2019年7月 8日 (月)

ショーン・レノン(1)

 ジュリアン・レノンの次は、やはりこの人しかいないだろうということで、ジュリアンの異母兄弟であるショーン・レノンのことについて記すことにした。考えてみれば、彼ももう43歳、いいおじさんであるし、いつのまにか父親のジョン・レノンの年齢も越えてしまった。Seanonolennon
 彼は10月9日生まれで、これは父親と同じ日の誕生日だった。それが理由かどうかはわからないが、父親は彼を自分の分身と考え、溺愛していたようだ。このへんはジュリアン・レノンと違うところで、ジュリアンの方は父親からの愛情を受けることは少なかった。自分の愛する女性のオノ・ヨーコとの子どもだったのか、あるいはジョンの父性がようやく人並みにまでに成長したせいなのか、その理由はよくわからない。

 いずれにしてもショーンは、両親からの愛情を一身に受けて育った。彼には姉弟がいなかったから、それこそすくすくと育っていった、父親の悲劇的な事件までは。1980年の12月8日の時は、ショーンはまだ5歳だった。わずか5歳で彼は永遠に父親を失ったわけだが、考えてみれば、ジョン・レノンもジュリアン・レノンも、そしてショーンもまた実の父親とは早い時期から、生死の違いはあっても離ればなれになってしまった。それこそ、まるでレノン家に宿っている”業”の深さを表しているかのようだった。90573

 その後は、オノ・ヨーコが彼に音楽的素養を授けていった。子どものうちから母親のソロ・アルバムに参加させられ、長じてはプラスティック・オノ・バンドにも加わった。また、彼はギターやベース、ピアノにドラムスも演奏できるが、それらもまた子どものころから手を触れてきたからだった。1991年にはレニー・クラヴィッツとともに"All I Ever Wanted"という曲を書き、アルバム「ママ・セッド」に収録された。1996年には日本人女性2人組のチボ・マットのEP制作に呼ばれ、そのままベーシストとして彼女たちのツアーにも参加している。そうして1998年には、チボ・マットのメンバーである本田ユカのプロデュースのもと、最初のソロ・アルバム「イントゥ・ザ・サン」が発表された。

 最初から言ってしまうと、ショーン・レノンとジュリアン・レノンの音楽の違いがよく表れているアルバムだった。ジュリアン・レノンの音楽は父親譲りというか、あくまでもロックン・ロールというかロック・ミュージックというフォーマットにこだわっているような、あるいはそれを追及するような音楽観だったのに対して、ショーンの方は、特に音楽のジャンルにこだわらない幅の広さというか、いい意味での趣味的な音楽、自分のやりたい音楽を追及するようなそんな違いがあると感じたのである。

 それはショーンのフェイヴァリットな音楽にも表れている。彼の好きなバンドやミュージシャンは、もちろんザ・ビートルズを筆頭に、ジョンン・レノン、セルジオ・メンデス、ザ・ビーチ・ボーイズ、スティーヴィー・ワンダー、マイルス・デイヴィス、ザ・ビースティー・ボーイズ、チボ・マット、ボアダムズ(日本のバンド)等々、ロックからジャズ、ソウル、ヒップホップと実に幅広いのである。

 1998年の「イントゥ・ザ・サン」を聞いても、そのことがよく伝わってくるのだ。全体的にはややダークな感じで、既成のロック・ミュージックのみならず、それこそマイルス・デイヴィスのサックスから抽象音楽に変化していく"Photosynthesis"のような曲もあれば、十分ポップ・ミュージックとして機能する"Into the Sun"、"Queue"など、これまた一聴しただけでは本質がつかみにくいアルバムに仕上げられていた。51kex9qqyol
 だからこの「イントゥ・ザ・サン」というアルバムは、ジョン・レノンやジュリアンのアルバムを想像して聞くと、ちょっと違うよなあということになってしまう。ある意味、種種雑多な種類の音楽に触れることができる。"Part One of the Cowboy Trilogy"はまるで文字通りのフォーク・ソングだし、"Breeze"はまさにボサノバだった。"Home"はグランジ・ロックだったし、"One Night"はまるでギター一本で歌われる子守歌だった。

 あくまで個人的な感想だが、このアルバムを聞いて父親とはまるで似つかない音楽だったから、自分にとっては畑違いの音楽のように思われた。だから数回聞いて、ラック棚の中になおしてしまった。ちなみにこのアルバムは、全米アルバム・チャートでは153位だった。

 それから約8年後、この間にEPでの発表はあったものの、突然「フレンドリー・ファイアー」というセカンド・アルバムが発表されるというアナウンスがあった。どうしようかなと思ったが、前作から時間も流れていたし、雑誌のアルバム・レヴューも好意的に書かれていたから、しかも映像特典もあるというので、思い切って購入して聞いてみた。そしてその結果、このセカンド・アルバムは前作のアヴァンギャルドな雰囲気は消えていて、しっとりと落ち着いた雰囲気を備えている好アルバムだった。

 このアルバムは、フランスでは売れた。43週にわたってチャートに残り続け、シルヴァー・ディスクを獲得している。ちなみに全米アルバム・チャートでは152位止まりだった。やはりこのアルバムの持つ絵画的というか、耳を傾けるだけで目の前に情景が浮かび上がってくるような映画的な音楽観がフランス人の琴線に触れたのだろう。
 楽曲的にもしっかりと作られていて、特にストリングスのアレンジが素晴らしい。また、ギターにはポール・サイモンの息子のハーパー・サイモンが、ドラムスにはパール・ジャムにも在籍していたマット・チェンバレインが参加して脇を固めている。 51qwklcsanl__sl1013_

 8年間のブランクのうちに、彼は何百曲も手掛けていた。しかし、アルバムに収録した曲は当時の新しい曲を選んだそうだ。『僕は、現在の自分に一番興味がある。だから明らかにこのアルバムでは、僕の最新の姿が描かれている』とショーンは述べていた。
 またこの8年の間に、ニューヨークやロサンジェルスのミュージシャン、ヴィンセント・ギャロ、サーストン・ムーア、ジョン・ゾーン、ライアン・アダムス、ザ・ストロークスのアルバート・ハモンド・ジュニア、ウィーザーのブライアン・ベルなど数多くの人たちと交流して、その創造力を保ってきていた。

 このアルバムでは、彼の恋愛関係が描かれている。彼はこのように述べていた。『どれも元彼女との関係と、その関係の終焉、そして彼女と浮気していた僕の親友のことを書いている。ある意味、それはとても美しい題材だった』この彼女というのは、歌手で女優のビジュー・フィリップスという人で、彼女はママス&パパスのジョン・フィリップスの娘で、ウィルソン・フィリップスにいたチャイナ・フィリップスの異母妹にあたる人だ。このアルバムでもバッキング・ボーカルとして参加していた。
 彼女は、ショーンの元恋人で、同時にショーンの幼なじみだったマックス・リロイとも交際していた。いわゆる二股をかけていたわけだが、もちろんショーンにその事実が知られてしまい、関係は解消された。問題は友人同士だったショーンとリロイの方だが、2人の関係を解決する前に、リロイの方はバイク事故で亡くなってしまった。だからこのアルバムは、ショーンの心象風景を表現していると同時に、リロイへの追悼盤なのでもある。

 全10曲、時間的には37分余りということで長くはないのだが、1曲1曲が際立っていて、どの曲も印象的だった。まるで遊園地のメリーゴーランドのような"Dead Meat"は3拍子のワルツで、アルバムの冒頭にもってくるには勇気がいると思ったのだが、聞き続けていくうちに耽溺してしまうのだ。前作と比べて、8年間の成長を感じさせられる曲だった。

 "Wait for Me"はショーンのファルセットが美しく響く曲で、ファルセットだけ聞くと本当に父親の声に似ていると思う。この曲にはメロディアスな曲が多いのだが、3曲目の"Parachute"は印象的だ。この曲でのショーンの声は何か物憂げで、アンニュイな雰囲気を漂わせていた。アコースティック・ギターのアルペジオで始まる"Friendly Fire"は、寂しげなミディアム・バラードの曲。ショーンの哀しみが曲に表れているようだった。
 一転して"Spectacle"はやや明るい曲で、バックのストリングスが美しい。後半につれて楽器の数が増え、徐々に盛り上がっていくところがよくアレンジされている。ただ、全体的には同じような曲調の曲が目立っていて、単調さがあるのは否めないところだ。それをアレンジでカバーしているのだろう。そして、このアルバムの中で一番ビートルズテイストな曲が"Headlights"だろう。手拍子も使用されているし、どことなく明るい。もう少しテンポを早くすれば、もっと印象に残っただろうし、シングルとして売れたに違いない。

 面白いのは、マーク・ボランの曲がカバーされている点だろう。"Would I Be the One"という曲なのだが、言われないとわからない。確かにサビの部分は70年代の雰囲気がプンプンしているのだが、ショーンのオリジナルと言われても納得してしまう。もともとこの曲は、マーク・ボランやT・レックスのアルバムには収録されていないマイナーな曲だったが、ショーンのアレンジやハーパー・サイモンのギターで再び蘇ってきたようだった。とにかくこのアルバムは、ショーンのボーカル・アルバムだった。最後の10曲目の"Falling Out of Love"もそうだった。ゆったりとしたマイルドなメロディーとそれを印象づけるストリングスとともに、ショーンのボーカルもまた甘美に響き渡るのである。まるで映画のエンドロールのBGMのようだった。61di1hymaal__sl1155_

 その後のショーンは、2009年には映画音楽のスコアを書いているが、それ以降、オリジナル・アルバムを発表していない。しかし、音楽活動を停止しているかというとむしろ逆で、他のミュージシャンと盛んにコラボをしているようだ。最近では、クレイプール・レノン・デリリウムという名義でプログレッシヴ・ロックのアルバムを発表している。そのプログレ・アルバムについては、今年の冬のプログレ祭りで記していこうと思っている。

 とにかく、ショーンにも豊かな才能が備わっているようだが、彼は遊歩人というか遊牧民というか、自分の興味・関心に従って音楽活動を続けているようだ。そこには父親に対する”トラウマ”もなければ、音楽に対する気負いもない。年齢も年齢だし、ある意味、自由気ままに音楽活動を行っているようにも見える。Browlineeyeglasses これは父親レノンの影響というよりは、母親であるオノ・ヨーコの影響ではないだろうか。音楽家というより芸術家としての才能を発揮しているのが、ショーン・レノンのような気がするのである。

 

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2019年7月 1日 (月)

ジュリアン・レノン

 ジョンやポールのことを書いているうちに、ふとジョンの最初の子どもジュリアン・レノンはどうしているだろうか気になってしまった。それで今回はそのジュリアン・レノンについて記してみたい。彼も父親が父親だから、さぞかし子どものころから注目を浴びていたに違いない、いい意味でも悪い意味でも。

 ジュリアン・レノンといえば、ザ・ビートルズの楽曲にも、直接的間接的に問わず、たびたび登場していた。一番有名なのは、ポールの作曲した"Hey Jude"だろう。ほんとは"Jude"ではなくてジュリアンを意味する"Jules"だったのだが、歌いにくいということで"Jude"になった。これは1968年、つまりジュリアンが5歳の時に両親(ジョン・レノンとシンシア・レノン)が離婚したからで、ジュリアンを励ますつもりで作ったと言われている。また、「ホワイト・アルバム」の最後の曲に"Good Night"という曲があって、これはリンゴ・スターがボーカルを取っていたのだが、この曲はジュリアンへの子守歌ということで作られたものだった。まだ、ある。1967年の"Lucy in the Sky with Diamonds"のイメージは、ジュリアンの保育園の友だちだったルーシー・オドネルが描いた絵から得られたものだった。ジュリアンがいなければ、この曲はかなり違ったものになったに違いない。

 彼は”期待されない”子どもだった。ジョンがシンシアと結婚したのも、いわゆる”できちゃった婚”だったからであり、最初から望まれてこの世に生を受けたわけではなかった。また、ジョン自身も気持ちが向けばジュリアンにも愛情をもって接していたが、公演旅行や映画の撮影、ニュー・アルバムのレコーディングと、忙しくなるにつれて、また世界中で名声が高まるにつれて、家庭を顧みなくなってしまった。63johnjulianlennon_01_1

