2018年12月17日 (月)

ザ・スリルズ

 いよいよ今年も残り2週間余りになってきた。時が経つのは早いものである。それで年末ということで、今年1年間を振り返ろうと思った。
 今年の夏に、このブログの中で90年代から2000年代に活躍したマイナーなブリティッシュ・バンドを書き綴ってきた。だいたい10個くらいのバンドだったと思うけれど、その中にもう一つバンドを書き忘れていた。

 それで今回は、そのバンドについて紹介してみたい。アイルランドのダブリン出身の5人組、ザ・スリルズのことである。
 このバンドは、マイナーには違いないけれど、日本にも来日公演しているので、決して無名ではない。このブログを読んでいる人はごくわずかだと思うけれど、そんなわずかな人の中にもこのバンドのことを知っている人は、いると思っている。

 彼らはダブリン郊外の小さな港街のブラック・ロックというところで結成された。バンド・メンバーは5人で、ボーカルのコナー・ディージーとギターのダニエル・ライアンが幼馴染だったことから、2人で音楽活動を始め、徐々にドラマーやベーシストが集まってきた。
コナー・ディージー(ボーカル)
ダニエル・ライアン(ギター&ボーカル)
ベン・キャリガン(ドラムス)
ケヴィン・ホラン(キーボード)
パドリック・マクマーン(ベース・ギター)P01bqdm8
 彼らの音楽性は、ズバリ70年代初期のウェストコースト・サウンドである。もう少し正確に言うと、60年代のポップなテイストを備えたウェストコースト・サウンドというべきだろう。
 コナーとダニエルの2人は、子どもの頃からサイモン&ガーファンクルやエルトン・ジョン、ロネッツ、ゾンビーズなどを聞いて育ったそうで、自分たち自身もそういう音楽をやってみたいと思っていたそうだ。

 だから、基本はポップなロック・サウンドだった。やがてはニール・ヤングやザ・バーズなどにも影響を受けていった。
 活動開始時期は、はっきりとはわからないが、90年代の半ば以降だと思われる。その時はまだアルバム・デビューする前だったから、アマチュア・バンドでの活動だった。

 転機が訪れるのは1999年だった。この時彼らはアメリカ西海岸のサン・ディエゴに約4ヶ月間滞在した。理由は、バンド内がギクシャクしていて解散状態だったのを回避しようとしたからだという。
 幼い頃からあこがれ続けていたアメリカ西海岸の音楽や文化をじかに触れようと思って、どうせ解散するなら最後にみんなで体験しようと思ったらしい。

 この時彼らは、それまであまり耳にしていなかったマーヴィン・ゲイやビーチ・ボーイズ、バート・バカラック、フィル・スペクターなどを知り、愛聴するようになった。そして、音楽観が変わっていったという。
 コナー・ディージーは、その時の様子をこう述べていた。「あの時アメリカに行ってなければ、僕たちは解散してしまっていただろう。あの時の経験がみんなをもう一度奮い立たせてくれて、僕たちの音楽を見つめ直すことができたんだ」

 それで、彼らはダブリンに戻り、バンド名を“ザ・スリルズ”として音楽活動を再開した。バンド名は、マイケル・ジャクソンのアルバム「スリラー」とフィル・スペクターがプロデュースしていたガールズ・グループ名をヒントにしてできたと言われている。
 彼らは、その後約2年間アイルランド中をライヴして回り、ついに2001年にイギリスのヴァージン・レコードと契約を結ぶことができたのである。

 彼らはアマチュア時代から有名だったようで、元スミスのモリッシーも自分の公演のオープニング・アクトに彼らを指名しているし、デビュー後も当時オアシスのノエル・ギャラガーやコールドプレイのクリス・マーティンから絶賛されていた。

 そんな彼らが発表したのが、2003年の「ソー・マッチ・フォー・ザ・シティ」だった。まさに彼らの魅力満載のアルバムで、ちょっとロックっぽくなった“ウォール・オブ・サウンド”といった感じだった。
 非常に聞きやすくてポップだし、ところどころサイケがかったところもある。その辺のバランスが見事だと思う。41gvjk778fl
 1曲目の"Santa Cruz"はザ・バーズのようなキラキラとしたポップなメロディーにハーモニカとバンジョー、短いコーラスが絡み合って、自分たちの音楽性を忠実に反映している。この曲は2002年にシングルとして発表したときは、さっぱり売れなかったが、翌年に再発したときは、英国シングル・チャートで33位まで上昇している。

 "Deckchair and Cigarettes"はゆったりとした曲展開やバックの厚いキーボード・サウンドが、アメリカのサイケデリック・バンドのマーキュリー・レヴに似ている。決して陽の当たる西海岸のポップ・サウンドだけを再現するようなバンドではないということがわかるだろう。

 このアルバムの中で大ヒットした曲は"One Horse Town"で、まさにアップテンポでメロディアスなアルペジオや要所要所で的を得た美しいコーラスなどが耳をとらえて離さない。彼らの代表作だろう。
 逆に、"Old Friends, New Lovers"は、ストリングスも使用されていて、日曜日の午後にまどろむときに相応しい美しいバラードだ。フィル・スペクターが聞いたらきっと喜ぶに違いないだろう。

 こういうポップ感満載の音楽が売れないわけがない。ということで、このアルバムは全英チャートの3位を記録し、ノルウェーなどの北欧でも商業的に成功した。
 母国アイルランドでは、当然のこと1位を記録し、トップ75位の中に61週間も留まっていた。
 この時日本にも来日して、単独公演を行ったり、フジ・ロック・フェスティバルに参加したりしている。

 この成功に気をよくした彼らは、翌年の2004年にセカンド・アルバム「レッツ・ボトル・ボヘミア」を発表した。前作がどちらかというとドリーミーでポップな楽曲が中心だったが、このアルバムでは前作以上にロック色が強まっていた。61vhdlw59sl
 それは1曲目の"Tell Me Something I Don't Know"の冒頭のギター・カッティングでもわかると思うし、続く"Whatever Happened To Corey Haim?"のバート・バカラックmeetsバッファロー・スプリングスフィールドのような緩急つけたアップテンポなストリング・サウンドが証明している。

 デビュー・アルバム発表後に数多くのライヴを経験し、さらにストーンズやボブ・ディランのオープニング・アクトを務めたことなどもよい効果を及ぼしたのだろう。個人的には、このセカンドは大好きだった。
 チャート的にも、アイルランドで1位は当然だとしても、イギリスでもアルバム・チャートでは最高位9位を記録したし、ヨーロッパの国々でもチャートに顔を出している。

 やはり成功することは大事なことのようで、このアルバムではアメリカ人ミュージシャンのヴァン・ダイク・パークスが3曲目の"Faded Beauty Queens"ではアコーディオンを、10曲目の"The Irish Keep Gate-Crashing"では、ストリングスをアレンジし、指揮までとっている。  
 また、当時のR.E.M.のギタリストだったピーター・バックも"Faded Beauty Queens"ではマンドリンを、9曲目の"The Curse of Comfort"ではギターで貢献していた。

 この年はまた、“バンド・エイド・2004”に参加したり、“ライヴ8”のエディンバラ公演で楽曲を披露したりと、彼らの人気もピークに達していたようだった。この時の模様はDVDでも収録されている。

 この後彼らは、休暇を取っている。デビュー以来約3年間、ひたむきに走り続けたせいだろう。ただし、完全な休みではなくて、次作に向けてのアイデアを練ることも忘れなかった。この間に多くの曲が出来ては捨てられていった。一説には、約30曲が録音されたが、最終的にアルバムに残ったのは11曲だったと言われている。

 その11曲を収録したアルバムが「ティーンエイジャー」で、前作から約3年後の2007年に発表された。61sdoroiuhl
 今までもよりもアイリッシュ風味が強調されていて、冒頭の"The Midnight Choir"などは、21世紀の"Maggie May"といってもおかしくないほどの上質なトラッド・ソングだった。

 アルバムの最初から4曲目までは、マンドリンやアコースティック・ギターがフィーチャーされていて、ブリティッシュ・トラッドが好きな人にはたまらないと思う。
 逆に、アメリカ西海岸風な爽やかなハーモニーやポップネスは消えていて、フィル・スペクターやバート・バカラックはどこかに隠れてしまったようだった。

 また、5曲目の"I Came All This Way"などは、まさにザ・バーズのような12ストリングス・ギター・カッティングが印象的で、そういう面ではまだアメリカ西海岸テイストは失われてはいないようだった。
 それに、ほとんどの曲がアップテンポかミディアム・テンポの曲で、時間にして約40分55秒、潔さというか歯切れがよいというか、ノンストップで畳み掛けるかのように彼らの魅力が迫ってくるのである。

 このアルバムの中でスロー・バラードといっていいのが、アルバム・タイトルにもなっている9曲目の"Teenager"とその次の"Should've Known Better"だろう。前作にはティーンエイジャー特有の倦怠感というか物憂げな雰囲気が上手に表現されている。
 "Should've Known Better"にも"Teenager"で使用されたスライド・ギターが効果的に使用されている。この2曲はまるでアルバムの中の双子のようだった。驚くほど雰囲気がよく似ている。

 そして楽曲のレベルに関しては、非常に高い。彼らの3枚のアルバムの中で一番充実しているのがこのアルバムではないだろうか。やはり約3年間のインターバルは必要だったのである。
 このアルバムは、カナダのヴァンクーヴァーにあるブライアン・アダムスが所有するスタジオで録音された。ゲストに前作にも参加したピーター・バックと同じR.E.M.の当時のギタリストだったスコット・マッコウィーが、アルバムの所々でギターを弾いている。

 ただ残念ながら、力が込められて制作されたアルバムにもかかわらず、商業的には失敗した。英国アルバム・チャートでは48位、母国アイルランドでも24位と振るわなかったのだ。その結果、ヴァージンEMIから契約を解除され、彼らは活動休止に陥った。2004年当時と比べれば、まさに天と地の違いになってしまったのである。

 その後、彼らは個人活動を開始して、ドラムス担当だったベンはソロ・アルバムまで発表している。
 彼らは解散宣言はしていないが、2011年にはベスト・アルバムも発表されているし、もう10年以上も活動を休止しているから実質的には解散しているといってもいいだろう。100_emi5099908497352
 ネット上では彼らの活動休止を惜しむ声は多いようだし、まだまだ忘れられていないようだ。確かに以前のような爆発的な人気は望めないだろうが、このままポピュラー・ミュージック史の中に消えていくのはもったいないバンドだと思っている。

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2018年8月 6日 (月)

