタジオ・アルバムの「フォトグラフ・スマイル」だった。前作の「ヘルプ・ユアセルフ」より7年間のブランクがあったが、このアルバムはメロディアスでよくできていると評論家受けもよかった。51kdt76fqel
 全14曲で63分という容量で、全体的に穏やかで落ち着いていて、アレンジが凝っていた。シングル・カットされた"Day After Day"はアメリカ人のミュージシャン、マーク・スパイロとの共作で、中間のストリングスなどは中期ザ・ビートルズの再現とまで言われた。因みに、マーク・スパイロはジョン・ウェイトやハート、ローラ・ブラニガン、リタ・フォードなどの80年代から90年代に一世風靡をしたミュージシャンたちに曲を提供している。

 このアルバムでは"Day After Day"以外にも4曲、"Cold"、"I Don't Wanna Know"、"Good to Be Lonely"、"And She Cries"でマークと共作していた。特に、"I Don't Wanna Know"はもろビートルズテイストの曲で、ザ・ビートルズの"I Should Have Known Better"と"It Won't Be Long"を足して2で割ったようなミディアム・テンポの曲だった。

 他にもピアノ奏者でシンガー・ソングライターのグレゴリー・ダーリンというアメリカ人と4曲コラボしていて、アルバム・タイトルにもなっていた"Photograph Smile"も彼との共作だった。これはバックでストリングスが鳴らされているちょっと凝り過ぎたバラード曲で、フランク・シナトラが歌ってもおかしくないような曲だった。他には"Crucified"、"Walls"、"Kiss Beyond The Catcher"、それに日本語盤のボーナス・トラックだった"Don't Let Me Down"に彼のクレジットがあったが、基本的にはピアノやキーボード主体で、しっとりとした印象を受ける曲ばかりだった。
 ただ、アコースティック・ギターが使用された弾むようなリズムの"Kiss Beyong The Catcher"がこのアルバムにアクセントを与えているし、タムタムとシタール・ギターがインド風味をもたらす"Crucified"は、60年代末のザ・ビートルズを彷彿させるものだった。この曲は悲劇的な死を迎えたジュリアンの友人のケヴィン・ギルバートという人に捧げられていた。

 またこのアルバム自体もジュリアンの義父だったロベルト・バッサニーニに捧げられたものだった。彼はシンシアと再婚していたらしい。これもどうでもいい話だが、シンシアは4回結婚していて、ロベルトは2回目の相手で1970年から76年まで一緒に暮らしていた。ロベルトは1995年の5月にイタリアのミラノで亡くなっている。

 とっても落ち着いていてロマンティックなアルバムだった「フォトグラフ・スマイル」だったが、まるで50歳代のベテラン・ミュージシャンのボーカル主体のアルバムのようだった。もう少しアップテンポな曲やロックン・ロール曲が含まれていれば、もっと話題を呼んだに違いないし、売れたに違いない。
 その後ジュリアンは、2011年の6枚目のスタジオ・アルバム「エヴリシング・チェンジズ」以来、アルバムを発表していない。このアルバムには先述のマーク・スパイロやグレゴリー・ダーリン、それから一時ジェスロ・タルにも在籍していたピート=ジョン・ヴェテッセも参加していた。このアルバムも凄く出来が良くて、評論家筋からの評価も高かったのだが、ジュリアン自身も売れることにはあまりこだわっていないようで、チャート的には芳しくなかった。

 ただ、”もしも”という仮定の話はしたくないのだが、もしもジュリアン・レノンの父親がジョン・レノンでなければ、もっと正当な評価が与えられただろうし、ジュリアン自身も生き生きと楽しみながら音楽制作に携わることができただろう。彼の才能は本物だし、ほかの同世代のミュージシャンと比べても決して遜色はなかった。そうなればもっと違う音楽が私たちの前に提示されたに違いない。Julian18sit

 ジュリアンは56歳になるが、まだ未婚である。自分が家庭もつ自信ができるまで、自分の中に父権が確立され、きとんと親子との関係が結べるまでは結婚をしないつもりのようだ。このままでいけば恐らく生涯を通して結婚はしないだろう。あるいは結婚しても子どもを持つことはないだろう。親子3世代に渡る”宿業”は、自分の代で断ち切りたいと思っているのかもしれない。

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2019年5月13日 (月)

初期のエルトン・ジョン(3)