 これはある意味、ジョン自身の宿命みたいなものだったかもしれない。ジョン自身もまた望まれてこの世に生まれてきたわけではなかった。ジョンが生まれた時、父親は船乗りで航海中だったし、母親のジュリアは他の男と同棲中だった。結局、ミミおばさん夫婦に育てられるのだが、18歳の時、ジョンは、自分の目の前で実の母親ジュリアが車にはねられて亡くなるところを目撃している。ジョンは実の両親からの愛情を十分に受けることもなく大人になっていったのだ。

 ある意味、親子2世代に渡っての”業”みたいなものを感じさせる話なのだが、ジョン・レノンはジュリアンの育て方も分からぬまま、今でいう育児放棄のような感じでシンシア任せだったし、ジュリアン自身も父親に馴染めず、むしろその存在に怯えるようだったと告白している。ジョンよりもポールの方が優しく接してくれていたようだった。だからジュリアンに対して曲を作ったり、一緒に遊んだりしていたのだろう。 V7aeni7s

 そんな彼も、長ずるにしたがって父親と親交を深め、ジョンの1974年のアルバム「心の壁、愛の橋」では最後の曲"Ya Ya"においてオモチャのドラムを叩いていた。まだジュリアンが10歳か11歳の頃だろう。父親のジョンはジュリアンに、ギブソン社のレス・ポールを与えたというから、それから音楽(もちろんロック・ミュージック)に対して具体的な感情を持ち始め、音楽活動を意識したに違いない。そして18歳になると、母親のシンシアから買ってもらったピアノを独学でマスターして、アマチュアバンドを結成して活動を始めていった。
 しかし、ジュリアンにとって更なる悲劇は、1980年ジュリアンが17歳の時に実の父親が亡くなったことだった。しかも今度は、世界中がその射殺という悲劇を同時に味わい、悲しみに包まれるという事態を伴っていた。ジョンは自分の目の前で母親の死を目撃したが、息子のジュリアンは世界中のメディアを通して父親の死を知ることになった。

 ジュリアンがレコード・デビューしたのは1984年、21歳の時だった。サイモンとガーファンクルやビリー・ジョエルのプロデューサーとしても有名だったフィル・ラモーンが担当したアルバム「ヴァロッテ」は世界中で評判になり、全米ビルボードのアルバム・チャートでは17位、全英アルバム・チャートでは19位と健闘し、アメリカではプラチナ・ディスクを獲得している。41kkeskl
 また、シングル"Valotte"と"Too Late for Goodbyes"は、全米シングル・チャートでそれぞれ9位と5位と、トップテン・ヒットになった。もちろんジョン・レノンの息子という話題性もあっただろうし、聞こえてくる声自体も父親とそっくりだったということもあっただろう。

 ただ、音楽的なレベルは決して悪くはなく、むしろ標準以上だろう。もしジョン・レノンの息子という事実が伏せられていたとしても、ヒットしただろう。ただ、プラチナ・ディスクまでなったかどうかは保証できないが…
 最初のシングルの"Valotte"は、このアルバムでギターを担当していたジャスティン・クレイトンとカールトン・モラレスとの共作だったが、"Too Late for Goodbyes"はジュリアン単独で書いた曲だったし、ノリのよい"Say You're Wrong"やマイケル・ブレッカーのサックスがフィーチャーされたバラード曲"Lonely"なども、ジュリアンひとりの手によるものだった。

 全体的には、21歳の若者の手によるデビュー・アルバムにしては老成されている感じがした。80年代特有の打ち込みシンセも使用されていたが、自分のやりたい音楽性とその時代性を反映させた音楽とが絶妙にマッチしていて、そういうところもヒットした要因の1つだっただろう。おそらくは、プロデューサーのフィル・ラモーンの方針だと思われるが、あのジョン・レノンの息子ということで、失敗はさせられないという覚悟や万全を期してデビューさせるようなこともあったのではないかと邪推している。そして結果的に見れば、ジュリアン・レノンを支えるプロダクション・チームの成功だった。

 このアルバムの成功の後、2年後にはセカンド・アルバム「ザ・シークレット・ヴァリュー・オブ・デイドリーミング」を発表しこれまたそこそこ売れたのだが、1989年の「ミスター・ジョーダン」以降、特にアメリカではチャートに上がることはなくなった。アメリカ人は、ジュリアン・レノンの姿にジョン・レノンの幻影を見ることが無くなったのだろう。あるいは、ディスコ調や映画音楽とタイアップした曲、キャッチーで売れ線狙いの曲とは真反対の、自分の求める音楽を追及していたジュリアンの楽曲は時流に添えなかったのだろう。

 90年代に入ってからのジュリアンは、しばらく音楽業界から遠ざかっていた。やはり偉大な父親と比較されたり、彼の名前を利用して儲けようとしたりする経験を味わったようだ。例えば、1991年のアルバム「ヘルプ・ユアセルフ」では、ジョージ・ハリソンが"Saltwater"という曲にギターで参加していた。それがきっかけとなって、突然、”ザ・ビートルズ再結成”という話が持ち上がった。ジョージとリンゴとポールにジュリアン・レノンが加わるわけだ。しかも当時はザ・ビートルズ・アンソロジーが編集されていたから、ザ・ビートルズ再評価に乗っかるような真実味のある話だった。
 結局、それは噂話に終わってしまったのだが、やはりそんなこともジュリアン・レノンにとっては自分が利用されたように思えたのだろう。音楽よりも趣味の料理やヨット・セイリング、彫刻、写真などに取組んでいた。

 自分が好きな彼のアルバムは、1998年の5枚目のスタジオ・アルバムの「フォトグラフ・スマイル」だった。前作の「ヘルプ・ユアセルフ」より7年間のブランクがあったが、このアルバムはメロディアスでよくできていると評論家受けもよかった。51kdt76fqel
 全14曲で63分という容量で、全体的に穏やかで落ち着いていて、アレンジが凝っていた。シングル・カットされた"Day After Day"はアメリカ人のミュージシャン、マーク・スパイロとの共作で、中間のストリングスなどは中期ザ・ビートルズの再現とまで言われた。因みに、マーク・スパイロはジョン・ウェイトやハート、ローラ・ブラニガン、リタ・フォードなどの80年代から90年代に一世風靡をしたミュージシャンたちに曲を提供している。

 このアルバムでは"Day After Day"以外にも4曲、"Cold"、"I Don't Wanna Know"、"Good to Be Lonely"、"And She Cries"でマークと共作していた。特に、"I Don't Wanna Know"はもろビートルズテイストの曲で、ザ・ビートルズの"I Should Have Known Better"と"It Won't Be Long"を足して2で割ったようなミディアム・テンポの曲だった。

 他にもピアノ奏者でシンガー・ソングライターのグレゴリー・ダーリンというアメリカ人と4曲コラボしていて、アルバム・タイトルにもなっていた"Photograph Smile"も彼との共作だった。これはバックでストリングスが鳴らされているちょっと凝り過ぎたバラード曲で、フランク・シナトラが歌ってもおかしくないような曲だった。他には"Crucified"、"Walls"、"Kiss Beyond The Catcher"、それに日本語盤のボーナス・トラックだった"Don't Let Me Down"に彼のクレジットがあったが、基本的にはピアノやキーボード主体で、しっとりとした印象を受ける曲ばかりだった。
 ただ、アコースティック・ギターが使用された弾むようなリズムの"Kiss Beyong The Catcher"がこのアルバムにアクセントを与えているし、タムタムとシタール・ギターがインド風味をもたらす"Crucified"は、60年代末のザ・ビートルズを彷彿させるものだった。この曲は悲劇的な死を迎えたジュリアンの友人のケヴィン・ギルバートという人に捧げられていた。

 またこのアルバム自体もジュリアンの義父だったロベルト・バッサニーニに捧げられたものだった。彼はシンシアと再婚していたらしい。これもどうでもいい話だが、シンシアは4回結婚していて、ロベルトは2回目の相手で1970年から76年まで一緒に暮らしていた。ロベルトは1995年の5月にイタリアのミラノで亡くなっている。

 とっても落ち着いていてロマンティックなアルバムだった「フォトグラフ・スマイル」だったが、まるで50歳代のベテラン・ミュージシャンのボーカル主体のアルバムのようだった。もう少しアップテンポな曲やロックン・ロール曲が含まれていれば、もっと話題を呼んだに違いないし、売れたに違いない。
 その後ジュリアンは、2011年の6枚目のスタジオ・アルバム「エヴリシング・チェンジズ」以来、アルバムを発表していない。このアルバムには先述のマーク・スパイロやグレゴリー・ダーリン、それから一時ジェスロ・タルにも在籍していたピート=ジョン・ヴェテッセも参加していた。このアルバムも凄く出来が良くて、評論家筋からの評価も高かったのだが、ジュリアン自身も売れることにはあまりこだわっていないようで、チャート的には芳しくなかった。

 ただ、”もしも”という仮定の話はしたくないのだが、もしもジュリアン・レノンの父親がジョン・レノンでなければ、もっと正当な評価が与えられただろうし、ジュリアン自身も生き生きと楽しみながら音楽制作に携わることができただろう。彼の才能は本物だし、ほかの同世代のミュージシャンと比べても決して遜色はなかった。そうなればもっと違う音楽が私たちの前に提示されたに違いない。Julian18sit

 ジュリアンは56歳になるが、まだ未婚である。自分が家庭もつ自信ができるまで、自分の中に父権が確立され、きとんと親子との関係が結べるまでは結婚をしないつもりのようだ。このままでいけば恐らく生涯を通して結婚はしないだろう。あるいは結婚しても子どもを持つことはないだろう。親子3世代に渡る”宿業”は、自分の代で断ち切りたいと思っているのかもしれない。

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2019年5月13日 (月)

初期のエルトン・ジョン(3)

 前回で、初期のエルトン・ジョンのアルバムについては終わるつもりだったのだが、4枚のアルバムだけで”初期”としてひとくくりにするのはいかがなものかと考え直して、結局、もう1回分追加することにした。相変わらず意志が弱いというか、優柔不断な性分である。
 それで今回は、1972年に発表された「ホンキー・シャトー」と翌年のアルバム「ピアニストを撃つな」について簡単に記そうと思った。順番から言えばその2枚しかないから、ごくごく当たり前だろう。こんな当たり前のことをあえて書くところがこのブログのいい加減なところでもある。

 それで「ホンキー・シャトー」については、変な思い出があって、某大手タワー・レコード店でこのCDを電話で注文したときになかなか通じなくて弱ったことがあった。自分は”エルトン・ジョンの「ホンキー・シャトー」をお願いします”と言ったのだが、その女性店員は”「本気、佐藤」ですか”と何度もしつこく確認するのであった。外国人ミュージシャンが日本語のタイトルのアルバムを発表することは、確かに邦人スタッフが日本語のタイトルはつけることはあるだろうが、でも「本気、佐藤」じゃちょっとどうなのかなと思ってしまった。いくら日本では”佐藤”姓が多いとはいえ、特定の苗字の人に向けて作ったアルバムというのは、あまり考えられないと思う。おそらくその店員さんも、困惑しながら聞いてきたのだろう。

 そんな話は置いといて、「ホンキー・シャトー」である。前回でも記したけれど、アメリカでのエルトン・ジョンの人気は高くて、レコード・セールスも好調だった。一方、イギリスではどうかというとこれがなかなか微妙で、セカンド・アルバム「エルトン・ジョン」やサード・アルバム「エルトン・ジョン3」、シングルなどはヒットしたものの、4枚目のアルバム「マッドマン」は大ヒットとは言えずに、期待外れといっていいほどの結果だった。アメリカでは「マッドマン」のアルバムでさえもベスト10以内に入っていたから、アメリカでは人気も定着していたのだろう。

 ところがこの「ホンキー・シャトー」は、英米両国で売れた。英国では前作と打って変わって、アルバム・チャートの2位、米国では堂々の首位を獲得している。ここから彼の栄光の歴史が綴られて行くのだが、そのきっかけとなったアルバムだった。それまでのシンガー・ソングライター風のアルバム作りが、ロックン・ロールのスタイルのような、あるいは典型的なポップ・スターのような売れるアルバムに変化したのである。 A1i30qugyil__sl1500_
 その原因の一つは、それまでの大仰なストリングスやオーケストレーションが加味されなかったせいもあるかもしれない。ある意味シンプルになったというか、曲のメロディーやリズムで勝負しようと考えたのか、その辺は何とも言えないのだが、でもそういう変化が受け入れられたのは間違いのないことだろう。実際、このアルバムのクレジットには、それまでストリングスのアレンジを担当していたポール・バックマスターの名前はなかった。