ザ・セイルズ

 このバンドも非常に気になるんだけれども、実態がよくわからない。いろいろと調べたにもかかわらず、よくわからい。このネット全盛時代にヒットしないのだから、もはや過去の遺物と言っていいのかもしれない。

 このバンドというのは正確に言うと、イギリスのザ・セイルズというデュオ・グループのことだ。それに、過去の遺物といっても、結成されたのは2003年の終わりごろだし、活動を始めたのは翌年だった。そしてアルバムを発表したのは2006年だ。そんなに昔の話ではない。

 ザ・セイルズは、クーラ・シャイカーやトラヴィス、オーシャン・カラー・シーンなどと同時期に活動をしていた。彼らのツアーに同行してオープニング・アクトを務めたりしていた。それでも記録に残っていないというのは、要するに、売れなかったからだろう。

 アルバム「ドラム・ロール・プリーズ」の国内盤の解説によると、中心人物はマイケル・ガリアーノという人で、アルバムの楽曲すべてとプロデュースを行っている。曲もほぼ一人で歌っているのだが、なぜかサラ・キーリーという女性と知り合って、このバンドを結成したようだ。49181172215350450_600x600r
 サラ・キーリーという人とどういう関係かはわからないが、一般的には夫婦デュオと言われている。解説書にはそこまでは書かれていなくて、単なる音楽的なパートナーと書かれているだけだった。
 自分には関係ないのでどうでもいいのだが、国内盤のボーナス・トラックにはサラが歌う曲"Best Day"が収録されていて、バックのストリングスの方が目立っていた。そんなに上手という感じはしなかった。

 マイケルは、エピックというバンドのリーダーで2枚のスタジオ・アルバムを発表している。その後バンド活動の限界を感じたマイケルは、バンドを解散させ、ソロ活動を始めたのである。
 そのエピックというバンドの音楽性は、ポップ・ソングのようなロック・ミュージックのようなあまりはっきりしなかったようで、だから日本でも知名度がなかった。この時に、少しでも売れていたなら、もっと彼の経歴が分かったのだろうが、今となっては是非もないことである。

 ただ元々、彼の音楽観の基本は、ザ・ビートルズやザ・バーズのような60'sのポップス性を備えていたようで、ザ・ビートルズのカバー・バンドだった"The Battles"ではジョン・レノン役を演じて歌っていた。このカバー・バンドの"The Battles"は、2003年のフジ・ロック・フェスティバルにも出演していて、その時集ってきたファンを魅了したようである。

 これは定かではないのだが、マイケル・ガリアーノで検索してみると、“Let It Be”というタイトルで、世界中を演奏している様子が出てくる。今年はアメリカからアジアを公演して回っているようで、6月には日本にも公演に訪れていた。
 ひょっとしたら、この人がマイケル・ガリアーノなのだろうか。決定的な証拠がないので、よくわからないのである。Michaelgalianoletpremieremunichhwqn
 とにかく、マイケルとサラはイギリス・デビューする前に、アメリカで「ザ・セイルズ」というアルバムを発表している。これは、エピック時代のことを知っていたアメリカのニューヨークにあるレインボウ・クォーツ・レコーズのスタッフがマイケルの音楽性を気に入っていて、アメリカでのアルバム発表を手伝ってくれたからである。

 ただ、彼らはアメリカ国内のフェスティバル出演や東海岸ツアーを行ったものの、急いでアルバムを発表したせいか、楽曲の内容には満足していなかったようで、マイケルとサラは、イギリスに戻って納得のいくアルバム作りを行った。それが2006年に発表された「ドラム・ロール・プリーズ」だった。

 このアルバムは、まさに初期のザ・ビートルズや12弦のアコースティック・ギターの響きが美しいザ・バーズのサウンドが再現されたような感じのアルバムで、幾重にも重ねられた音の厚みは、まさに“ウォール・オブ・サウンド”のような印象を与えてくれた。

 それにアルバム全体の時間も37分少々しかない。21世紀の今の時代に、1枚のCDの時間が40分を切るというのは、あまり考えられない。このCDを購入した消費者は、費用対効果を考えた場合には、元を取れないと思ったのではないだろうか。

 しかし、実際に音を聞けば、購入者は納得すると思うのである。特に、フィル・スペクターの音楽やザ・ビートルズ、ザ・バーズ、ティーンエイジ・ファンクラブなどが好きな人にとっては、もうこれは感涙もののアルバムになるだろう。買って外れなし、いや、マストバイ・アイテムになるのは間違いないだろう。

 実際、自分もこのアルバムを買って聞いてみて、ビックリした思い出がある。まさか21世紀のこの時代に、ザ・バーズやザ・ビートルズが復活するとは思っていなかったからだ。
 とにかく、どこを切っても60年代風の“金太郎飴状態”なのである。だから、この音楽を聞いた自分よりは上の世代もまた、きっと随喜の涙を流したに違いない。O0471047714050267346
 まさにポップ・ソングの典型的な曲が"Best Day"で、ザ・バーズのアコースティック・ギターmeetsフィル・スペクターで、フィルがザ・バーズの楽曲をプロデュースしたらこうなりましたよという感じだ。2~3回聞いただけで、出だしやさびの部分は覚えてしまう素晴らしいメロディラインも備えている。
 "See Myself"もまた、キラキラとしたギターのアルペジオがはじけているし、64年のジョン・レノンだったらこういう曲を作るかもしれないという"Chocolate"も一聴の価値がある曲だ。

 個人的には、草原を駆け抜ける爽やかな風のような"Let's Get Started"は何度聞いても飽きないし、フィル・スペクター風の"Yesterday And Today Part1"、永遠のフォーレヴァー・グリーンといってもいいような"Peter Shilton"などが大好きで、とにかく何度でも何回でも聞き続けていたい曲で満ち満ちている。

 アルバムの後半には"Pleasure Bus"や"Liar"、"Dogs"などのギターが中心となった曲が続く。決してハードにはならず、だからといってポップ過ぎてもなくて、ほどよいエッジとマイルド感の調和が素晴らしい。60年代のマージービートから続くイギリスの伝統的なポップ感覚が息づいている。

 11曲目には"Yesterday And Today Part2"が置かれている。この曲は5曲目にあった同名曲"Part1"の続編なのだが、"Part1"と違ってテンポが速く、曲自体も1分26秒と極めて短い。アルバム構成としてもよく考えられているようだ。

 これら以外にも、バックのキーボードがE.L.O.風にアレンジされた"Sorry"や、抑えられた最初のヴァースから一気に盛り上がる曲がユニークな"Beautiful Day"など、まだまだ聞くべきところは多い。"Beautiful Day"などは、何となく70年代初期のジョージ・ハリソン風で興味深い。

 とにかく、マイケル・ガリアーノのこのユニットは、この1枚のアルバムで終わらせるにはもったいない。しかし、結果的には続編が作られなかったということは、マイケル自身がこのユニットをあきらめたということだろう。
 商業的な期待に応えられなかったのか、自分たちの音楽に満足できなかったのか、はたまたサラとの関係が悪化してパートナーシップを解消したのか、その理由はわからない。

 個人的には大好きなバンドというかデュオだったし、アルバム自体も優れていると思っている。現時点でのマイケル・ガリアーノの消息がはっきりしないように、このアルバムもまたひっそりとポピュラー・ミュージックの歴史の流れの中に消えていくのだろう。

 とりあえず、今回のザ・セイルズをもって、90年代から2000年代に登場したマイナーなブリティッシュ・バンドの特集を終わりたいと思う。

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2018年7月30日 (月)

ジェイムス・モリソン

 最初、彼の名前を聞いたときに、ジム・モリソンと聞き間違えてしまって、同姓同名の人が現れたのかと思ってしまった。ジムではなくて、ジェイムスだった。

 彼は1984年の8月生まれなので、もうすぐ34歳になる。まだまだ十分に若いし、可能性も広がっている。ただ、デビュー時の人気がすごく高くて、いまだにその時の様子が忘れられないし、本人もそれを超えるために頑張っているのではないかと思ってしまう。

 遠く離れた極東の日本では、彼に関するニュースは少なくて、もちろん今でも活動を続けているのだけれども、なんだか半分引退したような扱いをされている気がしてならない。_86499535_c863421e38cf4240a9f22e900
 また、彼よりも少し早くデビューしたシンガー・ソングライターにジェイムス・ブラントという人がいて、この人とよく間違われていたこともあった。"You're Beautiful"をヒットさせたミュージシャンだ。どちらも才能豊かなミュージシャンなので、間違われるのかもしれない。

 彼がデビューした直後には、こんな紹介文が載せられていた。「破格の才能が、ここに登場した。20年後、いや100年後にこのジェイムス・モリソンがどう語られているだろうかを想像すると今から体が震えてくるし、彼にとってのはじめての一歩であるこのデビュー作『ジェイムス・モリソン』を同時代に体験できることを、本当にうれしく感じる。これが決して大げさな話でないことは、このアルバムを聴いたあなたならば、きっとわかってくれるのではないだろうか」71crjbgmpel__sl1122_
 かなり激賞している文だと思うが、確かにシンガー・ソングライターとしては、予想以上に才能豊かだとは思った。ただ、ボブ・ディランやエルトン・ジョンのような感じではなくて、ソングライターよりもシンガーの方が似合っているような気がした。

 彼自身はこう述べている。「子どもの頃はソウル・ミュージックをたくさん聞いていたんだ。スティーヴィー・ワンダーやアル・グリーン、オーティス・レディング、キャット・スティーヴンス、ヴァン・モリソンみたいな声の良い人たちを。
 声を通して感情を表現する人たちが好きだった。だから自分で歌うことを習得するのは、僕にとって当たり前のことだったんだよ」

 だから、自分は彼のことを自作自演ができるシンガーだと思っている。もちろん、そういう人をシンガー・ソングライターと呼ぶのはわかっているが、ソングライターよりもシンガーの方に重点を置いているミュージシャンだと認識している。

 それで、彼のデビュー・アルバムの「ジェイムス・モリソン」には、曲の良さを引き立てようとするアレンジが目立っていて、それがさらに彼の声の良さを際立たせているのである。
 すべての曲では、もちろん彼の名前はクレジットされているものの、他の人の名前も同時に記載されていて、チームとして曲を発表していたことが分かる。だから、曲の骨格は彼が手掛けているが、それに血肉をつけ膨らませていくために、他の人の手を借りていたのだろう。

 ジェイムス・モリソンは、1984年にイギリス中部のラグビーというところで生まれた。父親はフリーターのようで、仕事をしたりしなかったりの生活を送っていて、一家は主に母親の稼ぎに頼っていた。

