2013年8月15日 (木)

昭和天皇・マッカーサー会見

 数日前に「終戦のエンペラー」という映画を見に行った。貧乏なので、もちろん1000円で見られる日を選んでひとりで行った。

 映画の趣旨は、要するに昭和天皇に戦争責任があるかないかを一人の進駐軍の高官が調査し、それをマッカーサー最高司令官に報告すると、マッカーサーはそれでは直接調べようと司令部に呼び出すというものであった。
 映画なので、もちろんいくつかのフィクションも含まれてはいるのだが、天皇やマッカーサーは当然のこと、調査にあたった主人公のボナー・フェラーズ准将や通訳だった奥村勝蔵などは実在の人物である。Photo_2
 それにこれはフィクションだろうけれど、フェラーズ准将の恋愛話や、マッカーサーと天皇とのツー・ショット写真の経緯も語られていたのだが、映画の出来としてはもう少しディテールにこだわってほしいなあと思った。所詮100分程度で、終戦秘話を語ること自体に無理があるのだが…
 ただマッカーサーが天皇を呼び出すというくだりが本当にそうだったのかは、実に疑わしい。というよりも実際はその逆で、天皇の方からマッカーサーに会おうとしたらしい。

 それが詳細に書かれているのが、左派系の学者、豊下楢彦が書いた「昭和天皇・マッカーサー会見」(岩波現代文庫)である。

 自分は昭和天皇とマッカーサー司令官の会見は1回だけだろうと思っていたし、映画のストーリーのように、マッカーサーの方から天皇を呼び出したと思っていたのだが、それは史実とは違うということがわかった。

 実際の会見は1回では終わらずに、11回にも及んだという。また、マッカーサーが罷免されたあと新たに最高司令官に任命されたリッジウェイとの会見も7回行われた。いずれも昭和天皇の方からの指示だったという。

 またその理由も戦争責任を認めるというよりは、立憲君主として政治に介入したくなかったし、戦争突入は時の軍部、特に東条英機の責任が大きいというものであった。

 要するに、昭和天皇は立憲君主という立場の説明と、天皇制維持(国体維持)がマッカーサーとの会見の主な目的だったということである。

 確かに昭和天皇に戦争責任を認めさせ、何らかの処罰を、特に絞首刑などを執行すれば内乱が起こるか、少なくともその後の戦後処理はそう簡単には収まらなかっただろう。そうなれば、その後の日本の対米感情や両国の関係もかなり違ったものになっていただろう。

 不思議なことに、日本が一番親しみを持つ国がアメリカであり、日本にはアメリカの文化が多大に影響を及ぼしているが、戦争をして負けた国がそういう国民感情を持つというのも珍しい。

 同じ日本国内でも会津(福島)と長州(山口)が和解したように見えたのは、福島原発事故のせいで福島市が萩市の物資の補給を受けたからだった。
 それまではまだ友好関係は持てなかったのだ。1986年に萩市が「もう120年たったから友好都市を締結しよう」といったのに対して会津若松市の方は「まだ120年しかたっていない」といってこれを断ったという話は有名になった。

 
 話を元に戻すと、昭和天皇の身にもし何かあれば、それこそイラクに駐屯するアメリカ部隊のようになっていただろう。マッカーサーとしては自身の大統領選への立候補という野心も手伝ってか、自分の行政能力が評価されるように早く戦後処理をしたかったに違いない。

 また昭和天皇のマッカーサーとの会見は新憲法発布後も行われていて、象徴天皇になったにもかかわらず、天皇としての政治力、外交力を発揮していったと書かれている。それは日本を取り巻く国際関係の変化(冷戦)によるもので、もし日本が中国のように共産化してしまえば、天皇制が廃止される可能性が高いからというものであった。

 本書によると、昭和天皇は新憲法発布やサンフランシスコ講和を喜んでいたようで、それはこれにより天皇制が護持されたからである。新憲法が“押し付け”憲法といわれているが、1945年9月に設置された旧ソ連を含む極東委員会がマッカーサーの頭越しに権力を発揮するようになれば、新憲法の内容がどうなったかわからない。この委員会が機能を発揮する前に先に憲法を決めようとして、作成されたとのことだ。2_2 また詳細は省くが、現在の沖縄での米軍駐留について、いわゆる日米安全保障条約の締結においても昭和天皇による口頭と文書によるメッセージがあったからだとされている。

 個人的にはどこまでが真実かわからないが、一読した限りでは説得力があった。それは筆者の空想によるものではなく(部分的には推論のところもあるが)、少しずつ公表されている公文書などによる文証があるからだ。(宮内庁による2002年の公開資料や「豊田メモ」、「卜部日記」など)

 マッカーサーは日本をスイスのように永世中立国にしようと思っていたらしいが、結果論としてはそれは不可能になった。むしろ自衛隊などではなく、自前の軍隊を持つか持たないかと議論されているのが現状だ。これが歴史の流れというものだろうか。今となれば昭和天皇も受け入れた憲法第9条が、こんなに問題になるとはだれも予想していなかっただろう。

 結局、大事なことは自分の頭で考えることだろう。また、もう少し自分の国の歴史について正しい知識を備えておくことは大切なことである。自分は自国の歴史について知らないことが多すぎた。時にはこういう本を読んで、考えることは必要だと思っている。

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2013年2月 5日 (火)

永遠の0

 久しぶりに本を一気読みをした。百田尚樹著の「永遠の0」である。文庫本で600ページ近いボリュームなのだが、3日間くらいで読み終えた。しかもその余韻はまだ続いていて、こうしてブログにも書き込んでいるのだ。

 この本は単行本で2006年に、文庫本でも2009年に発表されているので、自分は遅ればせながら読み終えたという感じだ。
 評判はかねてより聞いていて、本屋でも100万部を越えたベストセラー本として大きな広告が出されていたし、テレビでも様々な芸能人が感動した本、涙を流しながら読んだ本として紹介もしていた。