 だから聞きやすくなったのかもしれないし、エルトン・ジョンの持ち味であるピアノ演奏を基軸にした曲自体が際立ってきたのかもしれない。そういう意味では、"Rocket Man"がヒットしたのも納得できるというもので、当時の宇宙への憧憬と日常生活との対比という内容もさることながら、メロディー自体の良さも受け入れられたのだろう。
 また、このアルバムからバック・バンドのメンバーが固定化されてきたということも、アルバム制作上、有利に働いたに違いない。エルトン・ジョン以外は、ギターにディヴィー・ジョンストン、ベースにはディー・マーレイ、ドラムスにナイジェル・オルソン、パーカッションにレイ・クーパーで、今となって思えば、黄金期を支えたメンバーだった。特に、ギタリストだったディヴィー・ジョンストンの活躍は目覚ましく、アコースティックからエレクトリック・ギターを始め、バンジョーにマンドリン、スティール・ギターと弦楽器だったら何でも演奏できるのではないかと思わせるほどの働きぶりだった。

 そういう強者が集まって、フランスのパリにある古城で作ったアルバムが悪いはずがない。集中してレコーディングができたのだろう。結果的に、チャート的にもセールス的にも成功を収めることができたのである。61q6dgjvqdl  
 それとこのアルバムを特徴づけている点は、ニューオーリンズ・ジャズの影響だろう。アルバム冒頭の"Honky Cat"や3曲目の"I think I'm Going to Kill Myself"、次の"Susie(Dramas)"には顕著に表れているし、後半の"Amy"にもその影響がみられる。

 また、ジャズではないけれど、7曲目の"Slave"にはバンジョーやスティール・ギターも使われてカントリータッチだし、ドゥー・ワップのスタイルを取り入れた最後の曲の"Hercules"の軽快さや、9曲目の"Mona Lisas And Mad Hatters"はニューヨークという街の情景を切り取っていて、こういう点でもアメリカ人のハートをギュッと掴んだのだろう。さらには、ヒットしたシングル曲以外にも、"Mellow"や"Salvation"のようなバラード曲も収められていたから、捨て曲なしのこれこそまさに売れるアルバムというものだった。
 ちなみに、"Mona Lisas And Mad Hatters"はバーニー・トーピン自身の経験から書かれた曲で、彼が最初にアメリカのニューヨークを訪れた時のホテルで拳銃の発砲音を聞いたことが切っ掛けになって書かれたものだった。曲の冒頭部分は、ベン・E・キングの"Spanish Harlem"を意識して書かれたと言われている。

 そして、このアルバムの大ヒットをきっかけに、再びフランスのパリ郊外の古城”シャトー・ディエローヴィル”でレコーディングされたのが、1973年の6枚目のスタジオ・アルバムで通算8枚目の「ピアニストを撃つな」だった。この古城はアメリカのバンド、グレイトフル・デッドも使用したことがあるという。
 とにかくこのアルバムは売れた。全英アルバム・チャートで初めて首位になったし、それは6週間も続いたのである。また、全米では、ビルボードのアルバム・チャートで約1年半トップ200内に留まっている。そして全英、全米ともにNo.1になった初めてのアルバムだった。 A1slsrf1bl__sl1500_

 この成功には、シングル・カットされた"Crocodile Rock"と"Daniel"の影響もあるだろう。特に前者は初めて全米のシングル・チャートで首位を獲得していて、エルトン・ジョンにとっては記念碑的なシングルになったのである。
 彼自身はこの曲について、50年代後半から60年代前半でのロックン・ロール黄金時代に対するノスタルジーが溢れているが、ネタ元は1962年のパット・ブーンのヒット曲"Speedy Gonzales"だと述べていた。後にロサンゼルスで裁判沙汰になったようだが、盗作とは認められずに、協議の結果、無事に解決している。

 "Daniel"の方は、これはゲイの主人公の曲かと騒がれたが、実際はベトナム戦争に従軍した兄弟についての曲で、アルバムやシングルでは2番までしか歌われていないが、本当は3番まであると言われていて、その3番でベトナム戦争のことが歌われているという。全米シングル・チャートでは2位、全英シングル・チャートでは4位まで上昇した。

 パクリで思い出したが、6曲目の"Have Mercy on the Criminal"のイントロは、誰が聞いてもエリック・クラプトンの"Layla"のパクリだろう。この時はすでに"Layla"は発表されていたから、きっとエルトン・ジョンも耳にしていたに違いない。当時は著作権について、そういう穏やかというか、緩やかな雰囲気だったのだろう。でも、ロックン・ロールという音楽自体、ヨーロッパ系移民のカントリー・ミュージックとアフリカ系のゴスペル・ミュージックのパクリなのだから、元々そういう流れが底流に息づいているのだろう。

 また、7曲目の"I'm Going to Be Teenage Idol"は、マーク・ボランのいたT・レックスのことを念頭に置いて作った曲のようだが、曲の雰囲気には一切無関係のようだ。ああいう音楽を”グラム・ロック”と呼んでいるが、メタリックな雰囲気は感じられずにピアノとブラスが強調されたミディアム調の曲だった。むしろのちに歌われた"Benny And The Jets"の方がグラムっぽいし、この曲ももう少しテンポを落として歌うなら"Benny And The Jets"に近くなるだろう。

 ところでこのアルバムには、アレンジャーのポール・バックマスターが復帰していてアレンジを担当していた。4曲目の"Blues for My Baby And Me"と6曲目の"Have Mercy on the Criminal"のストリングスのアレンジは、彼の手によるものである。"Blues for My Baby And Me"のストリングス・アレンジメントは特に素晴らしくて、徐々に盛り上げていく力はさすがエルトン・ジョンの初期を支えた彼の手腕が見事に発揮されていた。
 ところで、2曲目の"Teacher I Need You"は、男子のティーンエージャー特有の?女性教師に対する憧れというか、欲望みたいなものを歌っていて、60年代前期の、まだ明るい未来を描くことのできたロックン・ロール曲だった。次の"Elderberry Wine"はシングルとして発表された"Crocodile Rock"のBサイドだった曲で、Aサイドの曲よりはややゆっくり目ではあるが、これもロックン・ロール黄金時代の雰囲気が封じ込められた曲だった。 51kgcj3vkl

 前にも記したけれど、エルトン・ジョンの音楽にはアメリカからの影響が強くて、確かにアメリカのシンガー・ソングライター・ブームにうまく乗れたという点もあっただろうけれど、昔のロックン・ロールの雰囲気やアメリカ南部のゴスペルやジャズ、R&Bの影響がここかしこに垣間見れるのである。この「ピアニストを撃つな」でも上に書いたこと以外にも5曲目の"Midnight Creeper"のブラスや8曲目の"Texan Love Song"におけるアーシーな感覚などは、その最たる例に違いない。だから最初からアメリカでは受け入れられたのだろうし、このアルバムからの2曲のヒット・シングルのおかげで、全英、全米を含む全世界で受け入れられていった。

 前作「ホンキー・シャトー」の成功が起爆剤になり、このアルバムでさらに彼の音楽の評価が高まり、70年代のエルトン・ジョンの黄金時代が築かれたのである。のちに彼が大英帝国の爵位を賜るようになったのも、この時代の成功のおかげであろう。時代の流れのみならず、曲の良さや彼を支えたミュージシャンやスタッフのおかげで、結果的には成功を得たのであるが、のちにバーニー・トーピンとの関係を解消したり、バック・バンドのメンバー交代などもあって、彼の人気は徐々にというか、急速に失速していった。後にバーニーと再びコンビを組むも、もとの黄金期までの人気まで高めることはできなかったようだ。やはり一度失われてしまうと、元に戻るのは何でも難しいのであろう。エルトン・ジョンの人生を見ていると、いろんなことを教えてくれるような気がしてならない。

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2019年5月 6日 (月)

初期のエルトン・ジョン(2)

 エルトン・ジョンのように活動歴が長いミュージシャンなどでは、”初期”といわれてもどこまでが初期なのかが、よくわからなくなってくる。活動が長くなればなるほど、”初期”の期間が延びてくるからだ。だからアルバム・デビューして50年も経つエルトン・ジョンにすれば、”初期”といえば、やはり1969年のデビュー・アルバムから1979年の「恋に捧げて~ヴィクティム・オブ・ラヴ」あたりまでだろう。
 でも70年代のエルトン・ジョンといえば、まさに飛ぶ鳥を落とすほどの全盛期だったから、その当時のアルバムについてはどれも必聴盤だった。もちろん今になって聴き込んでみれば、優劣とまではいかないまでも、必聴盤と推薦盤くらいの違いは出てくるのだが、とにかく70年代のアルバム群は、特に1972年の「ホンキー・シャトー」以降パンク・ロック登場までは、どれもこれも水準が高く、セールス的にも成功を収めることができたのである。

 そんな中で初期のアルバムを紹介するといっても、膨大な時間と作業が必要になってくるので、69年のデビュー・アルバム「エンプティ・スカイ」から1971年の「マッドマン」までに絞り込むことにした。そして今回は2回目に当たり、その後半部分の2枚のアルバムについて記そうと思った。
 基本的に当時のエルトン・ジョンはシンガー・ソングライターであって、のちの派手なイメージやステージ演出とは一線を画すようなたたずまいだった。また、今回改めて思ったのは、彼がいかにアメリカ南部の音楽、ソウルやゴスペル、R&Bに強い影響を受けていたかであった。この両方の特徴がよく表れていたアルバムが、1970年に発表されたアルバム「エルトン・ジョン3」だった。51slqebp2l  まずアルバム・ジャケットから見てもアメリカという国や文化に影響を受けているということが分かると思う、まるで”西部劇”のようなアートワークだからである。しかも添付されたブックレットに載せられた写真や歌詞、イラストなどはまさに19世紀のアメリカ西部のようだし、セピア色の色どりは古き良き時代を回顧させるような効果をもたらしていた。(ただ実際は、アルバムのジャケット写真はイギリスのロンドンから約40キロ離れたサセックス州のある駅のものだった)

 エルトン・ジョンはこのアルバムについて、「歌詞にしてもメロディにしても、僕たちの作品の中で最も完璧に近いものの1枚だろう、歌詞とメロディが合わない曲はひとつもない」と述べていた。言葉の端はしに強い自信が表れている。また、相棒のバーニー・トーピンは、「みんなが僕が初めてアメリカを見て、興奮してこのようなアルバムを作ったと思うだろうが、実際はアメリカに来る前にレコーディングをしていたんだ。それより自分が強く影響を受けたのはザ・バンドのアルバム”Music from Big Pink”というアルバムと、ロビー・ロバートソンの曲の方なんだ」

 曲名にしても"Ballad of A Well-Known Gun(名高き盗賊の伝説)"や"My Father's Gun(父の銃)"など、いかにもアメリカ西部開拓時代を彷彿させるようなものだったし、そういう意味では、このアルバムもまたトータル・アルバムだったのだろう。
 そして、このアルバムもまたセールス的に売れたのだが、ここからシングル・カットされた曲は1曲もなかった。それでも売れたのだから、いかにこのアルバムが優れていたかが分かるだろう。

 冒頭の"Ballad of A Well-Known Gun"はミディアム調の力強く語りかけるような曲で、バッキングのボーカルがソウルフルだ。この曲はジェイムス・テイラーの妹のケイト・テイラーもカバーしていた。次の"Come Down in Time"はアコースティック・ギターとオーボエやストリングスがフィーチャーされたスロー・バラード曲だった。この曲もまた、アル・クーパーやスティングによってカバーされた。ポール・バックマスターのストリングス・アレンジが素晴らしい。

 3曲目の"Country Comfort"は、ロッド・スチュワートのバージョンの方が有名かもしれない。彼は1970年の自身のソロ・アルバム「ガソリン・アレイ」でこの曲を取り上げている。次の"Son of Your Father"はアップテンポのブギウギ調のナンバーで、ハーモニカやホーン・セクションも強調されていて楽しい雰囲気だが、歌詞を見ると2人の男が議論の果てに喧嘩になって殺し合いを始め、2人とも亡くなるという悲劇的な内容だった。そのせいかどうかはわからないが、エルトン・ジョンは、ライヴではこの曲を一度も歌ったことはない。