 彼は子どもの頃に100日咳にかかり、ほとんど死にかけていたと言われていて、医者はこの子がこれから生き残るであろう生存率は、30%ぐらいしかないと言ったらしい。今の彼の独特の声質は、この病気のせいだとも言われている。本当かどうかは不明だが、確かに彼の声はハスキーであり、アフリカ系アメリカ人のような雰囲気を漂わせている。

 父親も母親も音楽好きだったようで、父親の方はフォークやカントリーを、母親はソウル・ミュージックを聞いていた。
 やがて父親は家を出て、母親はパブなどで歌うようになった。だから3人兄弟の真ん中だったジェイムスは、10歳頃から母親の代わりに家事全般を行うようになっていった。いわゆる苦労人なのである。

 13歳の時に叔父からアコースティック・ギターを渡され、簡単なコードやブルーズのリフなどを教えてもらった。そして14歳になると、ストリート・ミュージシャンとして活動するようになっていた。若い頃に苦労すると、生きる力が必然的に見についてくるようだ。

 15歳頃からバンド活動を行い始め、ソウル・ミュージックを筆頭に、様々なミュージシャンの持ち歌や、もちろん自分で書いた曲も歌っていた。
 そのあと、ホテルの客室係や室内装飾業などに従事していたようだが、アイリッシュ・バーで知り合った人の手を借りてデモ・テープを録音し、それが紆余曲折を経て、レコード会社の手に渡り、最終的にデビューに至った。

 彼はまたこうも述べている。「オアシスは良いバンドだと思うが、僕の目から見ればビートルズの二番煎じにしか見えない。だったら新しいものより、僕は古い方を聴きたい。いろんな人に影響を与えたオリジナルの方から自分のヴァージョンを創り出したい。二番煎じから三番煎じを作るんじゃなくてね」

 彼のデビュー・アルバムは、2006年7月に発表された。全英アルバム・チャートでは初登場1位になり、2週間そこに留まった。アイルランドやオランダでもチャートの上位にまで上がっていて、イギリスを含むヨーロッパではヒット作品になった。(ただし、アメリカでは24位に留まっている)

 全13曲(国内盤は14曲)のうち、5曲がシングル・カットされ、特に、ファースト・シングル曲の"You Give Me Something"とセカンド・シングルの"Wonderful World"は売れた。
 その他のシングル曲は、"The Pieces Don't Fit Anymore"、"Undiscovered"、"One Last Chance"の3曲で、面白いことにこの5曲は、アルバムの前半の2曲目から6曲目に配置されている曲だった。71danxgdtcl__sl1250_
 個人的には、デビュー・アルバムにしては手の込んだアレンジとオーヴァープロデュースが目立っているような気がした。ほとんどの曲にストリングスやホーン・セクションが使用されていて、それはそれで確かに効果的だとは思うものの、もう少し抑えてもよかったような気がする。

 逆に、アルバム最後の"Better Man"や国内盤ボーナス・トラックの"My Uprising"の方がしっくりと心に染み込んでくる。新人なので、もう少しアコースティック色を活かして欲しかった。この辺はシンガー・ソングライターというよりも、ソウル・シンガーのアルバムといった感じがする。たぶん、本人もそれを望んだのだろう。

 ジェイムス・モリソンは、世の中の辛い経験をした人たちや、哀しみを味わっている人たちに届くように曲を書いて歌っていきたいと語っていたが、悲しみを表現しながらも、どこかポジティヴな彼の気持ちが伝わってきそうなアルバムだった。

 このアルバムのおかげで、彼はブリット・アワードで“ベスト男性ボーカル賞”を受賞した。その後も2008年、2011年、2015年とスタジオ・アルバムを発表していて、特に3枚目の「ジ・アウェイキング」は、再び全英アルバム・チャートの首位に輝いている。

 最初にも書いたが、彼のことについては情報が少なくて、日本では徐々に知名度を失っているような気がしてならない。今回彼のことを取り上げたのは、彼が決して消えてしまったのではなく、むしろまだ現役で頑張っていることを紹介したかったからである。

 今年くらいはニュー・アルバムが届きそうな気がするのだが、もしもまだ待たされるとなると、ますます彼のことは忘れられていきそうだ。何とか頑張ってほしいと願っている。

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2018年7月23日 (月)

ザ・グリム・ノーザン・ソーシャル

 さて、90年代から2000年代にかけて活躍した?というよりも話題になった、もしくは存在していたブリティッシュ・ロック(ポップ)・バンドの第6回は、スコットランドのグラスゴー出身のザ・グリム・ノーザン・ソーシャルが登場する。

 とにかくこのバンドについては、資料が極めて少ないので何とも言えない。どこまで書けるかわからないが何とか努力してみることにした。Maxresdefault
 はっきり言って、このバンドを知っている人は、少ないような気がするのだがどうだろうか。彼らの唯一のアルバムと思われる「グリム・ノーザン・ソーシャル」は2003年に発表された。当時のレコード会社であるテイチク・エンタテインメントによるキャッチ・コピーによると、“コステロもその才能を認めた、グラスゴー発、グリム・ノーザン・ソーシャル、デビュー‼ ソウルフルで華やかなボーカル、そしてプレイフルな旋律は伝説的な60年代を彷彿させる。”とあった。

 確かにこのバンドは、エルヴィス・コステロや同郷のコズミック・ラフ・ライダーズなどのミュージシャンやバンドのオープニング・アクトを務めていたから、その才能は周りの誰もが認めていたのだろう。

 それにこのザ・グリム・ノーザン・ソーシャルというバンドは、はっきりいってボーカル&ギターのユアン・マクファーレンのソロ・ユニットといってもいいだろう、そんな気がする。
 たとえば、すべての楽曲はユアンが手掛けているし、バンド・メンバーもユアンの募集によって集まったからだ。Thegrimnorthernsocialglastobandfina
 ユアンは若い頃からミュージシャンを志していて、ロンドンでは“ストーンホース”というバンドを結成して活動していたらしい。
 結局、そのバンドの活動に見切りをつけてグラスゴーに戻ったユアンは、友人のキーボード奏者であるアンディ・コーワンと連絡を取りながら曲を書きためていった。

 そして、残りのベース奏者やドラマー、リード・ギタリストを新聞広告で募集してバンドを結成した。2000年頃のようだ。
 彼らは地元のパブなどでライヴ活動を続けながら、様々なフェスにも参加していた。そしてスコットランドの音楽フェスティバル“In the City 2001”では「最優秀未契約バンド」に選出されている。

 そして翌年には、ワン・リトル・インディアンとアルバム契約を結ぶことができ、プロのバンドとして活動を開始した。
 ユアンはこう述べている。「僕たちはポップ・バンドだけど、いわゆる60年代のポップ・バンドに近いんだ。決して商業主義的なポップ・バンドじゃないっていう。例えばビートルズやビーチボーイズ、U2といったバンドに近いんだ。U2はロック・バンドだけど、それと同時にポップ・バンドでもあるよね。だから、僕たちのアルバムが当てはまるのは、そういうジャンルだと思う」

 ユアンが尊敬するミュージシャンは、ジョン・レノンとデヴィッド・ボウイだそうで、そういえばこのアルバムにも、どことなくそんな雰囲気が漂っているような気がする。
 彼の歌声は、どことなくジョン・ライドンにも似ているし、曲によってはデヴィッド・ボウイにも似ている。また、そう思わせるような曲調も備えているのだ。

 2003年にデビュー・アルバム「グリム・ノーザン・ソーシャル」を発表したのだが、11曲と2曲のヒドゥン・トラックが含まれていた。51e6wqe7mdl
 冒頭の"Urban Pressure"は、80年代のようなチープなシンセとテンポのよいリズムをバックにジョン・ライドンがクィーン&デヴィッド・ボウイの"Under Pressure"を歌っている感じだ。曲自体もかの曲を意識して作られたような気がしてならない。

 曲間もなく次の曲"The Changes"が始まるのだが、この曲名も何となくデヴィッド・ボウイの曲名をパクったのではないかと勘繰ってしまう。
 曲調も焦燥感を湛えているし、歌い方もデヴィッド・ボウイを意識していることは間違いないようだ。ここまで来ると、グラスゴー出身のパロディ・バンドかという気もしないではない。

 3曲目の"Maybe Its Time"も曲間がないので、いきなりやってくる感じだ。ただ、この疾走感というか切迫感というか、こういうフィーリングを持ったバンドも珍しいのは事実で、若返ったジョン・ライドンが久しぶりに暴れまくっている感じがした。遅れてきたグラスゴー発のパンク・バンドなのかもしれない。

 とにかく冒頭の3曲のインパクトが強すぎるのだが、こうなると残りの曲も期待が高まってくる。"Star"という曲ではトミー・リーガンという人の演奏するエレクトリック・ギターがスパイダーズ・フロム・マーズのミック・ロンソンのそれに似ていて、思わず頬が緩んでしまった。

 続く"Snap the Imposters"には“ペテン師どもに噛みつけ!”という邦題が付けられていて、6分44秒もある長いスローな曲に仕上げられている。インストゥルメンタル部分では、ちょっとしたプログレッシヴ・ロック風味が備わっていて、やっとオリジナリティが出せたのかと思ってしまった。

 でもよく聞くと、センセーショナル・アレックス・ハーヴェイ・バンドのような感じがしてきて、そういえばアレックス・ハーヴェイ自体もグラスゴー出身だったということに気づいてしまった。グラスゴーという場所は、そういうドラマティックでシアトリカルな音楽性を有している土地柄なのだろうか。

 それに歌詞の中に、"que sera sera"と出てくるのだけれど、これはアレックス・ハーヴェイも歌っていたような記憶がある。ユアンはアレックス・ハーヴェイの精神性もまた受け継ごうとしているのだろう。

 5曲目と6曲目の"New Rage Hope Song"の曲間もなくて、大掛かりで時代的な曲が始まる。なるほど、やっぱりアレックス・ハーヴェイだ。彼は1982年に亡くなっているから、ひょっとしたら彼の生まれ変わりなのかもしれない、ユアン・マクファーレンという人は。
 あるいは、幼い頃に体験したアレックス・ハーヴェイの音楽を記憶していたとか、ユアンの両親がアレックス・ハーヴェイのファンだったとか、何となく関連性があるような気がした。

 7曲目の"Honey"という曲は最初にシングル・カットされた曲で、確かにシングル向きの曲だと思う。U2のボノが売れ線ポップを歌うとこうなりますよ、とでも言いそうな感じで、疾走感もあるし、声質もわざと似せているかのようだ。