 だから何をいまさらと思っている人もいるかもしれないが、良い本は良いわけだし、また自分の気持ちを落ち着かせるためにもネタバレを覚悟で、一言書かせてもらった。

 自分は最初、書名を見たとき何のことなのか分からなかった。文庫本の後表紙に簡単なあらすじがあったので、それを読んで“0”とは“ゼロ戦”のことだとわかった。要するにこの本は、戦争文学なのである。

 しかし、ただの戦争文学ではない。太平洋戦争のルポルタージュでもなければ、ゼロ戦についての研究本でもない。ゼロ戦搭乗員の宮部久蔵の生き様を通して、人を愛することや人としての生き方を考えさせてくれる小説なのである。0_2

 またミステリー的な手法も斬新だと思った。主人公の宮部は生きて絶対に帰ってくると、妻と幼子に誓ったのにもかかわらず、なぜか終戦の約1週間前に特攻隊員として南西諸島に出撃し、戦死してしまう。

 あれほどまでに生きて帰ることを誓い、それに執着していたのに、なぜ100%死ぬことが分かっていた特攻隊に参加したのか、その理由を知るために孫である2人の姉弟が戦友会を通して当時の関係者にインタビューをしていく。その過程がミステリー的なのであった。

 例えて言うなら、芥川龍之介の「藪の中」のようで、各関係者の言うことが少しずつ違ってくるのだ。
 最初は、“あんな臆病者はいない。帝国軍人の恥さらしだ”と言われるのだが、次の人からは、“天才的な操縦士だった”とか、“臆病というよりは、自分の命を大事にしている人だった”、あるいは“厳しい上官がいる中で、あんな優しい人はいなかった”、“自分にとっては命の恩人だ。同時に他人に優しすぎて、あの人は心の中で苦しんでいた”という具合に、徐々に真実が分かっていく。そのストーリー展開に手に汗握るのである。

 そして最後にアッと驚くどんでん返しというか、ビッグ・サプライズが用意されていて、百田尚樹という人は、ストーリー・テラーとしても素晴らしく才能のある人だと思った。言ってみれば、日本のフレデリック・フォーサイスのような人だと思う。

 詳細を書くと未読の人に申し訳ないので省略するが、孫の姉弟にとって宮部久蔵という人がどういう人だったのか、そのリアルさが物語の始まりと終りでは180度変わっていく。その落差が素晴らしい。当たり前で恐縮だが、これは読んだ人でないとわからないだろう。

 また戦争文学としては、戦争の愚かさ、人命の儚さ、軍隊組織としての非条理さなどが描かれ、戦争を知らない世代の人にも当時の状況がよくわかる。特に軍指導部の自己保身ぶりには、開いた口がふさがらなかった。
 また真珠湾攻撃からその後の歴史を運命づけたミッドウェー海戦、珊瑚海海戦、レイテ沖海戦、ガダルカナル島戦等々、史実に基づいての歴史的経過も描かれていて、太平洋戦争の戦史として読んでも面白い。

 それにゼロ戦とグラマンとの空中戦や特攻隊の誕生の経緯など、ゼロ戦ファン、戦闘機マニアにとってもたまらない内容だと思う。しかもその描写が、まるで目の前で行われているような生き生きとしたものになっていて、次の展開が待ち遠しく思われ、思わず時間を忘れて読み耽ってしまった。

 個人的には、当時の軍部や政府におもねり、戦後は一転して当時の戦争指導者を非難し、アメリカ礼賛を繰り返し行った新聞社や、特攻隊と9・11などの自爆する現代の過激派とを同列視する姉の恋人に対する批判を、登場人物の口に語らせているところが良かった。その恋人と姉が結婚するかどうかも気になったが…

 ただ最近は年をとったせいか、感性が鈍ってしまったようで、結末については、さもありなんと思い、涙は出なかった。自分が情けなくて、それが残念でならない。
 昔は例えば兄が戦死してしまい、その弟が義理の姉、つまり兄の嫁と結婚するということはよくあったと聞いていたからだ。昭和時代の結婚観では、家と家の結びつきが強いという習慣が色濃くあったのだろう。

 よく考えれば、戦争が終わってまだ70年もたっていない。わずか60数年前に、お国のためではなく、愛する自分の妻子や両親のために自らの命を犠牲にしてまで戦う人たちが、しかもまだ10代の後半から20代の前半の若者がいたという事実を前にして、自分は語るべき言葉もない。
 戦後60年以上たって、確かに日本は経済的に立ち直り、人々の生活は豊かになって、世界のトップ・リーダーのひとつに数えられるようになったが、果たして国民の精練度としては、どれほど高まっているのだろうか。むしろ有限の生を自覚し、それを完全燃焼させた、あるいはさせられた人たちの方が、人としては数段優れていたのではないかと考えさせられてしまった。

 鹿児島の知覧には、この場所から飛び立っていった特攻隊の記念館が設立されているが、そこにある彼らが書いた手紙はとても二十歳そこそこの人が書いたとは思えないほど、字が整っていて綺麗である。
 手紙を書いたそのときから、数時間か数日後にはこの世から自分が消えてしまうことがわかっているにもかかわらず、これほど落ち着いた字が書けるのか、また、人前では決して涙を見せずに淡々と死地に赴いたという事実が、来館者の涙を誘う。

 政治的に右寄りであれ、左寄りであれ、いたずらに人の命を、人生を弄んではいけないというのは理解できるはずだ。現代の戦争は、湾岸戦争以来、まるでTVゲームのように無機質で、無感覚なものになっている。しかし、それでも戦争によって、人生を絶たれる人はあとを絶たない。