 5曲目の"My Father's Gun"も内容的にはアメリカ南北戦争で亡くなった父親の遺品の拳銃のことを意味していて、ボブ・ディランもこの曲を気に入っていたといわれていた。オーランド・ブルームやクリスティン・ダンストが出演した2005年のアメリカの映画「エリザベスタウン」のサウンドトラックにも使用されていた。6分以上にも及ぶ壮大なバラード曲だ。

 サイドBの1曲目"Where to Now St.Peter?"もまた戦場で亡くなろうとしている兵士の最後の想いに言及したもので、自分の魂は天国に行くのか地獄に行くのか、聖ペテロに問うというものだった。ミディアム調な曲ながらも歌詞的には深いものが秘められている。また、セルジオ・メンデスとブラジル77が1976年のアルバム「ホームクッキング」で、ハートのアン・ウィルソンがエルトン・ジョン自身と2007年の彼女のソロ・アルバム「ホープ&グリーリー」でデュエットしている。

 アコースティック・ギターをバックに歌われる2曲目の"Love Song"は、穏やかなバラード・タイプの曲で、イギリス人のシンガー・ソングライターであるレスリー・ダンカンがギターとバッキング・ボーカルを担当していた。次の"Amoreena"もまた1975年の映画「ドッグ・ディ・アフタヌーン」で挿入歌として使用されていた。この曲のレコーディングで、初めてナイジェル・オルソンとディー・マーレイのリズム・セクションとセッションを行ったという記録が残されている。ちなみに"Amoreena"とはエルトン・ジョンが名付け親になった娘のことである。彼の実の娘というわけではないようだ。

 ピアノの弾き語りで歌っているのが"Talking Old Soldiers"で、まるでソウル・ミュージックのように厳かで魂を揺さぶられるような曲である。実際に、アフリカ系アメリカ人のベッティ・ラヴェッテが2007年の彼女のソロ・アルバム「ザ・シーン・オブ・ザ・クライム」で取り上げている。バーで戦争を経験した老人が若者に自身の体験を語りかけるというもので、当時のエルトン・ジョンがどういう気持ちでこの曲を歌っていたんだろうかと気になってしまう。よほど老成した青年だったのだろうか。当時の彼はまだ23歳だった。

 そして最後の曲が"Burn Down the Mission"だった。内容的には、貧しい青年が自分の存在意義と貧困や社会的格差などに悩み、傷つき、ついには教会を焼き払おうと行動に移すというものである。音楽的にもゆっくりとしたピアノの弾き語りから、中盤では素早く鍵盤が叩かれジャージーな雰囲気に一転し、さらに最後は魂が昇天するかのように、コンガやストリングスも加わり、高みまで上がっていくのである。この曲もフィル・コリンズが歌ったり、TOTOが2002年のアルバム「スルー・ザ・ルッキング・グラス」でカバーしていた。

 これまで見てきたように、シングルでヒットした曲はないものの、多くのミュージシャンやバンドがこのアルバムからの曲を取り上げている。それだけ影響力が強かったのだろう。チャート的にも英国のアルバム・チャートで2位、米国のビルボード・アルバム・チャートでは5位まで上昇している。エルトン・ジョンの隠れた名盤といっていいだろうし、彼ら、つまりエルトン・ジョンとバーニー・トーピンにとっては、初めてのトータル・アルバムだったに違いない。そしてさらに自信をつけたエルトンが翌年に発表したのが、「マッドマン」だった。 71lxf5spe6l__sl1101_  
 とは言っても、この「マッドマン」というアルバムの評価は、母国イギリスにおいては低かった。ビッグ・ヒットにつながるようなシングル曲が含まれていなかったというのがその原因の一つだったに違いない。しかもこの年のエルトン・ジョンは、このアルバムを含めて3枚のアルバムを発表していた。4月には初めてのライヴ・アルバム「17-11-70」を世に出し、5月には、映画「フレンズ」のサウンドトラックを発表している。そして11月になって、5枚目のスタジオ・アルバムになる「マッドマン」がリリースされたのだが、ひょっとしたらまたエルトン・ジョンのアルバムか、"Your Song"のような曲はどこにあるんだいと世の中の人は思ったかもしれない。

 確かに、名曲といえるような曲は含まれていなかったかもしれないが、よく練られていて構成が巧みな曲や深い余韻を残すような曲もあって、個人的には決して悪くないと思っているし、むしろもっと高く評価されてもいいのではないかとも思っている。
 シングル向きの曲がないといっても、アメリカではアルバム冒頭の"Tiny Dancer"と2曲目の"Levon"がシングカットされていて、前者は41位、後者は24位まで上昇している。そのせいか、米国のビルボードのアルバム・チャートでは8位を記録した(英国では41位止まりだった)。

 "Tiny Dancer"は、6分12秒もあって、そのせいかラジオではオンエアされにくかったようだ。だからビッグヒットにはつながらなかったと言われている。それでも、ハーブ・アルバートの奥さんのラニ・ホールの1972年のソロ・アルバム「サンダウン・サリー」でカバーされているし、デイヴ・グロールもTV番組で歌っている。また、2002年にはベン・フォールズもライヴ・アルバムの中で披露していた。確かに時間は長いが、多くの人に愛される佳曲だろう。また、この曲は作詞家のバーニー・トーピンの当時の妻のことであり、彼女は実際にダンサーだったようだ。彼女とバーニー・トーピンの結婚生活は約4年続いたが、その影響は彼の書く歌詞にも反映されていて、たとえば"The Bitch is Back"も彼女のことを書いたものと言われている。

 "Levon"は、長い間ザ・バンドのレヴォン・ヘルムのことだと言われていたが、2013年になって、バーニー・トーピン自身がその話を否定している。また、この曲も多くのミュージシャンからカバーされていて、中でもジョン・ボン・ジョヴィは、この曲を書いたのが自分だったら良かったのにとまで言っていたようだ。他にも、アメリカ人ミュージシャンのマイルス・ケネディやカナディアン・ロッカーのビリー・キッパートなどがレコーディングしていた。

 アルバム・タイトル曲である"Madman Across the Water"は、当時のアメリカ大統領だったリチャード・ニクソンのことを歌っているのではないかと言われていたが、もちろんこれは都市伝説だった。当時はウォーターゲート事件で騒がれていたので、この曲と結び付けられたのだろう。この曲は、エルトン・ジョンのトリビュート・アルバム「トゥー・ルームズ」の中で、ブルース・ホーンズビーがカバーしていた。

 このアルバムには多くのゲスト・ミュージシャンが参加していた。3曲目の"Razor Face"と4曲目の"Madman Across the Water"、7曲目の"Rotten Peaches"のハモンド・オルガンは、当時ストローヴスを脱退して間もなかったリック・ウェイクマンが演奏していたし、同じ4曲目のエレクトリック・ギターと7曲目のスライド・ギターは、あのクリス・スぺディングが担当していた。ちなみに4曲目の"Madman Across the Water"のオリジナル・バージョンのエレクトリック・ギターは、デヴィッド・ボウイのバック・バンド、ザ・スパイダーズ・フロム・マーズのギタリストだったミック・ロンソンが弾いている。そのバージョンは、リイシューされたCD「エルトン・ジョン3」で聞くことができる。

 また、のちにエルトン・ジョン・バンドで活躍するようになったギタリストのデイヴィー・ジョンストンが、このアルバムから参加していて、アコースティック・ギターのみならず、6曲目の"Holiday Inn"ではマンドリンとシタールも演奏している。彼はマグナ・カルタというバンドに所属していたのだが、彼らのアルバムをガス・ダッジョンがプロデュースしたことから、エルトン・ジョンのバンドに引き抜かれたようだ。

 さらには8曲目の"All the Nasties"では、これもまたのちのエルトン・ジョンのライヴでは重要な地位をしめるパーカッショニストのレイ・クーパーがタンバリンを叩いている。彼はまさにイギリスのミュージック界の至宝ともいうべき人で、エルトン・ジョンのみならず、エリック・クラプトンからジョージ・ハリソン、はたまたあのザ・ローリング・ストーンズやポール・マッカートニー、ピンク・フロイド、ビリー・ジョエル、その他数多くのミュージシャンやバンドのアルバムやライヴに参加している。2016年のエルトン・ジョンのアルバム「ワンダフル・クレイジー・ナイト」の中の"Tambourine"は、レイ・クーパーの長年の貢献に対して捧げられたものである。

 このアルバムには9曲が収められていて、比較的長い時間の曲が多い。もちろん、"Tiny Dancer"も長いのだが、5曲目の"Indian Sunset"は6分45秒もあって、このアルバムの中では一番長い曲である。バーニー・トーピンがアメリカのネイティヴ・アメリカンの保護地区を訪れた時にインスピレーションを受けて書かれたもので、のちにエルトン・ジョンのライヴでの重要なレパートリーになった曲だった。エルトン・ジョン自身は、この曲はみんなが思っているようなプロテスト・ソングではなくて、ひとつの物語だと述べている。
 曲も彼のアカペラから始まって、ピアノやドラムス、ストリングスなど徐々に楽器が増えていくが、一旦ブレイクして、ピアノの弾き語りに移っていく。最後はまた壮大なエンディングを迎えるのだが、その辺の緩急をつけた構成が見事で、アメリカで行われるライヴではスタンディング・オベーションで迎えられるという。確かに、胸を締め付けられそうなドラマティックなバラードだと思う。

 逆に、エルトン・ジョンのピアノの弾き語りだけで歌われるのが、最後の曲の"Goodbye"で、この曲は1分48秒しかなかった。他の曲と比べてあまりにも短い曲なので、うっかりして聞き流すことが度々あった。71la5budpl__sl1358_  とにかく、この2枚のアルバムは、のちの70年代中盤から後半のアルバムに比べれば、かなり地味な印象を与えていて、評価自体もそんなに高くはない。ただ、アメリカではチャート・アクションもよく、セールス的にもよい結果を出していた。当時のアメリカでは、シンガー・ソングライター・ブームだったから、そういう時代の流れというか、後押しもあったのではないだろうか。
 とにかく、アメリカでの好調なセールスに気をよくしたエルトン・ジョンは、このアルバムに起用したミュージシャンのデイヴィー・ジョンストンやディー・マーレイ、ナイジェル・オルソン、レイ・クーパーを中心にバンドとして活動を開始し、さらに高みを極めていくことになるのだが、その話はまた次の機会に譲ることにしようと思う。次の機会があればのお話だが…53b9fe5a6ba16bd7a96cf9e698521923
 今まで見てきたように、エルトン・ジョンのような偉大なスーパースターでも地味なアルバムを残している。どんな人にも下積みという時期があるのだろうし、こういう経験がやがては大きく花開く土台になるのだろう。何事も地道に取組むことが、遠回りに見えて着実な成功への階段を歩むことにつながる好事例なのかもしれない。

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2019年4月29日 (月)

初期のエルトン・ジョン(1)

 最近になって、なぜかエルトン・ジョンを聞きたくなり、デビュー・アルバムとセカンド・アルバムを聞き直してみた。なぜだかわからないが、無性に聞きたくなったのである。そして思ったことは、初期のエルトン・ジョンは、シンガー・ソングライターであり、叙情的な曲が目立っていたということだった。

 エルトン・ジョンについては、10年以上も前にこのブログで記しているので、詳しいことは省きたいが、まさにイギリスが誇る至宝というか、ザ・ビートルズやクィーンと並ぶほどの人気を誇るミュージシャンである。1998年には音楽業界と英国に対する貢献が認められて、“ナイト”の称号をあたえられている。つまり、“サー・エルトン・ジョン”なのである。

 “エルトン・ジョン”とは芸名で、本名はレジナルド・ケネス・ドワイトという。父親は空軍の軍楽隊でトランペットを担当していた。エルトン・ジョンの幼い時から父親と母親の折り合いが悪くて、父親の前では自分は憂鬱な存在だったと認めている。また彼は自伝の中でこうも述べている。『両親が別れるまで何もできなかった。サッカーをすることも父親のバラの木を折るといけないからね』