 一転して"Clash of The Social Titans"はバラード曲で、名曲とは言えないけれど、けっこうイケてる曲。印象度も深い。何しろ曲の4分あたりからストリングスが使われていて、何となく映画かドラマのテーマ曲にもなりそうな雰囲気なのだ。

 "Gasoline Queen"という曲もややスローな曲で、アルバム前半の疾走感が後半に来て急に穏やかになってしまった。突然、バラード歌手にでもなったようだ。
 この曲は、前の曲"Clash of The Social Titans"よりもさらにメロディラインが美しく磨かれていて、そう考えるとユアンという人は、コステロも推薦するように優秀なメロディメイカーなのかもしれない。

 10曲目の"Money"という曲に来て、やっとアルバム前半のパワーとポップネスを発揮してくれた。この曲も単なるポップ・ソングではなくて、よく練られたメロディとSEも交えてのアレンジメントが曲の価値をさらに高めている。
 "Money"という曲は急に終わり、続いてブロンディの"Sunday Girl"のワン・フレーズが歌われて最後の曲"Favourite Girl"が始まる。

 ただこの曲は12分40秒もあって、本編の曲とヒドゥン・トラック2曲が含まれているから聞きごたえがある。"Favourite Girl"自体はジョン・ライドンが歌いまくっているような4分40秒くらいの曲で、続いて"The Grim Northern Social"と"Elevator Rage"という曲が始まる。

 どこからどこまでが"The Grim Northern Social"で"Elevator Rage"なのかよくわからないのだが、オルタナ系のようなざらついた感じの曲が5分10秒くらい続くので、このボーカル入りのややゆっくりとした曲が"The Grim Northern Social"なのだろう。
 もう一方の"Elevator Rage"の方は1分くらいの、曲というよりはサウンド・コラージュのような感じだった。71pdbqupail__sl1223_
 ユアンは、このアルバムの主なストーリーはどんなものなのかという質問に対して、次のように答えている。“基本的には、人生は短いってこと、でも明日は今日よりもいい日である可能性があるってことかな”

 この言葉通りに、このアルバム1枚で表舞台から消えてしまったバンドだったが(たぶん)、ユアン自身はその後も音楽活動を続けているようだ。
 おそらく地元では熱狂的に受け入れられたバンドだったのではないだろうか、ただ、オリジナリティーという面では、ワールドワイドで注目を集めることはできなかった。

 いい意味でも悪い意味でも、彼らは、スコットランドのグラスゴーという土地柄を反映していたバンドだったようだ。

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2018年7月16日 (月)

キャスト

 イギリスにキャストというバンドがいた。自分はマイナーなバンドだと思っていたのだが、実はどうしてどうして、かなり有名なバンドのようなのだ。てっきり1枚か2枚ぐらいしかアルバムを発表していないだろうと思っていたのだが、実際は、6枚もスタジオ・アルバムを発表していた。勉強不足で申し訳ないと思っている。

 自分はそのうちの「マジック・アワー」を聞いたことがある。彼らにとっては3枚目のスタジオ・アルバムにあたり、1999年に発表された。全英アルバム・チャートでは6位まで上昇している。41862gx069l
 なぜ、このアルバムを持っているのかよくわからないのだが、おそらく雑誌か何かで知って、良さそうだったので購入したのだろう。そして1枚しか持っていないということは、次のアルバムを聞いてみようという気持ちになれなかったのだろう。

 このアルバムからは2枚のシングルが発表されていて、そのうちの1枚がアルバム冒頭に置かれていた"Beat Mama"だった。メジャー調の明るい曲でテンポもよく、思わずスキップをしたくなる曲だった。ここではアルバム・ヴァージョンと記載されていて、シングルとは少し趣が違うようだ。全英シングル・チャートでは9位まで上がっていたから、そこそこヒットしたのだろう。

 続く"Compared to You"も似たような感じの曲で、ボーカルのジョン・パワーの声がファルセットになったりならなかったりと、結構メロディーの浮き沈みが激しい曲だ。
 3曲目の"She Falls"はギター・のアルペジオで始まるややスローな曲で、ここでいったん落ち着かせて曲を聞かせようと意図しているのだろう。

 "Dreamer"は冒頭の"Beat Mama"のようにアップテンポの曲で、バックのリズミカルなキーボードと轟音ギターがうるさいくらい耳に残る。キャスト流ハード・ロックだろうか。
 そして2曲目のシングル・カットとなった曲が"Magic Hour"で、まるでウォール・オブ・サウンドのようにストリングスが全体を包んでいて、甘くコーティングされたチョコレートのようだった。

 確かにこの曲はメロディアスでドリーミングな曲調だった。タイトル通りの“魔法の時間”を味わえるかのようだ。作曲者のジョン・パワーの趣味なのだろう。ただし、チャート的には28位どまりだったので、イギリス人にはこういう曲は不向きなのだろうか。

 "Company Man"もギターのカッティングが強調されていて、どちらかというと激しい曲調だった。あえて言えば、初期のオアシスやステレオフォニックスのようだ。そういえば、ジョン・パワーはザ・フーをフェイヴァリット・バンドに挙げていたので、ザ・フーのハードな面を受け継いでいるのかもしれない。Johnpower845x564
 7曲目の"Alien"という曲にも全面的にストリングスが使用されていて、バラード風味になっていた。4曲に1曲はストリングスが使用されているようだ。ただ、エレクトリック・ギターも最初と最後には目立っているから、ロック・バラードだろう。

 スローな曲の次は、ハードな曲が置かれるのが定番だろう。だから次の"Higher"はややハードな展開になっている。ただ、他のハードな曲との違いがあまり見られず、どれも似たように聞こえてくる。
 バラード曲の方は出来がいいので、こういうハードな曲を整理すれば、このアルバムはもっと引き締まったのではないだろうか。何となくもったいないような気がした。

 そんな声が聞こえたわけでもないだろうが、"Chasing the Day"はエレクトリック・ギターの弾き語りのようなミディアム・テンポの曲で、ギミックも少なく、聞いていてホッとしてきた。このアルバムの中の清涼剤のようだった。
 別にクレーマーではないのだが、こういう曲をアコースティック・ギターでやるともっと素朴な感じが出たのではないかと思ったりもした。中間部のソロだけエレクトリックでやって、後はアコースティックなら、メリハリがついて印象度も違ってきただろう。

 "The Feeling Remains"もギンギンのエレクトリックな曲だったから、次の曲はスローな曲だろうとアタリをつけたのだが、タイトルが"Burn the Light"というタイトルだったから、たぶんハードな曲だろうと思った。実際は、ハードな曲の中にストリングス・キーボードも使用されていた。ちょっとしたアクセントのつもりだったのだろうか。

 オリジナル・アルバムでは最後の曲になった"Hideaway"には壮大なストリングスが部分的に使用されていて、確かにアルバムの最後にはふさわしいような曲だった。だけど無理にエンディングを引っ張りすぎていて、くどい。6分42秒もいらないだろう。
 エレクトリックな曲はそれはそれでいいのだけれども、印象に残るサビやメロディが少ないのである。

 日本盤には2曲のボーナス・トラックがついていて、"Get on You"はポップ感に溢れた佳曲で、何となくチープ・トリックの曲のようだった。
 もう1曲の"All Bright"も軽めのポップ・ソングで、そんなにアレンジも凝っていなくて聞きやすい。こういう曲をもっと増やせば、このアルバムはもっと売れたのではないだろうか。

 なぜ自分がこのバンドの次のアルバムに興味を失ったかというと、やはりアレンジが凝り過ぎていたからだろう。もっと原曲の良さを生かしたアレンジに抑えていれば、もっと売れたと思うのである。
 だから似たようなアレンジになると、どれも同じように聞こえてきてしまい、全体が一本調子になってしまったのではないだろうか。結局、ハードなギターと分厚いストリングスしか耳に残らないのである。

 どうでもいいことだが、国内盤には最後にヒドゥン・トラックがあって、"All Bright"から約13分後に映画のサウンドトラックのようなストリングスだけのインストゥルメンタル曲が準備されていた。決して悪くない曲だと思うのだが、13分も無音が続くのだから、ほとんどの人は気づかないか、気づいても飛ばしてしまうのではないだろうか。ちなみにタイトルは"Solo Strings"というらしい。

 キャストは、1992年にザ・ラーズというバンドを脱退したベーシストのジョン・パワーという人によって結成されたバンドだった。
 彼は新しいバンドではおもにギターとボーカルに専念し、ほとんどすべての曲を手掛けてきた。

 バンド・メンバーは、主にリバプール出身で、ジョン自身もそうであった。最初は売れずに、オアシスやエルヴィス・コステロのオープニング・アクトを務めてきたが、1995年にはポリドールと契約して、シングルを発表することができた。

 時はあたかもブリット・ポップの真っ盛りで、彼らもその流行に乗ったかのように見られていた。だからデビュー・アルバム「オール・チェンジ」は全英アルバム・チャートの7位を、2年後の1997年のセカンド・アルバム「マザー・ネイチャー・コールズ」は3位まで上昇した。

 このサード・アルバムの「マジック・アワー」を発表したときには、ブリット・ポップの波はもう過ぎ去っていて、だからというわけでもないだろうが、このアルバムが彼らにとって最後のヒット・アルバムになってしまった。

 彼らはこのあともう1枚アルバムを発表したが、売れなかった。レゲエやブラック・ミュージック寄りのアルバムだったからだと言われている。
 それで2001年には一度解散したが、2010年には再結成して、活動を再開し、2012年と2017年にはそれぞれスタジオ・アルバムを発表している。Localheroescasttoplayatliverpoolsou
 キャスト自身は、むしろアルバムも売れていて知名度もあるバンドだったが、自分には1枚のアルバムを通してしか、お付き合いのないバンドだった。彼らのファンには申し訳ないが、残念ながら、それほど食指が動かなかったのである。

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2018年7月 2日 (月)

オクトパス

 西洋では、タコは悪魔の魚とか、漁船や人間を海に引きずり込む海の怪物みたいな扱いをされていて、決して食用にはされない。正確に言うと、イタリアやギリシャなどでは食べられているものの、もっと北の方では網にかかっても捨てられてしまうようだ。

 これは、タコが自分の足を食べるという話から、キリスト教では守銭奴のシンボルとして扱われていたり、毒素や催淫作用が含まれているといった俗信によるものらしいのだが、タコにとってはとんだ迷惑な話である。
 実際には、タコにはタウリンがたっぷりと含まれていて、疲労回復や中性脂肪の減少に効果があると、医学的に裏付けられているからだ。