 日本人として決して忘れてはいけないことを、あらためて教えてくれた稀有な本だと思う。できるだけ多くの人に、しかも若い人に読んでもらいたい一冊である。
 この小説は映画化されて、今年の12月には公開されるらしいが、変な戦争礼賛映画にならず、人の生き死にを真摯に描いてほしいと思っている。

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2012年9月22日 (土)

ロスト・シンボル

 読書の秋ということで、本を読んだ。ダン・ブラウンの「ロスト・シンボル」である。彼の“ロバート・ラングドン”シリーズは、これが3作目。1作目の「天使と悪魔」、2作目の「ダ・ヴィンチ・コード」はいずれもトム・ハンクス主演で映画化されている。

 特に2003年の「ダ・ヴィンチ・コード」は世界的に大ベストセラーを記録し、44の言語に翻訳され7000万部以上の売り上げがあったと言われている。またその謎を読み解く解説本などの関連書籍や映像作品、ビデオ・ゲームも売れている。日本でも角川書店によると、1000万部を突破しているようだ。

 この「ダ・ヴィンチ・コード」が有名になったおかげで、2000年に発表された「天使と悪魔」も2009年に映画化された。「ダ・ヴィンチ・コード」が2006年に映画化されているので、作品の発表順と映画化の順番が逆転している。ダン・ブラウンや関係者にとってはうれしい誤算だったろう。

 この「ロスト・シンボル」は2010年に単行本で出版されたが、貧乏な自分は文庫本が出版されるまで待とうと思っていた。しかし2年以上も待たされるとは思わなかった。それだけ時間を空けないと単行本の売れ行きに影響が出るのだろう。Photo

 この“ロバート・ラングドン”シリーズにはいくつかの共通点が見られる。
①必ず秘密結社や宗教団体が出てくる
②残忍な暗殺者や殺人者が登場する
③知的で魅力的な女性が存在する
④歴史的な事実と結び付けられる
⑤科学的な知識で脚色されている
⑥必ず数時間のうちに解決される
⑦主人公に生活感が漂っていない
⑧物事の展開が急である
⑨殺人方法がグロテスクである
⑩結局フィクションが主体である

 以上の点が考えられるが、第3作目の「ロスト・シンボル」も同様である。今回の秘密結社はフリーメイソンである。その究極の秘密を探ろうとして殺人者が暗躍するのだが、手首を切り落としたり、女性をホルマリン漬けして殺したりする。ちなみに「天使と悪魔」では法王候補を火責めや水責めで殺している。
 また約一晩で事件が発生し、展開し、収束していく点がスリリングであると同時に、現実離れしている。まさに小説の中でしかありえないことだ。

 ちなみに今回のフリーメイソンについては、都市伝説のようなものから何らかの経験者でないと書けないような内容まで触れられている。アメリカ建国の父であるジョージ・ワシントンやトマス・ジェファーソンはフリーメイソンの会員で有名だし、日本でも鳩山一郎や岸信介なども会員だったと噂されている。
 欧米ではロスチャイルド家やモルガン家など金融・財政を牛耳っている一族もいて、そこからフリーメイソン世界陰謀説なども生まれたのであろう。

 科学的な面では「天使と悪魔」では反物質の爆発物が登場したが、今作では純粋知性科学という分野が登場する。これは「人間が死んだらどうなるのか」、「死後の世界とは」、「思考は質量を持つのか」、「人間の思考が物質にどう影響を与えるのか」、「あるいは物質が人間の思考にどう影響するのか」等々、科学と宗教・哲学を止揚するようなアプローチを取っている。2

 スイス生まれの精神科医のキューブラー・ロス女史は、死後の世界を想定した考えを披露している。また日本の電子工学の研究者で文化勲章受章者でもある岡部金治郎は1971年に「人間は死んだらどうなるか」、1979年にはその続編ともいえる「人間は死んだらこうなるだろう」という本を著して、生命エネルギーという観点から死後の世界を科学的に考察している。

 この「ロスト・シンボル」では今までの前2作とは少しニュアンスが異なっていて、科学的な理論よりは信じるか信じないかという宗教的な信念の方に力点が置かれているようで、読み進むにつれて少し息苦しいところもあった。
 ところが、ここがダン・ブラウンの筆使いの素晴らしいところで、各章のページ数が少なくて読みやすいのだ。短くて4ページ、長くても10ページ程度ですぐに次の章に移り、物事が展開していく。そのスピード感があるので、多少内容が堅苦しくてもどんどんページが先に進んでいくのである。その辺の筆致が見事であった。

 アインシュタインは“宗教なき科学は欠陥であり、科学なき宗教は盲目である”と述べたが、科学的裏付けのある高度な宗教や普遍的な価値観のある高レベルの科学はお互いに歩み寄っていくのだろう。狂信的なカルトや恣意的な科学は人類の進歩には不要であるということか。

 いずれにしてもこのシリーズでは、たとえばフランスやバチカン市国、ワシントンDCと、作中の舞台となった場所に見学に行って実際に確かめたくなってくるから不思議である。そういう副次的な効用があるというのも作者ダン・ブラウンの技量なのかもしれない。3

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2011年11月13日 (日)

一命

 最近読んで面白かった本は、「一命」だった。これは役所広司や市川海老蔵、瑛太などが出演して映画化されたので、ご存知の人も多いと思う。時代劇では珍しく、2Dと3Dの2種類で上映されていた。

 自分は映画を見に行こうと思ったのだけれど、時間的にまた予算的にそれが許されなかったので、見に行くのを止めて、原作を読もうと思った。Photo

 原作は滝口康彦の「異聞浪人記」というもので、これは短編小説の部類にあたる。内容を簡単にいうと、以下のようなことである。

 江戸初期には天下が太平になるにつれて、御用済みとなった、あるいはお家取り潰しにあった浪人があふれ、その中には、糊口をしのぐために有名大名家のお庭を借りて、狂言切腹を図ろうとするものが出だした。