 エルトン・ジョンが10歳の時に、両親は離婚し、彼は母親のもとに引き取られた。もともとエルトン・ジョンはクラシック音楽を学んでいたのだが、母親は彼を励ますためにエルヴィス・プレスリーの"Heartbreak Hotel"のレコードを買って渡したところ、彼はこれに夢中になってしまい、結局、クラシックのピアノ演奏者の夢を捨てて、ポップ・ミュージックの道を歩み始めたのである。

 14歳の時にいとことバンドを結成し、音楽活動を始めた。このバンドはやがて“ブルーソロジー”と名前を変え、アメリカから来たR&Bのミュージシャン、ドリス・トロイやパティ・ラベルなどのバック・バンドとしてイギリス国内のみならず、ヨーロッパ各国で演奏活動を行っていった。アメリカからのミュージシャンではないが、一緒に演奏活動を行った中にはイギリスの伝説的ブルーズマンのロング・ジョン・ボルドリーもいた。

 1967年に、当時のスポンサー会社だったリバティ・レコードの役員から、バーニー・トーピンという詩人を紹介された。エルトン・ジョンはこの申し出を受けて、バーニーと一緒に楽曲作りやデモ・テープの制作を決めたのである。結局、彼はブルーソロジーと離れて、新しい仕事に合うように名前も変えた。ブルーソロジーのバンドメイトだったエルトン・ディーンと、一緒に活動をしたことのあるロング・ジョン・ボルドリーの両名からそれぞれ取って、“エルトン・ジョン”と名乗ることにした。ここから徐々に彼の運命が動いていったのだった。Eltonjohn19712chriswaltere153435363
 1968年の3月には"I've Been Loving You"という曲をシングルで発表したが、ヒットしなかった。これはオーティス・レディングの曲とは同名異曲で、名義上はエルトン・ジョンとバーニー・トーピンだったが、実際はエルトン・ジョンひとりで作った曲だった。また、翌年の1月には"Lady Samantha"というピアノよりもギターが目立つ曲も発表したが、これもまた不発だった。しかし、この間に彼ら2人は、デビュー・アルバムに向けて着々と制作を進めていたようだ。

 1969年にデビュー作である「エンプティ・スカイ」が発表された。1曲目から8分を超えるアルバム・タイトル曲が収められていて、かなりの力作であることが伺えた。この曲にはフルートやハモンド・オルガン、ハーモニカ、コンガなど多彩な楽器が使用されていて、曲自体も複雑な構成を持っており、一筋縄では掴めないエルトン・ジョンの才能が詰め込まれている。ただそれが曲として昇華されておらず、アイデアだけで勝負しましたという感じがしてならない。81yinzpzasl__sl1400_
 この傾向はこのアルバム全体を貫いているようで、続く"Val-Hala"やアルバム屈指の名曲"Skyline Pigeon"ではハープシコードも使用されていて、今となってはかなり珍しい印象を与えてくれたし、友人のカレブ・クレイのギターがフィーチャーされた"Western Ford Gateway"はアメリカに対する憧憬が聞こえてきそうだった。

 他にもボブ・ディランの歌い方をまねた"Hymn 2000"ではフルートが強調されていたし、6曲目の"Sails"でもカレブのハードなギターを聞くことができた。しかし、一番不思議な印象を持つのは、9曲目、つまり最後の"Gulliver/It's Hay Chewed/Reprise"だろう。

 この曲はタイトル通り3部作のメドレーで、全体で6分58秒もある。最初はミディアムテンポの叙情的な曲なのだが、徐々に盛り上がっていき、"It's Hay Chewed"ではジャージーなピアノとサックスにエレクトリック・ギターが割り込むような形になり、続いてサックス・ソロとギター・ソロが交互に続く、そしてアルバムの各曲が入り混じった"Reprise"で幕を閉じる。何となく、ザ・ビートルズの"Hey Jude"の形式を真似て、最後に"Reprise"をくっ付けたような感じだ。最初のアルバムということで奇をてらって印象的なものにしようとしたのだろうか。989652
 このアルバムについて、エルトン・ジョンは、次のように述べていた。『アルバムのタイトル曲を作り終えた時は、興奮して参ってしまった。生まれてから聞いた曲の中で最高だと思った』また、『当時はどんな音楽スタイルで行くのか定まっていなかったよ、たぶんレナード・コーエンのように聞こえるだろう』というわけで、だからというわけではないだろうがアルバム冒頭の"Empty Sky"や最後の"Gulliver/It's Hay Chewed/Reprise"などの長尺の曲が収められていたのだろう。

 翌年、セカンド・アルバム「エルトン・ジョン」が発表され、このアルバムは全英アルバム・チャートで5位、全米では4位を記録し、まさしく彼の出世作になった。アメリカではゴールド・ディスクを獲得し、翌年のグラミー賞の“アルバム・オブ・ジ・イヤー”にもノミネートされたのである。この成功の裏にはプロデューサーであるガス・ダッジョンの功績が大きいだろう。61menybdkrl__sl1059_
 元々は、デビュー・アルバムを手掛けたスティーヴ・ブラウンが再びプロデュースするつもりだったのだが、このアルバムに収められている"Your Song"を聞いたときに、これは間違いなくヒットする曲だ、それなら自分よりはもっと経験豊富なプロデューサーに任せた方がいいだろうと判断して、ジョージ・マーティンに声をかけたのが始まりだった。

 ジョージ・マーティンは曲のアレンジも任せてくれるならやってもいいと答えたが、アレンジはポール・バックマスターが手掛けることになっていたので、結局、この案は消えてしまった。次に、スティーヴはポール・バックマスターに誰がよいか尋ねたところ、ガス・ダッジョンという返事が戻ってきたのだ。当時のガス・ダッジョンは飛ぶ鳥を落とすほど影響力があり、デヴィッド・ボウイからストローブス、テン・イヤーズ・アフター、ジョン・メイオールズ・ブルーズブレイカーズなど大物ミュージシャンやバンドを手掛けるほどだった。Caribouranch2
 もうひとり名前をあげるなら、やはりストリングスのアレンジを手掛けたポール・バックマスターだろう。アルバム全編にわたってストリングスが施されており、またこのアレンジが絶妙なのだった。そして8曲目の"The Greatest Discovery"では、彼自身もチェロを演奏していた。ガス・ダッジョンとポール・バックマスターは仲が良かったらしく、ガスだからこそここまで大胆にポールにストリングス・アレンジメントを任せることができたのだろう。ジョージ・マーティンだったら、果たしてここまでできたかどうか疑問である。

 このアルバムに関しては、とにかくどの曲もお勧めである。"Your Song"は当然のことながら、ハープシコードが哀愁をかき立てる"I Need You to Turn to"、レオン・ラッセルの影響が濃い"Take Me to The Pilot"、ミック・ジャガーの歌い方を真似た"No Shoestrings on Louise"、ゴスペルのような"Border Song"など、捨て曲などまるでないのだ。

 ちなみに、"First Episode at Hienton"は、バーニー・トーピンの生まれ育った故郷のことを歌ったものであり、続く"Sixty Years On"とともに、ポールのストリングスが効果的なバラードになっている。
 また、"The Greatest Discovery"は弟の誕生を祝福した曲で、"The Cage"は、比較的おとなしめの曲が続く後半では、ブラスやパーカッションがフィーチャーされていて、エルトン・ジョンのロック魂を感じさせられた。最後の曲"The King Must Die"では、リリカルなエルトン・ジョンのピアノ演奏を楽しむことができるし、壮大なオーケストレーションも施されていて、アルバムのエンディングにふさわしい曲でもある。

 とにかく、このセカンド・アルバムはデビュー・アルバムとは違って、プロダクション・チームがしっかりとエルトン・ジョンの曲をバックアップし、期待以上の成果をもたらしている。その理由はいろいろ挙げられるだろうが、音楽的にはエルトン・ジョンの志向するゴスペルやソウル・ミュージックが根底にあり、それをもとにしたメロディアスな楽曲に秀逸なアレンジが加わったからだろう。
 とにかく、ここから彼らは大きく世界に羽ばたいていったのである。エルトン・ジョンがまだ若くて、痩せていて、髪の毛があったころの話である。

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2018年12月17日 (月)

ザ・スリルズ

 いよいよ今年も残り2週間余りになってきた。時が経つのは早いものである。それで年末ということで、今年1年間を振り返ろうと思った。
 今年の夏に、このブログの中で90年代から2000年代に活躍したマイナーなブリティッシュ・バンドを書き綴ってきた。だいたい10個くらいのバンドだったと思うけれど、その中にもう一つバンドを書き忘れていた。

 それで今回は、そのバンドについて紹介してみたい。アイルランドのダブリン出身の5人組、ザ・スリルズのことである。
 このバンドは、マイナーには違いないけれど、日本にも来日公演しているので、決して無名ではない。このブログを読んでいる人はごくわずかだと思うけれど、そんなわずかな人の中にもこのバンドのことを知っている人は、いると思っている。

 彼らはダブリン郊外の小さな港街のブラック・ロックというところで結成された。バンド・メンバーは5人で、ボーカルのコナー・ディージーとギターのダニエル・ライアンが幼馴染だったことから、2人で音楽活動を始め、徐々にドラマーやベーシストが集まってきた。
コナー・ディージー(ボーカル)
ダニエル・ライアン(ギター&ボーカル)
ベン・キャリガン(ドラムス)
ケヴィン・ホラン(キーボード)
パドリック・マクマーン(ベース・ギター)P01bqdm8
 彼らの音楽性は、ズバリ70年代初期のウェストコースト・サウンドである。もう少し正確に言うと、60年代のポップなテイストを備えたウェストコースト・サウンドというべきだろう。
 コナーとダニエルの2人は、子どもの頃からサイモン&ガーファンクルやエルトン・ジョン、ロネッツ、ゾンビーズなどを聞いて育ったそうで、自分たち自身もそういう音楽をやってみたいと思っていたそうだ。

 だから、基本はポップなロック・サウンドだった。やがてはニール・ヤングやザ・バーズなどにも影響を受けていった。
 活動開始時期は、はっきりとはわからないが、90年代の半ば以降だと思われる。その時はまだアルバム・デビューする前だったから、アマチュア・バンドでの活動だった。

 転機が訪れるのは1999年だった。この時彼らはアメリカ西海岸のサン・ディエゴに約4ヶ月間滞在した。理由は、バンド内がギクシャクしていて解散状態だったのを回避しようとしたからだという。
 幼い頃からあこがれ続けていたアメリカ西海岸の音楽や文化をじかに触れようと思って、どうせ解散するなら最後にみんなで体験しようと思ったらしい。

 この時彼らは、それまであまり耳にしていなかったマーヴィン・ゲイやビーチ・ボーイズ、バート・バカラック、フィル・スペクターなどを知り、愛聴するようになった。そして、音楽観が変わっていったという。
 コナー・ディージーは、その時の様子をこう述べていた。「あの時アメリカに行ってなければ、僕たちは解散してしまっていただろう。あの時の経験がみんなをもう一度奮い立たせてくれて、僕たちの音楽を見つめ直すことができたんだ」

 それで、彼らはダブリンに戻り、バンド名を“ザ・スリルズ”として音楽活動を再開した。バンド名は、マイケル・ジャクソンのアルバム「スリラー」とフィル・スペクターがプロデュースしていたガールズ・グループ名をヒントにしてできたと言われている。
 彼らは、その後約2年間アイルランド中をライヴして回り、ついに2001年にイギリスのヴァージン・レコードと契約を結ぶことができたのである。

 彼らはアマチュア時代から有名だったようで、元スミスのモリッシーも自分の公演のオープニング・アクトに彼らを指名しているし、デビュー後も当時オアシスのノエル・ギャラガーやコールドプレイのクリス・マーティンから絶賛されていた。

 そんな彼らが発表したのが、2003年の「ソー・マッチ・フォー・ザ・シティ」だった。まさに彼らの魅力満載のアルバムで、ちょっとロックっぽくなった“ウォール・オブ・サウンド”といった感じだった。
 非常に聞きやすくてポップだし、ところどころサイケがかったところもある。その辺のバランスが見事だと思う。41gvjk778fl
 1曲目の"Santa Cruz"はザ・バーズのようなキラキラとしたポップなメロディーにハーモニカとバンジョー、短いコーラスが絡み合って、自分たちの音楽性を忠実に反映している。この曲は2002年にシングルとして発表したときは、さっぱり売れなかったが、翌年に再発したときは、英国シングル・チャートで33位まで上昇している。