 前回で、初期のエルトン・ジョンのアルバムについては終わるつもりだったのだが、4枚のアルバムだけで”初期”としてひとくくりにするのはいかがなものかと考え直して、結局、もう1回分追加することにした。相変わらず意志が弱いというか、優柔不断な性分である。
 それで今回は、1972年に発表された「ホンキー・シャトー」と翌年のアルバム「ピアニストを撃つな」について簡単に記そうと思った。順番から言えばその2枚しかないから、ごくごく当たり前だろう。こんな当たり前のことをあえて書くところがこのブログのいい加減なところでもある。

 それで「ホンキー・シャトー」については、変な思い出があって、某大手タワー・レコード店でこのCDを電話で注文したときになかなか通じなくて弱ったことがあった。自分は”エルトン・ジョンの「ホンキー・シャトー」をお願いします”と言ったのだが、その女性店員は”「本気、佐藤」ですか”と何度もしつこく確認するのであった。外国人ミュージシャンが日本語のタイトルのアルバムを発表することは、確かに邦人スタッフが日本語のタイトルはつけることはあるだろうが、でも「本気、佐藤」じゃちょっとどうなのかなと思ってしまった。いくら日本では”佐藤”姓が多いとはいえ、特定の苗字の人に向けて作ったアルバムというのは、あまり考えられないと思う。おそらくその店員さんも、困惑しながら聞いてきたのだろう。

 そんな話は置いといて、「ホンキー・シャトー」である。前回でも記したけれど、アメリカでのエルトン・ジョンの人気は高くて、レコード・セールスも好調だった。一方、イギリスではどうかというとこれがなかなか微妙で、セカンド・アルバム「エルトン・ジョン」やサード・アルバム「エルトン・ジョン3」、シングルなどはヒットしたものの、4枚目のアルバム「マッドマン」は大ヒットとは言えずに、期待外れといっていいほどの結果だった。アメリカでは「マッドマン」のアルバムでさえもベスト10以内に入っていたから、アメリカでは人気も定着していたのだろう。

 ところがこの「ホンキー・シャトー」は、英米両国で売れた。英国では前作と打って変わって、アルバム・チャートの2位、米国では堂々の首位を獲得している。ここから彼の栄光の歴史が綴られて行くのだが、そのきっかけとなったアルバムだった。それまでのシンガー・ソングライター風のアルバム作りが、ロックン・ロールのスタイルのような、あるいは典型的なポップ・スターのような売れるアルバムに変化したのである。 A1i30qugyil__sl1500_
 その原因の一つは、それまでの大仰なストリングスやオーケストレーションが加味されなかったせいもあるかもしれない。ある意味シンプルになったというか、曲のメロディーやリズムで勝負しようと考えたのか、その辺は何とも言えないのだが、でもそういう変化が受け入れられたのは間違いのないことだろう。実際、このアルバムのクレジットには、それまでストリングスのアレンジを担当していたポール・バックマスターの名前はなかった。

 だから聞きやすくなったのかもしれないし、エルトン・ジョンの持ち味であるピアノ演奏を基軸にした曲自体が際立ってきたのかもしれない。そういう意味では、"Rocket Man"がヒットしたのも納得できるというもので、当時の宇宙への憧憬と日常生活との対比という内容もさることながら、メロディー自体の良さも受け入れられたのだろう。
 また、このアルバムからバック・バンドのメンバーが固定化されてきたということも、アルバム制作上、有利に働いたに違いない。エルトン・ジョン以外は、ギターにディヴィー・ジョンストン、ベースにはディー・マーレイ、ドラムスにナイジェル・オルソン、パーカッションにレイ・クーパーで、今となって思えば、黄金期を支えたメンバーだった。特に、ギタリストだったディヴィー・ジョンストンの活躍は目覚ましく、アコースティックからエレクトリック・ギターを始め、バンジョーにマンドリン、スティール・ギターと弦楽器だったら何でも演奏できるのではないかと思わせるほどの働きぶりだった。

 そういう強者が集まって、フランスのパリにある古城で作ったアルバムが悪いはずがない。集中してレコーディングができたのだろう。結果的に、チャート的にもセールス的にも成功を収めることができたのである。61q6dgjvqdl  
 それとこのアルバムを特徴づけている点は、ニューオーリンズ・ジャズの影響だろう。アルバム冒頭の"Honky Cat"や3曲目の"I think I'm Going to Kill Myself"、次の"Susie(Dramas)"には顕著に表れているし、後半の"Amy"にもその影響がみられる。