 だから、西洋の人にとっては、タコの英語名であるオクトパスには、あまりいい印象を持っていないのではないだろうか。918
 1995年に、イギリスでオクトパスというバンドが結成され、翌年にアルバムを発表したものの大した結果を残すこともなく解散してしまったが、その原因もバンド名が悪かったのではないかと思っている。「オクトパス」ではなくて、「オクトーバー」とか「オクタビアヌス」、もしくは似たような生き物である「スクゥイッド」か「キャトルフィッシュ」にすれば、もっと売れたのではないかと思ったりもした。

 冗談はこれくらいにして、この「オクトパス」というバンドの唯一のアルバム「フロム aトゥ b」は、結構イケてるアルバムだと思っていたから、このバンドは売れるに違いないと思っていた。ところが、結果は散々でさっぱり売れなかった。なぜだろうか、よくわからない。

 このバンドは、基本的には4人組だった。基本的というのは、当初は4人だったようだが、アルバム制作にはトランペットやハーモニカ、キーボード奏者などが加わっていて、最大8人くらいまでにはなっていた。だから、アルバム・ジャケットの写真には、いろんな人が写っていた。

 彼らはイギリスのグラスゴー近くのランカシャー、ショッツという街で結成された。最初はみんな学校の友だち同士だった。のちにフランス人のドラマー、オリヴァー・グラセットという人が加入するのだが、この人は元テロリストだったという噂があった。

 また、ハーモニカ奏者のニック・レイノルズという人は、有名な列車強盗だったブルース・レイノルズの息子という話もあった。ちなみにブルースの列車強盗事件については、のちに映画になり、フィル・コリンズがその役を演じていた。

 そんなどうでもいいエピソードも伴いながら、彼らはバンドを結成して、当時のブラーも契約していたフーズ・レコードからデビューした。
 彼らのデビューには、ブラーのデーモン・アルバーンの後ろ盾もあったようで、彼らは間違いなくビッグになるとまで言って、応援していたようだ。

 彼らの音楽性は、一言で言うと、サイケデリック・ポップ・ミュージックである。ちょうど60年代後半のイギリスの音楽シーンに出てくるジュライやスティーヴ・ハウも在籍していたトゥモロウのような感じだ。それらの音楽をもっとポップ化したらこう成りましたよという感じの曲が目立つのである。

 メンバーの一人、ギター&ボーカルのマーク・シェアラーは、次のように述べていた。『オクトパスは取っ散らかったバンドなんだ。僕たちは世界一のバンドになろうとは思わないし、なれないのはわかっている。最も重要なのは、いい曲があるかってことなんだ』、『僕たちは、曲を狭いところに押し込めておこうとはしないつもりだ。一つの形のサウンドしか持っていないバンドが多すぎるし、彼らはそれしかできない。そういうのは好きじゃないし、うんざりしているんだよ』

 なんかえらい鼻高々というか、高慢な気がするが、実際に彼らの曲を聞くと、確かに新人バンドとしては、出来過ぎのようなポップ・アルバムに仕上げられていた。彼らも自信を持って発表したのだろう。

 1996年に発表されたアルバム「フロム a トゥ b」には、15曲(日本盤には17曲)収められていて、どこをきってもポップ風味満載だった。6114ugoczl
 1曲目の"Your Smile"はセカンド・シングルに選ばれた曲で、全英シングル・チャート42位まで上昇した。ホーンとストリングス・キーボードのアレンジが、ザ・ビートルズ中期の音楽性を有している。

 基本的に彼らの楽曲はアレンジが素晴らしく、音の装飾については優れていると思う。また、ドラムスがバタバタしていて、何となくリンゴ・スターのドラミングを思い出してしまった。
 2曲目の"Everyday Kiss"もトランペットがぐるぐる回っていて、「リボルバー」や「マジカル・ミステリー・ツアー」の中の曲を連想してしまった。

 エンジンがかかってくるのは3曲目の"If You Want to Give Me More"あたりからだろう。アップテンポのこの曲はノリがいいし、シングル向きでもある。
 ギターのアルペジオが美しい"Kong for A Day"はバラード・タイプでもあるが、途中からサイケデリックな音響空間に導かれ、トリップ感覚も味わうことができる。あえてこういう曲形式をとったのだろう。

 サイケデリックといえば、6曲目と10曲目にはタイトルが付けられていなくて、無題である。6曲目はピアノやキーボードが中心になっていて、それにハーモニカやトランペットが並奏していくスローなインストゥルメンタルだった。
 10曲目は22秒しかない間奏扱いの曲で、楽曲というよりは、サウンド・コラージュとして曲と曲をつなぐブリッジ的な役目を果たしているようだ。

 7曲目の"Jealousy"も管楽器が大きくフィーチャーされていて、ミディアム・テンポの印象的な曲だった。この曲は、このアルバムからの4枚目のシングルに選ばれていて、チャートの59位まで上がっている。

 彼らの最初のシングルは"Magazine"という曲で、このアルバムの中盤8曲目に配置されている。これは疾走感あふれる佳曲で、まさに若さに任せてブッ飛ばしていますというような曲だった。これは売れただろうと思ったのだが、実際は90位と低迷した曲になった。これが売れなかったところが、彼らの不運を象徴していたようだった。

 アルバム・タイトル曲の"From a to b"は、幻想的な雰囲気を持った静かな曲で、ギターのアルペジオと広がりのあるキーボード・サウンド、ハンド・クラッピング、鈴の音などが神秘的で荘厳なたたずまいを表現していた。

 ついでに3枚目のシングルに選ばれたのが、11曲目の"Saved"であり、これまたゆったりとしたミディアム・テンポの曲だった。チャート的には40位とまあまあ健闘していた。
 個人的には、この曲よりももっとテンポの速い"Theme from Joy Pop"の方が、パンキッシュで好きだし、ザ・ビートルズの"She said, She Said"をスロー・バラードにしたような"Night Song"の方が、売れるのではないかと思ったりもした。

 そして、"In This World"は、それほど凝っていないストレートなポップ・ソングで、途中でファルセットで歌われるところなんかは、ボーカルのマークの上手さがよく表れていると思った。やはり、バンド活動後にすぐにレコード・デビューできたのだから、それなりに音楽的能力が高かったのだろう。デビュー時の彼は、ジュリアン・コープの再来とまで言われていたからだ。

 最後に、このアルバムには、ザ・ビートルズの「サージャント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」のように、秘密のメッセージが隠されているという。そのメッセージは、アメリカの作家サリンジャーの作品から引用されていたようだが、そのことに気がついた人は誰もいなかったようだ。まさに本当の“シークレット・メッセージ”になってしまったのである。

 結局、このアルバムが売れなかったのは、あまりにもバラエティに富み過ぎていて、ファンとしては全体像がつかみにくかったからではないだろうか。
 確かにブリット・ポップの時代だったから、レコード会社はこの手の音楽も売れると思ったのだろうが、残念ながら、そうはならなかった。

 ブリット・ポップの時代と言っても、何でも売れるというわけではなかったようだ。このアルバムの場合は、躍動感のある曲がもう2,3曲あれば、もっとバランスの取れた良いアルバムになったし、アレンジを簡素化してメロディの美しさで勝負をすれば、もっと売れたと思うのだがどうだろうか。

 ただ、個人的には結構気に入っていて、今でもたまに聞くことはある。おそらくあと20年もすれば、20世紀末の隠れた名盤として、再評価されるのではないかと期待しているのである。

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2018年3月19日 (月)

マルーン5の新作

 今月は、テンプルズやサム・スミスなど、ファルセット(裏声)を上手に使って熱唱するシンガーの特集のような気がする。特に意識してそうしているわけではないのだが、何となくそうなってしまった。

 ファルセットといえば、元ロキシー・ミュージックのブライアン・フェリーやもう亡くなって久しいけれど、元ユーライア・ヒープのデヴィッド・バイロンなどが記憶に残っている。1970年代の当時では、ハード・ロック・バンドのボーカリストには高い声を出すことが求められていて、例えばロバート・プラントやイアン・ギランなどは、その最たるものだった。

 それをファルセットによる高音で歌ってしまうと、ちょっと邪道じゃないのというような風潮が漂っていた感じがしたものだ。ファルセットならある程度の高い声は出せるからである。
 可哀そうなデヴィッド・バイロン、上手なボーカリストだったのに、正当な評価を得られないままと言い切ってしまっていいのか躊躇するが、少なくとももう少し有名になってもよかったのではないかと、ずっと思っているのである。

 まあそれはともかく、今回もファルセットの上手なシンガーのいるバンドの最新アルバムを紹介することにした。アメリカのバンドであるマルーン5の「レッド・ピル・ブルース」で、昨年の11月に発表された。81wm40a9dl__sl1500_
 マルーン5といえば、2001年のデビュー以来、世界中で2500万枚以上のアルバムと9000万枚以上のシングルを売り上げているモンスター・バンドだ。名前の由来はメンバー間で秘密にされていて、口外されていない。
 ただ“5”については5人メンバーだからという理由が濃厚なのだが、いつの間にか彼らは7人編成のバンドになってしまったので、そうなると“マルーン7”と改名しないといけなくなるだろう。77294
 いずれにしてもマルーン5は、相変わらず素晴らしいアルバムを発表してくれた。前作の「Ⅴ」から約3年がたっての発表だが、R&Bやソウル・ミュージックをベースにしたポップ・ソングの数々は、流行をきちんと押さえながらもキャッチーでポップな楽曲で占められている。

 このアルバムのタイトルについて、リーダーのアダム・レヴィーンは次のように述べている。『タイトルは映画の「マトリックス」に出てくる赤い錠剤から取ったんだよ。映画の中でレッド・ピルが象徴していた「知識、自由、苦痛を伴う真実」とともに、ポップ・カルチャーが持つ楽しさも反映させているんだ』

 しかし、このアルバムが象徴しているものは、楽しさだけではなくて、今のアメリカ社会の怒りや悲しみも込められているようだ。再びアダムのコメントに耳を傾けてみよう。

 『僕たちはみんな辛い日々を送っていると思う。良いとは言えないようなことがたくさん起きている。ものすごく醜いことが、ものすごい毒が、ものすごい人種差別が、ものすごい悲しみが、ものすごい怒りが、少なくとも僕らの国には間違いなく渦巻いている。
 だからこそ、その中でどうやってそれに向き合い、生きていくのか、それなりの方法を見つけなくてはいけない。このタイトルにしたのもそういう理由だったんだ』