 "Deckchair and Cigarettes"はゆったりとした曲展開やバックの厚いキーボード・サウンドが、アメリカのサイケデリック・バンドのマーキュリー・レヴに似ている。決して陽の当たる西海岸のポップ・サウンドだけを再現するようなバンドではないということがわかるだろう。

 このアルバムの中で大ヒットした曲は"One Horse Town"で、まさにアップテンポでメロディアスなアルペジオや要所要所で的を得た美しいコーラスなどが耳をとらえて離さない。彼らの代表作だろう。
 逆に、"Old Friends, New Lovers"は、ストリングスも使用されていて、日曜日の午後にまどろむときに相応しい美しいバラードだ。フィル・スペクターが聞いたらきっと喜ぶに違いないだろう。

 こういうポップ感満載の音楽が売れないわけがない。ということで、このアルバムは全英チャートの3位を記録し、ノルウェーなどの北欧でも商業的に成功した。
 母国アイルランドでは、当然のこと1位を記録し、トップ75位の中に61週間も留まっていた。
 この時日本にも来日して、単独公演を行ったり、フジ・ロック・フェスティバルに参加したりしている。

 この成功に気をよくした彼らは、翌年の2004年にセカンド・アルバム「レッツ・ボトル・ボヘミア」を発表した。前作がどちらかというとドリーミーでポップな楽曲が中心だったが、このアルバムでは前作以上にロック色が強まっていた。61vhdlw59sl
 それは1曲目の"Tell Me Something I Don't Know"の冒頭のギター・カッティングでもわかると思うし、続く"Whatever Happened To Corey Haim?"のバート・バカラックmeetsバッファロー・スプリングスフィールドのような緩急つけたアップテンポなストリング・サウンドが証明している。

 デビュー・アルバム発表後に数多くのライヴを経験し、さらにストーンズやボブ・ディランのオープニング・アクトを務めたことなどもよい効果を及ぼしたのだろう。個人的には、このセカンドは大好きだった。
 チャート的にも、アイルランドで1位は当然だとしても、イギリスでもアルバム・チャートでは最高位9位を記録したし、ヨーロッパの国々でもチャートに顔を出している。

 やはり成功することは大事なことのようで、このアルバムではアメリカ人ミュージシャンのヴァン・ダイク・パークスが3曲目の"Faded Beauty Queens"ではアコーディオンを、10曲目の"The Irish Keep Gate-Crashing"では、ストリングスをアレンジし、指揮までとっている。  
 また、当時のR.E.M.のギタリストだったピーター・バックも"Faded Beauty Queens"ではマンドリンを、9曲目の"The Curse of Comfort"ではギターで貢献していた。

 この年はまた、“バンド・エイド・2004”に参加したり、“ライヴ8”のエディンバラ公演で楽曲を披露したりと、彼らの人気もピークに達していたようだった。この時の模様はDVDでも収録されている。

 この後彼らは、休暇を取っている。デビュー以来約3年間、ひたむきに走り続けたせいだろう。ただし、完全な休みではなくて、次作に向けてのアイデアを練ることも忘れなかった。この間に多くの曲が出来ては捨てられていった。一説には、約30曲が録音されたが、最終的にアルバムに残ったのは11曲だったと言われている。

 その11曲を収録したアルバムが「ティーンエイジャー」で、前作から約3年後の2007年に発表された。61sdoroiuhl
 今までもよりもアイリッシュ風味が強調されていて、冒頭の"The Midnight Choir"などは、21世紀の"Maggie May"といってもおかしくないほどの上質なトラッド・ソングだった。

 アルバムの最初から4曲目までは、マンドリンやアコースティック・ギターがフィーチャーされていて、ブリティッシュ・トラッドが好きな人にはたまらないと思う。
 逆に、アメリカ西海岸風な爽やかなハーモニーやポップネスは消えていて、フィル・スペクターやバート・バカラックはどこかに隠れてしまったようだった。

 また、5曲目の"I Came All This Way"などは、まさにザ・バーズのような12ストリングス・ギター・カッティングが印象的で、そういう面ではまだアメリカ西海岸テイストは失われてはいないようだった。
 それに、ほとんどの曲がアップテンポかミディアム・テンポの曲で、時間にして約40分55秒、潔さというか歯切れがよいというか、ノンストップで畳み掛けるかのように彼らの魅力が迫ってくるのである。

 このアルバムの中でスロー・バラードといっていいのが、アルバム・タイトルにもなっている9曲目の"Teenager"とその次の"Should've Known Better"だろう。前作にはティーンエイジャー特有の倦怠感というか物憂げな雰囲気が上手に表現されている。
 "Should've Known Better"にも"Teenager"で使用されたスライド・ギターが効果的に使用されている。この2曲はまるでアルバムの中の双子のようだった。驚くほど雰囲気がよく似ている。

 そして楽曲のレベルに関しては、非常に高い。彼らの3枚のアルバムの中で一番充実しているのがこのアルバムではないだろうか。やはり約3年間のインターバルは必要だったのである。
 このアルバムは、カナダのヴァンクーヴァーにあるブライアン・アダムスが所有するスタジオで録音された。ゲストに前作にも参加したピーター・バックと同じR.E.M.の当時のギタリストだったスコット・マッコウィーが、アルバムの所々でギターを弾いている。

 ただ残念ながら、力が込められて制作されたアルバムにもかかわらず、商業的には失敗した。英国アルバム・チャートでは48位、母国アイルランドでも24位と振るわなかったのだ。その結果、ヴァージンEMIから契約を解除され、彼らは活動休止に陥った。2004年当時と比べれば、まさに天と地の違いになってしまったのである。

 その後、彼らは個人活動を開始して、ドラムス担当だったベンはソロ・アルバムまで発表している。
 彼らは解散宣言はしていないが、2011年にはベスト・アルバムも発表されているし、もう10年以上も活動を休止しているから実質的には解散しているといってもいいだろう。100_emi5099908497352
 ネット上では彼らの活動休止を惜しむ声は多いようだし、まだまだ忘れられていないようだ。確かに以前のような爆発的な人気は望めないだろうが、このままポピュラー・ミュージック史の中に消えていくのはもったいないバンドだと思っている。

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2018年8月 6日 (月)

ザ・セイルズ

 このバンドも非常に気になるんだけれども、実態がよくわからない。いろいろと調べたにもかかわらず、よくわからい。このネット全盛時代にヒットしないのだから、もはや過去の遺物と言っていいのかもしれない。

 このバンドというのは正確に言うと、イギリスのザ・セイルズというデュオ・グループのことだ。それに、過去の遺物といっても、結成されたのは2003年の終わりごろだし、活動を始めたのは翌年だった。そしてアルバムを発表したのは2006年だ。そんなに昔の話ではない。

 ザ・セイルズは、クーラ・シャイカーやトラヴィス、オーシャン・カラー・シーンなどと同時期に活動をしていた。彼らのツアーに同行してオープニング・アクトを務めたりしていた。それでも記録に残っていないというのは、要するに、売れなかったからだろう。

 アルバム「ドラム・ロール・プリーズ」の国内盤の解説によると、中心人物はマイケル・ガリアーノという人で、アルバムの楽曲すべてとプロデュースを行っている。曲もほぼ一人で歌っているのだが、なぜかサラ・キーリーという女性と知り合って、このバンドを結成したようだ。49181172215350450_600x600r
 サラ・キーリーという人とどういう関係かはわからないが、一般的には夫婦デュオと言われている。解説書にはそこまでは書かれていなくて、単なる音楽的なパートナーと書かれているだけだった。
 自分には関係ないのでどうでもいいのだが、国内盤のボーナス・トラックにはサラが歌う曲"Best Day"が収録されていて、バックのストリングスの方が目立っていた。そんなに上手という感じはしなかった。

 マイケルは、エピックというバンドのリーダーで2枚のスタジオ・アルバムを発表している。その後バンド活動の限界を感じたマイケルは、バンドを解散させ、ソロ活動を始めたのである。
 そのエピックというバンドの音楽性は、ポップ・ソングのようなロック・ミュージックのようなあまりはっきりしなかったようで、だから日本でも知名度がなかった。この時に、少しでも売れていたなら、もっと彼の経歴が分かったのだろうが、今となっては是非もないことである。

 ただ元々、彼の音楽観の基本は、ザ・ビートルズやザ・バーズのような60'sのポップス性を備えていたようで、ザ・ビートルズのカバー・バンドだった"The Battles"ではジョン・レノン役を演じて歌っていた。このカバー・バンドの"The Battles"は、2003年のフジ・ロック・フェスティバルにも出演していて、その時集ってきたファンを魅了したようである。

 これは定かではないのだが、マイケル・ガリアーノで検索してみると、“Let It Be”というタイトルで、世界中を演奏している様子が出てくる。今年はアメリカからアジアを公演して回っているようで、6月には日本にも公演に訪れていた。
 ひょっとしたら、この人がマイケル・ガリアーノなのだろうか。決定的な証拠がないので、よくわからないのである。Michaelgalianoletpremieremunichhwqn
 とにかく、マイケルとサラはイギリス・デビューする前に、アメリカで「ザ・セイルズ」というアルバムを発表している。これは、エピック時代のことを知っていたアメリカのニューヨークにあるレインボウ・クォーツ・レコーズのスタッフがマイケルの音楽性を気に入っていて、アメリカでのアルバム発表を手伝ってくれたからである。

 ただ、彼らはアメリカ国内のフェスティバル出演や東海岸ツアーを行ったものの、急いでアルバムを発表したせいか、楽曲の内容には満足していなかったようで、マイケルとサラは、イギリスに戻って納得のいくアルバム作りを行った。それが2006年に発表された「ドラム・ロール・プリーズ」だった。

 このアルバムは、まさに初期のザ・ビートルズや12弦のアコースティック・ギターの響きが美しいザ・バーズのサウンドが再現されたような感じのアルバムで、幾重にも重ねられた音の厚みは、まさに“ウォール・オブ・サウンド”のような印象を与えてくれた。

 それにアルバム全体の時間も37分少々しかない。21世紀の今の時代に、1枚のCDの時間が40分を切るというのは、あまり考えられない。このCDを購入した消費者は、費用対効果を考えた場合には、元を取れないと思ったのではないだろうか。

 しかし、実際に音を聞けば、購入者は納得すると思うのである。特に、フィル・スペクターの音楽やザ・ビートルズ、ザ・バーズ、ティーンエイジ・ファンクラブなどが好きな人にとっては、もうこれは感涙もののアルバムになるだろう。買って外れなし、いや、マストバイ・アイテムになるのは間違いないだろう。

 実際、自分もこのアルバムを買って聞いてみて、ビックリした思い出がある。まさか21世紀のこの時代に、ザ・バーズやザ・ビートルズが復活するとは思っていなかったからだ。
 とにかく、どこを切っても60年代風の“金太郎飴状態”なのである。だから、この音楽を聞いた自分よりは上の世代もまた、きっと随喜の涙を流したに違いない。O0471047714050267346
 まさにポップ・ソングの典型的な曲が"Best Day"で、ザ・バーズのアコースティック・ギターmeetsフィル・スペクターで、フィルがザ・バーズの楽曲をプロデュースしたらこうなりましたよという感じだ。2~3回聞いただけで、出だしやさびの部分は覚えてしまう素晴らしいメロディラインも備えている。
 "See Myself"もまた、キラキラとしたギターのアルペジオがはじけているし、64年のジョン・レノンだったらこういう曲を作るかもしれないという"Chocolate"も一聴の価値がある曲だ。

 個人的には、草原を駆け抜ける爽やかな風のような"Let's Get Started"は何度聞いても飽きないし、フィル・スペクター風の"Yesterday And Today Part1"、永遠のフォーレヴァー・グリーンといってもいいような"Peter Shilton"などが大好きで、とにかく何度でも何回でも聞き続けていたい曲で満ち満ちている。

 アルバムの後半には"Pleasure Bus"や"Liar"、"Dogs"などのギターが中心となった曲が続く。決してハードにはならず、だからといってポップ過ぎてもなくて、ほどよいエッジとマイルド感の調和が素晴らしい。60年代のマージービートから続くイギリスの伝統的なポップ感覚が息づいている。

 11曲目には"Yesterday And Today Part2"が置かれている。この曲は5曲目にあった同名曲"Part1"の続編なのだが、"Part1"と違ってテンポが速く、曲自体も1分26秒と極めて短い。アルバム構成としてもよく考えられているようだ。