 また、ジャズではないけれど、7曲目の"Slave"にはバンジョーやスティール・ギターも使われてカントリータッチだし、ドゥー・ワップのスタイルを取り入れた最後の曲の"Hercules"の軽快さや、9曲目の"Mona Lisas And Mad Hatters"はニューヨークという街の情景を切り取っていて、こういう点でもアメリカ人のハートをギュッと掴んだのだろう。さらには、ヒットしたシングル曲以外にも、"Mellow"や"Salvation"のようなバラード曲も収められていたから、捨て曲なしのこれこそまさに売れるアルバムというものだった。
 ちなみに、"Mona Lisas And Mad Hatters"はバーニー・トーピン自身の経験から書かれた曲で、彼が最初にアメリカのニューヨークを訪れた時のホテルで拳銃の発砲音を聞いたことが切っ掛けになって書かれたものだった。曲の冒頭部分は、ベン・E・キングの"Spanish Harlem"を意識して書かれたと言われている。

 そして、このアルバムの大ヒットをきっかけに、再びフランスのパリ郊外の古城”シャトー・ディエローヴィル”でレコーディングされたのが、1973年の6枚目のスタジオ・アルバムで通算8枚目の「ピアニストを撃つな」だった。この古城はアメリカのバンド、グレイトフル・デッドも使用したことがあるという。
 とにかくこのアルバムは売れた。全英アルバム・チャートで初めて首位になったし、それは6週間も続いたのである。また、全米では、ビルボードのアルバム・チャートで約1年半トップ200内に留まっている。そして全英、全米ともにNo.1になった初めてのアルバムだった。 A1slsrf1bl__sl1500_

 この成功には、シングル・カットされた"Crocodile Rock"と"Daniel"の影響もあるだろう。特に前者は初めて全米のシングル・チャートで首位を獲得していて、エルトン・ジョンにとっては記念碑的なシングルになったのである。
 彼自身はこの曲について、50年代後半から60年代前半でのロックン・ロール黄金時代に対するノスタルジーが溢れているが、ネタ元は1962年のパット・ブーンのヒット曲"Speedy Gonzales"だと述べていた。後にロサンゼルスで裁判沙汰になったようだが、盗作とは認められずに、協議の結果、無事に解決している。

 "Daniel"の方は、これはゲイの主人公の曲かと騒がれたが、実際はベトナム戦争に従軍した兄弟についての曲で、アルバムやシングルでは2番までしか歌われていないが、本当は3番まであると言われていて、その3番でベトナム戦争のことが歌われているという。全米シングル・チャートでは2位、全英シングル・チャートでは4位まで上昇した。

 パクリで思い出したが、6曲目の"Have Mercy on the Criminal"のイントロは、誰が聞いてもエリック・クラプトンの"Layla"のパクリだろう。この時はすでに"Layla"は発表されていたから、きっとエルトン・ジョンも耳にしていたに違いない。当時は著作権について、そういう穏やかというか、緩やかな雰囲気だったのだろう。でも、ロックン・ロールという音楽自体、ヨーロッパ系移民のカントリー・ミュージックとアフリカ系のゴスペル・ミュージックのパクリなのだから、元々そういう流れが底流に息づいているのだろう。

 また、7曲目の"I'm Going to Be Teenage Idol"は、マーク・ボランのいたT・レックスのことを念頭に置いて作った曲のようだが、曲の雰囲気には一切無関係のようだ。ああいう音楽を”グラム・ロック”と呼んでいるが、メタリックな雰囲気は感じられずにピアノとブラスが強調されたミディアム調の曲だった。むしろのちに歌われた"Benny And The Jets"の方がグラムっぽいし、この曲ももう少しテンポを落として歌うなら"Benny And The Jets"に近くなるだろう。

 ところでこのアルバムには、アレンジャーのポール・バックマスターが復帰していてアレンジを担当していた。4曲目の"Blues for My Baby And Me"と6曲目の"Have Mercy on the Criminal"のストリングスのアレンジは、彼の手によるものである。"Blues for My Baby And Me"のストリングス・アレンジメントは特に素晴らしくて、徐々に盛り上げていく力はさすがエルトン・ジョンの初期を支えた彼の手腕が見事に発揮されていた。
 ところで、2曲目の"Teacher I Need You"は、男子のティーンエージャー特有の?女性教師に対する憧れというか、欲望みたいなものを歌っていて、60年代前期の、まだ明るい未来を描くことのできたロックン・ロール曲だった。次の"Elderberry Wine"はシングルとして発表された"Crocodile Rock"のBサイドだった曲で、Aサイドの曲よりはややゆっくり目ではあるが、これもロックン・ロール黄金時代の雰囲気が封じ込められた曲だった。 51kgcj3vkl