 とにかく、時代に自覚的なミュージシャンたちは、今の時代が恵まれているとは思っていないようだ。上のアダムのコメントにもあるように、アメリカ人のみならずヨーロッパのミュージシャンたちも先行き不透明で混沌とした時代状況に警鐘を鳴らしていて、そういうメッセージを含んだ曲や、ダークでヘヴィな音を鳴らしている気がしてならない。

 もちろんマルーン5の場合もまた、そのような時代にいる自分達の存在理由を自分たちのサウンドや楽曲で詳らかにしようと取り組んでいる。

 彼らは、音楽の力を信じている。音楽には人の気持ちを癒す力があると考えている。アダム自身も音楽があることによって、人生がより良いものになっていると述べていた。

 自分たちの作品が必ずしもそうとは言えないと謙遜はしているものの、音楽には抗えない力とパワーがあると考えていて、そしてそれを証明するかのように、このアルバムの中でも悲しい曲は悲しいままに、ハッピーな曲は周囲を巻き込むかのように、曲を通してエネルギーを発散しているのである。

 もう一つの特徴としては、最近のヒット・アルバムは、個人やバンドの力というよりは、プロジェクト・チームのように集団でアルバムを作り上げていくパターンが多い。昔はせいぜいプロデューサーやエンジニアの意見を取り上げて、あとはバンドのメンバーで決定するくらいだったのが、今では優秀なメンバーで構成されるプロダクションが楽曲を提供したり、アルバムの方向性を決定づけたりする場合が多い。

 例えば、イギリスのアデルやサム・スミス、エド・シーランなどのアルバムも同様で、ミュージシャンは曲作りには参加するものの、すべて自分の力でマネージメントはしていない。

 マルーン5のこのアルバムも同様に、ベニー・フランコやジェイソン・エヴィガン、ジョン・ライアンなど大物有名プロデューサーが関わっている。(彼らはマドンナやワン・ダイレクションなどを手掛けたようだが、残念ながらそのほとんどの人をよく知らない。悲しいかな、時代に追いつけない自分がいる)

 また、曲作りにもジャスティン・ビーバーの曲を作ったジャスティン・トランターやジュリア・マイケルズが参加しているし、さらにはミュージシャンとして、第60回グラミー賞で5部門を受賞したラッパーのケンドリック・ラマーや、急成長中の今をときめく女性R&Bシンガーのシザ、2012年のデビュー以後、瞬く間に全米を代表するラッパーになったフューチャーなど、今の最も旬なミュージシャンを起用しているところも、このアルバムの特徴だろう。

 このアルバムには捨て曲などはなく、どの曲も生き生きと輝いている。相変わらず起伏の激しいマルーン5節で歌われており、アダムのファルセットも効果的に使用されている。

 その中でも、やはりシザをフィーチャーした"What Lovers Do"やセカンド・シングルになった"Wait"、それにケンドリック・ラマーによるエド・シーランの雰囲気に似た"Don't Wanna Know"、フューチャーのライムが印象的な"Cold"などは聞き逃せないだろう。

 そして一番の問題作は、このアルバムのボーナス・トラックを除いての最後の曲になる"Closure"に違いない。何しろこの曲、11分28秒もあるのだ。
 普通、これくらいのタイムなら2、3曲分にして収録曲を増やすのだが、ここではあえて1曲でまとめている。519jlxgdhal
 しかもこの曲のボーカル部分は、最初の3分5秒くらいで終わるので、残りの8分あまりは演奏のみなのだ。
 そしてこのインストゥルメンタル・パートでは、ジャズっぽいギターと断続的なキーボードやサックスが淡々と流れて行く。まるで、スティーリー・ダンの曲のようだった。

 この辺が今までの5人組のアルバムの曲とは違う点で、ひょっとしたらマルーン5はR&Bやソウル・ミュージックをベースにしながらも、ジャズ的な雰囲気も持ち合わせたインストゥルメンタルのバンドとしても成長していくのかもしれない。そういう意味では、新たな旅立ちを予想させるアルバムでもあった。

 彼らは、今でもデビュー・アルバムの「ソングス・アバウト・ジェーン」を超えるアルバムを作るのを目標にしていて、このアルバムはそれを超えている自信があると言っていた。ポップ・ソングとヒップ・ホップを最初に結び付けて成功させたバンドという点にこだわっているのだ。如何にもマルーン5らしい話である。

 とにかくトータルな意味で、今を代表する素晴らしいポップ・アルバムである。上記にもあるように、プロダクション・チームの力に負うところが多いようだが、アダムの美しいファルセットは、このアルバムの全編を覆っている。
 神が人類に与えた最高の楽器は、声だとよく言われるけれど、このアルバムを聞きながら、まったく同感だと思っている。

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2018年3月12日 (月)

サム・スミスの新作

 昨年、サム・スミスの新作が発表されたが、これがもう現代のポップ・ミュージックの最高峰の部類に入る作品だった。

 サム・スミスについては、以前このブログでも取り上げたけれど、自分でも何と書いたか忘れてしまったので、もう一度確認すると、彼は1992年にイギリスのロンドンで生まれている。今年の5月で26歳になるので、まだ25歳の若者だ。Samsmith20180504as1200x600
 子どもの頃からアレサ・フランクリンやホイットニー・ヒューストンなどの女性R&Bシンガーに憧れて、自分も将来は歌を歌いたいとはっきりとした目標を持っていたようだ。
 義務制の学校を卒業した後は、音楽や演劇などの学校に入学し、専門的に音楽を学びながらジャズ・ボーカルの先生からプライベート・レッスンを受けながら実力を身に着けていった。
 その後、ジャズ・クラブなどで歌っていたところをアデルのマネージャーから声を掛けられ、本格的なプロ活動に従事していった。

 2012年に、ダンス曲を得意としていたディスクロージャーという兄弟デュオによるシングル曲"Latch"にボーカリストとしてフィーチャーされたことから名前が広く知られて行き、2013年のノーティー・ボーイのシングル曲"LaLaLa featuring Sam Smith"が全英No.1を獲得して以来、全英のみならず世界中で話題になってしまう。

 2014年には待望のデビュー・アルバム「イン・ザ・ロンリー・アウア」が発売されると、全英、全米をはじめ、世界中の多くの国でNo.1もしくはトップ・テンに入る結果になり、翌年の第57回グラミー賞では、6部門にノミネートされ、その中で最優秀新人賞、年間最優秀レコード賞、年間最優秀楽曲賞、最優秀ポップ・ボーカル・アルバム賞の4部門で受賞した。まさに男性版アデルである。(ちなみにアデルのデビュー・アルバムは2部門で受賞している)

 さらにアデルの後を追うように、映画「007」シリーズの第24作目「007スペクター」に新曲の"Writings on the Wall"を提供し、これまた全英No.1になっていて、まさに今を代表するR&Bシンガーとしての名声を確立している。(ちなみにアデルは第23作目の「スカイフォール」の主題歌を提供し、自らも歌っている)

 まさに飛ぶ鳥を落とす勢いのサム・スミスだが、デビューしてしばらくすると、ストレスのせいか少しふっくらとしてしまった。写真を見ればわかると思うけれど、全体的に丸みを帯びていて、顎のあたりが二重顎になっているのが分かると思う。このあたりはアデルとは対照的で、彼女は徐々にスレンダーになっていった。(ただし、妊娠後は体重が増え出産後はまた減少してしまった)In_1503_readaloudsamsmithphoto1_l

 2016年にはしばらく長い休みを取って、公の前から姿を消してしまった。ただ休みを取りながらも曲作りには取り組んでいたようで、時々その様子がSNSなどでアップされていたと言われている。

 またその間に、ダイエットに心がけており、グルテンフリーや野菜中心の食べ物の摂取に努めたという。だから、このセカンド・アルバムのジャケット写真のように、少し精悍な風貌に変容したのだろう。51x47twabl
 肝心の音の方はどうかというと、セカンド・アルバム「ザ・スリル・オブ・イット・オール」の方はデビュー・アルバムに比べて、やや落ち着いてしっとりとした雰囲気に満ちているようだ。
 デビュー・アルバム「イン・ザ・ロンリー・アウア」はテンポのよい曲もあれば、バラード曲もありといったバラエティに富んでいたが、セカンド・アルバムはちょっと違うのである。

 1stシングルになった"Too Good at Goodbyes"は失恋を歌ったバラード曲で、アルバムの冒頭に置かれている。
 実は2016年からのオフの期間に、彼は失恋を経験していて、その体験がこの曲に反映されているようだ。

 彼はインタビューの中で、この曲は相手のことを歌ったものではなくて自分の気持ちを歌っていると述べている。また、この曲は彼にとってのセラピーみたいなもので、この曲を作り、歌うことで、つらい過去を乗り越えることができるとも述べていた。

 この時の失恋の痛手から立ち直るために時間が少しかかったようで、本当はアルバム自体も2016年の終わりまでには発表する予定だったのが、約1年遅れたようなのである。よほど痛手だったのだろう。

 2曲目の"Say it First"もミディアム・テンポの落ち着いた曲で、彼の特徴であるファルセットが美しい余韻を残してくれるのだ。確かに今の欧米のシンガーの中で、声だけで人を感動させてくれる男性は、彼とアーロン・ネヴィルぐらいしかいないのではないだろうか。

 続く"One Last Song"もややロッカ・バラード調だ。ただ、彼の歌声は力強くて、ある種の決意表明をしているかのように聞こえてくる。
 "Midnight Train"もまた静かなサム流ゴスペル・ミュージックだ。これもまた失恋の曲で、心の整理がつかないまま、夜行列車に乗り恋人のもとを去っていく気持ちが歌われている。

 5曲目の"Burning"を聞いたときに驚いたのは、ピアノの雰囲気や曲調が鬼束ちひろの曲の雰囲気に似ている点だった。最初はアカペラの独唱で歌われ、途中で男声の多重コーラスとともに盛り上がっていくのだが、最初に聞いたときはまさに鬼束だと思った。

 次の"Him"は、もっとシンプルに始まり、途中で男女混成のコーラスが加わるが、バックの演奏はピアノとパーカッションくらいなもので、余計な装飾がない分、彼の美声がひきたっている。

 "Baby, You Make Me Crazy"はホーンやコーラスが施されていて、1stアルバムの中の曲の雰囲気に似ている。このアルバムのかではゴージャスな印象を受ける。この曲のテーマは恋愛なので、内容に合わせて明るくアレンジしたのだろう。

 8曲目の"No Peace"にはイエバという女性シンガーがフィーチャーされていて、ふたりでデュエットしている。
 イエバという人は、“ポスト・アデル”といわれているイギリス人シンガーで、エド・シーランのツアーのオープニング・アクトに起用されたことから有名になった。今後は日本でも人気が出るかもしれない。