 そうすれば大名家は評判を気にして、あるいは庭先が汚されるのを嫌って、そのような浪人に幾ばくかの金銭を与えて追い返し、浪人の方はそれでしばらくは食いつなげるということであった。

 しかし名門の井伊家では、そういう世の動きを潔しとせず、あるとき自家に切腹を願い出てきた浪人に対して、実際に切腹をさせてしまったのである。この件をきっかけにして、狂言自殺を図るものは、急にいなくなったという。

 ところがそんなある日、またもや井伊家に切腹を願い出る浪人が現れた。井伊家では前例に習い、この浪人をも切腹させようとするのだが、そのまえにその浪人から最後の願いが出されるのであった。ここからこの小説の絶妙なプロットに移っていくのである。

 作家である滝口康彦氏は、直木賞の候補になること6回を数えたほどの名ストーリー・テラーなのだが、残念ながら受賞をすることはなく、80歳で2004年に亡くなっている。
 この人の描く小説は、地元九州に関する時代小説が多く、特に人生のほとんどを過ごした佐賀についての事件、歴史、人物が多いようだ。

 自分が読んだ講談社文庫には、「異聞浪人記」以外に、殉死を禁じた掟について問う「高柳父子」や下級武士の世界の家族の、夫婦のあり方を歴史的事実に基づいて脚色した「拝領妻始末」、ミステリー風の謎解きも楽しめる「上意打ち心得」、女性のささやかな誇りが歴史を変えてしまった「謀殺」など、どれも楽しめる6編が収録されている。

 値段も手ごろ、時間もかからずに読めて、久しぶりに知的に興奮する時間を過ごす事ができた。今までこの本のことや作者のことを知らずに生きていたが、長生きしてよかったと思っている。

 なお、「一命」は1962年にも小林正樹監督、橋本忍脚本、仲代達也主演で映画化されていて、今回が2度目にあたる。1962年のものは「切腹」というタイトルだった。はやり原作がよければ、何度も映画化されるのであろう。

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2009年10月19日 (月)

ノルウェイの森

 秋である。秋といえば、食欲の秋、芸術の秋、そして読書の秋でもある。最近久しく本などを読んでいなかった自分は、自己の人格の陶冶を目指し、読書に励もうと思った。

 それで今まで一度も読んだことのない人の本を読もうと決意し、日本を代表する小説家であり、ノーベル文学賞に一番近いといわれている日本人の村上春樹氏の本を選んだのである。そして、その本のタイトルは「ノルウェイの森」というものであった。

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 自分は貧乏性なので、評価の定まった人の本を買って読むのは、たとえ内容が失望させられるものであったとしても、読む上で安心感があって、手を出しやすい。逆に流行小説家の作品は当たり外れが大きいと思っていて、なかなか手が出せなかった。

 今回は清水の舞台から飛び降りるつもりで、思い切って手を出したのである。しかも「ノルウェイの森」といえば、単行本・文庫本を合わせて1000万部以上売り上げているモンスター・ブックなのである。たぶんこの数字は小説部門では№1ではないだろうか。

 というわけで「ノルウェイの森」を読んだわけであるが、これがなかなかどうして一筋縄ではいかない小説なのであった。

 テーマは“喪失と再生の物語”らしいのだが、自分にとってはなかなか微妙な感じがした。

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 時は1969年頃、場所は東京である。主人公は神戸から東京にやってきた大学生のワタナベという人と彼の高校時代の同級生の直子である。この2人には同じ年のキズキという友だちがいて、このキズキは直子の恋人でもあった。しかし17歳のときにキズキは自殺したのである。

 このことは主人公の「僕」(ワタナベ)と直子にとって、共通の痛みを伴っているのだが、よくある話で、今度はこの2人が恋人同士になってゆくのである。

 こうやってみると恋愛小説なのだが、単純にストーリーは展開しない。直子は姉と叔父を自殺で失っているという悲しい過去がある。自殺が遺伝するとは考えられないのだが、ひょっとしたらそういう精神的な脆弱さを抱えているのかもしれない。

 実際、直子は京都の療養所に入所し、精神的な病を治そうとするし、そこで出会った年上の元ピアノ講師で主婦だったレイコを軸に話は展開してゆく。
 一方、東京では「僕」と同じ科目を履修している小林 緑という女性が登場し、この人と「僕」との関係を軸にして話は進む。要するに「僕」をめぐる2人の女性を軸に大筋が描かれているのである。

 それについては異論もなく、なるほど恋愛小説とはこういうものかと思ったのだが、それにしてはこの「僕」は、簡単に女性とできてしまうのである。話の中にはこの「僕」という人は、美形でもなく、モテそうな描写はない。しかしまるで現代の“光源氏”のようなのである。

 また1969年前後の時代背景で、ちょっとおしゃれな服装や食事(外食)などが描かれているし、1980年に発表された田中康夫の小説「なんとなくクリスタル」を思い出してしまった。(ちなみに「ノルウェイの森」は1987年の作品である)

 さらに内容というか男女関係の描写が赤裸々でしかも淡々と描かれている。まるで×××小説に近いところもある。1969年当時にこんなに性知識が知れ渡っていたのかどうかは疑問なのである。もちろん自分はその頃は、まだ小学生だったからよくわからないのだが、マ××××××××やフ××××などは東京の大学生は知っていたのだろうか。あの大学紛争華やかな時代に、である。

 そして性に対する規範意識もこんなに抵抗感がなかったのだろうかと思うのである。自分が読み聞かせられていた大学紛争や60年代末の時代の雰囲気とはかなり異質なものがあるように思った。とにかく主人公の「僕」とその先輩の永沢さんはナンパに出ては、ほとんど百発百中ものにしてしまうのである。ときに相手を交換してしまうのだから、ちょっとどうかなあと思ってしまった。