 前にも記したけれど、エルトン・ジョンの音楽にはアメリカからの影響が強くて、確かにアメリカのシンガー・ソングライター・ブームにうまく乗れたという点もあっただろうけれど、昔のロックン・ロールの雰囲気やアメリカ南部のゴスペルやジャズ、R&Bの影響がここかしこに垣間見れるのである。この「ピアニストを撃つな」でも上に書いたこと以外にも5曲目の"Midnight Creeper"のブラスや8曲目の"Texan Love Song"におけるアーシーな感覚などは、その最たる例に違いない。だから最初からアメリカでは受け入れられたのだろうし、このアルバムからの2曲のヒット・シングルのおかげで、全英、全米を含む全世界で受け入れられていった。

 前作「ホンキー・シャトー」の成功が起爆剤になり、このアルバムでさらに彼の音楽の評価が高まり、70年代のエルトン・ジョンの黄金時代が築かれたのである。のちに彼が大英帝国の爵位を賜るようになったのも、この時代の成功のおかげであろう。時代の流れのみならず、曲の良さや彼を支えたミュージシャンやスタッフのおかげで、結果的には成功を得たのであるが、のちにバーニー・トーピンとの関係を解消したり、バック・バンドのメンバー交代などもあって、彼の人気は徐々にというか、急速に失速していった。後にバーニーと再びコンビを組むも、もとの黄金期までの人気まで高めることはできなかったようだ。やはり一度失われてしまうと、元に戻るのは何でも難しいのであろう。エルトン・ジョンの人生を見ていると、いろんなことを教えてくれるような気がしてならない。

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2019年5月 6日 (月)

初期のエルトン・ジョン(2)

 エルトン・ジョンのように活動歴が長いミュージシャンなどでは、”初期”といわれてもどこまでが初期なのかが、よくわからなくなってくる。活動が長くなればなるほど、”初期”の期間が延びてくるからだ。だからアルバム・デビューして50年も経つエルトン・ジョンにすれば、”初期”といえば、やはり1969年のデビュー・アルバムから1979年の「恋に捧げて~ヴィクティム・オブ・ラヴ」あたりまでだろう。
 でも70年代のエルトン・ジョンといえば、まさに飛ぶ鳥を落とすほどの全盛期だったから、その当時のアルバムについてはどれも必聴盤だった。もちろん今になって聴き込んでみれば、優劣とまではいかないまでも、必聴盤と推薦盤くらいの違いは出てくるのだが、とにかく70年代のアルバム群は、特に1972年の「ホンキー・シャトー」以降パンク・ロック登場までは、どれもこれも水準が高く、セールス的にも成功を収めることができたのである。

 そんな中で初期のアルバムを紹介するといっても、膨大な時間と作業が必要になってくるので、69年のデビュー・アルバム「エンプティ・スカイ」から1971年の「マッドマン」までに絞り込むことにした。そして今回は2回目に当たり、その後半部分の2枚のアルバムについて記そうと思った。
 基本的に当時のエルトン・ジョンはシンガー・ソングライターであって、のちの派手なイメージやステージ演出とは一線を画すようなたたずまいだった。また、今回改めて思ったのは、彼がいかにアメリカ南部の音楽、ソウルやゴスペル、R&Bに強い影響を受けていたかであった。この両方の特徴がよく表れていたアルバムが、1970年に発表されたアルバム「エルトン・ジョン3」だった。51slqebp2l  まずアルバム・ジャケットから見てもアメリカという国や文化に影響を受けているということが分かると思う、まるで”西部劇”のようなアートワークだからである。しかも添付されたブックレットに載せられた写真や歌詞、イラストなどはまさに19世紀のアメリカ西部のようだし、セピア色の色どりは古き良き時代を回顧させるような効果をもたらしていた。(ただ実際は、アルバムのジャケット写真はイギリスのロンドンから約40キロ離れたサセックス州のある駅のものだった)