 これら以外にも、バックのキーボードがE.L.O.風にアレンジされた"Sorry"や、抑えられた最初のヴァースから一気に盛り上がる曲がユニークな"Beautiful Day"など、まだまだ聞くべきところは多い。"Beautiful Day"などは、何となく70年代初期のジョージ・ハリソン風で興味深い。

 とにかく、マイケル・ガリアーノのこのユニットは、この1枚のアルバムで終わらせるにはもったいない。しかし、結果的には続編が作られなかったということは、マイケル自身がこのユニットをあきらめたということだろう。
 商業的な期待に応えられなかったのか、自分たちの音楽に満足できなかったのか、はたまたサラとの関係が悪化してパートナーシップを解消したのか、その理由はわからない。

 個人的には大好きなバンドというかデュオだったし、アルバム自体も優れていると思っている。現時点でのマイケル・ガリアーノの消息がはっきりしないように、このアルバムもまたひっそりとポピュラー・ミュージックの歴史の流れの中に消えていくのだろう。

 とりあえず、今回のザ・セイルズをもって、90年代から2000年代に登場したマイナーなブリティッシュ・バンドの特集を終わりたいと思う。

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2018年7月30日 (月)

ジェイムス・モリソン

 最初、彼の名前を聞いたときに、ジム・モリソンと聞き間違えてしまって、同姓同名の人が現れたのかと思ってしまった。ジムではなくて、ジェイムスだった。

 彼は1984年の8月生まれなので、もうすぐ34歳になる。まだまだ十分に若いし、可能性も広がっている。ただ、デビュー時の人気がすごく高くて、いまだにその時の様子が忘れられないし、本人もそれを超えるために頑張っているのではないかと思ってしまう。

 遠く離れた極東の日本では、彼に関するニュースは少なくて、もちろん今でも活動を続けているのだけれども、なんだか半分引退したような扱いをされている気がしてならない。_86499535_c863421e38cf4240a9f22e900
 また、彼よりも少し早くデビューしたシンガー・ソングライターにジェイムス・ブラントという人がいて、この人とよく間違われていたこともあった。"You're Beautiful"をヒットさせたミュージシャンだ。どちらも才能豊かなミュージシャンなので、間違われるのかもしれない。

 彼がデビューした直後には、こんな紹介文が載せられていた。「破格の才能が、ここに登場した。20年後、いや100年後にこのジェイムス・モリソンがどう語られているだろうかを想像すると今から体が震えてくるし、彼にとってのはじめての一歩であるこのデビュー作『ジェイムス・モリソン』を同時代に体験できることを、本当にうれしく感じる。これが決して大げさな話でないことは、このアルバムを聴いたあなたならば、きっとわかってくれるのではないだろうか」71crjbgmpel__sl1122_
 かなり激賞している文だと思うが、確かにシンガー・ソングライターとしては、予想以上に才能豊かだとは思った。ただ、ボブ・ディランやエルトン・ジョンのような感じではなくて、ソングライターよりもシンガーの方が似合っているような気がした。

 彼自身はこう述べている。「子どもの頃はソウル・ミュージックをたくさん聞いていたんだ。スティーヴィー・ワンダーやアル・グリーン、オーティス・レディング、キャット・スティーヴンス、ヴァン・モリソンみたいな声の良い人たちを。
 声を通して感情を表現する人たちが好きだった。だから自分で歌うことを習得するのは、僕にとって当たり前のことだったんだよ」

 だから、自分は彼のことを自作自演ができるシンガーだと思っている。もちろん、そういう人をシンガー・ソングライターと呼ぶのはわかっているが、ソングライターよりもシンガーの方に重点を置いているミュージシャンだと認識している。

 それで、彼のデビュー・アルバムの「ジェイムス・モリソン」には、曲の良さを引き立てようとするアレンジが目立っていて、それがさらに彼の声の良さを際立たせているのである。
 すべての曲では、もちろん彼の名前はクレジットされているものの、他の人の名前も同時に記載されていて、チームとして曲を発表していたことが分かる。だから、曲の骨格は彼が手掛けているが、それに血肉をつけ膨らませていくために、他の人の手を借りていたのだろう。

 ジェイムス・モリソンは、1984年にイギリス中部のラグビーというところで生まれた。父親はフリーターのようで、仕事をしたりしなかったりの生活を送っていて、一家は主に母親の稼ぎに頼っていた。

 彼は子どもの頃に100日咳にかかり、ほとんど死にかけていたと言われていて、医者はこの子がこれから生き残るであろう生存率は、30%ぐらいしかないと言ったらしい。今の彼の独特の声質は、この病気のせいだとも言われている。本当かどうかは不明だが、確かに彼の声はハスキーであり、アフリカ系アメリカ人のような雰囲気を漂わせている。

 父親も母親も音楽好きだったようで、父親の方はフォークやカントリーを、母親はソウル・ミュージックを聞いていた。
 やがて父親は家を出て、母親はパブなどで歌うようになった。だから3人兄弟の真ん中だったジェイムスは、10歳頃から母親の代わりに家事全般を行うようになっていった。いわゆる苦労人なのである。

 13歳の時に叔父からアコースティック・ギターを渡され、簡単なコードやブルーズのリフなどを教えてもらった。そして14歳になると、ストリート・ミュージシャンとして活動するようになっていた。若い頃に苦労すると、生きる力が必然的に見についてくるようだ。

 15歳頃からバンド活動を行い始め、ソウル・ミュージックを筆頭に、様々なミュージシャンの持ち歌や、もちろん自分で書いた曲も歌っていた。
 そのあと、ホテルの客室係や室内装飾業などに従事していたようだが、アイリッシュ・バーで知り合った人の手を借りてデモ・テープを録音し、それが紆余曲折を経て、レコード会社の手に渡り、最終的にデビューに至った。

 彼はまたこうも述べている。「オアシスは良いバンドだと思うが、僕の目から見ればビートルズの二番煎じにしか見えない。だったら新しいものより、僕は古い方を聴きたい。いろんな人に影響を与えたオリジナルの方から自分のヴァージョンを創り出したい。二番煎じから三番煎じを作るんじゃなくてね」

 彼のデビュー・アルバムは、2006年7月に発表された。全英アルバム・チャートでは初登場1位になり、2週間そこに留まった。アイルランドやオランダでもチャートの上位にまで上がっていて、イギリスを含むヨーロッパではヒット作品になった。(ただし、アメリカでは24位に留まっている)

 全13曲(国内盤は14曲)のうち、5曲がシングル・カットされ、特に、ファースト・シングル曲の"You Give Me Something"とセカンド・シングルの"Wonderful World"は売れた。
 その他のシングル曲は、"The Pieces Don't Fit Anymore"、"Undiscovered"、"One Last Chance"の3曲で、面白いことにこの5曲は、アルバムの前半の2曲目から6曲目に配置されている曲だった。71danxgdtcl__sl1250_
 個人的には、デビュー・アルバムにしては手の込んだアレンジとオーヴァープロデュースが目立っているような気がした。ほとんどの曲にストリングスやホーン・セクションが使用されていて、それはそれで確かに効果的だとは思うものの、もう少し抑えてもよかったような気がする。

 逆に、アルバム最後の"Better Man"や国内盤ボーナス・トラックの"My Uprising"の方がしっくりと心に染み込んでくる。新人なので、もう少しアコースティック色を活かして欲しかった。この辺はシンガー・ソングライターというよりも、ソウル・シンガーのアルバムといった感じがする。たぶん、本人もそれを望んだのだろう。

 ジェイムス・モリソンは、世の中の辛い経験をした人たちや、哀しみを味わっている人たちに届くように曲を書いて歌っていきたいと語っていたが、悲しみを表現しながらも、どこかポジティヴな彼の気持ちが伝わってきそうなアルバムだった。

 このアルバムのおかげで、彼はブリット・アワードで“ベスト男性ボーカル賞”を受賞した。その後も2008年、2011年、2015年とスタジオ・アルバムを発表していて、特に3枚目の「ジ・アウェイキング」は、再び全英アルバム・チャートの首位に輝いている。

 最初にも書いたが、彼のことについては情報が少なくて、日本では徐々に知名度を失っているような気がしてならない。今回彼のことを取り上げたのは、彼が決して消えてしまったのではなく、むしろまだ現役で頑張っていることを紹介したかったからである。

 今年くらいはニュー・アルバムが届きそうな気がするのだが、もしもまだ待たされるとなると、ますます彼のことは忘れられていきそうだ。何とか頑張ってほしいと願っている。

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2018年7月23日 (月)

ザ・グリム・ノーザン・ソーシャル

 さて、90年代から2000年代にかけて活躍した?というよりも話題になった、もしくは存在していたブリティッシュ・ロック(ポップ)・バンドの第6回は、スコットランドのグラスゴー出身のザ・グリム・ノーザン・ソーシャルが登場する。

 とにかくこのバンドについては、資料が極めて少ないので何とも言えない。どこまで書けるかわからないが何とか努力してみることにした。Maxresdefault
 はっきり言って、このバンドを知っている人は、少ないような気がするのだがどうだろうか。彼らの唯一のアルバムと思われる「グリム・ノーザン・ソーシャル」は2003年に発表された。当時のレコード会社であるテイチク・エンタテインメントによるキャッチ・コピーによると、“コステロもその才能を認めた、グラスゴー発、グリム・ノーザン・ソーシャル、デビュー‼ ソウルフルで華やかなボーカル、そしてプレイフルな旋律は伝説的な60年代を彷彿させる。”とあった。

 確かにこのバンドは、エルヴィス・コステロや同郷のコズミック・ラフ・ライダーズなどのミュージシャンやバンドのオープニング・アクトを務めていたから、その才能は周りの誰もが認めていたのだろう。

 それにこのザ・グリム・ノーザン・ソーシャルというバンドは、はっきりいってボーカル&ギターのユアン・マクファーレンのソロ・ユニットといってもいいだろう、そんな気がする。
 たとえば、すべての楽曲はユアンが手掛けているし、バンド・メンバーもユアンの募集によって集まったからだ。Thegrimnorthernsocialglastobandfina
 ユアンは若い頃からミュージシャンを志していて、ロンドンでは“ストーンホース”というバンドを結成して活動していたらしい。
 結局、そのバンドの活動に見切りをつけてグラスゴーに戻ったユアンは、友人のキーボード奏者であるアンディ・コーワンと連絡を取りながら曲を書きためていった。

 そして、残りのベース奏者やドラマー、リード・ギタリストを新聞広告で募集してバンドを結成した。2000年頃のようだ。
 彼らは地元のパブなどでライヴ活動を続けながら、様々なフェスにも参加していた。そしてスコットランドの音楽フェスティバル“In the City 2001”では「最優秀未契約バンド」に選出されている。

 そして翌年には、ワン・リトル・インディアンとアルバム契約を結ぶことができ、プロのバンドとして活動を開始した。
 ユアンはこう述べている。「僕たちはポップ・バンドだけど、いわゆる60年代のポップ・バンドに近いんだ。決して商業主義的なポップ・バンドじゃないっていう。例えばビートルズやビーチボーイズ、U2といったバンドに近いんだ。U2はロック・バンドだけど、それと同時にポップ・バンドでもあるよね。だから、僕たちのアルバムが当てはまるのは、そういうジャンルだと思う」

 ユアンが尊敬するミュージシャンは、ジョン・レノンとデヴィッド・ボウイだそうで、そういえばこのアルバムにも、どことなくそんな雰囲気が漂っているような気がする。
 彼の歌声は、どことなくジョン・ライドンにも似ているし、曲によってはデヴィッド・ボウイにも似ている。また、そう思わせるような曲調も備えているのだ。

 2003年にデビュー・アルバム「グリム・ノーザン・ソーシャル」を発表したのだが、11曲と2曲のヒドゥン・トラックが含まれていた。51e6wqe7mdl
 冒頭の"Urban Pressure"は、80年代のようなチープなシンセとテンポのよいリズムをバックにジョン・ライドンがクィーン&デヴィッド・ボウイの"Under Pressure"を歌っている感じだ。曲自体もかの曲を意識して作られたような気がしてならない。

 曲間もなく次の曲"The Changes"が始まるのだが、この曲名も何となくデヴィッド・ボウイの曲名をパクったのではないかと勘繰ってしまう。
 曲調も焦燥感を湛えているし、歌い方もデヴィッド・ボウイを意識していることは間違いないようだ。ここまで来ると、グラスゴー出身のパロディ・バンドかという気もしないではない。