 小説と割り切ればいいのかもしれないけれど、作者の体験や見聞も混じっているだろうし、少なくとも読後感は冴えないのである。悲しいことにスカッと爽やかにはならないのだ。

 文体はアメリカ近代小説をそのまま借りてきたかのようで、読みやすいことは間違いない。読みやすいのだが、心は晴れない。喪失はあっても魂の再生は、自分には現れなかった。

 小説の最後で年上のレイコさんと4回も、いやこの話はやめよう。アメリカ文学に影響を受けているのであれば、できれば「ライ麦畑でつかまえて」のようなラストシーンがよかった。あるいは「アルジャーノンに花束を」でもいい。あそこまで感動的でなくても、魂の再生がおこなわれるのであれば、もう少し若者らしい潔癖性や純粋主義みたいなものがあってもいいのではないか。

 これが混迷の70年代やバブル時代の80年代の話なら納得できるのであるが、どうも時代性とマッチしていないように思えてならない。
 自己の存在意義や自己同一性、アイデンティテイの確立は性に対峙することでしか成り立たないものなのであろうか。大江健三郎は「性的人間」の中で、自分を確認するためには、政治的人間になるか性的人間になるかしかないと述べたが、そういうものでしかないのか。人間に無限の可能性があるというのは嘘っぱちなのだろうか。

 「ノルウェイの森」は、これらの問題を残して自分の本棚に置かれている。女性がこの本を読んだらどういう感じがするのだろうか。おそらく男性の精神構造なり、下半身の構造などがよくわかったのではないかと思っている。しかもこれだけ売れたのだから、このことは女性にも支持されているのであろう。

 ちなみに作者の村上春樹氏は、熱烈なビートルズ・ファンというわけではないらしい。本来は違うタイトルが用意されていたらしいのだが、結局このタイトルに落ち着いたのだという。

 ビートルズといえば、この秋全作品がデジタル・リマスター化され、高音質になった。初期の4枚のアルバムもステレオ化されて、今までのCDと比較すると全く違うアルバムを聞いている感じがするという。

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 自分にとってはこちらの“ノルウェイの森”の方が再生感がある。デビューから40年以上たっているにもかかわらず、ビートルズの楽曲は、まさに時代を超えての普遍性を備えている。
 そしてこのリマスター化を予想していたかのように、まるで違う楽曲に生まれ変わったビートルズの名曲群は、この後も時代を先駆けるかのように光り輝いていくであろう。

 自分にとってビートルズの歌こそが、魂の覚醒と癒しに通じるものなのかもしれない。

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2009年6月11日 (木)

向日葵の咲かない夏など

 自分は推理小説が好きで、古今東西の小説、シャーロック・ホームズから古畑任三郎まで、ちょくちょく本屋をのぞいては気に入ったものを購入して読んでいる。

 それで最近読んだ本の中に幻冬舎文庫刊「悪夢のエレベーター」を読んだ。木下半太というまだ30歳半ばの若い人が書いた本であるが、なかなか面白かった。

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 この人は劇団を主宰していて脚本や演出を担当しているのだが、確かに舞台演劇という表現方法にも適しているストーリー展開だった。実際、昨年の9月に大阪の梅田劇場で上演されている。演出を行ったのはたけし軍団のダンカンだった。

 内容をかいつまんで言うと、とあるマンションのエレベーターの中に、男3人、女1人が閉じ込められてしまい、お互いの素性がわかったあとに、暗闇の中で1人の男性が殺されてしまうという展開である。
 その際のお互いの会話が説明的、演劇的で、ユーモラスに富んでいる。また殺されたあとはその死体をどう処分するかというふうになり、そこから二転三転して、最後はこういうオチだったのか、とわかる次第である。

 一見、密室殺人かと思ったりしたのだが、実はサスペンスなのであった。とにかく字が大きくて読みやすく、ストーリーに工夫がこらされているので、あっという間に読むことができる。自分は日曜日の夕方から夜にかけて読んでしまった。だから電車の中とか、病院の待合室とか時間をつぶすには格好の読み物だと思う。お勧めである。

 この作家のこの「悪夢の~」シリーズは他にも2冊あり、それぞれ「悪夢の観覧車」、「悪夢のドライブ」と出版されている。おそらくこの“エレベーター”のように、限定された(あるいは密閉された)空間の中で、事件が起こり、それが進行し、最後は意外なオチで終わるというものだろう。頭が疲れたときには、何も考えずにストーリーを追うだけで、疲労解消につながると思っている。

 もう一冊は新潮文庫の「向日葵の咲かない夏」という小説で、道尾秀介というこれまた30歳代半ばの若者が書いた小説である。

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著者:道尾 秀介
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 この本、何といっていいのかよくわからない。結果的には推理小説なのだが、最初はホラー、サスペンス的展開で、途中親友のS君が蜘蛛に生まれ変わってきて、主人公の小学校4年生と一緒に真犯人を探すというふうになってくる。まるでカフカの「変身」のような非日常的・不条理の世界である。

 とにかくこの小説は、とてもよくできている内容構成を持っている。確かにホラー的展開から不条理の世界を経て、論理的帰結にたどりつくのである。S君が蜘蛛になったことについても全く異論を差し挟める余地はない。作者のアイデアにはまさに脱帽である。

 しかし、ダークである。読んだあと全然心が晴れないのである。“変身”以外にも、幼児性愛や動物への虐待、自殺や家庭不和など、これでもかというくらい現代社会の暗部を再現しているかのようである。

 また主人公の意味不明な言動も最後には納得のできる結論を与えられているのだが、頭で納得はできても気持ちは晴れない。感情的には許せないのである。これは読んだ人で違う感想があると思うのだが、少なくとも自分は嫌いな本である。本屋で面白そうな本と思って買って読んだのであるが、二度と読みたくないと思った。