 エルトン・ジョンはこのアルバムについて、「歌詞にしてもメロディにしても、僕たちの作品の中で最も完璧に近いものの1枚だろう、歌詞とメロディが合わない曲はひとつもない」と述べていた。言葉の端はしに強い自信が表れている。また、相棒のバーニー・トーピンは、「みんなが僕が初めてアメリカを見て、興奮してこのようなアルバムを作ったと思うだろうが、実際はアメリカに来る前にレコーディングをしていたんだ。それより自分が強く影響を受けたのはザ・バンドのアルバム”Music from Big Pink”というアルバムと、ロビー・ロバートソンの曲の方なんだ」

 曲名にしても"Ballad of A Well-Known Gun(名高き盗賊の伝説)"や"My Father's Gun(父の銃)"など、いかにもアメリカ西部開拓時代を彷彿させるようなものだったし、そういう意味では、このアルバムもまたトータル・アルバムだったのだろう。
 そして、このアルバムもまたセールス的に売れたのだが、ここからシングル・カットされた曲は1曲もなかった。それでも売れたのだから、いかにこのアルバムが優れていたかが分かるだろう。

 冒頭の"Ballad of A Well-Known Gun"はミディアム調の力強く語りかけるような曲で、バッキングのボーカルがソウルフルだ。この曲はジェイムス・テイラーの妹のケイト・テイラーもカバーしていた。次の"Come Down in Time"はアコースティック・ギターとオーボエやストリングスがフィーチャーされたスロー・バラード曲だった。この曲もまた、アル・クーパーやスティングによってカバーされた。ポール・バックマスターのストリングス・アレンジが素晴らしい。

 3曲目の"Country Comfort"は、ロッド・スチュワートのバージョンの方が有名かもしれない。彼は1970年の自身のソロ・アルバム「ガソリン・アレイ」でこの曲を取り上げている。次の"Son of Your Father"はアップテンポのブギウギ調のナンバーで、ハーモニカやホーン・セクションも強調されていて楽しい雰囲気だが、歌詞を見ると2人の男が議論の果てに喧嘩になって殺し合いを始め、2人とも亡くなるという悲劇的な内容だった。そのせいかどうかはわからないが、エルトン・ジョンは、ライヴではこの曲を一度も歌ったことはない。

 5曲目の"My Father's Gun"も内容的にはアメリカ南北戦争で亡くなった父親の遺品の拳銃のことを意味していて、ボブ・ディランもこの曲を気に入っていたといわれていた。オーランド・ブルームやクリスティン・ダンストが出演した2005年のアメリカの映画「エリザベスタウン」のサウンドトラックにも使用されていた。6分以上にも及ぶ壮大なバラード曲だ。

 サイドBの1曲目"Where to Now St.Peter?"もまた戦場で亡くなろうとしている兵士の最後の想いに言及したもので、自分の魂は天国に行くのか地獄に行くのか、聖ペテロに問うというものだった。ミディアム調な曲ながらも歌詞的には深いものが秘められている。また、セルジオ・メンデスとブラジル77が1976年のアルバム「ホームクッキング」で、ハートのアン・ウィルソンがエルトン・ジョン自身と2007年の彼女のソロ・アルバム「ホープ&グリーリー」でデュエットしている。

 アコースティック・ギターをバックに歌われる2曲目の"Love Song"は、穏やかなバラード・タイプの曲で、イギリス人のシンガー・ソングライターであるレスリー・ダンカンがギターとバッキング・ボーカルを担当していた。次の"Amoreena"もまた1975年の映画「ドッグ・ディ・アフタヌーン」で挿入歌として使用されていた。この曲のレコーディングで、初めてナイジェル・オルソンとディー・マーレイのリズム・セクションとセッションを行ったという記録が残されている。ちなみに"Amoreena"とはエルトン・ジョンが名付け親になった娘のことである。彼の実の娘というわけではないようだ。

 ピアノの弾き語りで歌っているのが"Talking Old Soldiers"で、まるでソウル・ミュージックのように厳かで魂を揺さぶられるような曲である。実際に、アフリカ系アメリカ人のベッティ・ラヴェッテが2007年の彼女のソロ・アルバム「ザ・シーン・オブ・ザ・クライム」で取り上げている。バーで戦争を経験した老人が若者に自身の体験を語りかけるというもので、当時のエルトン・ジョンがどういう気持ちでこの曲を歌っていたんだろうかと気になってしまう。よほど老成した青年だったのだろうか。当時の彼はまだ23歳だった。