 "Palace"という曲もまた静かな曲で、最初から彼のファルセットも全開しており、本当に夢心地になるというか、うっとりとさせてくれるバラード曲である。こんな曲を耳元で歌われたら、女性であろうが男声であろうが、一発でノックアウトされるだろう。

 "Pray"という曲もそのタイトル通りに“祈り”に満ちた曲だ。恋愛に対する“祈り”というよりも世界を覆う危機的状況や混沌として見通しのできない現状を変革するための“祈り”なのだろう。
 この曲でのサムのボーカリゼーションは見事で、低音から高音まで非常に技巧的に使いこなしている。このあたりがデビュー・アルバムより進化、成長したところだろう。

 日本国内盤では、ボーナス・トラックとしてあと6曲追加されているが、貧乏な自分は輸入盤しか聞いていないので、詳細は省略することにした。興味のある方は聞いてみるといいだろう。ひょっとしたら新しいサム・スミスの姿を発見することができるかもしれない。

 とにかく、成長したサム・スミスの姿を実感できるアルバムになっている。ただ残念なのは、全体的におとなしめのせいか、セールス的にはデビュー・アルバムを上回ることはできないでいる。

 デビュー・アルバムの方は全世界で1200万枚以上売れたのだから、この数字を超えることは厳しいだろう。全英のアルバム・チャートでは3位だったし、全米のビルボード・アルバム・チャートでは153位で終わってしまった。
 ただし、アルバム発表直後の週間チャートでは全英、全米を含む世界10か国以上で首位になっている。

 ただそういうセールスの結果について語ることは、あまり意味がない。このアルバムを通じて、サム・スミスの音楽的な愛情や成長を感じ、味わうことの方が大切だろう。

 このアルバム「ザ・スリル・オブ・イット・オール」は十分その資格があるし、彼の音楽的キャリアを深める充実した楽曲で占められているのだ。現時点では今の時代を反映した最高峰のR&Bアルバムなのである。

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2017年8月 7日 (月)

エド・シーラン

 現代の吟遊詩人といってもおかしくないと思っている。エド・シーランのことだ。自分は、もちろん彼のデビューした2011年から彼の名前は知っていたのだが、まさか、ここまでビッグな存在になるとは思ってもみなかった。Edsheeran2017leadpressshot_lo_res
 というのも、雑誌などでは彼の楽曲よりもその経歴の方が注目を集めていて、確かにラジオから流れてきた曲はよかったと思ったのだが、また新人が登場してきたなあという程度の認識しかなかったのである。

 何しろ、当時の彼のキャッチ・コピーは、“住所不定、職業シンガー・ソングライター”というものだった。如何にも何だか怪しい感じがすると思うのだが、そう思ったのは私一人だったのかもしれない。

 以前にも書いたけれども、イギリスの音楽界の新陳代謝は異様に早くて、人口は日本の半分くらいしかないのに、次から次へとニュー・カマーが現れてきて、しかもそのうちの何人かは世界的にもビッグな存在になってしまう。ジェイムス・ブラントにジェイムズ・モリソン、エイミー・ワインハウスにアデル、サム・スミス、そしてエド・シーランなどなどである。

 エド・シーランは、ウエスト・ヨークシャーのハリファックスというところで、1991年の2月に生まれている。人口8万人くらいの街だから、そんなに都会ではなさそうだ。
 ただ、エド以外にも有名ミュージシャンが誕生していて、元ユーライア・ヒープのボーカリストのジョン・ロートンや元トンプソン・ツインズの中心人物だったトム・ベイリーなどもいた。

 エドの父親はアイルランド人で、母親はイギリス人だった。幼い頃から両親、特に父親が流す音楽に影響を受けるようになり、4歳頃から教会の聖歌隊で歌うようになった。
 父親はボブ・ディランやヴァン・モリソン、ザ・ビートルズを聞き、エドはエミネムやグリーン・デイ、リンキン・パークなどを好んで聞いていたようだ。

 5歳からはピアノを習い始め、学校ではチェロやバイオリンも手にするようになった。やはり生まれつきの才能のようなものが輝いていたのだろう。

 11歳になると、テレビで見たエリック・クラプトンの影響で、ギターを手にするようになり、アイルランドのシンガー・ソングライターのダミアン・ライスのライヴを見て、自分もシンガー・ソングライターになろうと決心したという。
 
 何と影響を受けやすい人だと思うかもしれないけれど、これでその後の人生が決まったのだから、これはもう天啓みたいなものだったのだろう。

 ここからがエドのすごいところで、自分で曲作りを始め、14歳になるとループ・ペダルを買ってきて、アコースティック・ギターを弾きながら歌を歌い、デモ・テープを制作するようになった。

 16歳になると、とにかく1年365日音楽をやりたいと思い、ついには学校までも退学してしまう。そして、家を出て、時に友人の家に泊まりながら、時に路上生活者のような暮らしを送りながら、ストリート・ミュージシャンとして活動を始めるようになったのである。

 よくまあ、家の人が許したなあと思うのだが、それだけ彼には才能があると周りの人が認めていたのだろうし、まだ若いから失敗しても構わないと考えていたのかもしれない。

 いずれにしても、彼はアコースティック・ギターとループ・ペダルを持ってロンドンに出かけて、ストリートやパブのような居酒屋で歌うようになった。
 2009年には、年間312回のソロ・パフォーマンスを行い、ミニ・アルバム「ユー・ニード・ミー」も発表した。このあたりから徐々に彼の運命が好転していく。

 やがて彼のライヴは噂になり、人々に好意的に受けとめられるようになって、マネージャーも付くようになった。
 これは、もちろん彼の楽曲自体がもつ魅力もあったのだろうが、同時に、彼の明るくてポジティヴな性格も幸いしたに違いないだろう。

 翌2010年には、ミニ・アルバム「ルース・チェインジ」がイギリスのiTunesで1位になり、メジャー・レーベルのアトランティック・レーベルと晴れて契約することができた。

 そして、2011年にはメジャー・デビュー・アルバム「+」が発表される。この中からシングル・カットされた"The A Team"が大ヒットして、一躍彼は世界中に名前が知られるようになった。この曲は、チャートでは首位には立たなかったものの、グラミー賞の「ソング・オブ・ザ・イヤー」やブリット・アワードにノミネートされるくらい有名になった。41wad6qwa0l

 このアルバムを聞いての最初の印象は、21世紀のシンガー・ソングライター像を確立したなあということだった。

 今までのシンガー・ソングライターというと、ギター1本の弾き語りというイメージが自分の中にはあった。ところが、このアルバムでは、確かに基本はフォーク・ギターなのだけれども、ロックっぽい曲もあるし、ラップ調の曲も含まれていた。エミネムから影響を受けたのは間違いないようだ。

 要するに、エドの持つ音楽性が幅広いのである。ただ、アルバムの中盤になるとおとなしめの曲が続いていて、少し退屈さも感じてしまった。この辺はアレンジの問題だろうか。
 国内盤にはボーナス・トラックを入れて17曲が収められていた。そのうち、エドひとりで手掛けた曲は、"The A Team"、"Small Bump"、"Little Bird"、"Sunburn"の4曲だけで、あとはジェイク・ゴスリングなどの音楽パートナーと一緒に作っている。

 幅広いジャンルの音楽を含む新時代のシンガー・ソングライターによるアルバムだったが、基本的にはまだまだフォーク・ソングという雰囲気が色濃く残っていて、その辺はさすがに大英帝国の伝統を感じさせてくれた。

 このデビュー・アルバムは、イギリス国内では予約だけでゴールド・ディスクを獲得し、発売1週目で10万枚を超し、最終的に200万枚以上売れている。また、全世界では400万とも500万とも言われていて、よくわからない。それほど売れているのである。

 続くセカンド・アルバム「×」は、2014年に発表された。フォーク・ミュージックのシンガー・ソングライターというイメージから徐々に脱皮していく様子が、このアルバムから伺われた。81x21cxzizl__sl1425_
 何しろプロデューサーのひとりに、リック・ルービンを迎えているのだ。リック・ルービンといえば、ビースティ・ボーイズやRUN.D.M.C.の他に、メタリカやレッド・ホット・チリ・ペッパーズなども手掛けている大物プロデューサーだ。それにエミネムのアルバムも手掛けていたので、エドにとっては憧れのプロデューサーだったのだろう。

 それにリックだけでなく、"Happy"を歌ってヒットさせたファレル・ウィリアムスも曲作りやプロデュースに参加していたので、ヒップホップの要素も前作よりは強くなっている。
 だからというわけでもないだろうが、全体的に前作よりも黒っぽい気がした。ソウル色というよりは、やはりヒップホップやラップ色がところどころに浮かんできている感じだった。

 このアルバムでも共作が目立つ。自作曲は冒頭の2曲"One"と"I'm A Mess"、エミネム調の"The Man"、ポップな"Shirtsleeves"、映画「竜に奪われた王国」の主題歌である"I See Fire"の5曲で、残りの12曲は他のミュージシャン等とのコラボレーションだった。確かにこれなら売れるのは間違いないだろう。

 しかも前作からの約3年間で、120曲以上の曲を作りその中から厳選したものを、さらに友人たちと磨きをかけていったのである。
 そして没になった曲は、友人のテイラー・スウィフトやジャスティン・ビーバーに提供したのだが、それらの曲もまたヒットしたのだから、エドの才能は計り知れない。

 当然ながら、このアルバムも売れた。全米や全英でチャートのNo.1になったの当然のことで、iTunesでは全世界95か国で1位になり、全世界で1400万枚以上も売れている。
 デビュー・アルバムと合わせると、2300万枚以上と言われているし、フォーブス誌によると、2016年の1年だけでエドは約3300万ドルの収入があったそうである。

 2017年にサード・アルバム「÷」が発表されたが、これはもう21世紀の今の段階では、ほぼ完璧なポップ・アルバムだと思っている。81mvp7ip8l__sl1425_
 プロデューサーには、前作にも参加していたベニー・ブランコがいた。彼はマルーン5やケイティ・ペリーのアルバムなども手掛けていて、今どういうアルバムが売れるのかよくわきまえているミュージシャンでもあった。

 エドは最初から、とんでもなくポップなアルバムにしようと決意して臨んでいて、少なくとも3回は最初からアルバムを作り直したという。その間、数百もの楽曲が用意され、そのほとんどが没になっていった。まさにプロ・ミュージシャンとしての意地とプライドをかけたアルバム制作だったようだ。