 あんまり書くとネタばれしてしまうので書かないが、最後は映画「オーメン」のような結果に落ち着くのである。
 しかし好悪が分かれるとはいえ、印象には残る小説である。たとえ本は嫌われても作者はしてやったりとほくそえんでいるかも知れない。どういう感想を持つにしろ作者の意図は十分達成されているとは思う。

 推理小説自体、何か事件が起こり(たいていは殺人事件であるが)、探偵がそれを論理的に解決する読み物である。犯罪を描いているのだから、きれいな内容、さわやかな推理小説というのを期待してはいけないのかもしれない。何しろ世の中で一番大事な生命を粗末に扱う小説なのだから…

 しかしたとえ凄惨な事件を描いていたとしても、読んだあとで清々しく思える小説もあると思うのである。たとえば古典ではガストン・ルルーの「黄色い部屋の謎」が挙げられるだろうし、推理小説ではないが映画では「スティング」、五十嵐貴久の小説「フェイク」などである。

 スプラッター的犯罪小説でも、その解決方法が論理的で納得がいけば、その落差が大きければ大きいほど、読後感が満足のいくものになると思うのである。

 その点からいって「向日葵の咲かない夏」は、暗くて救いようのない世界が描かれすぎていて、いかに理論的に破綻がなく合理的な解決が描かれていたとしても、虚しさややるせなさしか残らないのである。ただ一気に読ませる描写力や構成力は、若い作家の中では格段に優れていると思う。

 最近はロック・ミュージックのことしかこのブログでは書いてないのだが、久々に自分の読んだ本のことを書いた。もちろんこういう小説ばかり読んでいるわけではないのだが、あまりにも印象が強くて書いてしまった。今度は梅雨空の下で心が晴れやかになれる本を読んでみたいと思っている。

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2008年7月23日 (水)

マイケル・スレイド

 前からこの著者は紹介したいと思っていた。カナダのマイケル・スレイドである。といってもエラリー・クィーンや岡嶋二人のように、一人の作家ではなくて当初は3人の合同チームであった。
 中心人物はジェイ・クラークという弁護士で、今では彼とその娘のレベッカと2人で執筆活動を行っているようである。

 彼らの作品を最初に読んだのはかなり前で、80年代の終わりだったと記憶している。タイトルは「ヘッドハンター」(創元推理文庫、上・下)。Photo
 最初読んだ印象は、“何だこれは”というものであった。正直言って、どのジャンルに属するものなのかよくわからなかった。

 とにかく基本的には推理小説、特にエド・マクベインの“87分署シリーズ”のような警察小説が骨子なのだが、それにヴードゥー教や昔の騎馬警官とネイティヴ・カナディアン?との対決など伝奇小説的趣向もふんだんに盛り込まれているのである。

 さらには“ヘッドハンター”というシリアル・キラーが自分が殺した女性の頭部を串刺しにして写真に撮り、それを警察に送って挑発するというグロテスクな面もある。

 対するのは、カナダの連邦騎馬警察であり、のちに特別対外課、スペシャルXと発展していくのだが、そこの中心人物ロバート・ディクラークが捜査の指揮を執るのである。
 騎馬警察といっても馬に乗って捜査するわけではない。パレードではちょうどスコットランドのキルト姿のように、警察官がスカートみたいなものを身につけたり、騎馬に乗ったりして行進するのであるが、あくまでもそれは儀式用である。バグパイプを吹きながら犯人探しするのは時代錯誤であろう。

 まあでもここまではまだ良かった。次の作品「グール」を読んだときにはもっとビックリした。何しろテーマが“吸血鬼”である。しかも次から次へと人を殺していくのである。さらにまた複数犯が連続して殺人を起こしていくのだから、たまらない。

グール 下 (創元推理文庫) Book グール 下 (創元推理文庫)

著者:マイケル・スレイド
販売元:東京創元社
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 だから警察小説+ホラー+本格推理+スプラッターなのである。しかも最後は合理的な説明がつく(納得するかしないかは別として)のだから、こんな小説はそれまで読んだことがなかった。
 しかもアリス・クーパーも実名で登場するし、妖しげな曲を演奏するヘヴィ・メタル・バンドも登場する。だからロック・ファンも満足?する作品に仕上がっている(と思う)。

 しかしこれでもまだ甘い。三作目の「カットスロート」では香港からの刺客が暗躍するし、ネイティヴ・アメリカンとの闘争史、人類と類人猿を結ぶミッシング・リングやビッグ・フット伝説など、とにかく何でも作者たちの興味のあることを書き込んでみましたというような作品なのである。Photo_2

 特にラストの大活劇シーンでは息をもつかぬ展開で思わずページをめくってしまった。こんなことが実際にあっていいのか、小説だからといって何でも書いていいのかという感じである。

とにかくこんな感じで、マイケル・スレイドという名前は自分の中に刷り込まれてしまった。ところが日本ではなかなか彼らの新作品が出てこなかった。
 実際にはほぼ2年ごとに新作は発表されていたのだが、日本では創元推理文庫から文春文庫に版権が移ったからだろうか。

とにかくマイケル・スレイドの作風は次のようなものである。
①基本は推理小説である。
②本格的な謎解き主体である。
③非常に多く血が流される。
④残虐シーンが多い。
⑤サイドストーリーの薀蓄が多い。
⑥場面転換が多い。
⑦主要な人物がすぐに死ぬ。
⑧ロック・ミュージックの話もある。
⑨分量が多く、読む時間がかかる。
⑩好き嫌いがはっきりする作風である。

 最近読んだ、「メフィストの牢獄」では、準キャラクターの主人公が悪人の手に落ち、悲惨な状況に落される。こうなるとまるで作者はサディストかと思えるほどだが、最初に述べたように、親子しかも父親と娘というのだから、これはもう何と言っていいのか、面白ければ何でもするという作者の読者向けのサービスなのかもしれない。