 そして最後の曲が"Burn Down the Mission"だった。内容的には、貧しい青年が自分の存在意義と貧困や社会的格差などに悩み、傷つき、ついには教会を焼き払おうと行動に移すというものである。音楽的にもゆっくりとしたピアノの弾き語りから、中盤では素早く鍵盤が叩かれジャージーな雰囲気に一転し、さらに最後は魂が昇天するかのように、コンガやストリングスも加わり、高みまで上がっていくのである。この曲もフィル・コリンズが歌ったり、TOTOが2002年のアルバム「スルー・ザ・ルッキング・グラス」でカバーしていた。

 これまで見てきたように、シングルでヒットした曲はないものの、多くのミュージシャンやバンドがこのアルバムからの曲を取り上げている。それだけ影響力が強かったのだろう。チャート的にも英国のアルバム・チャートで2位、米国のビルボード・アルバム・チャートでは5位まで上昇している。エルトン・ジョンの隠れた名盤といっていいだろうし、彼ら、つまりエルトン・ジョンとバーニー・トーピンにとっては、初めてのトータル・アルバムだったに違いない。そしてさらに自信をつけたエルトンが翌年に発表したのが、「マッドマン」だった。 71lxf5spe6l__sl1101_  
 とは言っても、この「マッドマン」というアルバムの評価は、母国イギリスにおいては低かった。ビッグ・ヒットにつながるようなシングル曲が含まれていなかったというのがその原因の一つだったに違いない。しかもこの年のエルトン・ジョンは、このアルバムを含めて3枚のアルバムを発表していた。4月には初めてのライヴ・アルバム「17-11-70」を世に出し、5月には、映画「フレンズ」のサウンドトラックを発表している。そして11月になって、5枚目のスタジオ・アルバムになる「マッドマン」がリリースされたのだが、ひょっとしたらまたエルトン・ジョンのアルバムか、"Your Song"のような曲はどこにあるんだいと世の中の人は思ったかもしれない。

 確かに、名曲といえるような曲は含まれていなかったかもしれないが、よく練られていて構成が巧みな曲や深い余韻を残すような曲もあって、個人的には決して悪くないと思っているし、むしろもっと高く評価されてもいいのではないかとも思っている。
 シングル向きの曲がないといっても、アメリカではアルバム冒頭の"Tiny Dancer"と2曲目の"Levon"がシングカットされていて、前者は41位、後者は24位まで上昇している。そのせいか、米国のビルボードのアルバム・チャートでは8位を記録した(英国では41位止まりだった)。

 "Tiny Dancer"は、6分12秒もあって、そのせいかラジオではオンエアされにくかったようだ。だからビッグヒットにはつながらなかったと言われている。それでも、ハーブ・アルバートの奥さんのラニ・ホールの1972年のソロ・アルバム「サンダウン・サリー」でカバーされているし、デイヴ・グロールもTV番組で歌っている。また、2002年にはベン・フォールズもライヴ・アルバムの中で披露していた。確かに時間は長いが、多くの人に愛される佳曲だろう。また、この曲は作詞家のバーニー・トーピンの当時の妻のことであり、彼女は実際にダンサーだったようだ。彼女とバーニー・トーピンの結婚生活は約4年続いたが、その影響は彼の書く歌詞にも反映されていて、たとえば"The Bitch is Back"も彼女のことを書いたものと言われている。

 "Levon"は、長い間ザ・バンドのレヴォン・ヘルムのことだと言われていたが、2013年になって、バーニー・トーピン自身がその話を否定している。また、この曲も多くのミュージシャンからカバーされていて、中でもジョン・ボン・ジョヴィは、この曲を書いたのが自分だったら良かったのにとまで言っていたようだ。他にも、アメリカ人ミュージシャンのマイルス・ケネディやカナディアン・ロッカーのビリー・キッパートなどがレコーディングしていた。

 アルバム・タイトル曲である"Madman Across the Water"は、当時のアメリカ大統領だったリチャード・ニクソンのことを歌っているのではないかと言われていたが、もちろんこれは都市伝説だった。当時はウォーターゲート事件で騒がれていたので、この曲と結び付けられたのだろう。この曲は、エルトン・ジョンのトリビュート・アルバム「トゥー・ルームズ」の中で、ブルース・ホーンズビーがカバーしていた。