 また、イギリスのバンド、スノウ・パトロールのメンバーでエドの友人のジョニー・マクダイドも曲作りに関わっていた。彼は、前作でも7曲をエドと共作していた。
 逆に、自作曲はバラードの"Perfect"と"Supermarket Flowers"の2曲だけにとどまっている。21世紀のシンガー・ソングライターは、ひとりで部屋に閉じこもるのではなくて、他の人と積極的にコラボレーションするという特徴があるようだ。

 だから、普通のフォーク調の曲だけではなく、ラップからソウル風のバラード、スペイン語まで駆使したダンス・ミュージックにアイリッシュ音楽まで、彼の守備範囲は限りなく広がっている。無いのはハード・ロックとプログレぐらいだろう。

 もともと才能のある人が、同じように才能のある人たちと一緒にアルバムを作ったらこうなりましたよという典型的な見本が、このアルバムだ。
 すでに、全世界14か国以上のアルバム・チャートで1位になっている。文明国でなっていないのは、ギリシャとメキシコと日本ぐらいなものだった。

 何しろアルバムを出すたびに、過去のアルバムもチャートに顔を出すのである。「÷」が発表された後にも、デビュー・アルバムの「+」とセカンド・アルバムの「×」が、イギリスのアルバム・チャートのトップ10に登場していた。恐るべし、エド・シーラン。今年の洋楽のシーンの顔は、彼を除いては他にいないだろう。

 面白いことに、アルバムの中では、新時代に相応しい楽曲や制作方法をとってきたエドだが、ライヴにおいては、昔も今もストリート・ミュージシャンのように、ギター1本で勝負している。

 たとえば、2015年の7月にはイギリスのウェンブリー・スタジアムにおいて3日連続で公演を行い、3日間ともソールド・アウトにしている。その時の観客動員数は3日間で計約24万人だった。

 アリーナの収容人数は最大で9万人である。それらの人の前で、ギター1本とループ・ペダルだけで歌い切ったエドは、確かに本物のシンガー・ソングライターに違いない。
 また、今年の5月1日から3日までロンドンのO2アリーナで公演を行ったが、こちらも3日間連続でソールド・アウトになっている。この時は、約6万人のファンが集まったということだった。Vipirelandimage149579620x434
 アルバム・タイトルの「+」は、自分のよいところが出せるようにという意味で、つけたタイトルだった。次の「×」は、前作以上の結果が出せるようにとつけたタイトルだった。そしてその目標は達成できている。さて、「÷」とはどういう意味なのだろうか。

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2017年7月 3日 (月)

ジョン・デンバー

 さて、7月になった。7月の第1回目は、ジョン・デンバーである。特に意味はないのだが、今の日本ではもうその名前も忘れ去られているような気がしたので、彼の素晴らしさを再確認する意味でも少し記してみようと思った。

 ジョン・デンバーも、よく考えたら、いやよく考えなくても、1970年代のシンガー・ソングライターの一人だった。20161117091425583
 当時のシンガー・ソングライターは、どちらかというと時代の空気を反映したようなダークでブルーな曲を書いて歌う人が多かった。つまり、60年代に起きたベトナム戦争に対する反抗(学生運動)やヒッピー・ムーヴメントに対する失望感が反映していたのではないだろうか。

 その結果、無力感や厭世観が若者の間に流行っていき、日本では“シラケ世代”などと呼ばれていたし、諸外国でもドラッグに手を染めたり、社会からドロップアウトしていった人もいたように思う。

 だから1970年代の中頃にもなると、シンガー・ソングライターは、“怒れる若者の代弁者”ではなくて、日常の風景を切り取ることで、若者に“安息感”や“空虚感”を提示しようとしたのではないかと思っている。ジェイムズ・テイラーやジャニス・イアン、キャロル・キングなどのアルバムが売れたのも、先鋭的なメッセージがもう必要とされなくなった、そんな時代だったからではないだろうか。

 でも、ジョン・デンバーのイメージは、ちょっと違うような気がする。彼の曲を聞くと、明るくて希望のある、もしくは楽天的な気分にさせられるからだ。
 彼自身も、当時の雑誌などで『世界がなんで素晴らしいとこなのか、僕が歌うから聞いてくれ。なぜ肯定的なのかというと、すべてがいつも新鮮だからさ』と発言していた。

 彼の本名は、ヘンリー・ジョン・デューチエンドルフ・ジュニアといった。名前からわかるように、祖先はドイツ系の移民だった。彼の“デンバー”という名前は、のちに自分の好きなアメリカの都市の名前を選んだことによる。

 ジョンは、1943年の大晦日に、ニューメキシコ州のロズウェルで生まれた。父親が空軍のパイロットだったため、幼い頃から引っ越しを繰り返していたようだ。
 祖母がギターを買ってくれたため、子どもの頃から練習を始め、高校時代にはロック・バンドで演奏していた。

 テキサス工科大学では建築学を専攻していたが、学校に行くよりはクラブやバーなどで演奏することの方が多くなり、最終的には退学している。
 彼は、フォーク・グループのチャド・ミッチェル・トリオに参加して3年間ほど活動した後、1966年にアルバムを自主制作した。

 そのアルバムの中に、のちにピーター、ポール&マリーが歌って1969年の12月に全米No.1に輝いた"Leaving on A Jet Plane"が含まれていた。ピーター、ポール&マリーにとっては最初で最後の首位になった曲だった。
 ただ、この曲のオリジナル・タイトルは"Babe, I Hate to Go"というもので、ピーター、ポール&マリーのプロデューサーだったミルト・オクンがタイトルを変更している。

 この曲のヒットのおかげで、彼は1969年にデビュー・アルバムを当時のRCAレコードから発表することができた。
 1971年8月には、シングル"Take Me Home, Country Roads"が全米2位のヒットを記録し、翌年には"Rocky Mountain High"がビルボードのシングル・チャートの9位に顔を出し、この後徐々にヒットを出すようになった。

 1973年の3月には、"Sunshine on My Shoulders"がついにチャートで1位を記録した。この曲は、それまでの陽気で幸福感の満ちたメジャー調の曲ではなくて、マイナーな雰囲気を持つものだった。その理由を彼は、次のように述べている。

 『落ち込んでいたから、ブルーな感じの歌を書きたいと思っていたんだ。僕の歌の楽天性を嫌がる人は多いけれども、レコードを聞いてもらえれば、苦しみも歌っているということが分かると思うよ』

 さらに翌年の1974年7月には、"Annie's Song"が2週間連続でチャートの首位に輝いている。
 この曲は、大学時代の恋人で1967年に結婚したアン・マーテルについて書いた曲で、スキー・リフトに乗りながら約10分程度でできたという。アメリカの雑誌「ピープル」は、この曲を評して、ジョン・デンバーが書いた最も素晴らしいラブ・ソングであると述べていた。

 この時、ジョンはスイスにいた。実は、ジョンとアンの間に溝ができていて深刻な状況だったらしい。
 ジョンは一人で家を出て、スイスに旅行に出かけた。6日間の旅行だったが、アンにとっては3ヶ月くらいに感じられたようで、結局、アンから涙まじりの長距離電話がかかってきて、ジョンはアメリカに戻ったのである。

 ただ運命は皮肉なもので、彼らの結婚生活は1983年に終わりを迎えた。16年間という期間だったが、ジョンにとっては最も幸福な期間だったと述べている。確かに、この間に彼の人気はピークを迎えていたのは、間違いないことだった。41e24n6ab5l_2

 ジョンには彼が歌った曲の中では、4枚の全米No.1がある。3枚目は1975年6月に1週間だけ首位に立った"Thank God I'm A Country Boy"で、元々は1974年に録音された曲だった。
 曲を書いたのはジョンではなく、彼のバンドのギタリストだったジョン・マーティン・ソマーズだった。

 1975年は、彼のやることなすことがすべてうまくいった年だった。彼が出演したテレビ番組「アン・イヴニング・ウィズ・ジョン・デンバー」がエミー賞の最優秀音楽バラエティ番組賞を受賞したし、カントリー・ミュージック協会の年間エンターティナー賞も獲得している。

 また、彼の関心は自然に向けられ、自然との調和や環境保護にも関心を抱くようになった。そのために財団を創設し、環境保護や飢餓対策のための運動を積極的に推進し、援助するようになった。

 また、飛行機操縦のライセンスを獲得し、自家用機を使って講演活動などにも積極的に関わるようになった。この時期の彼の活動は、音楽のみならず人道支援活動など、幅広く行われていたのである。

 そしてまた、この年には、もう1枚シングル曲が全米No.1を獲得している。これも1週間だけ9月に首位になった"I'm Sorry/Calypso"という曲で、両面ヒットを記録していた。

 "I'm Sorry"が首位に立った後、アメリカのラジ局は"Calypso"を積極的にオンエアしていた。この曲は、フランスの海洋科学者であるジャック・クストーの功績を讃えて、彼が使用した調査船カリプソ号にちなんで作られた曲で、"I'm Sorry"がヒット中に、この曲もまたシングルのサイドAとして認定された。

 『僕は、人がみんな人生のうちでいつかは静かなところに行って、山のふもとの湖のそばに腰かけて、嵐が行ったり来たりするのを聞くことができたらなあと思う。そこには美しい音楽があって、ただそれに耳を傾ければいいんだ』いかにもナチュラリストらしい言葉だと思う。これが高じれば、プログレの世界になるのだが、その一歩手前で留まっているところが、ジョンらしい。

 この後、コンスタントにアルバムやシングルを発表するも、大ヒットにはつながらなかった。一つは、彼の興味・関心が映画やテレビの世界に移り、映画に出演したり、グラミー賞授賞式やテレビ番組の出演やMCを担当するようになったことも影響があっただろう。

 また先ほどにも述べたように、16年間の結婚生活にピリオドを打ったということも、ジョンに何らかの影響を与えたに違いないだろう。

 それでも80年代にはサラエボでの冬季オリンピックのテーマ曲を歌ったり、ニューヨークで写真の個展を開催したりと、多彩な活動を展開しているし、ユニセフ基金のスポークスマンも務めている。

 残念なことに、1997年の10月12日に、自身が操縦していたセスナ機が墜落して、彼は帰らぬ人となった。享年53歳だった。
 カントリー&ウェスタンの影響を受けながらも、フォーク・ソングを中心とした彼の音楽は、新しい形としてのシンガー・ソングライター像を示したと思っている。83w8387839381e83f839383o815ba
 それはポップ・ミュージックの範疇として語られる音楽かもしれないが、それだけ多くの人を引き付ける魅力が、彼の作った曲に備わっていたということだろう。彼の早すぎる死が悔やまれてならないのである。

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