メフィストの牢獄 (文春文庫 ス 8-4) Book メフィストの牢獄 (文春文庫 ス 8-4)

著者:マイケル・スレイド
販売元:文藝春秋
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 この本の中でも、引退したロック・ミュージシャンが出てきて一人屋敷にこもって大音量の音楽を奏でているのだが、まるで鉛の飛行船のギタリストのような描写になっている。だから結構ロック・ファンにも受けるのではないだろうか。

 日本では7作出版されているが、そのうち店頭で入手可能なのは「グール」と文春文庫の4作品「髑髏島の惨劇」、「暗黒大陸の悪霊」、「斬首人の復讐」、「メフィストの牢獄」である。できれば発表順に読んだほうがいいと思うが、それにしても、いかにもというタイトルではないだろうか。
 ともかくこの暑い夏、たまにはこういう本を読んでみるのも気分転換になっていいのかもしれない。

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2008年7月22日 (火)

アヴェンジャー

 昨日今日と2日間で2冊の文庫本を読んだ。2冊といっても(上)(下)に分かれているので、実質1冊の本といってもいいかもしれない。
 タイトルは「アヴェンジャー」、著者は国際社会のダークサイドを描かせたら右に出るものがいないといわれるあのフレデリック・フォーサイスである。

アヴェンジャー(上) アヴェンジャー(上)

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 “アヴェンジ(avenge)”は“正当な目的があって復讐する”という意味で、“アヴェンジャー”とは文字通り“復讐する人、仕返しをする人”である。
 ちなみに“リヴェンジ(revenge)”とは、“個人的な感情を持って復讐する”という意味である。辞書で調べたので間違いない。しかし“アヴェンジ”という単語は聞いたこともなかった。

アヴェンジャー(下) アヴェンジャー(下)

販売元:楽天ブックス
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 とにかくこの人の書く作品はどれも一級品である。どの本を読んでも失望という言葉から程遠い内容である。
 一度読み出すと、途中でやめることができない。それこそ、ご飯を食べながらでも読みたいし、トイレに入っていても、洋式であれ和式であれ、必ず携帯することになるはずだ。それほどストーリーに無理がなく、スリルとサスペンスに満ちている。

 それを成り立たせているのは、フォーサイスのストーリー展開の筆致もあるだろうが、それプラス微に入り細を穿つ取材力である。国際社会の舞台裏をこれでもかというほど見せつけてくれる。

 何しろ登場人物に真実味がある。現実の国際社会で活躍している人が半分、架空の人物が半分であるが、その架空の人物も現実の事件や人物にモチーフを得ている場合がほとんどではないかと思わせるほど現実味があるのだ。ちょうどコミックの「ゴルゴ13」を思い出すと分かりやすいと思う。あれよりももっと現実的である。

 舞台は1995年のボスニア・ヘルチェゴビナ、1970年のベトナム戦争、2001年の4月のアメリカやカナダとめまぐるしく移り変わるのだが、それは主人公の生き様と事件の背景を一本の時間軸で表しているからである。そしてそれは2001年の9月11日へとつながっていくのであった。

 アメリカ人がアメリカ国外で何らかの事件に巻き込まれた場合は、アメリカ国内の法律で裁かれるという法律があるらしい。これはアメリカが勝手にそういう法律を作ったので、超大国アメリカの我儘でしかないのだが、アメリカ国民にとっては都合のいいものである。

 1995年のボスニアでアメリカ人青年がボランティア活動中に事件に巻き込まれ、悲惨な亡くなり方をした。これをアメリカで裁くよう青年の祖父がアメリカ政府の高官を使って交渉を行うのだが、結局頓挫してしまう。
 理由は、犯人がアルカイダ・グループと関係があるからで、CIAは青年を殺した犯人を泳がせておいて、アルカイダを一網打尽にしたかったから、協力できなかったのである。

 だから怒り心頭の祖父は、自分で“復讐人”にコンタクトを取り、犯人をアメリカ国内に連れてくるよう依頼するのである。CIAは巨悪を葬り去るためには、小悪は生かしておこうと“復讐人”の邪魔をしようとするし、“復讐人”は自分の命を懸けて、依頼人の要求を満たそうとする。この辺の展開がすばらしい。

 その伏線として旧セルビアのミロシェビッチ大統領下のサイド・ストーリーやベトナム戦争時でのベトコンの様子などが描かれているのだが、これもまた実際にその状況にいた人たちに取材を繰り返したのであろう、非常に具体的かつ詳細に描かれていて、まるで映画を見ているような錯覚にとらわれてしまう。

 実際、フォーサイスの小説は映画化されているものが多く、「ジャッカルの日」、「オデッサ・ファイル」、「戦争の犬たち」などあり、またTV化されているものは他にもある。それほど視覚化しやすい小説ということだろう。
 “ジャッカル”も実在の暗殺者“カルロス・ザ・ジャッカル”のことだといわれているし、“オデッサ・ファイル”も実在する文書であった。「戦争の犬たち」に出てくるクーデターも途中までは実際に準備されていたのである。

 フォーサイス自身も自分が書く小説は、フィクションであるが、その取材過程での事実はすべてノンフィクションであるとも述べているし、取材源については決して明かそうとはしない。小説家というよりはジャーナリストである。だからああいうリアリスティックなものが書けるのであろう。

 フォーサイスはロシアの危機を描いた1996年の作品「イコン」で執筆活動を終え、以後二度と筆を取らないと宣言していたのだが、2004年の「アヴェンジャー」で再開をした。
 きっと今の世界の状況が危機的だと感じて、警鐘を鳴らしているのだろう。