 3曲目の"Maybe Its Time"も曲間がないので、いきなりやってくる感じだ。ただ、この疾走感というか切迫感というか、こういうフィーリングを持ったバンドも珍しいのは事実で、若返ったジョン・ライドンが久しぶりに暴れまくっている感じがした。遅れてきたグラスゴー発のパンク・バンドなのかもしれない。

 とにかく冒頭の3曲のインパクトが強すぎるのだが、こうなると残りの曲も期待が高まってくる。"Star"という曲ではトミー・リーガンという人の演奏するエレクトリック・ギターがスパイダーズ・フロム・マーズのミック・ロンソンのそれに似ていて、思わず頬が緩んでしまった。

 続く"Snap the Imposters"には“ペテン師どもに噛みつけ!”という邦題が付けられていて、6分44秒もある長いスローな曲に仕上げられている。インストゥルメンタル部分では、ちょっとしたプログレッシヴ・ロック風味が備わっていて、やっとオリジナリティが出せたのかと思ってしまった。

 でもよく聞くと、センセーショナル・アレックス・ハーヴェイ・バンドのような感じがしてきて、そういえばアレックス・ハーヴェイ自体もグラスゴー出身だったということに気づいてしまった。グラスゴーという場所は、そういうドラマティックでシアトリカルな音楽性を有している土地柄なのだろうか。

 それに歌詞の中に、"que sera sera"と出てくるのだけれど、これはアレックス・ハーヴェイも歌っていたような記憶がある。ユアンはアレックス・ハーヴェイの精神性もまた受け継ごうとしているのだろう。

 5曲目と6曲目の"New Rage Hope Song"の曲間もなくて、大掛かりで時代的な曲が始まる。なるほど、やっぱりアレックス・ハーヴェイだ。彼は1982年に亡くなっているから、ひょっとしたら彼の生まれ変わりなのかもしれない、ユアン・マクファーレンという人は。
 あるいは、幼い頃に体験したアレックス・ハーヴェイの音楽を記憶していたとか、ユアンの両親がアレックス・ハーヴェイのファンだったとか、何となく関連性があるような気がした。

 7曲目の"Honey"という曲は最初にシングル・カットされた曲で、確かにシングル向きの曲だと思う。U2のボノが売れ線ポップを歌うとこうなりますよ、とでも言いそうな感じで、疾走感もあるし、声質もわざと似せているかのようだ。

 一転して"Clash of The Social Titans"はバラード曲で、名曲とは言えないけれど、けっこうイケてる曲。印象度も深い。何しろ曲の4分あたりからストリングスが使われていて、何となく映画かドラマのテーマ曲にもなりそうな雰囲気なのだ。

 "Gasoline Queen"という曲もややスローな曲で、アルバム前半の疾走感が後半に来て急に穏やかになってしまった。突然、バラード歌手にでもなったようだ。
 この曲は、前の曲"Clash of The Social Titans"よりもさらにメロディラインが美しく磨かれていて、そう考えるとユアンという人は、コステロも推薦するように優秀なメロディメイカーなのかもしれない。

 10曲目の"Money"という曲に来て、やっとアルバム前半のパワーとポップネスを発揮してくれた。この曲も単なるポップ・ソングではなくて、よく練られたメロディとSEも交えてのアレンジメントが曲の価値をさらに高めている。
 "Money"という曲は急に終わり、続いてブロンディの"Sunday Girl"のワン・フレーズが歌われて最後の曲"Favourite Girl"が始まる。

 ただこの曲は12分40秒もあって、本編の曲とヒドゥン・トラック2曲が含まれているから聞きごたえがある。"Favourite Girl"自体はジョン・ライドンが歌いまくっているような4分40秒くらいの曲で、続いて"The Grim Northern Social"と"Elevator Rage"という曲が始まる。

 どこからどこまでが"The Grim Northern Social"で"Elevator Rage"なのかよくわからないのだが、オルタナ系のようなざらついた感じの曲が5分10秒くらい続くので、このボーカル入りのややゆっくりとした曲が"The Grim Northern Social"なのだろう。
 もう一方の"Elevator Rage"の方は1分くらいの、曲というよりはサウンド・コラージュのような感じだった。71pdbqupail__sl1223_
 ユアンは、このアルバムの主なストーリーはどんなものなのかという質問に対して、次のように答えている。“基本的には、人生は短いってこと、でも明日は今日よりもいい日である可能性があるってことかな”

 この言葉通りに、このアルバム1枚で表舞台から消えてしまったバンドだったが(たぶん)、ユアン自身はその後も音楽活動を続けているようだ。
 おそらく地元では熱狂的に受け入れられたバンドだったのではないだろうか、ただ、オリジナリティーという面では、ワールドワイドで注目を集めることはできなかった。

 いい意味でも悪い意味でも、彼らは、スコットランドのグラスゴーという土地柄を反映していたバンドだったようだ。

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2018年7月16日 (月)

キャスト

 イギリスにキャストというバンドがいた。自分はマイナーなバンドだと思っていたのだが、実はどうしてどうして、かなり有名なバンドのようなのだ。てっきり1枚か2枚ぐらいしかアルバムを発表していないだろうと思っていたのだが、実際は、6枚もスタジオ・アルバムを発表していた。勉強不足で申し訳ないと思っている。

 自分はそのうちの「マジック・アワー」を聞いたことがある。彼らにとっては3枚目のスタジオ・アルバムにあたり、1999年に発表された。全英アルバム・チャートでは6位まで上昇している。41862gx069l
 なぜ、このアルバムを持っているのかよくわからないのだが、おそらく雑誌か何かで知って、良さそうだったので購入したのだろう。そして1枚しか持っていないということは、次のアルバムを聞いてみようという気持ちになれなかったのだろう。

 このアルバムからは2枚のシングルが発表されていて、そのうちの1枚がアルバム冒頭に置かれていた"Beat Mama"だった。メジャー調の明るい曲でテンポもよく、思わずスキップをしたくなる曲だった。ここではアルバム・ヴァージョンと記載されていて、シングルとは少し趣が違うようだ。全英シングル・チャートでは9位まで上がっていたから、そこそこヒットしたのだろう。

 続く"Compared to You"も似たような感じの曲で、ボーカルのジョン・パワーの声がファルセットになったりならなかったりと、結構メロディーの浮き沈みが激しい曲だ。
 3曲目の"She Falls"はギター・のアルペジオで始まるややスローな曲で、ここでいったん落ち着かせて曲を聞かせようと意図しているのだろう。

 "Dreamer"は冒頭の"Beat Mama"のようにアップテンポの曲で、バックのリズミカルなキーボードと轟音ギターがうるさいくらい耳に残る。キャスト流ハード・ロックだろうか。
 そして2曲目のシングル・カットとなった曲が"Magic Hour"で、まるでウォール・オブ・サウンドのようにストリングスが全体を包んでいて、甘くコーティングされたチョコレートのようだった。

 確かにこの曲はメロディアスでドリーミングな曲調だった。タイトル通りの“魔法の時間”を味わえるかのようだ。作曲者のジョン・パワーの趣味なのだろう。ただし、チャート的には28位どまりだったので、イギリス人にはこういう曲は不向きなのだろうか。

 "Company Man"もギターのカッティングが強調されていて、どちらかというと激しい曲調だった。あえて言えば、初期のオアシスやステレオフォニックスのようだ。そういえば、ジョン・パワーはザ・フーをフェイヴァリット・バンドに挙げていたので、ザ・フーのハードな面を受け継いでいるのかもしれない。Johnpower845x564
 7曲目の"Alien"という曲にも全面的にストリングスが使用されていて、バラード風味になっていた。4曲に1曲はストリングスが使用されているようだ。ただ、エレクトリック・ギターも最初と最後には目立っているから、ロック・バラードだろう。

 スローな曲の次は、ハードな曲が置かれるのが定番だろう。だから次の"Higher"はややハードな展開になっている。ただ、他のハードな曲との違いがあまり見られず、どれも似たように聞こえてくる。
 バラード曲の方は出来がいいので、こういうハードな曲を整理すれば、このアルバムはもっと引き締まったのではないだろうか。何となくもったいないような気がした。

 そんな声が聞こえたわけでもないだろうが、"Chasing the Day"はエレクトリック・ギターの弾き語りのようなミディアム・テンポの曲で、ギミックも少なく、聞いていてホッとしてきた。このアルバムの中の清涼剤のようだった。
 別にクレーマーではないのだが、こういう曲をアコースティック・ギターでやるともっと素朴な感じが出たのではないかと思ったりもした。中間部のソロだけエレクトリックでやって、後はアコースティックなら、メリハリがついて印象度も違ってきただろう。

 "The Feeling Remains"もギンギンのエレクトリックな曲だったから、次の曲はスローな曲だろうとアタリをつけたのだが、タイトルが"Burn the Light"というタイトルだったから、たぶんハードな曲だろうと思った。実際は、ハードな曲の中にストリングス・キーボードも使用されていた。ちょっとしたアクセントのつもりだったのだろうか。

 オリジナル・アルバムでは最後の曲になった"Hideaway"には壮大なストリングスが部分的に使用されていて、確かにアルバムの最後にはふさわしいような曲だった。だけど無理にエンディングを引っ張りすぎていて、くどい。6分42秒もいらないだろう。
 エレクトリックな曲はそれはそれでいいのだけれども、印象に残るサビやメロディが少ないのである。

 日本盤には2曲のボーナス・トラックがついていて、"Get on You"はポップ感に溢れた佳曲で、何となくチープ・トリックの曲のようだった。
 もう1曲の"All Bright"も軽めのポップ・ソングで、そんなにアレンジも凝っていなくて聞きやすい。こういう曲をもっと増やせば、このアルバムはもっと売れたのではないだろうか。

 なぜ自分がこのバンドの次のアルバムに興味を失ったかというと、やはりアレンジが凝り過ぎていたからだろう。もっと原曲の良さを生かしたアレンジに抑えていれば、もっと売れたと思うのである。
 だから似たようなアレンジになると、どれも同じように聞こえてきてしまい、全体が一本調子になってしまったのではないだろうか。結局、ハードなギターと分厚いストリングスしか耳に残らないのである。

 どうでもいいことだが、国内盤には最後にヒドゥン・トラックがあって、"All Bright"から約13分後に映画のサウンドトラックのようなストリングスだけのインストゥルメンタル曲が準備されていた。決して悪くない曲だと思うのだが、13分も無音が続くのだから、ほとんどの人は気づかないか、気づいても飛ばしてしまうのではないだろうか。ちなみにタイトルは"Solo Strings"というらしい。

 キャストは、1992年にザ・ラーズというバンドを脱退したベーシストのジョン・パワーという人によって結成されたバンドだった。
 彼は新しいバンドではおもにギターとボーカルに専念し、ほとんどすべての曲を手掛けてきた。

 バンド・メンバーは、主にリバプール出身で、ジョン自身もそうであった。最初は売れずに、オアシスやエルヴィス・コステロのオープニング・アクトを務めてきたが、1995年にはポリドールと契約して、シングルを発表することができた。

 時はあたかもブリット・ポップの真っ盛りで、彼らもその流行に乗ったかのように見られていた。だからデビュー・アルバム「オール・チェンジ」は全英アルバム・チャートの7位を、2年後の1997年のセカンド・アルバム「マザー・ネイチャー・コールズ」は3位まで上昇した。

 このサード・アルバムの「マジック・アワー」を発表したときには、ブリット・ポップの波はもう過ぎ去っていて、だからというわけでもないだろうが、このアルバムが彼らにとって最後のヒット・アルバムになってしまった。

 彼らはこのあともう1枚アルバムを発表したが、売れなかった。レゲエやブラック・ミュージック寄りのアルバムだったからだと言われている。
 それで2001年には一度解散したが、2010年には再結成して、活動を再開し、2012年と2017年にはそれぞれスタジオ・アルバムを発表している。Localheroescasttoplayatliverpoolsou
 キャスト自身は、むしろアルバムも売れていて知名度もあるバンドだったが、自分には1枚のアルバムを通してしか、お付き合いのないバンドだった。彼らのファンには申し訳ないが、残念ながら、それほど食指が動かなかったのである。

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