 このアルバムには多くのゲスト・ミュージシャンが参加していた。3曲目の"Razor Face"と4曲目の"Madman Across the Water"、7曲目の"Rotten Peaches"のハモンド・オルガンは、当時ストローヴスを脱退して間もなかったリック・ウェイクマンが演奏していたし、同じ4曲目のエレクトリック・ギターと7曲目のスライド・ギターは、あのクリス・スぺディングが担当していた。ちなみに4曲目の"Madman Across the Water"のオリジナル・バージョンのエレクトリック・ギターは、デヴィッド・ボウイのバック・バンド、ザ・スパイダーズ・フロム・マーズのギタリストだったミック・ロンソンが弾いている。そのバージョンは、リイシューされたCD「エルトン・ジョン3」で聞くことができる。

 また、のちにエルトン・ジョン・バンドで活躍するようになったギタリストのデイヴィー・ジョンストンが、このアルバムから参加していて、アコースティック・ギターのみならず、6曲目の"Holiday Inn"ではマンドリンとシタールも演奏している。彼はマグナ・カルタというバンドに所属していたのだが、彼らのアルバムをガス・ダッジョンがプロデュースしたことから、エルトン・ジョンのバンドに引き抜かれたようだ。

 さらには8曲目の"All the Nasties"では、これもまたのちのエルトン・ジョンのライヴでは重要な地位をしめるパーカッショニストのレイ・クーパーがタンバリンを叩いている。彼はまさにイギリスのミュージック界の至宝ともいうべき人で、エルトン・ジョンのみならず、エリック・クラプトンからジョージ・ハリソン、はたまたあのザ・ローリング・ストーンズやポール・マッカートニー、ピンク・フロイド、ビリー・ジョエル、その他数多くのミュージシャンやバンドのアルバムやライヴに参加している。2016年のエルトン・ジョンのアルバム「ワンダフル・クレイジー・ナイト」の中の"Tambourine"は、レイ・クーパーの長年の貢献に対して捧げられたものである。

 このアルバムには9曲が収められていて、比較的長い時間の曲が多い。もちろん、"Tiny Dancer"も長いのだが、5曲目の"Indian Sunset"は6分45秒もあって、このアルバムの中では一番長い曲である。バーニー・トーピンがアメリカのネイティヴ・アメリカンの保護地区を訪れた時にインスピレーションを受けて書かれたもので、のちにエルトン・ジョンのライヴでの重要なレパートリーになった曲だった。エルトン・ジョン自身は、この曲はみんなが思っているようなプロテスト・ソングではなくて、ひとつの物語だと述べている。
 曲も彼のアカペラから始まって、ピアノやドラムス、ストリングスなど徐々に楽器が増えていくが、一旦ブレイクして、ピアノの弾き語りに移っていく。最後はまた壮大なエンディングを迎えるのだが、その辺の緩急をつけた構成が見事で、アメリカで行われるライヴではスタンディング・オベーションで迎えられるという。確かに、胸を締め付けられそうなドラマティックなバラードだと思う。

 逆に、エルトン・ジョンのピアノの弾き語りだけで歌われるのが、最後の曲の"Goodbye"で、この曲は1分48秒しかなかった。他の曲と比べてあまりにも短い曲なので、うっかりして聞き流すことが度々あった。71la5budpl__sl1358_  とにかく、この2枚のアルバムは、のちの70年代中盤から後半のアルバムに比べれば、かなり地味な印象を与えていて、評価自体もそんなに高くはない。ただ、アメリカではチャート・アクションもよく、セールス的にもよい結果を出していた。当時のアメリカでは、シンガー・ソングライター・ブームだったから、そういう時代の流れというか、後押しもあったのではないだろうか。
 とにかく、アメリカでの好調なセールスに気をよくしたエルトン・ジョンは、このアルバムに起用したミュージシャンのデイヴィー・ジョンストンやディー・マーレイ、ナイジェル・オルソン、レイ・クーパーを中心にバンドとして活動を開始し、さらに高みを極めていくことになるのだが、その話はまた次の機会に譲ることにしようと思う。次の機会があればのお話だが…53b9fe5a6ba16bd7a96cf9e698521923
 今まで見てきたように、エルトン・ジョンのような偉大なスーパースターでも地味なアルバムを残している。どんな人にも下積みという時期があるのだろうし、こういう経験がやがては大きく花開く土台になるのだろう。何事も地道に取組むことが、遠回りに見えて着実な成功への階段を歩むことにつながる好事例なのかもしれない。

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