 小説の中にも書かれていたが、20世紀の戦争は善悪が判断しやすかったのだが、21世紀の今では善悪という客観的な判断ではなくて、好悪、価値観という主観的な判断でいとも簡単に生命が失われていくのである。
 フォーサイスが小説を書かなくなる日が来たときが、世界が安定した繁栄を享受する日なのだろう。世界が平和になってほしいのはやまやまなのだが、でもフォーサイスの次の小説を期待してしまう自分がいるのは否定できないのである。

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2007年9月 1日 (土)

2つのFake

 最近、本を読んだ。私でも本を読むのである。タイトルにもあるように、2冊の本は、両方とも「Fake」というタイトルである。1冊は角川文庫の楡 周平が書いたもので、もう1冊は幻冬社文庫で五十嵐貴久が書いたものだ。

フェイク (角川文庫) Book フェイク (角川文庫)

著者:楡 周平
販売元:角川書店
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 両方ともなかなかいい出来なのだが、個人的には五十嵐貴久の「Fake」の方が面白かったように思う。

 楡氏による「Fake」は東京銀座のクラブのホステスやボーイなどが裏切った顧客に対して一泡吹かせようとするもので、犯罪小説を基本としながらも、ユーモラスな文体で飽きさせない。
 ただ、Fake(騙し)の手段が競輪のノミ行為を使って行うものなので、門外漢の自分としては、ちょっと食いつき辛いところがあった。

 一方、五十嵐氏による「Fake」では、これはもうズバリ、映画「スティング」の世界である。正統的なトランプのポーカー・ゲームを使って騙すもので、これは冗談ぬきに面白かった。
 しかも冒頭から大学入試でカンニング行為をするという騙しが披露され、一気にラストまで読ませるそのストーリーテラーとしての才能は見事というしかないだろう。

Fake (幻冬舎文庫 い 18-4) Book Fake (幻冬舎文庫 い 18-4)

著者:五十嵐 貴久
販売元:幻冬舎
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 大学入試のカンニングとトランプのポーカーがどうつながるのかは、読んでからのお楽しみである。そして最後にお約束のドンデン返しがあるから、読んでいて安心である。

 こういう暴力を伴わない詐欺行為を扱ったものをコン・ゲーム小説と呼ぶそうで、日本でも小林信彦の「紳士同盟」やイギリスでは実際に刑務所に入ってことがあるジェフリー・アーチャーの「百万ドルを取り返せ」などがある。

 善と悪、あるいは基本的に悪党同士でも主人公側が追い詰められていきながら、最後で一発逆転する、その構成がこのコン・ゲーム小説の基本ラインであるが、この2冊もその基本ラインを踏襲している。
 ただ楡氏の方の本は、歌舞伎町の裏話という部分は楽しめたものの、肝心のクライマックスがイマイチ弱い気がする。

 その点、五十嵐氏の本は、現実に起こりえるかは別として、細部の構成に隙が見られない。映画化して視覚に訴えたとしても、充分通用するだろう。
 また盗聴、盗撮機器を利用して行う部分は、現実的でもある。ただひとりで、この小説のようにできるかどうかはまた別問題であろうが・・・

 そういう意味でも久しぶりのエンターテインメント小説を読んだように思う。この作家の小説からは目が話せないのではないか。

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2007年5月17日 (木)

となりのクレーマー

 むかしクレーマー・クレーマーという映画があった。そこに出てくるのは、妻に逃げられた夫の姿があったように記憶しているが、今回のクレーマーとはまったく関係ない。

 クレーマーとはクレームをいう人、つまり苦情をいう人のことであり、中公新書から出されたこの本「となりのクレーマー」とは身近にいる苦情をいう人を意味している。そしてその苦情をいかに上手に処理するかがテーマになっているのである。Photo_5

 たとえば、普通のコンロと水コンロを間違えて買ったときに、その違いの説明があったかなかったかで、2ヶ月にわたって苦情処理をするのである。相手は当然のごとく、お金で解決しようとするし(当たり前だが高額を要求するのである)、百貨店側(著者は西武百貨店で長年に渡ってお客様相談室長を務めた)もそんな不当な要求には屈しようとはしない。

 また、愉快犯やヤクザとのトラブルの実例が示されている。中にはこんな実例もあった。「学校の窓ガラスを割ったのは、そこに石が落ちていたのが悪い」「学校へ苦情を言いに来たが、会社を休んできたのだから休業補償を出せ」「野良犬が増えたのは、給食があるからだ」「運動会はうるさいからやめろ」etc.

 個人的に知っているある学校で保護者数名が学校に押しかけ、「カバンが重たいからうちの子の身長が伸びないことも考えられる。もっとカバンを軽くしろ。持っていくものを精選して、重たい国語辞典などは学校に置かせろ」というものであった。
 そのなかのある母親は「うちには各部屋に国語辞典があるので、学校に置いていて紛失したとしても大丈夫ですよ」とバカなことを言ったらしい。

 この本の中に出てくる話は、極端な例と映るかもしれないが、現実にはこんな人はいっぱいいるのだと思う。

 いま権威あるものが失墜していく世の中である。むかしは権力や尊敬があった人たち、たとえば議員、教師、医者、弁護士など、一部の不祥事のせいか、マスコミの拡大解釈のせいか、はたまた格差社会のせいか、下流意識の強い人がやっかみ半分でそういう人をこき下ろしたいのか、悲しい社会になりつつあるようだ。

  そういう意味では、これからの時代にはどんな職場であっても、苦情処理は大事になってくる。下手をすると職場自体が消えてしまうことにつながり、生活費をかせぐことができなくなるからだ。

 こういう本を読んで、苦情処理のエキスパートまでならなくても、ある程度の技術(と経験)は必要だと感じた。
 嫌な世の中になりつつあるが、少なくとも自衛手段や対策はとっておいたほうがいいだろう。無理難題を吹っかける人に負けないように、頑張っていこう。

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